順調な進捗と見えざる敵
俺が導入した「マニュアル」という名の秩序は、絶対的だった。
活気に満ちた治水工事の現場では、職人たちがもはや言い争うことなく、標準化された手順に従って、黙々と、しかしその顔には自らが歴史的な事業に携わっているという誇りを浮かべて作業を進めている。
ダリウスが作成した緻密な工程管理表通りに、工事は一日たりとも遅れることなく進行し、巨大な堤防は日に日にその威容を現していった。
その成果は、領都の民衆の心をも、着実に変えていった。
市場や酒場で交わされる噂の中心は、もはや「神の怒り」や「教会の祈祷」ではない。
「おい、見たかよ、あの新しい堤防を! 今までの、ただ土を盛っただけの壁とは、まるで違うぜ!」
「ああ。あの代官様なら、本当にこの街を、あの恐ろしい洪水から救ってくれるかもしれねえ…」
子供たちの間では、木の枝で川や堤防の絵を描く「ケイ様ごっこ」なるものが流行っていると聞き、俺は思わず頭を抱えた。
民衆の関心は、目に見えない神への祈りから、目に見えて進んでいく、現実的な希望へと移り始めていた。
「神に祈るより、ケイ様の『理』の方が、よっぽど確かだ」
そんな声が、公然と囁かれるようになるのに、さして時間はかからなかった。
だが、その民衆の心の変化を、苦々しく、そして危険な兆候として見つめている者たちがいた。
◇
領都で最も壮麗な建造物、大神殿。
その奥深く、ステンドグラスから差し込む七色の光の中で、この地の最高権威者であるヴィクトル主教は、眉間に深い皺を寄せていた。
彼の耳に届く、民衆たちがケイを称える声は、彼のプライドを苛む、不快な雑音でしかなかった。
彼の苛立ちの原因は、単なる嫉妬ではない。より現実的で、そして深刻な問題にあった。
一つは、権威の失墜。
これまで、災害とは「人の驕りに対する神の試練」であり、それに対し、祈祷こそが唯一の救いであると説いてきた。教会という組織は、その不可侵の権威の上に成り立っていたのだ。
だが、ケイ・ヴァイフ・ジノミヤという若者は、その災害を、人の手による「理」と「仕組み」で、克服しようとしている。彼の成功は、教会の存在意義そのものを、根底から揺るがしかねない危険な行いだった。
そして、もう一つは、より世俗的で、切実な問題。
経済的打撃だ。
民衆の信仰が、ケイという新たな「偶像」へと移り始めた結果、教会への寄進やお布施の額が、この数ヶ月で、実に三割も減少していたのである。
これは、彼の贅沢な生活と、この巨大な教会組織を維持していく上で、看過できない死活問題だった。
「…呼びなさい」
ヴィクトル主教は、腹心の神官を呼びつける。
その瞳には、聖職者とは思えぬ、冷たく、そして計算高い光が宿っていた。
「あの男、ケイ・ヴァイフ・ジノミヤは、神が定めたもうた秩序を乱す、危険な『異端者』だ。このまま放置すれば、我々の足元が、静かに崩されていくことになる…」
彼は、ゆっくりと立ち上がると、窓の外に広がる領都の景色を見下ろした。
「民は、愚かだ。そして、目に見える分かりやすい『奇跡』に、何よりも弱い」
彼は、不気味な笑みを浮かべた。
「ならば、我々も、彼らに『神罰』という、最も分かりやすい奇跡を、示してやらねばなるまい」
彼は腹心の神官に、囁くように命じた。
「…何か、天が怒っているように見える『しるし』は、ないものかね…」
それはケイという存在を、社会的に抹殺するための卑劣で、そして効果的なプロパガンダ計画の、静かな始まりだった。
◇
その頃、俺は仲間たちと、活気に満ちた工事現場で、冗談を言い合いながら笑っていた。
プロジェクトは順調。チームワークも最高潮。俺の心は、久しぶりに晴れやかだった。
その時、空を流れる雲が、一瞬だけ奇妙な黒い影を、俺たちの足元に落とした。
俺は、ふと空を見上げる。
だがそこには、いつもと変わらない、抜けるような秋の青空が広がっているだけだった。
「…気のせいか」
俺は小さく呟き、すぐに仲間たちとの談笑に戻った。
だが、それは気のせいではなかった。
大神殿の奥深く、人目につかない香炉で焚かれた、不吉な色の煙が、領都の空を、静かに、そして確実に蝕み始めていることを。
民衆の信仰心という、最も厄介な敵が、ついにその牙を剥こうとしていることを、この時の俺は、まだ知る由もなかったのである。




