真実の奔流
俺たちが領都に戻った翌日、中央広場は、再び異様な熱気に包まれていた。
俺がオルバン伯爵の権威を借りて、「黒い雨の真実を語る」と、領都中に布告を出したからだ。
広場には、不安と好奇の入り混じった表情の民衆。
そして、高みの見物を決め込むかのように、祭壇の上から俺を見下ろすヴィクトル主教と、その配下の神官たちの姿があった。
「異端者が、最後にどんな見苦しい妖術を見せるか、見届けてやろうではないか」
主教の顔には、そんな嘲笑が浮かんでいる。
広場の中央には、俺の指示で、簡単な演台と、二つの大きなガラス製の水瓶が用意されていた。
一つ目の水瓶には、城の最も清浄な井戸から汲んだ、クリスタルのように透き通った水。
二つ目の水瓶には、俺がグリムロック鉱山から命がけで採取してきた、ヘドロのように黒く濁った水。
光と闇。真実と偽り。
その対照的な二つの水瓶が、これから始まる対決の全てを、象徴していた。
俺は、演台の上に立った。
集まった民衆に、静かに、しかし、その一人一人の心に届くように、語りかける。
「皆さん。数日前この広場に、黒い雨が降りました。ヴィクトル主教様は、これを『神罰だ』と仰いました」
俺は一度言葉を切り、民衆の顔を見渡す。
「しかし、私はこう考えます。あれは、『悲鳴』だと。神の悲鳴ではありません。我々の足元を流れ、我々の命を育む、この大地の――川の悲鳴だったのだと!」
俺は、懐から一枚の白い布を取り出した。俺が作った、あの「毒見の布」だ。
「これは、私が作った、ただの布です。ですが、この布は、真実の声を聞くことができる。この布で、二つの水の声を聞いてみましょう」
俺はまず、布を清浄な井戸水が入った水瓶に、ゆっくりと浸した。
布の色は、当然何も変わらない。純白のままだ。
「見てください。この街の清らかな水は、何も語りません。ただ、静かに沈黙している」
そして、俺は全ての民衆の視線が、その一点に集中しているのを確認すると。
同じ布を、黒く濁った水が入った、もう一つの水瓶へと突き入れた。
その瞬間。
魔法が、起きた。
純白だった布は、まるで、鮮血を吸い上げたかのように、瞬時に、鮮烈な赤色へと、その色を変えたのだ。
「―――なっ!?」
「おおおおっ!」
「布の色が…! 赤く…!」
民衆は、目の前で起きた、あまりにも分かりやすい「変化」に、息を呑み、どよめいた。
俺は、その赤く染まった布を、天に高く掲げ、宣言した。
「これが、川の悲鳴です! この水は、『毒に侵されている』と、その苦しみを、こうして我々に訴えているのです!」
「この黒い雨の正体は、神の怒りなどではない! 川の上流にある、グリムロック鉱山から垂れ流された、人の手による『毒』です! あなた方が恐れていたのは、神罰などではない! 人間の手による、卑劣な『汚染』だったのです!」
「だ、黙れっ! 黙れ、異端者めが!」
祭壇の上から、ヴィクトル主教の、狼狽した、甲高い声が響き渡った。
「そ、それは、貴様の使う、邪悪な妖術だ! 我が子羊たちよ、その魔術に、騙されるでないぞ!」
彼の声は、しかし、明らかに焦っていた。
民衆は、主教の言葉と、目の前で起きた、否定しようのない「事実」との間で、激しく揺れ動いている。
俺は、主教のその反論を、待っていた。
俺は、リリアに合図を送る。
彼女が進み出て、一枚の羊皮紙を、高らかに読み上げた。
それは、彼女の商人ネットワークを駆使して入手した、ロデリック辺境伯が、コスト削減のために、鉱山の安全対策を怠っていたことを、明確に示す、内部文書の写しだった。
俺は、言葉を失うヴィクトル主教に向き直る。
「主教様。これでもあなたは、この黒い雨を、『神罰』と呼びますか?」
「それとも、ロデリック辺境伯の、単なる『怠慢』と、そう呼びますか?」
俺の静かな問い。
それは、彼の権威の、心臓を貫く、鋭い刃だった。
民衆は、全てを理解した。
自分たちが、主教に騙され、踊らされていたことを。
本当の災いは、神の怒りではなく、人間の強欲であったことを。
彼らが主教に向ける視線は、もはや畏敬ではない。
冷たい、疑惑と、軽蔑の色に、変わっていた。
その時、広場を固めていた兵士たちを分け入り、領主オルバン伯爵が、自ら前に進み出た。
彼は厳かに、そして雷鳴のような声で、宣言した。
「――静まれっ!」
「黒い雨の原因は、今や明らかとなった!」
「私の名において、ロデリック辺境伯に厳重に抗議し、鉱山の即時操業停止と、浄化を命ずる!」
「そして――!」
伯爵は、祭壇の上のヴィクトル主教を、鋭く睨みつけた。
「民を惑わせた罪、決して、軽くはないと知れ!」
伯爵の裁定により、事態は、完全に決着した。
民衆の、俺への疑いは完全に晴れ、逆に、俺を英雄として称える、割れんばかりの歓声が、広場に響き渡った。
ヴィクトル主教は、民衆の前で、その権威を、プライドを、完全に地に落とされた。
彼は、称賛を一身に浴びる俺の姿を、聖職者とは思えぬ、蛇のように、冷たく、そして執念深い目で、ただただ、睨みつけていた。
その心の中では、もはや信仰心など欠片もない、俺個人への、底なしの憎悪の炎が、燃え上がっていた。
(あの男…ケイ・ヴァイフ・ジノミヤ…!)
(神の名においてではない…この私、個人の名において、必ずや、貴様を地獄の底へと、引きずり落としてくれる…!)
治水という、物理的な奔流との戦いは、俺の勝利で、大きく前進した。
だが、その勝利は、皮肉にも、ヴィクトル主教という一個人の心の中に、決して消えることのない、憎悪という名の、新たな奔流を生み出してしまったのだ。
一つの流れを制した俺の前に。
今度は、人の感情という、より深く、そして暗い流れが、立ちはだかろうとしていた。
俺の戦いは、まだ、終わっていなかった。




