奔流との対峙
俺の戦場は、城壁の最上階に設けた、小さな司令室だった。
風雨が叩きつける窓の外、眼下に広がる領都の光景と、壁に貼られた巨大な河川図。それが、俺の全てだった。
俺は、戦わない。剣も振るわなければ、魔法も使わない。
俺の武器は、ただ一つ。「情報」と、それに基づいた「予測」だ。
各所に配置した監視役から、狼煙や旗信号によって、刻一刻と変化する水位と濁流の動きが、リアルタイムで報告されてくる。
俺は、その情報を、地図の上に、冷静に、そして機械的にプロットしていく。
室内は、待機する伝令たちの荒い息遣いだけが響く、静かだが極度の緊張感に満ちていた。
俺は、まるで難解な外科手術に挑む執刀医のように、この街の運命を、ただ一人で見据えていた。
そして、ついにその瞬間が訪れた。
旧市街の堤防が、連鎖的に、そして完全に決壊。
行き場を失った大河の本流は、一つの巨大な意志を持った生き物のようにその方向を変え、まるで巨大な津波となって、俺たちが築き上げた白亜の新堤防に、その牙を剥いた。
――ゴオオオオオオオオオオオオオオン!!!
それは、音というよりは、もはや純粋な衝撃波だった。
山が崩れるような、あるいは、天の巨大な鐘を、神が力任せに打ち鳴らしたかのような、腹の底から内臓を揺さぶる、凄まじい轟音。
濁流が堤防に激突し、城壁の高さを遥かに超えるほどの、巨大な水しぶきが、天へと舞い上がった。
その衝撃は、大地を伝わり、遠く離れたこの城壁さえも、ビリビリと、まるで悲鳴を上げるかのように震わせた。
だが。
その、全てを飲み込み、全てを破壊するはずだった、圧倒的な自然の奔流を。
バルガスのドワーフ技術と、俺の土木工学の粋を集めた新堤防は。
びくともせずに、その正面から、受け止めてみせた。
表面の石が、いくつか音を立てて剥がれ落ちる。だが、その頑健な構造そのものは、全く揺らぐことがない。
その光景は、まるで神話の一場面。
荒ぶる竜の突進を、伝説の巨人が、その屈強な腕で、真正面から抑え込んでいるかのようだった。
しかし、試練はまだ終わらない。
第一波を防ぎきったものの、後続の濁流によって、川全体の水位は、さらに、さらに上昇していく。
ついに、俺が設計した「計画高水位」に、その水面が達した。
堤防の上から、水が、まるで汗のように、じわりと溢れ出す。
避難所にいる民衆から、再び悲鳴が上がったのが、遠く聞こえた。
――今だ。
俺が、心の中で呟いた、その瞬間。
堤防の中でも、一段だけ低く設計されていた部分――越流堤から、濁流が、「ザザザー…」という、これまでとは全く違う音を立てて、堤防の内側に広がる、広大な遊水地へと、流れ込み始めたのだ。
それは、決壊ではなかった。
計算され尽くした、意図的な氾濫。
滝のように、しかし、どこかコントロールされたように流れ込む濁流を、遊水地は、巨大な器のように、静かに、そして確実に、受け止めていく。
あれほど荒れ狂っていた川の破壊エネルギーが、広大な平地に拡散され、その牙を、急速に失っていくのが、手に取るように分かった。
◇
その光景を、人々は、それぞれの場所で、目撃していた。
避難所である大神殿の窓から、民衆は、堤防を越えて水が流れ込むのを見て、最初は「ああ、やっぱりダメだったんだ!」と、最後の希望を失い、絶望した。
だが、その水が、自分たちのいる街ではなく、何もない、だだっ広い湿地帯へと、まるで吸い込まれるように流れ込んでいくのを見て、それが、あの若き代官が語っていた「いけにえ」であり、自分たちが、今まさに、救われたのだという事実に、気づいた。
絶望は、驚愕へ。
そして、驚愕は、熱狂的な、涙交じりの歓喜へと変わった。
「助かった…」
「俺たちは、助かったんだ!」
ヴィクトル主教は、その民衆の歓喜の声を、同じ大神殿の、自らの私室の窓から、呆然と聞いていた。
彼が、心の底から信じていた「神罰」が、人間の作った、ただの土と石の「仕組み」によって、いとも容易く、制御されていく。
彼の祈りは、天に届かなかった。
彼の信じていた世界の法則が、今、目の前で、音を立てて崩れ去っていく。
「…ありえない。神の御業が、人の、浅はかな理に、敗れるなど…」
ダリウスは、避難誘導の最前線で、民衆と共に、その奇跡の光景を目撃していた。
彼が、かつて「非現実的だ」と、自らの常識で切り捨てた計画が、今、まさに、数万の命を救っている。
彼は、天を仰ぎ、降りしきる雨の中で、静かに、そして自嘲するように、笑みを浮かべた。
「…完敗だ、代官殿。いや…賢者殿」
そして、司令塔である俺の隣で。
エリアーナは、その光景に、誇りと感動で打ち震え、その剣の柄を、強く握りしめていた。
リリアは、冷静な表情を保とうとしながらも、その瞳からは、大粒の涙が、とめどなく流れ落ちていた。
彼女たちは、自分たちが信じ、支え続けてきた男が、本当の意味で「奇跡」を起こしたその瞬間を、この世界の誰よりも近くで、目撃していたのだ。
遊水地は、ついに濁流の全てを飲み込みきった。
大河の水位は、危険なピークを越え、ゆっくりと、しかし確実に、下がり始めている。
夜が、明けようとしていた。
豪雨もまた、その勢いを失い、次第に、静かな霧雨へと変わっていく。
最悪の危機は、去ったのだ。
司令塔で、最後の報告を聞き終えた俺は、張り詰めていた緊張の糸が、ぷつりと切れたように、その場に、深く、深く、座り込んだ。
額には、玉のような汗が、びっしりと浮かんでいる。
俺は、窓の外で白み始めた東の空と、少しずつ静けさを取り戻していく街を、ただ、見つめていた。
そして、俺は、誰に言うでもなく。
ただ一言、かすれた、しかし心の底からの声で、呟いた。
「…これで、帰れるな」
国を救うという、とてつもない偉業を成し遂げた英雄の、あまりにも個人的で、そして切実なその一言は。
誰の耳に届くこともなく、静かな夜明けの空気の中に、そっと溶けていった。




