経済封鎖(エコノミック・ブロック)と見えざる壁
リリアの懸念は、数日も経たないうちに、最悪の形で現実のものとなった。
それは、武力による侵攻よりも、ある意味では遥かに狡猾で、そして残酷な攻撃だった。
第一の壁は、物流の世界で、突如として現れた。
テュロス村へと続く唯一の街道。その中継点にある関所は、ロデリック辺境伯の領地内にあった。
彼は、腹心の騎士団長に、冷酷な命令を下した。
「これより、テュロス村へ向かう全ての物資に対し、厳重な『安全検査』を実施する。特に、塩、鉄、薬草などは、『有害物質』が含まれていないか、我が兵たちが、徹底的に、そして時間をかけて、調べるのだ」
関所では、地獄のような光景が繰り広げられていた。
テュロス村へ向かう行商人たちの馬車が、長蛇の列をなして足止めを食らっている。
辺境伯の兵士たちは、わざとらしく、ゆっくりと荷物を一つ一つ検分していく。
「うーむ、この塩は、少し湿気ているな。我が領内に持ち込むことは、衛生上、許可できん! 没収だ!」
「なんだ、この鉄クギは。形が少しばかり不揃いではないか。このような粗悪品、流通させる訳にはいかんな。これも没収!」
それは、もはや検査などではない。
「安全」という大義名分を盾にした、公然たる略奪行為であり、テュロス村の生命線を断ち切るための、完璧な兵糧攻めだった。
「そ、そんな馬鹿な! 俺の塩は、最高級品だぞ!」
「これでは、商売にならない!」
商人たちの悲鳴のような抗議も、武装した兵士たちの前では、無力だった。
テュロス村への物流は、この見えざる壁によって、完全に麻痺してしまった。
◇
第二の壁は領都の中央市場で、静かにしかし着実に築かれていった。
旧商人ギルドのギルド長が、これまでテュロス産品を扱っていた中立的な商人たちを、秘密の会合に呼び出したのだ。
彼は、にこやかな笑顔の裏に、蛇のような冷たさを隠して、商人たちに圧力をかけた。
「皆さんも、ご承知のはずだ。あのテュロスの連中は、我々が長年守ってきた、この市場の秩序というものを、乱している。…これ以上、あの村の商品を扱うというのであれば、我々ギルドは、その者を『秩序の敵』と見なさざるを得ない」
「そうなれば、我々ギルドから、一切の商品を卸してはやらんことになるが…。皆さん、賢明な方々だ。どうすべきか、お分かりですな?」
その脅迫の効果は、絶大だった。
これまで「テュロス産は安くて品質が良い」と喜んで商品を仕入れていた商人たちが、一斉に、手のひらを返したように取引を拒否し始めたのだ。
テュロスの商人が、自信作の小麦を売ろうとしても、「いやあ、最近、どうも品質が落ちたみたいでねえ…」「相場が下がってしまって、この値段ではとても…」などと、白々しい理由をつけて、不当に買い叩かれる。
テュロス市場へ向かう商人の数も、日に日に激減していった。
村の貴重な現金収入が、ゆっくりと、しかし確実に、絶たれようとしていた。
◇
そして、第三の壁。
それは、最も厄介で、そして最も人の心の深いところに突き刺さる、見えざる壁だった。
ヴィクトル主教が、その毒牙を剥いたのだ。
領都の街角や、教会の前で、彼配下の神官たちが、熱心に民衆へ説法を行っていた。
「聞くがよい、我が子羊たちよ。テュロスの富は、神の摂理に反する、不浄な取引によってもたらされたものであると、神からの啓示があった…」
彼らは、巧妙に、そして執拗に、黒い噂を人々の心に植え付けていく。
「…聞いたかい? テュロスの小麦を食べた子供が、原因不明の腹痛を訴えたらしいよ…」
「あの村の急な豊かさは、やはり、悪魔との契約で得たものだそうだ…」
「テュロスの品を家に置く者は、神の祝福を失い、不幸が訪れるであろう…」
「黒い雨」事件で一度は地に落ちた教会の権威。だが、人々の心に何百年もかけて根付いた、神への畏れは、そう簡単には消え去らない。
敬虔な信者たちを中心に、テュロス産品を気味悪がって避ける、静かな不買運動が、じわじわと、しかし確実に、広がっていった。
◇
「――ケイ様! 村からの、手紙です!」
リリアが、血の気の引いた顔で、俺の執務室に駆け込んできた。
それは、ハンス村長からの、悲痛な訴えが綴られた手紙だった。
『賢者様。塩が、底をつきかけております。
鉄製品も全く入ってこず、来るべき冬に備えるための、農具の修理もできません。
このままでは、我々は、再びあの飢えと貧困の日々に戻ってしまいます。
どうか、どうか、お助けを…』
俺は、その手紙を握りしめ、唇を噛んだ。
俺が築き上げたはずの豊かさが、一転して、村の首を、じわじわと絞めている。
治水事業は順調だ。だが、その足元で、俺が救ったはずの、俺の始まりの場所が、今まさに、死にかけている。
俺はオルバン伯爵に、すぐさま仲裁を頼んだ。
伯爵は、ロデリック辺境伯の常軌を逸した横暴に、激しい怒りを見せた。だが、貴族間の不干渉の原則や、商人ギルドと教会という、領都の二大権力を同時に敵に回すことの、あまりに大きい政治的リスク。
彼は、苦渋の表情で、こう言うしかなかった。
「…すまぬ、ケイ殿。今は耐えてくれとしか、言いようがない…」
見えざる、三重の壁。
関所の「規則」。
ギルドの「掟」。
そして、教会の「教え」。
俺たちは、物理的な暴力ではなく、この社会のシステムそのものによって、完全に、そして静かに、包囲されてしまったのだ。
執務室に、重い沈黙が流れる。
エリアーナが、悔しげに呟いた。
「いっそのこと、あの関所を、私の騎士団で、力づくで突破しては…!」
だが、それが根本的な解決にならないことは、ここにいる誰もが、分かっていた。
絶体絶命。八方塞がり。
俺は、机の上に広げた王国全土の、巨大な地図を、ただじっと睨みつけていた。
封鎖された、細い一本の街道。
その横を、まるで嘲笑うかのように、雄大に、そしてとうとうと流れる、あの大河。
俺たちが、今まさに、その治水に命を懸けている、あの川。
その時俺の脳裏に、一つのあまりにも大胆で、そして無謀な光景が、閃光のようにひらめいた。
「…いや」
俺は、静かに呟いた。
「道は一つだけではないはずだ」
俺の視線は、もはや封鎖された街道にはなかった。
その横を流れる、広大な、水の道。
――大河に、注がれていた。
俺の反撃の狼煙は、誰もが予想だにしない場所から、上がろうとしていた。




