神罰という名のプロパガンダ
数日後、ヴィクトル主教は、大神殿の前の広場に多くの民衆を集め、大規模な説法会を執り行った。
荘厳な聖歌が響き渡り、清らかな香が焚かれる中、純白の祭服に身を包んだ主教が、祭壇の上に立つ。その姿は、まさに神の言葉を地上に伝える、聖なる代弁者のようだった。
彼は、集まった民衆に対し、悲痛な、そして憂いに満ちた表情で語りかける。
「愛する我が子羊たちよ。私は、この街を覆い始めた、不吉な気配に、心を痛めている…」
その演技がかった嘆きに、民衆は「何事だろうか」と、ざわめき始める。
ヴィクトル主教は、そのざわめきを待っていたかのように、腕を大きく広げ、治水工事が行われている川辺の方角を指さした。
「見よ! あの川辺で行われている、人間の驕り高ぶった行いを! 神の領域である大河の流れを、人の浅知恵と、土くれと石ころで、意のままに縛り付けようとしている!」
彼の声は、次第に熱を帯びていく。
「神は慈悲深いが、その怒りは計り知れない! もし、天がその行いに怒り、我々に罰を下すならば、その原因は、異郷から来た『賢者』を名乗る若者の、その傲慢さにあるのだ!」
彼は、ケイという個人名を巧みに避けながらも、誰もが俺のことだと分かるように、聴衆の敵意を巧みに誘導していく。
「災いの元凶」「神への冒涜者」。
そんな言葉が、広場に不穏な空気となって満ちていく。
そして、彼はクライマックスとばかりに、天を仰ぎ、両腕を突き上げて、芝居がかった仕草で絶叫した。
「神の怒りは近い! 天は汝らの愚行を、静かに見ているぞ!」
「やがて天は、その悲しみのあまりに、黒き涙を流すであろう!!」
その予言とも言うべき言葉が、広場に響き渡った、まさにその瞬間だった。
まるで彼の言葉が、天に届いたとでもいうかのように。
それまで晴れていた空がにわかにかき曇り、ぽつりぽつりと、大粒の雨が降り始めたのだ。
「おお…!」
「主教様のお言葉通りに、雨が…!」
民衆が、驚きと畏敬の声を上げる。
だが、彼らの驚きは、すぐに恐怖へと変わった。
その雨は、普通の雨ではなかった。
まるで、すすを溶かし込んだかのように、黒ずんだ、薄汚い雨だったのだ。
その黒い雨は、人々の着ている白い服や、広場の美しい石畳に、点々と、不吉な黒い染みを作っていく。
「な、なんだ、この雨は…!?」
「黒い…雨が、黒いぞ…!」
「主教様の言われた通りだ…! 天が、黒い涙を流しておられる…!」
「神罰だ! 神罰が下るぞ!」
民衆は、完全にパニックに陥った。
目の前で起きた、あまりにも分かりやすい「奇跡」と、主教の予言が完璧に結びついた結果だった。
人々は、恐怖に駆られ、悲鳴を上げながら、我先にと家に逃げ帰っていく。
ほんの数分前まで、人で埋め尽くされていた広場は、恐怖と混乱、そして黒い雨の染みが残るだけの、不気味な空間と化した。
祭壇の上から、その光景を見下ろし、ヴィクトル主教の口元に、満足げな、そして蛇のように冷酷な笑みが浮かんだ。
(計画通りだ…。愚かな民衆など、この程度の分かりやすい演出で、十分すぎるわ…)
◇
その黒い雨は、治水工事の現場にも、無慈悲に降り注いだ。
職人たちの多くは、日々の暮らしの中で、神を敬う敬虔な信者たちだ。
この、あまりにも不吉で、異常な現象に、彼らは恐怖を覚えた。
「おい、見たかよ、この雨の色を…」
「ああ…。大神殿の、ヴィクトル主教様が言ってた通りじゃねえか…」
「俺たちは…もしかして、本当に、神様の怒りを買うような、とんでもねえ仕事をしてるんじゃねえか…?」
「俺はもうごめんだ! 家族がいるんだ! 神様に呪われてたまるかよ!」
一人が、手にしていた工具を投げ出した。
その行為が、まるで伝染病のように、現場全体へと広がっていく。
あれほど活気に満ち、一つのチームとして機能していた現場から、職人たちが、一人、また一人と、逃げるように去っていく。
工事は、完全に中断を余儀なくされた。
「てめえら、どこへ行く! 旦那の仕事を、途中で放り出す気か!」
バルガスの怒号が響き渡るが、神罰への根源的な恐怖に駆られた職人たちを、引き留めることはできなかった。
エリアーナもまた、現場の規律を維持しようとするが、相手は敵兵ではない。恐怖に怯える、罪のない民衆だった。騎士としての彼女の力では、人々の心を縛り付けることは、到底不可能だった。
民衆の不安と不満の矛先は、その全ての原因とされた、俺一人へと集中した。
「あの代官が、この街に来てから、ろくなことがない!」
「あいつこそが、この災いを呼んだ、疫病神だ!」
俺が滞在する代官の執務室の窓には、泥や石が、雨のように投げつけられた。
そこへ、オルバン伯爵からの使者が訪れた。
彼が伝えてきたのは、味方であったはずの伯爵からの、事実上の敗北宣言だった。
「伯爵様より、ご伝言です。『領内の混乱は、もはや看過できぬ。事態が沈静化するまで、一時治水工事を中断し、謹慎せよ』とのことにございます」
教会、民衆、そして領主。
俺は論理や理屈が全く通用しない、「信仰」と「恐怖」という名の見えない巨大な壁に、完全に包囲されてしまったのだ。
仲間たちが心配そうに、あるいは悔しそうに、俺の顔色を窺っている。
絶体絶命の四面楚歌。
しかし俺の表情には、不思議なほど焦りや恐怖の色はなかった。
俺は窓ガラスに付着した、黒い雨の雫を指でそっとぬぐい取る。
そしてその黒い液体を、光にかざすようにして、じっと観察していた。
その目は、まるで、これまで出会ったことのない、興味深い研究対象を前にした、一人の科学者のように、冷静で、そして好奇心に満ちた光を宿していた。
「…なるほど。面白い現象じゃないか」
俺の予期せぬ呟き。
俺がこの非科学的に見える現象の裏に潜む、「科学的な真実」を見抜こうとしていることを。
そして俺の静かな反撃が、すでに始まっていることを。
その場にいた誰もが、まだ知る由もなかった。




