プロローグ
よろしくお願いします!
「何故だ、何故それほどまでに私を拒む……!」
白い石で造られた神殿の一室、白い石の柱が立ち並ぶ静謐な祈りの間に、雷鳴の如き絶叫が轟いだ。先ほどまで部屋に満ちていた百合の花の匂いは掻き消され、今は咽返るような血の匂いが空間を支配していた。
女神の石像を祀った祭壇の手前、白い石を敷き詰めた床にできた血だまりの上には、顔を横に向けた状態で仰向けに倒れている女の姿があった。雪のように白い腕は力なく投げ出され、彼女の淡い金色の髪は血を吸って赤黒く染まりつつある。
女の傍らには硬質な床に両ひざをついて項垂れているひとりの男の姿があった。緩やかな曲線を描く黒髪が男の顔を帳のように覆い、黒い長衣から褐色の肌が覗いている。
男は震える両腕に女を掻き抱いた。身体を前後に揺すりながら「何故だ、何故だ」と譫言のように繰り返す声には絶望と焦燥、哀しみと怒りが混じり合った複雑な感情を孕んでいた。
祈りの間の扉の前で凍り付いたように立ち尽くしていた少女は、悪夢のような光景に戦慄した。胸が痛いほどに早鐘を打ち、ポカリと開いた口から荒い息を繰り返す。
男の腕に抱かれているのは、つい先ほどまで少女が仕えていた主だった。輝く宝玉のようだった新緑色の瞳は虚ろに宙を見据え、そこに魂はなく、抜け殻だけが現世に残されたことを如実に表している。
常に凛としていて、それでいて穏やかで優しかった彼女。ついこの間まで、女の自分でも見惚れてしまうくらい美しい笑顔を向けてくれていたのに。
――どうして、どうしてこのようなことになったのか。
「こんなことで……、こんなことで、私から逃れられると思うな、シェスカ……!!」
愛憎入り乱れた咆哮に、少女の項の毛がぶわりと逆立った。
少女は震える足を叱咤し、やっとのことで一歩後退った。靴の底が床を擦る音に、男は背後の少女を振り返る。炯々と輝く金色の瞳に射貫かれ、「ヒッ」と喉の奥で押しつぶしたような悲鳴が出た。
男は緩慢な動作で女の亡骸を床に横たえると、ゆらりと立ち上がった。一歩、また一歩と近づいてくる男の顔からは一切の表情が抜け落ち、彼の剥き出しの両腕は血糊に塗れ、身体に巻き付けた黒い長布も血を吸った部分がより濃く見えた。
「ああ、其方か。よくぞ残ってくれたものだ」
男は少女を見据えたまま、瞬きひとつせずにじりじりと近づいてくる。
逃げなくてはと思うのに、先ほど一歩後退ったまま、少女はその場に縫い留められたように身動きができなかった。
「あ、ああ……」
はくはくと口を開閉しながら、少女は息を呑んだ。恐怖と緊張で舌が口蓋に張り付きそうだった。
「さあ、こちらへおいで。可愛い花の乙女よ」
男は唇で弧を描き、誘うように両手を広げる。
「こ、来な、い、で……」
喉から絞り出した声は、己の耳にも弱々しく響いた。
やっとの思いで身を翻したのは、男があと数歩の距離まで迫った時だった。頽れそうになる膝を叱咤し、必死に足を交互に動かして走る。しかしすぐに右腕を掴まれ、背後で捩じり上げられた。余りの痛みに悲鳴を上げるが、男はお構いなしに少女を腕に抱き込んだ。
「其方はシェスカを慕っていただろう? 彼女を救いたいとは思わぬか?」
高窓から差し込む光に照らされた男の顔には、獲物を捕らえた獣のような獰猛な笑みが浮かんでいる。
――この人は、誰?
少女は成す術もなく、愕然と男を見上げた。神殿に仕える彼女にいつも優しく労りと感謝の言葉をかけてくれた男。しかし仄暗い双眸で己を見下ろす人物に、その面影は見出せない。
男はおもむろに身体を屈めた。鼻と鼻が触れ合う距離で、男の壊れた笑みが視界いっぱいに広がる。
「私の願いを叶えるには、其方が必要なのだ」
男の吐き出した言葉が少女の鼓膜を揺らす時には、既に身体に衝撃が走っていた。
――熱い……!
呆然と己を見下ろす少女の目に飛び込んできたのは、自分の胸に突き立てられた黒い短刀だった。全身が脈打っているような強烈な痛みはあるのに、何故か血の一滴も噴き出していない。
少女は硬い床の上に頽れた。呼吸するのが酷く困難で、喉の奥で喘鳴がする。視界にチカチカと星が散ったかと思うと、徐々に闇が浸食していく。
「な、ぜ……」
(あなたは何故、わたしを殺すのですか――)
少女は激痛の中、最期の力を振り絞って男に向かって手を伸ばした。しかし、男は死にゆく少女のことなど歯牙にもかていないようだった。ブツブツと何かを呟いているが、耳鳴りが酷くてよく聴き取ることができなかった。
「ああ、シェスカ。決して逃がしはしない。其方は私のものになる運命なのだから」
男はあらぬ方を見上げながら、うっとりと呟いた。
「其方の心も体も、魂ですら、全て私のものだ。――愛している、シェスカ」
狂気を湛える男の声音に、近頃神殿でまことしやかに囁かれていた噂が脳裏に蘇った。
――神殿に仕える者の中に、禁術に手を染めた者がいる。
その者こそが、彼だったのではないか。
そして、彼は、自分の主に禁術で何かをしようとしているのではないか。
忍び寄る死の気配の中、恐怖と絶望が胸を支配していく。
薄れゆく意識の中で、少女は全知全能の女神スベルニルムに祈りを捧げた。
――どうか、我が主を、シェスカ様をお守りください、と。
誤字脱字は見つけ次第修正していきます。