Xデーの到来
審判の日は、堤防の完成式典を前に、何の予告もなく訪れた。
その日の朝、領都の空気は、不気味なほど生暖かく、そして重かった。空は青ではなく、まるで巨大な鉛の板を張り付けたかのように、低く、濁った鉛色に染まっていた。
風が止み、鳥の声が消えた。
街を支配するのは、息が詰まるほどの高い湿度と、嵐の前の、あの独特の静寂だけだった。
「…なんだか、気味が悪い天気だな…」
「ああ…。こんな空は、生まれてこの方、見たことがねえ…」
民衆は、その異常な空気に気づき、不安げに空を見上げている。
ヴィクトル主教が吐き捨てた、「巨大な神罰」という言葉が、悪夢のように彼らの脳裏をよぎっていた。
代官執務室の空気もまた、張り詰めていた。
そこへ、二つの異なる警告が、ほぼ同時に叩きつけられた。
一つは、辺境のテュロス村から。早馬を乗り継いで、命からがら到着した伝令が、ハンス村長からの手紙を差し出した。
そこには、震えるような文字で、こう書かれていた。
『賢者様。村の古老たちが、口を揃えて『百年に一度の『大いなる嘆き』の前触れだ』と申しております。どうか、万全の備えを…!』
自然と共に生きてきた、辺境の民からの、経験則に基づいた、魂の警告だった。
そして、もう一つは、中央の王都から。
ダリウスが、魔導通信機から聞こえてくる報告に、血の気の引いた顔で耳を傾けている。
「…まずいぞ、代官殿。王都の中央観測所の記録によれば、王国史上、いまだかつて観測されたことのない規模の、巨大な雨雲が、まっすぐ我が領に向かってきているとのことだ! 到達まで、もはや半日もない…!」
科学的なデータが、古老たちの経験則を、冷徹に裏付けていた。
その日の午後。
静寂の中、ぽつり、と。
赤子の拳ほどもある、異様に大きな雨粒が、地面に黒い染みを作った。
それが、合図だった。
次の瞬間、空の底が抜けたかのように、凄まじい豪雨が、街を、そして大地を、叩きつけ始めたのだ。
「ザー…」などという、生易しい音ではない。
「ゴオオオオオオオオオッ!!」
それは、まるで巨大な滝壺の真下にいるかのような、耳をつんざく轟音だった。人々の話し声も、悲鳴さえも、全てがかき消される。
雨粒はあまりにも太く、数メートル先の視界さえ、真っ白な水のカーテンによって遮られる。
街の道は、瞬く間に濁流となり、あらゆる排水路から、汚水がごぼごぼと音を立てて逆流し始めた。
雨は、夜になっても、その勢いを全く弱めなかった。
それどころか、風までが加わり、窓ガラスを叩き割り、屋根瓦を吹き飛ばしていく。
領都は、外界から完全に孤立した、暴風雨に浮かぶ「陸の孤島」と化した。
そして、ついに、その時が来た。
大河の水位が、これまでにない速度で、異常なまでに上昇していく。
穏やかだった川は、もはやその面影もなく、上流から流されてきた巨大な流木や岩を飲み込みながら、茶色い濁流となって牙をむいていた。
「報告! 旧市街の堤防に、亀裂発生!」
「ダメだ! あちこちから、水が噴き出してるぞ!」
旧市街を守る、古く、そして脆い堤防が、ついにその限界を迎えようとしていた。
決壊は、もはや時間の問題だった。
「―――発令!」
その報を受け、俺は、この日のために準備していた全てを、解放した。
「『水害時・住民避難マニュアル』に基づき、全部隊、行動を開始せよ!」
俺の号令一下、これまで訓練を重ねてきたチームが、一つの生き物のように動き出す。
ダリウスが、役人たちを動かし、避難経路の確保と、避難所の開設を、怒号を飛ばしながら指揮する。
「慌てるな! マニュアル通りに動け! 食料班は教会へ! 医療班は城へ! ぐずぐずするな!」
エリアーナが、彼女の騎士団と村の若者たちで編成した警備隊を率い、パニックに陥る民衆の避難誘導を行う。
「落ち着いてください! 高台へ! お年寄りと子供を優先して! 道を開けなさい!」
そしてリリアは、最も安全な大神殿に設置された「災害対策本部」で、各所から魔導通信で送られてくる情報を集約し、食料や毛布といった救援物資の管理を、完璧にこなしていた。
だが、凄まじい豪雨と、刻一刻と迫る濁流の恐怖は、人々の心を絶望に染め上げていく。
「もうだめだ…」
「主教様の言った通り、神罰なのだ…」
「我々は皆、ここで死ぬのだ…」
彼らの祈る声は、しかし、無慈悲な轟音にかき消されていく。
俺は、城壁の一番高い塔の上に、たった一人で立っていた。
レインコート代わりにされた分厚い油布を頭から被り、吹き付ける暴風雨に耐えながら、荒れ狂う大河と、混乱に陥る街を、冷静に見下ろしていた。
その時だった。
ひときわ大きな轟音と共に、旧市街の堤防の一部が、まるで砂の城のように、濁流の中へと崩れ落ちた。
濁流が、街へと、なだれ込む。
遠くから、民衆の、最後の希望が断ち切られたかのような、絶望的な悲鳴が聞こえてきた。
俺の顔を、雨なのか、汗なのか、もはや分からない液体が伝う。
俺は、ただ一言、静かに、そして確信に満ちて、呟いた。
「――来たか」
それは、絶望の言葉ではない。
全てを予測し、全ての準備を整えてきた者が、ついに訪れた「審判の時(Xデー)」を迎える、覚悟の言葉だった。
俺の視線の先には、濁流の猛威に耐え、静かにその時を待つ、自らが築き上げた、巨大な白亜の新堤防が、闇の中、黒々とそびえ立っていた。
次なる奇跡への、その扉が。
今、まさに、開かれようとしていた。




