33.ウミガメの復讐
翌朝のこと、街から少し離れた砦には確かに見張りがおり、不審人物が現れた形跡もない。しかし前線司令部の玄関前には、いつの間にか一本のワインが置かれていた。
徹夜で後片付けをしていたタッパラーが、朝の空気を吸って一息入れようと表へ出たところで気付き、一体見張りや巡回の兵は何をしていたのかとかぶりを振る。
「ん? これは昨日飲んだワインではないか。まさかあの魔人め、差し入れのつもりか? これは保管状態が悪いせいで旨くなかったと教えてやったのに」
そうつぶやきながら取り上げると、ビンの外側が濡れているようで危うく滑り落とすところだった。タッパラーが続けてブツブツ文句を言いながら朝日にかざし確認してみると、ビンの外側と自身の手のひらには赤い液体がべっとりとこびりついているではないか。
まさか開けた飲み残しを持って来たのかと心の中で愚痴をこぼしてみたが、なんとなく違和感がある。思わず手の匂いを嗅いでみると、確かにあのワインで感じた鉄分の強いサビの香りがした。
しかし昨晩の印象とは少し違うようにも感じ、もう一度ワインの瓶を良く見てみたところ、そこには見覚えのあるネックレスがかけてあったのだ。
「これは―― ワシがシノロへ贈ったモノか? なぜこんなところに…… まさかアイツの身になにか起こったんじゃ、いや魔人どもがなにかしたのか!?」
そう感じたのも無理はない。ネックレスには同じように赤い液体がべっとりと付着している。だがそれはすでに大半が乾いていたのだ。ワインであれば揮発するし流れても行くので、このようにべったりと乾いた状態で残っているはずがない。
タッパラーは身を震わせながら怒りが湧きあがってくるのを感じていた。おかしな話だが、最初は手ごろな女だと金に物を言わせて連れてきたはずが、五年も一緒にいるうちに愛おしくなっていたのだ。
しかしそれはあくまで一方的な偏愛であり、シノロが死のうかとまで考えていたことなど知るはずもない。そしてそれはもう知ることができないのだと直感していた。
いくら事務方と言えど多少の戦闘経験はある。その少ない経験からでもわかることは、このネックレスに付着している赤いものはほぼ間違いなく血液だ。しかも状況からするとシノロのものだろうと考えて当然である。
だがなぜこのワインボトルに掛けられていたのだろうか。ここでふとワインの香りが鼻を通った瞬間のことが思い返された。そしてまさかという気持ちを抑えきれずに急いでビンのコルクを抜く。
ビンの口へ手のひらを押し付けたまま、恐る恐るビンを振る。それから手のひらについた液体の匂いを確かめてたタッパラーは絶句どころかその場にへなへなと尻をついてしまった。
「軍隊長さま!? どうかなされましたか? お加減が悪いのなら中へ入ってお休みになった方がよろしいですよ? さ、そのビンは私が持ちましょう」
朝になって掃除をするためにやってきたメイドが助け起こそうとしたが、タッパラーはワインの瓶を力いっぱい抱きしめたまま立ち上がろうとしない。そのうちにいったい何事かと人が集まってきた。
集まってきた中には当然コシヒカとクラッサンもいた。二人が近寄ってもタッパラーの様子には変化が無く、疑問に思い抱えているなにかを覗き込むと、そこには見覚えのあるワインの瓶が見えるではないか。
『まさかあの魔人が差し入れでもして飲みすぎたんですかね? 変に勘ぐられる前に中へお連れしましょう』
『軍隊長に限ってそんな羽目を外すことは無いだろうがねえ。だが様子は変ですから急ぎましょう』
二人がこそこそと相談していてもさらに人は集まってくる。にわかにざわついて来た群衆の中で、誰かが不意に叫んだ。
「あのネックレス、シノロさまのではないかしら? なんで血まみれなの!?」
その声に反応して、ようやくタッパラーの軍服に付着しているのがワインではなく血なのではないかとの声が漏れ聞こえるようになってきた。こうなると体裁どうこうとも言っていられなくなり、コシヒカとクラッサンは慌てて上官を屋内へと運び込んだ。
「平気ですか? 軍隊長殿!? 一体何があったんです? シノロのネックレスと言うのはなんでしょうか」
「コシヒカ殿! とりあえず水でも飲んでもらおう、ほら注いできたから」
コシヒカが口元へ水を運ぶと、ようやく意識を取り戻したのか、タッパラーはひと口ふた口と飲みこみ喉を潤していった。
「一体何があったんですか? それにそのワイン、やつが来たんですか? それにシノロがどうこうというのは一体何の話でしょうか」
「あ、ああ、コシヒカか…… この匂い、昨日飲んだワインだと思うかね?」
「どうでしょう―――― うーん、自分はワインに詳しくないのでよくわかりませんが、あの独特の香りはしますね。でもこんなに強い香りでしたかね?」
「ワシの思い違いでなければこれは―――― ち、血ではないかと思う……」
「ええっ!? いったいだ、れ―― まさかシノロのものだとでも!? それにしてもなぜワインの―――― そ、そんな、いくら魔人でもそんな非道な――」
コシヒカはしどろもどろになり言葉がうまく|紡≪つむ≫げない。そのやり取りを聞いているクラッサンもすぐに何かを察し、見る見るうちに顔が青ざめて行く。さらには――
「軍隊長殿、コシヒカ殿…… まさかとは思うのですが…… 昨晩の――」
「言わんでいい! 言いたいことはわかっておる! しかし確かめようもないのだから気にせずに忘れることだ、いいな?」
「は、はあ…… ですが自分はにわかに信じられません。メイドの中にこの地方の出身者がいますから確認してみましょう。すぐに呼んで参ります」
そう言い残して急いで出て行ったコシヒカはすぐに戻ってきた。どうやら司令部の前にはまだ人が大勢おり、当該のメイドもそのなかに紛れていたのだ。
「なあキミ、この地の料理について少々聞きたいのだが、ウミガメを食べる習慣や獲れる場所はあるだろうか。聞いたことがあるかどうかくらいで構わないのだがね?」
「う、ウミガメ? ですか? 申し訳ございません。この辺りは内陸ですから海の幸にはとんと縁がありません。もしご所望でしたら川の魚ではいかがでしょうか。亀も探せば獲れるかもしれませんが食べる習慣はありません。こんな小さいですし」
メイドはそう言って両手をわずかに広げた。この答えを聞いてクラッサンはますます青ざめ、コシヒカも卒倒寸前である。だが一番態度に出たのはタッパラーだった。
突如口元を押さえたと思うと、指を口の中へと突っ込み苦しそうにもがき始めてしまったのだ。ただでさえ年寄りの喉は細いというのに、そこへ指を数本差しいれているのだから苦しくて当然である。
「軍隊長殿! 軍隊長殿気をしっかり! 大丈夫、大丈夫ですから!」
なにが大丈夫なのかわからないまま、それでも自分へ言い聞かせるように叫ぶコシヒカだ。しかしクラッサンはそれどころではないらしく、タッパラーの行動を見て我を失ってしまった。
「わたしはなんてことを! わたしは―――― おおお、神よ! わたし、たちは罪人なのです!」
なにやら神頼みまで初めてボロボロと泣き崩れて行く。一番まともに近いのはコシヒカなのだが、それはタッパラーの指を引き抜こうと懸命になっているから気が紛れているに過ぎない。
その懸命な努力が実りようやく指を取り出すことができた。そのまま背後から羽交い絞めにすることで、もがき苦しむ上官を救ったはずなのだが更なる悲劇が彼を襲う。
口の中を自分でかきむしり、喉の奥まで指を突っ込んでしまったタッパラーは、指が抜かれた直後、胃の中の内容物を血液混じりに吐き出した。目の前の床へと吐き出された吐瀉物を見てしまったコシヒカは、急に気分が悪くなっていく。
「キャー! 誰か! 誰か来てください! 軍隊長さまたちがおかしくなってしまって!」
たまらず叫びながら飛び出していったメイドの声が最後の壁を突き崩してしまったのか、コシヒカもたまらず嘔吐してしまった。もちろんクラッサンも同じように続き、司令室の中は大惨事となってしまったのである。
入り口から覗きこむ野次馬達を押しのけて軍医が入ってきたころには、状況はさらに悪化しており、タッパラーは意識を失い痙攣しているし、コシヒカも白目を剥いてぐったりしながら泡を吹いている。
唯一意識のあるクラッサンはと言えば、神よ神よと叫びながら嘔吐しつつ、床へ頭を叩きつけ続け額がパックリと割れている有様だった。
この様子はさすがに直視できないものも多く、一瞥しただけで逃げる兵までいた。それでもその様子をしっかりと目に焼き付けるかの如く、瞳を輝かせる見慣れない女がいたことに誰も気付いていない。
やがてこの惨状の現場は封鎖され、中には病人たち三名と軍医のみが残り外には見張りが付けられた。万一伝染病や怪しげな魔法だと被害が拡大し、大問題になると大隊長が進言したためである。
その少し後、街から出てすぐの森では先ほどの惨状をしかと目に焼き付けていた女が辺りを見回していた。そこへ背の低い青年がやってきてなにやら言葉をを交わしてニヤリと笑みを浮かべた後、二人連れだって森の中へと消えて行った。
この騒動の数週間後、原因不明の奇病が発生したとの報告を受けた王国軍総司令部はこの地方の放棄を決めた。それと共に、精神に異常をきたした三名は人知れず軍病院最奥へと運ばれ、二度と表舞台へ姿を現すことは無かった。
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