31.ウミガメの涙
捕虜が解放された後、魔王国軍の陣には聞きなれぬ女の鳴き声が響いていた。その声の主は魅了を解かれ我に返ったシノロである。
「本当になんとお礼を申し上げたらいいのかわかりません。自分では死ぬに死ねず今まで言いなりになって来たのです。それがこんな切っ掛けで救い出していただけるなんて、わたしうれしくてうれしくて感謝のしようもございません」
「そんな大げさな。私がなにかしたわけではありませんから頭を上げてください。全てうちの姫様が考えたことですからね」
「その姫様とは先日お会いした、あの―― 角の生えた……」
「ですです。あれは魔人の国で広く読まれている本に出てくる、人間の勇者の真似事ですがね? 実は私も二十年くらい前まで知らなかったんですが、見た目はどちらも変わらないんですなあ」
「そのようですね。わたしも驚いてしまいました。子供のころから角としっぽが生えていると聞かされていたのですから。それにしてもあの方がお姫様だとは驚きです。まだ幼いのに戦争へ出るなんてすごい……」
「まあ確かにまだ十七だったはずですから幼いと言えば幼いですがねえ。魔人は十五から四百歳程度までは見た目がそう変わらないんですよ? なので姫様はほぼ成人の見た目と言うことに……」
「えっ!? ええっと、わたしったら失礼なことを申し上げてしまいました! ごめんなさい!」
「今は不在ですから大丈夫。今夜またいらしゃいますので、シノロさんを故郷へ送る手はずについて相談するつもりです。それにしてもまあ何年も大変な目にあってきましたなあ」
シノロは王都から少し離れた小さな町の出身だった。そこが前線基地になったときにあのタッパラーに目を付けられ、家族への仕送りと引き換えに連れてこられたのだ。
男としてはとうに能力を失っている六十超えの年よりであり、さらには人としての魅力もなく器の小ささでは部下からも陰口を叩かれるような男である。そんな男へ引き渡され手籠めにされた、当時二十一歳で生娘だったシノロの絶望は想像に難くない。
貧乏家庭の口減らしと言ってしまえばそれまでだが、畑の手伝いをしていたのだから家では稼ぐ側とも言えるシノロ。それでも家計収入と比べ凄い額の大金を目の前に積まれてしまい、父親はタダで嫁に出すくらいならとタッパラーの誘いに乗ってしまったのだ。
それからは地獄のような日々が繰り返され早五年、実家は楽になったと聞いているが、その分シノロは命を絶ちたくなるほどに不要な経験を重ねてきた。そんな彼女がこんな遠くへの遠征中に救いが訪れようとは考えたことがあるはずもない。
ヴーケはシノロの過去を暴くつもりはなく、彼らの弱みでも知らないかと軽い気持ちで魅了をかけただけだ。だがしかし、本音を隠さず話すよう命じたところ五年前までさかのぼり、これまでの苦悩を吐露したのだった。
そこで考えたのが今回の作戦と言うか、イタズラだった。元は魔王国にある昔話なのだが、それを大分アレンジし文字通り彼らに一杯喰わせてやったのだ。
サーノウが途中途中で不自然なほど『人間の』だとか『人間の味付け』だの言っていたのはこれが理由である。いつ気が付くのかは知らないが、シノロが戻ってこないことで近々気づきの時がやってくるだろうとほくそ笑むサーノウである。
そしてそのことを一緒に楽しんでいるのがここにはいないヴーケであり、さらにもう一人の『ウミガメ』当人であるシノロも素直に喜んでいた。
事前に説明を受けた際は魅了をかけられていたこともあって、ただ聞いていることしかできなかった。しかしそれが解けてみると、なんだかしてやったりといった感情が湧きあがってきてとても平常心を保てなかった。その感情があふれすぎてとうとう泣き出してしまったと言うわけである。
「それにしても、こう言ってはなんですが、金のためにあなたを売りとばした父親も大概ですなあ。帰って叱られないといいんですけどね。それどころか騙したことを謝って戻れと言われたらどうします?」
「それはいかにもありそうです。ですので生きてることだけ母へ知らせ、故郷へは帰らず別の場所で暮らそうかと…… ちなみに魔王国へ移住することは出来ないのですか? お世話になった姫様にもお礼を申し上げたいですし、できればおそばで恩返しもしたいのです」
「また極端なことを考えなさる。確かに人間でも魔王国へ移住してくる者はいますよ? ですが生活環境が魔力ありきで出来てますからただ暮らすだけでも容易ではありません。例えば直火が使えないので料理や風呂にも困るでしょうなあ」
「なるほど…… 簡単ではないのですね。ですがお礼だけでもさせていただきたいので、今夜いらっしゃった際にお会いできないでしょうか」
「わかりました。要望だけはお伝えしておきますね。後は姫様次第ですから、過大な期待はせずに待っていてくださいな」
「ありがとうございます! ああ、楽しみです。命の恩人へきちんとお礼が言えるなんて幸せでいっぱい」
サーノウは期待せずに待てと言ったはずなのにと肩をすくめたが、ヴーケなら当然のように会って話をするだろうと考えていた。ただし、あの話し方で相手がどう感じるのかはわからないが……
『というわけで、あの娘は故郷へは戻らないそうです。それで姫様へお礼が言いたいと申しておりまして、後ほどお時間作れそうでしょうか? さらにですね…… 魔王国へ移住したいと申しているのです』
『てゆうかいンじゃなぃ? 王国の街より慌ただしくなくてのんびりしてるしサ。てゆうか住んでる人間いるン? 全然気が付かなぃケドなぁって見た目同じだから? アハッおっかしー』
『そうですよね。私も初めて知った時は疑心暗鬼で探しまくりましたが結局わからず仕舞い。大昔は魔力が使えないと人間だと疑われて差別されることもあったらしいですよ?』
『ぶっちゃけそれってママのことジャン? てゆうかデュンちゃんがゆってたけど魔力なぃ人は他に優れたトコがあるンだってサ。ママならお――』
『ちょっと姫様、滅多なことは言わないようにお願いしますよ。私はまだ不敬罪で処分されたくないのですからね?』
『てゆうかサノっちのえっち…… おつむが賢いってゆおうとしたンだモン。にいにたちもすンごぃ賢ぃしサ? てゆうかアタシだけバカっぽ?』
『いえいえ、正直頭の中身は学ぶことである程度まで賢くなれます。しかし魔力や適性は後天的には身につきませんからね。絶対に魔力型のほうがいいですよ。しかも姫様はケタが違いますしなあ』
『てへっそれってもししてアタシ褒められてンの? サノっちって顔の割に優しいょネ。あとでいぃ子いぃ子したげるネ』
『やっぱり顔はダメですかねえ…… 自分でもわかってるんですけど、おかげで嫁に来てくれる女性がいなくて悲しいです』
『てゆうかそゆヒトって今増えてるンだってサ。にいにがゆってたけどそれで少子化? ってのになるとぶっちゃけ魔王国の存亡にかかわるとかなんとか。モテない男の子が多いからなン?』
『姫様…… 今日は随分とえぐってきますなあ。モテない側の私にはさっぱりわかりませんが、確かに子供が産まれなければ国の危機ではあるでしょう。ですがまだそんなことを考えるほどではないと思いますがね』
『んじゃサノっちもぶっちゃけ結婚しなくていぃ? アタシってば紹介できソな心当たりあンだけど?』
『それは本当ですか!? ――――いやいやいや、まさか王族の関係者はダメですからね? 私は貧しい家の出身ですから吊りあわない女性は絶対ダメです』
『てゆうかそんなン気にすンの? 好き同士ならぃくなぃ?』
『気が引けてまともに話も出来ない夫婦になりそうじゃないですか。好き同士になる前に会話どころか目を合わせることもできませんよ』
『てゆうかサノっちてば見たこともない相手に考えすぎぃ。とりまアタシに任せとぃてょ。うまくいくかわわかンなぃケド。なんだっけ? 期待しないで待っててってヤツ?』
サーノウはついさっきシノロへ同じことを言ったばかりなのだが、それでもなんとなくワクワクしてしまうのだった。