テュロス村への到着と現実
王都を出発して、早三日。
ガタガタと不快な振動を刻み続ける馬車の中で、俺の気分は最高潮に達していた。
「いやあ、いい天気だ! 絶好の旅日和ですね、エリアーナさん!」
窓の外に広がるのどかな田園風景に、俺は思わず鼻歌交じりで護衛の彼女に話しかける。
馬上で並走していたエリアーナは、俺の暢気な横顔を、心底信じられないものを見るような、冷ややかな目つきで一瞥した。
「……ええ。そうでございますね」
返ってきたのは、感情の温度が絶対零度の声。
まあ、無理もない。彼女にしてみれば、これは輝かしい騎士としてのキャリアを絶たれた、絶望への旅路なのだから。俺のこのウキウキ気分が、彼女の神経を逆なでしていることくらいは、さすがに分かる。
だが、許してほしい。
なにせ、あの息苦しい実家から解放されたのだ。見るもの聞くものすべてが、輝いて見える。
貴族の堅苦しい紋章入りの馬車より、この揺れる乗合馬車の方が百倍も旅情があっていいじゃないか。
その時だった。
ゴツン! と、これまでとは比較にならない衝撃と共に、馬車が大きく傾き、動きを止めた。
「どうした!」
「車輪が泥濘にはまったようです!」
御者の焦った声が響く。窓から覗くと、馬車の左後輪が、雨でできた水たまりに見事に沈み込んでいた。馬がいくらいなないても、車輪は空転するばかりだ。
「ちっ、これだから辺境への道は…」
エリアーナが忌々しげに舌打ちする。
だが、俺の目は別のものを見ていた。前世の血が、騒ぐ。
「ああー…これは典型的な路盤沈下だな。路肩が全く固められていないから、雨水が浸透して地盤そのものが緩んでる。せめて道の両脇に側溝を掘って、排水するだけでも全然違うのに…」
俺は思わずブツブツと呟きながら馬車を降りると、困り果てている御者と、手伝いに集まってきた近くの農夫たちに、的確な指示を飛ばし始めていた。
「そこのあなた! 馬車を引くより、まずその車輪の下に、硬い石か木の板をかませてください!」
「そっちの人たちは、道の脇に浅くでいいので溝を掘って! 水を逃がさないと、また同じことになりますよ!」
最初は「若造が何を…」と訝しんでいた農夫たちも、俺のやけに専門的な物言いに気圧されたのか、半信半疑で指示通りに動いてくれる。
結果、あれほど難儀していた車輪は、驚くほどあっさりと泥濘から脱出した。
「お、おお…! ありがとうございます、旦那様!」
農夫たちから感謝され、俺は「いえいえ、どういたしまして」と、つい公務員スマイルで返してしまう。
そんな俺の姿を、エリアーナは馬上から、ますます得体の知れないものを見る目で、じっと見つめていた。
◇
道中、寂れた宿場町で一泊した時のことだ。
俺は、宿の中庭にある共同井戸を見て、眉をひそめた。井戸のすぐ隣、ほんの数メートルの場所で、数頭の豚が飼育されており、その糞尿が地面に垂れ流されている。宿の主人も、他の客も、それを全く気にする素振りもない。
俺は思わず呟いてしまった。
「うわ…これ、井戸水に病原菌が混入する典型的なパターンだ。絶対に腹を壊すぞ…」
「ケイ様。何を不吉なことをおっしゃるのですか」
背後に立っていたエリアーナが、咎めるように言った。
「いえ、事実です。井戸と便所と家畜小屋は、可能な限り離すべきなんですよ。最低でも10メートルは。これ、**常識**です」
「じょうしき…?」
エリアーナは、俺が口にした聞き慣れない単語を、訝しげに繰り返した。
彼女の世界観では、病とは神の御心か、あるいは悪しき魔女の呪いによるものだ。井戸の位置でどうにかなる問題ではないらしい。俺の言葉は、まるでどこか遠い異国の法則でも語っているかのように聞こえたことだろう。
…まあ、実際、異世界の法則なのだが。
◇
旅が進むにつれ、道は険しくなり、人の気配もまばらになっていく。
俺の楽観的な気分も、さすがに少しずつ現実の厳しさに削がれていった。
そして、出発から五日目の昼下がり。
御者が、疲れ切った声で告げた。
「旦那様…。見えてまいりました。あれが、テュロス村でございます」
ついに来たか! 俺の楽園が!
期待に胸を膨らませて馬車を降りた俺は、しかし、その場で凍り付くことになった。
ツン、と鼻を突き刺す、耐え難い悪臭。
生ゴミが腐った酸っぱい匂いと、そこかしこから漂うアンモニアの刺激臭が混じり合い、強烈な吐き気を催させる。
視界に映るのは、絶望という名の絵画だった。
村の入り口には、打ち捨てられた家畜の死骸が転がり、ハエがたかっている。
家々は、そのほとんどが倒壊しかけ、朽ちかけていた。
ぬかるんだ道端には、村人たちが、まるで物言わぬ案山子のように座り込んでいる。その目は、生きる気力すら失ったように虚ろで、俺の姿を一瞥するだけですぐに逸らされた。
そして、何より恐ろしかったのは、その静寂だ。
聞こえるのは、弱々しい咳の音と、どこかの家から漏れ聞こえる病人の呻き声だけ。子供の笑い声一つしない。村全体が、まるで巨大な棺桶の中で、緩やかに死に向かっているかのようだった。
「…これが、あなたの新たな領地、テュロス村の現状です」
背後からかけられたエリアーナの声には、侮蔑と、そしてほんのわずかな同情の色が混じっていた。
「長年原因不明の疫病に蝕まれ、人々は生きることを諦めております。…神にさえ、見捨てられた土地なのです」
俺が呆然と立ち尽くしていると、村人たちの中から、一人の老人が杖をつきながら、おぼつかない足取りで現れた。
痩せこけてはいるが、その目だけが、澱んだ水の中で光る魚のように、鋭く俺を射抜いている。村長のハンスと名乗ったその老人は、俺の綺麗な貴族服を一瞥すると、乾いた唇で、嘲るように言った。
「…また王都から、お飾りの若造様が来なさったか」
「……」
「見ての通り、ここは死にかけの村だ。アンタみたいな、土の匂いも知らなそうな坊ちゃんにできることなんざ、何もありゃしねぇよ。どうせすぐに、泣いて逃げ出すのがオチだろうさ」
ハンス村長の敵意に満ちた言葉に、他の村人たちも、無言で頷いている。
彼らは、これまでにも幾人もの代官を見てきたのだろう。そして、その誰もが、この惨状にさじを投げ、ただ税を取り立てるだけだったに違いない。
俺は、ハンスの言葉に何も答えられなかった。
いや、答えなかった。
その姿は、周囲の目には、あまりの酷さに怖気づき、言葉を失った若造、と映ったことだろう。
だが、俺の頭の中は、全く別のことで占められていた。
(なんだこの状況は…! 公衆衛生の概念が、存在しないじゃないか!)
(汚物と生活用水が、完全に混在している…! これ、疫病が蔓延して当然の環境だぞ!)
(これは神罰でも呪いでもない。完全な、知識の欠如が招いた人災だ!)
そして、何より――。
(スローライフどころか、このままじゃ、俺が病気で死ぬじゃないか!!)
背筋を、冷たい汗が伝う。
俺は、村全体をゆっくりと見渡した。死にかけの村。絶望の民。
そして、ただ一言。
静かに、しかし、有無を言わせぬ響きを持った声で、隣に立つエリアーナに告げた。
「…エリアーナさん。まずは、代官の館へ。村の地図が必要です」
その声には、絶望でも恐怖でもなく、まるでこれから厄介な行政案件に取り掛かるかのような、奇妙なまでの「冷静さ」が宿っていた。
俺の予期せぬ反応に、ハンス村長とエリアーナが、わずかに目を見開いたのを、俺は見逃さなかった。




