完成と最後の讒言(ざんげん)
秋の空が、どこまでも高く澄み渡る日。
俺たちの、数ヶ月にわたる死闘の結晶が、ついにその全容を現した。
領都の民衆は、その光景を前に、ただただ言葉を失っていた。
緩やかで、しかしどこまでも力強いカーブを描きながら、白く輝く石造りの堤防が、まるで大地から生まれ出た巨大な白竜のように、雄大に横たわっている。
その高さ、その厚みは、旧市街を守る、あの頼りない土の壁とは、もはや比較にさえならない。
そして、その堤防の内側に広がるのは、来るべき濁流の全てを、その身で受け止めるために作られた、広大な遊水地。今は静かに秋の草が茂っているが、その圧倒的なスケールは、見る者に、畏怖の念さえ抱かせた。
華美な装飾は、何一つない。
だが、そこには、水の力を計算し尽くし、その流れを受け流すために設計された、究極の機能美が、静かに、そして確かに宿っていた。
「これが…俺たちの街を、守る壁か…」
「まるで…城壁のようだ…」
見物に訪れた民衆から、感嘆と、そして安堵のため息が漏れる。
その堤防の上を、俺は仲間たちと共に歩いていた。
「うん、マニュアル通りの完璧な施工精度だ。俺の計算が正しければ、過去百年間で最大の洪水を記録した年の、実に1.5倍の水量まで、余裕で耐えられるはずです」
俺が、あくまで冷静に分析する横で、エリアーナが、感極まった様子で、堤防の手すりにそっと手を置いている。
「これが…ケイ様の『理』が作り上げた、民を守るための、真の城壁…。剣を振るうことだけが、守ることではないのだと、私は、あなた様から、本当に多くのことを教わりました…」
その潤んだ瞳が、何よりも彼女の心情を物語っていた。
「――ご報告します、最高顧問!」
そこへ、リリアが帳簿を手に、誇らしげな笑みを浮かべてやってきた。もはや、彼女をただの村娘と侮る者は、この領都にはいない。
「この治水事業にかかった総費用は、当初の計画予算の、実に92%で完了。今後50年間で削減されるであろう、水害からの復興費用を計算すると、費用対効果は、なんと2000%を超えます! これは、我が国の歴史上、最も優れた公共事業として、記録されるべきです!」
「へっ!」と、隣でバルガスが、自らが組み上げた石組みを、愛おしそうに撫でながら、豪快に笑った。
「旦那の図面に、俺たちドワーフの技術、そしてこいつら(職人たち)の汗が加わったんだ。神様が作ったって言っても、誰も疑やしねえだろうよ!」
少し離れた場所から、ダリウスが、静かにその光景を見つめている。
(…非合理的だと、私が切り捨ててきた古い秩序は、結局、何も生み出すことはなかった。だが、彼の持ち込んだ、あの圧倒的な合理性は、この壮大な、新たな秩序を生み出した…)
彼の心の中では、もはや、ケイへの完全な畏敬の念だけが、静かに渦巻いていた。
◇
だが、全ての者が、この偉業を素直に称賛したわけではなかった。
完成式典を数日後に控えた、領主オルバン伯爵の御前。
彼らに残された、最後の抵抗が、始まろうとしていた。
「――伯爵閣下! どうか、お考え直しください!」
ヴィクトル主教が、まるで悲劇の預言者を演じるかのように、悲痛な表情で訴える。
「あの堤防は、人の驕りが生み出した、神への冒涜の塔にございます! 神の御心である洪水を、人の浅知恵で無理やり捻じ曲げれば、いずれ、もっと巨大な、取り返しのつかない神罰が、我ら全てに下りましょうぞ!」
「そ、その通りです!」と、旧商人ギルドの残党が、震える声でその言葉に続く。
「あの若造の、机上の空論など、決して信用なりませぬ! もし、万が一、あれが決壊したならば…! 溜め込まれた水が一気にこの街を襲い、その被害は、これまでの比では済みますまいぞ!」
彼らの狙いは、ただ一つ。
完成した堤防に、まだ「洪水を防いだ」という絶対的な『実績』がないことを突き、民衆や他の貴族たちの中に、わずかに残る最後の不安を、極限まで煽り立てること。
そして、あわよくば、この事業そのものを白紙に戻し、俺を失脚させることだった。
オルバン伯爵は、その最後の讒言に、一瞬、顔を曇らせた。
確かに、実績はまだない。万が一の事態を考えれば、領主として、不安がないわけではなかった。
謁見の間が、不穏な沈黙に包まれる。
だが、伯爵は、ゆっくりと玉座から立ち上がると、その心の中の迷いを振り払うように、力強く、そして雷鳴のような声で、宣言した。
「――黙れ」
謁見の間が、ビリビリと震えた。
「私は、お前たちの言う、見えざる神の御心よりも、我が目で見た、あの若者の『理』と、民を救わんと奔走した、その『誠実さ』を、信じる!」
そして、彼は謁見の間にいる俺を、まっすぐに見つめ、続けた。
「この事業の、全ての責任は、この領都の領主である、私が負う」
「私は、代官ケイ・ヴァイフ・ジノミヤが作り上げた『未来』に、この領都の、全ての運命を賭ける!」
それは、彼がもはや、ただの部下ではなく、運命を共にするパートナーとして、俺を認めた瞬間だった。
ヴィクトル主教たちは、悔しげに顔を歪ませ、引き下がるしかなかった。
これで、全ては決まった。
あとは、天が、そしてあの雄大な川が、どちらの主張が正しかったのかを、証明するだけだ。
まるで、その審判の時を、待ち構えていたかのように。
遠く、遥か彼方の空の果てに、これまで誰も見たことのないような、巨大で、そして不吉な色の雨雲が、静かに生まれ始めているのを。
この時の謁見の間にいた誰もが、まだ知る由もなかったのである。




