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少女視点です。
夜空に浮かぶ金色の月を思わせるあの瞳が視界に飛び込んできた瞬間、胸に焼けつくような激痛が蘇って、生存本能が警鐘を鳴らした。
――危険、危険! この男は危険だ、今すぐ逃げろ! と。
どうしてそんな風に感じるのか分からないまま、あまりの恐怖に全身が強張り、背中に冷たい汗が流れた。上手く呼吸ができなくなり、キーンという酷い耳鳴りと共に、まるで暗くて冷たい湖の底へ沈んでいくように、光が、音が、遠ざかっていった。
あの男が追ってくる。
自分を殺しにやってくる。
逃げなくては。安全な場所へ。ここではない所へ。
――でも、それは何処だっただろう。
我武者羅に手足を動かしても、一歩も前に進むことができず、澱の中へと身が沈む。
気が狂いそうな焦燥感の中、ふと、男とも女ともつかぬ声が聞こえた。
『お行きなさい。――が、消滅してしまう前に』
何の感情も窺えない無機質な声だった。しかしどういう訳か、冷たいとは感じなかった。むしろ、たぎるくらいの慈愛に満ちているようにさえ感じられる。
成さねばならないことがある。終焉がやってくる、その前に。
守らなくては。
救わなくては。
――でも、それは誰だっただろう。
何よりも大切だったはずなのに、もう顔も思い出せない、あの人。
一面の花畑の中、穏やかに名を呼んでくれる、あの声も。
春の日差しのように暖かく、優しい眼差しも。
まるで玻璃のようにひび割れて、掌からぽろぽろと零れ落ちていってしまう。
――やめて。失ってしまうのは、耐えられない。
どんなに追いすがっても、零れ落ちた欠片は乾いた大地に滴る水滴のように、瞬く間に吸われて消失する。
幾分もしないうちに、懐かしい故郷の景色も、親しい友の声も、何もかもが闇に呑まれて消えていった。
張り裂けそうな胸の痛みだけを残して――。
漆黒の闇に一筋の光が差して、少女の意識は浮上した。
鉛のように思い瞼を持ち上げようとしても、睫毛が小さく震えるだけ。何度か繰り返し、やっとのことで開いた瞼はしかし、強い光に晒されて再びきつく閉じることになった。
「んん……」
自分の喉から絞り出された呻きが、どこか遠く耳に届いた。
慎重に目を開き、何度か瞬きをすると、徐々に視界がはっきりしてくる。
そこに広がっていたのは、一面の白だった。
目線を彷徨わせると、壁に取り付けられた茶色い棚などが目に入って、ようやく自分が仰向けに寝転んで天井を見上げていたことに気付く。
少女は首を巡らせて室内を見渡した。壁も床も白いどこか無機質な印象を与える部屋には、自分が寝かされている寝台と、その脇に小さな卓のようなものが置かれている。卓の上には畳んだ布があった。
足下に目を向ければ、壁際に茶色い机のようなものが置かれているのも見えた。
『ここは……? わたしは、一体……』
霞がかかったようにぼんやりとする頭で考えても、ここが何処だったか思い出せない。
しばらくそのまま横たわっていると、部屋のドアが開き、身体にピッタリした白い服を纏ったふくよかな中年女性が入室してきた。
女性はこちらに目を留めると、目を丸くし、「まあ!」と声を上げた。
「――? ――?」
女性はにこやかに話しかけてくるが、彼女の言っていることがよく分からない。自分の知っている言葉と共通点が多いような気がするが、頭が理解する前に反対側の耳からすり抜けていってしまうのだ。
不安に鼓動が速まり、手に汗が浮かんだ。
意識を集中して女性の言葉に耳を傾けると、今度は概ね理解できた。
「あなた、――? わたし――言葉――分かる?」
少女がおずおずと頷くと、女性は安堵したように肩の力を抜いた。寝台の脇に立ち、顔を覗き込んでくる。
「あなた、名前――?」
自分の名前を訊かれているのだと理解して、少女は口を開いた。
「わたし……」
名乗ろうとして、言葉が途切れる。
――自分は、何という名前だっただろうか。
未だにぼんやりしたままの頭で必死に記憶を探っても、何も浮かんでこない。
名前はおろか、自分がどこの何者で、この寝台の上で目を覚ますまでの一切を思い出せないのだ。
「わたし……、誰……?」
「えっ?」
女性の驚愕したような声がした気がしたが、それに構っていられないほどに動揺していた。
頭の中が真っ白になって、呼吸が荒くなってくる。
『どうして何も思い出せないの……?』
乾いてひび割れた唇から漏れた声は、自分でも分かるほど、はっきりと絶望に染まっていた。
次回からジェイド視点に戻ります。
誤字脱字は見つけ次第修正していきます。