科学捜査、あるいは異端の証明
投石によって窓ガラスが割れ、荒れ果てた代官執務室。
その夜、俺たちの作戦会議は、絶望的な雰囲気の中から始まった。
「もはや、ヴィクトル主教を力づくで捕らえるしかありません! あの男が元凶です!」
エリアーナが、悔しげに剣の柄を握りしめて憤る。
だが、ダリウスがそれを冷静に制した。
「無茶を言うな。教会に手を出すということは、伯爵様を、そして国そのものを敵に回すことになりかねん。内乱になるぞ」
「ですが、このままでは…!」
「民衆の恐怖心が問題の根源です。何かあの黒い雨が神罰ではないという、誰の目にも明らかな証拠さえあれば…」
リリアが分析するが、具体的な方法が思いつかず、唇を噛む。
「…今は、嵐が過ぎるのを待つしかない。我々に、打てる手は、ない」
ダリウスが官僚として、現実的でそして最も残酷な結論を口にした。
重い沈黙が、部屋を支配する。
その中で俺だけがロウソクの光の下、壁に貼られた領都の巨大な地図を、静かに眺めていた。
「皆さん、少し視点を変えましょう」
俺の静かな声に、三対の視線が集中する。
「もし、あれが神罰では“ない”としたら?」
「…と、申しますと?」
「神罰にしては、タイミングが良すぎます。まるで主教の説法に、誰かが合わせたかのようです。…これは、何らかの自然現象か、あるいは人為的な何かが、偶然あるいは意図的に重なった結果だと、そう考えるべきです」
俺の言葉に、仲間たちはきょとんとしていた。
彼らが「信仰」の枠組みで物事を考えている限り、この謎は解けない。
俺はこの異世界でただ一人、全く別の角度からこの事件を見ていた。
これはファンタジーではない。ミステリーだと。
「――リリアさん」
俺は、具体的な指示を出す。
「あなたの商人ネットワークで、市場の者たちから、こう聞き込みをしてください。『黒い雨が降る直前、何か変わったことはなかったか』と。特に、川の上流から来る行商人を、重点的に」
「――ダリウスさん」
「あなたには、役所の観測記録から、この三日間の正確な『風向き』のデータを、洗い出してほしい」
「――そしてエリアーナさん」
「あなたは、私と共に、明日の夜明け前、秘密裏に現地調査に向かいます」
俺の淀みない指示。それは、絶望の淵にあった仲間たちの心に、小さなしかし確かな希望の灯をともしたようだった。
数時間後。俺の元に、情報が集まり始めた。
リリアが、興奮した様子で報告する。
「ケイ様! 上流の村から来た商人たちが、口を揃えてこう言っていました!『最近、川の水から、鉄錆のような妙な匂いがする』『川で、魚が大量に死んでいた』と!」
続いて、ダリウスが、古い羊皮紙の記録を手に、駆け込んできた。
「代官殿! 間違いない! この三日間、風は一貫して、北北西…すなわち川の上流から、この領都に向かって吹き続けている!」
俺は、地図の上に、それらの情報を書き込んでいく。
北北西の風。
川の上流。
魚の大量死。
妙な匂い。
全てのピースが、パズルの最後のピースを探すかのように、地図上の一点を、指し示していた。
――ロデリック辺境伯の領地にある、「グリムロック鉱山」。
俺は前世の、遠い記憶の扉を開く。公害問題に関する研修で学んだ知識。
「鉱山…精錬…有害物質…。煤…」
呟いた言葉が、確信に変わった。
「…黒い雨の正体は、酸性雨だ」
「さんせい…う…?」
「ええ。鉱山の精錬所から排出された、有害な煤が、煙突から大気中に放出された。それが北北西の風に乗って、この領都の上空まで運ばれ、雨雲に取り込まれた。これが、あの不吉な黒い雨の正体です」
俺はこの世界の誰も知らない現象のメカニズムを、完璧に解き明かしてみせた。
◇
翌日の夜明け前。
俺とエリアーナ、そして現場仕事に強いバルガスの三人は、平民の服に着替えて、お忍びで領都を脱出した。
オルバン伯爵には、事前に「神罰ではないことを証明する、動かぬ証拠を掴んでまいります」とだけ告げてある。彼は半信半疑ながらも、俺のその論理的な推理に最後の望みを託してくれた。
道中俺は、道端に咲いていた鮮やかな紫色の花を摘んだ。そして、その花びらを石で丁寧にすり潰し、その汁を懐から取り出した白い布に、何度も染み込ませていく。
「け、ケイ様…? いったい、何を…?」
エリアーナが、怪訝な顔で尋ねる。
「ああ、これですか? 酸っぱいものに触れると赤く、苦いもの――アルカリ性のものに触れると青く変わる、簡易的な『毒見の布』ですよ」
「ど、毒見の布…!?」
「そんなものが、この世に…!?」
エリアーナとバルガスが、驚愕の声を上げる。
「旦那、あんた、本当に何者なんだ…? そんな知識、どこの古代の書物に書いてあるんだよ?」
バルガスが、心底不思議そうに尋ねた。
俺は、あっさりと答える。
「え? 小学校の理科の実験ですが、何か?」
二人を、さらなる混乱の渦に叩き落としてしまったのは、言うまでもない。
◇
グリムロック鉱山の周辺は、地獄のような光景だった。
木々は立ち枯れ、地面は黒ずみ、鼻を突き刺すような、ツンとした異臭が漂っている。
川の水は、ヘドロのように黒く濁り、川岸には腹を上にした魚の死骸が、無数に打ち上げられていた。
その光景は、皮肉にもヴィクトル主教が語った「神罰が下った地」そのものだった。
俺たちは、鉱山の裏手へと慎重に回り込んだ。
そして、ついに発見する。
鉱山の精錬所から伸びる排水溝が、何の処理もされることなく、黒く濁った排水を、そのまま川へと、どくどくと垂れ流している現場を。
俺は、懐から自作の「毒見の布」を取り出し、その排水溝の周りの湿った土に、そっと当てた。
白い布は瞬時に、まるで血に染まったかのように、鮮やかな、そして不吉な赤色へと、その色を変えた。
「…ビンゴだ」
俺は、空を見上げた。
精錬所の巨大な煙突からは、黒い煙が、もうもうと立ち上っている。
そしてその煙は、北北西の風に乗り、まっすぐに、俺たちが来た領都の方角へと、流れていっていた。
状況証拠は、完全に揃った。
俺は、汚染された黒い水を、革の水筒に慎重に採取する。
そして、赤く染まった「真実の布」を、懐に、大切にしまった。
「さて、と」
俺は、二人の仲間たちに向き直り、静かに、しかし力強く言った。
「証拠は、揃いました。領都に戻って、皆さんの前で、『真実の証明』を、始めましょうか」
俺たちのこれから行うのは、単なる汚染の証明ではない。
それは、神の権威に、「科学」という名の、鋭いメスを入れる。
この世界の歴史上、誰も成し遂げたことのない、「異端の証明」の、始まりだった。




