静かなる侵略
「黒い雨」事件が、俺の「理」の勝利によって幕を閉じてから、数ヶ月。
領都は、かつてないほどの活気に満ちていた。
民衆からの絶大な支持を得た治水事業は、驚異的なスピードで進捗し、巨大な堤防はその威容を日に日に増していく。俺は、領都の英雄「治水の賢者」として、その名を知らぬ者はいない存在となっていた。
そして、その裏で。
もう一つの物語が、静かに、しかし着実に進行していた。
俺が不在のテュロス村では、ハンス村長とバルガス、そして村人たちが、俺が残したマニュアルを聖典のように守り、農業と市場の運営を続けていたのだ。
その結果、村は辺境とは思えないほど豊かになり、その富は「テュロス市場」という名の血管を通じて、静かに、そして力強く、領都へと流れ込み始めていた。
その流れは、やがて、領都の経済地図を塗り替える「静かなる侵略」となった。
領都の中央市場。井戸端会議に花を咲かせる主婦たちの会話の中心は、今や「テュロス産」の品々だった。
「ねえ、奥さん聞いた? あのテュロス産の小麦粉で焼いたパンは、香りが全然違うのよ! うちの旦那、もう他のパンは食べてくれないの」
「本当よねえ! しかも、ギルドのお店で買うより、二割も安いのよ! もう、あそこのギルドの店主の、ふんぞり返った顔を見なくて済むと思うと、せいせいするわ!」
職人たちの間でも、その評価は絶対的だった。
「テュロスから来た木材は、乾燥がしっかりしていて、質が違う。なんせ、あのバルガス棟梁のお墨付きだからな。仕事の捗り方が段違いだ」
高品質。
そして、低価格。
俺とリリアが作り上げた生産管理システムと、中間マージンを排した直接販売ルートは、テュロス産品に、圧倒的な競争力という名の、最強の武器を与えていた。
その武器は、領都の経済を長年にわたって牛耳ってきた、旧態依然とした商人ギルドのシェアを、まるで静かな津波のように、確実に蝕んでいった。
侵略は、軍隊によってではなく、一斤のパンと、一本の木材によって、行われていたのだ。
◇
旧商人ギルドの、薄暗い会合室。
ギルド長をはじめとする幹部たちは、日に日に減少していく売上報告の帳簿を前に、頭を抱えていた。
「このままでは、我々の商売は干上がってしまうぞ!」
「あの忌々しいテュロスの連中は、ギルドに加盟せず、我々が長年かけて築き上げてきた価格協定を、根こそぎ破壊している! 秩序を乱す、不届き者どもめが!」
追い詰められたギルド長は、ついに一つの決断を下した。
その目は、もはや公正な商売人のものではなく、獲物を狩るための罠を仕掛ける、狩人のそれに変わっていた。
「…もはや、我々商人だけの力では、奴らを止めることはできん。…力を、借りるぞ」
彼は、二人の人物に密使を送った。
いずれも俺、ケイ・ヴァイフ・ジノミヤによって、そのプライドと権威を地に落とされた男たち。
一人は、治水事業の妨害に失敗し、鉱山の件でオルバン伯爵から多額の賠償金を請求され、俺への復讐の機会を虎視眈々と狙っている、隣国の領主、ロデリック辺境伯。
そして、もう一人は。
民衆の前でその権威を失墜させられ、異端者である俺を社会的に抹殺することに、蛇のような執念を燃やしている、大神殿のヴィクトル主教。
三者の利害は、完全に一致した。
商人ギルドは、テュロスの経済力を潰し、市場の独占を取り戻したい。
ロデリック辺境伯は、目の上のたんこぶである俺を失脚させ、テュロスの利権を奪い取りたい。
ヴィクトル主教は、神の敵である俺を社会的に抹殺し、失われた教会の権威を、何としても回復したい。
目的はただ一つ。
「打倒、ケイ・ヴァイフ・ジノミヤ」。
水面下で、邪悪でそして強力な、秘密同盟が結成された瞬間だった。
◇
その頃、俺は治水事業の新たな設計図の作成に没頭していた。
だが、俺の隣でリリアが帳簿から顔を上げた。彼女の聡明な瞳には、かすかな懸念の色が浮かんでいる。
「…ケイ様。少し、よろしいでしょうか」
「どうしたんだい、リリアさん」
「いえ…。テュロス村からの売上報告と、領都の市場価格の動向を見ていて、少し気になることが…」
彼女は、帳簿の一点を指さした。
「…おかしいのです。ギルドが独占的に扱っている、塩や鉄の値段が、ここ数日、何の理由もなく、少しずつ吊り上げられています」
「それと、テュロスへ向かう行商人の数が、わずかですが、減り始めている…。まるで、何者かが、見えない壁を作っているかのようです」
リリアの鋭い指摘に、俺は設計図から顔を上げた。
彼女の言う通りだとしたら。
それは、偶然ではない。明確な敵意を持った、誰かによる、意図的な経済攻撃の始まりだ。
「どうやら我々は」と、リリアは静かに、しかし力強く言った。
「物理的な戦いだけでなく、経済という全く新しい戦場でも、本格的な敵を作ってしまったようです。静かですが、何かとても大きなものが水面下で動き出している。そんな気がするのです」
俺は、窓の外に広がる活気ある市場を見下ろした。
治水という、目に見える奔流との戦いの裏で。
今度は、カネとモノと情報の流れを巡る、目に見えない「経済戦争」の戦端が、開かれようとしていた。
一つの成功が、必ず、新たな戦いを呼ぶ。
俺は、その法則の重みを噛みしめながら、静かに、そして深く、ため息をついた。
俺の定時退勤への道は、どうやら、ますます遠ざかっていくらしい。




