前例のない収穫
そして、季節は巡り、実りの秋が訪れた。
テュロス村の農夫たちは、自分たちの目の前に広がる光景を、ただ呆然と見つめていた。
地平線まで続くかのような、黄金色の絨毯。
太陽の光を浴びて輝く麦畑は、これまでのか細く、まばらなそれとは全くの別物だった。バルガスが築いた用水路から安定した水供給を受け、三圃式農業で地力を回復した大地は、その秘められた力の全てを解放したかのように、太い茎と、ずっしりと重そうに頭を垂れる大きな穂を、惜しげもなく実らせていた。
風が吹き抜けるたびに、「ザアア…」と鳴る豊穣の音。
刈り取られる前の麦が放つ、香ばしく、そして甘い香り。
ハンス村長は、その光景を前に、杖を握りしめたまま、ただ静かに涙を流していた。
「…神よ…。いや、賢者様よ…」
収穫作業が始まると、村は祝祭のような熱気に包まれた。
それは過酷な労働であるはずが、村人たちの顔には疲労よりも、それを遥かに上回る喜びが満ち溢れていた。誰もが笑い、歌いながら、次々と黄金色の麦を刈り取っていく。エリアーナでさえ、騎士の剣を鎌に持ち替え、村人たちに混じって気持ちの良い汗を流していた。
刈り取られた麦の束は、次々と村の広場へと運ばれてくる。
それはやがて小山となり、昼過ぎには丘となり、夕暮れ時には、巨大な「麦の山脈」を形成するに至った。村の子供たちが、歓声を上げながらその山に登って遊んでいる。
広場に設置された「プロジェクト管理室」の仮設テントで、リリアが帳簿の最後の計算を終え、立ち上がった。
彼女は、集まった村人たちの前で、冷静な、しかしその声は興奮に上ずっているのを隠せない様子で、高らかに報告した。
「――報告します!」
「今年の麦の総収穫量、昨年度比、七百三十パーセントを達成!」
「村の食糧庫は、史上初めて満杯となりました! これにより、今後三年間、村人全員が暮らしていけるだけの備蓄量を、我々は確保いたしました!」
その報告を聞いた瞬間、村は、爆発的な歓声に包まれた。
人々は抱き合い、天を仰ぎ、涙を流してその奇跡を喜んだ。
いつの間にか、村人たちは俺の姿を見つけ出し、その熱狂のままに、俺を担ぎ上げて何度も、何度も胴上げを始めた。
「賢者様、万歳!」
「豊穣の神の化身だ!」
されるがままになりながら、俺の目は、笑顔の村人たちとは対照的に、冷静に眼下の「麦の山脈」を見つめていた。
(七三〇パーセントか…。三圃式農業と水利改善の効果としては、まあ、妥当な数字だな…)
俺は、歓喜に酔うことなく、その輝かしい成果の先に潜む、新たな「問題」に、すでに気づいていた。
ようやく胴上げから解放された俺は、歓喜に沸く村人たちに向かって、静かに、しかしはっきりと告げた。
「皆さん、喜ぶのは結構ですが、一つ、問題があります」
俺の言葉に、村人たちは水を打ったように静まり返る。
俺は、広場の半分を埋め尽くす、食糧庫に入りきらなかった麦の山を指さした。
「この、大量の麦を、どうしますか?」
「……え?」
「このまま野晒しにしておけば、来年の春には、この山の半分はネズミに食われるか、雨に濡れて腐るだけです。これは『富』であると同時に、正しく管理できなければ、ただの『巨大なゴミ』になりますよ」
俺のあまりにも現実的な指摘に、村人たちは喜びの表情を凍りつかせ、どう答えていいか分からずに、ただ顔を見合わせるだけだった。
彼らは、豊作イコール幸せ、という、単純な図式しか頭になかったのだ。
俺は、そんな思考停止した村人たちを見て、仕方ないな、というように小さく笑った。
俺の頭の中では、すでに、この「余剰資産」をどう活用し、村の次なる発展に繋げるかの計画が、完璧に組み上がっていたのだから。
「大丈夫です。この富には、富としての、正しい使い道があります」
俺は、自信に満ちた声で、彼らに告げた。
「さあ、皆さん。次のプロジェクトの時間です」
「我々はこれから――『市場』を作ります」
「し、しじょう…?」
戸惑いの声を上げる村人たち。
この前例のない大収穫が、この小さな村を、閉じた世界から、否応なく外部の「経済」という名の、広大で、そして荒々しい海原へと漕ぎ出させる、船出の合図となることを。
この時の彼らは、まだ知る由もなかった。




