泥棒猫、或いは
「──この泥棒猫!」
優雅な午後のお茶の時間だった。
一流の調度品に囲まれ、香り高いお茶を婚約者と共に楽しむはずの時間は、あっという間に緊迫した氷点下の空間になった。
「泥棒猫だなんてひどぉい」
私の目の前で、ふわふわした金髪を可愛らしく結った少女が、大きな宝石のような目を潤ませて嫌々と首を振っている。
この少女は婚約者の妹である。
目鼻立ちがはっきりしていて目力の強過ぎる私とは違い、愛される為に生まれたとしか思えない頭のてっぺんから指の先まで可愛らしい造形の少女。
その少女のさくらんぼにも似た唇が震えて、甘く拗ねた声が転がり落ちる。
「私だって大好きなのに、ただ一緒にいるだけで叱られるなんてひどい。何よ。婚約者ってだけで大きな顔をしないで。私の事、世界で一番愛しい子って言ってくれたじゃない。そうよね?」
少女の言葉に私がちらと婚約者へ視線を向ければ、視線の先の彼は蒼白な顔をしてブルブルと震えていた。
こういうのを、修羅場というのだろうか。
しかし、妹が二人で出掛けたいと言うからとお茶の約束を何度かキャンセルした事も事実だし、常々この娘に世界で一番可愛いだとか一番愛しいと言っているのもまた事実だし、一部ではどちらが婚約者だかわからないだなんて話になるくらい、それらは皆がとうに知っている話だ。
「……何か、仰りたい事は?」
この様子では落ち着いてお茶も飲めやしない。
私は早々にカップをソーサーに戻し、口許を軽くナプキンで押さえてから尋ねた。
「貴方の仰る通りにして差し上げる」
更にそう追加すると、先程まで蒼白であった婚約者の頬にぱっと淡く朱がさして、彼の青い瞳がちろりとこちらを見詰めた。
そして彼の薄い唇が恐る恐るといった風に動いて言葉を紡ぐ。
「……君と二人きりで、本当に二人だけで過ごしたい。──そこの泥棒猫は抜きで」
あぁ、全く、何て可愛らしいのかしら。
『泥棒猫』という使い方は厳密には違うような気がするけれど、でもそこもまた可愛らしいわ。
そう思って微笑ましさに目を細めた瞬間、彼の妹がむうと膨れて言った。
「あっ! お兄様ったらまた私の事を泥棒猫だなんて呼んだわね」
「何度だって呼んでやるぞ! いつもいつも私と彼女の大切な時間にずけずけと入り込み、挙げ句の果てに厚かましく一緒にお茶まで飲むとは何事か!」
「私だってお姉様とお茶したいのだもの! お兄様ばかりずるいわ!」
「お前、そんな事言って先日彼女と二人きりでドレスを仕立てに行ったと聞いたぞ! 彼女は私の婚約者なのに!」
「私のお姉様でもあるんですぅ」
お姉様というか、お義姉様なのだけれど。
キャンキャンと口論する二人の姿は今ではすっかりお馴染みのもの。
でもこうなるとしばらく止まらないのもいつもの事。
私自身一人っ子で妹というものに憧れていたから、ついつい婚約者の妹を可愛がってしまった自覚はある。
だからこれは私の責任でもあるのだ。
今思えば、彼とのデートをキャンセルして彼の妹と出掛けるのはさすがにやり過ぎだった。
あんな風に怒りで顔を蒼白にするほど彼に我慢をさせていた事に気が付かないだなんて、これは女が廃るというものだ。
「お二人とも、お茶が冷めますわ」
おやめになって。
そう言ってにこりと微笑めば、二人はピタリと動きと口論を止めた後、それぞれ無言でテーブルについた。
私と彼には婚約者として二人で過ごすための時間が頻繁に取られていたのだが、最近は最初から、もしくは途中から妹も合流していた。
それがこんなにも彼にストレスを与えてしまっていたなんて、寂しくさせて可哀想なことをした。
妹はいつか他家に嫁ぐのだし、今だけだからと思って婚約者の気持ちを多少蔑ろにしてしまった非は全て私にある。
「ねぇ、可愛い子。私の小鳥ちゃん。お茶を飲んだら彼と二人きりにしてくれるわね?」
「えっ、でも……」
「お願いよ」
「……はぁい」
なので私は、午後の残された時間を目一杯使って、可愛くて愛しくてたまらない婚約者殿を甘やかす事に決めた。
(それにしても……)
新しいお茶を持ってくるようメイドに指示して私は小さく息を吐く。
(身内だから良いかしらと思っていたけれど、今度からはもう少し対応に気を付けないといけないわね)
義理とは言え、私は姉妹の距離感というものを間違えてしまったようだ。
例え可愛い妹でも、二人きりの時間を邪魔ばかりされたら、次第に相手の事を厭う気持ちが生まれるものなのね。
そんな事を考えている内にカップが空になり、名残惜しそうな視線をこちらに向けつつも大人しく部屋を出ていった少女の背を見送る。
一緒に侍女達も下がらせて、部屋の中は完全に二人きり。
婚前なのに侍女も付けず、部屋のドアを開けておかないのはマナー違反だけど、今日だけは見逃してほしい。
「……ごめんなさい。もう少し貴方の気持ちを考えるべきだったわ」
「いや、私の方こそすまない。自分の心の狭さが恥ずかしい」
俯いたまま私の方を見てもくれない婚約者は、どうやら妹相手に大人気ない対応をしてしまった事を悔やんでいるらしい。
あとは私に妹との喧嘩を見られて恥ずかしいのだろう。いつもの事なので私はとうに慣れてしまっているが。
でも、もしも彼が私とのお茶の時間にのこのこやってきた私のお父様と、私そっちのけで殿方同士の話などし出したら、私だって同じような事をすると思うのだ。
と、そこまで考えてふと気付く。
(……私ったらこんな風に色々考えてはいるけれど、それをちゃんと口にした事ってあったかしら)
私の考えは私の胸の中だけにあるもので、結論だって私の胸の中にしかない。
だってそれが淑女というものだから。
だけど他人の胸の内というのはその本人にしかわからないから、彼は私の考えている事を知らないだろうし、私も彼がたくさん我慢していた事に気が付かなかった。
彼がどんな思いをしていたかもきちんと理解出来ていなかった。
想像する事は出来ても、本当のところどうなのかはわからないのが事実である。
何とも申し訳ない気分になって、私はそっと、出来るだけ優しい声で言った。
「あの、提案なのだけれど」
「何だろう?」
「私、もっと貴方の事を知りたいわ。それに、私の事も知ってほしいの」
好きなこと、嫌いなこと、してほしいこと、されたら嫌なこと。
私達に足りないのは言葉だったのだ。
「私達、もっとお互いをよく知るべきなのよ」
「……しかしそれは……その……」
「紳士らしくないと仰る? 大丈夫よ。ここには私達二人きりだもの」
黙して語らず互いに推し量るばかりでは、きっとどこかですれ違う。
そんな私の言葉に彼もようやく頷いて、私達は午後の時間をまるまる使い、些細なことから重要なことまで心行くまであれこれと話をしたのだった。
そうそう。最後に残った時間は当初の決意通りに彼を目一杯甘やかして差し上げたのだけれど、その詳細を語るのはきっと野暮というものよね。
──この日をきっかけに、私達は二人きりで色んな事を話し合うようになった。
時には喧嘩になる事もあるが、よくよく話し合い、二人で納得して結論を出す毎に仲が深まった気がする。
「おや、何を考えているんだい?」
「貴方の事よ。あんまり可愛いから貴方を『私の可愛いベリーパイ』と呼びたいと思うのだけど、どうかしら」
「……二人だけの時ならお好きにどうぞ。マイスイート」
そう、例えばこんな冗談を言い合えるくらいには私達の仲は良好だ。
愛情だって何だって、きちんと伝わらなければ相手にとって無いのと同じ。
それを知っている私達は、これからも少しずつお互いを知って、考えて、伝えるべき事は伝えていくのだろう。
それはとても素敵な事に思えて、今では夫となった彼が頬にくれたキスに、私は令嬢と呼ばれた少女の頃のように笑い声を上げる。
あぁ、可愛い義妹は元気にしているかしら。
かつて彼はあの子を『泥棒猫』と呼んだけれど、泥棒猫だなんてとんでもない。
私達にとって、あれは『幸運の黒猫』だったのだもの。
そんな事を考えながら、私は愛しい人をぎゅうと抱き締めたのだった。