表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<R15>15歳未満の方は移動してください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

朱色の波、赤色の海、柘榴色はなにを思う

作者: ころねるん

これは本来、語られることのない話。


ドルドーナ・ユーリリー大尉は主人公でも、ヒロインでもないのだから。


脇役であるという自覚は、彼女もあったのかもしれない。


彼女はただ〝姫〟を守りたいだけだったから。





――――――


小説家になろう、というか小説を人様の目に触れる形で投稿することが初めてです。


縦書きをそのまま貼り付けて投稿しましたので、読みにくかったら申し訳ありません。


良いか悪いかだけでも感想頂ければ嬉しい限りです。


あとタイトルは仮です。書くかはわかりませんが、本編のタイトルが決まっていないので。

 焼け焦げた地に膝をつけ自身の背丈ほどもある大剣にしがみつく〝姫〟を見下ろすドルドーナ・ユーリリー大尉は、煤や土で汚れた頬を上げると〝姫〟の頭をわしゃわしゃと撫でた。指通りの滑らかなブロンドの髪と、手よりも大きい狐耳。髪と同じブロンドで先端だけ白く、上半身をすっぽり覆そうな、これまた大きな尻尾。永遠に触れていられる肌触りの耳は別格の心地良さだ。フィンガーレスグローブをはめているせいで指先でしか狐耳を堪能できないが、それだけでもドルドーナの胸を高鳴らせてしまう。この自分には無い質感を羨ましくも思う。尻尾が千切れたせいで、犬耳だけになってしまったから格好がつかないのだ。そんな憂鬱を忘れようとひたすらに撫でてみたが、〝姫〟は顔を上げることも、声すらも聞かせてはくれなかった。それでも、大きくてふわふわの尻尾を、ゆらりと左右に振ることで返事をしてくれた。尻尾についていた黒い土で〝姫〟の緑と白を基調にしたドレスを汚してしまっているが、〝姫〟はいつものごとく特に気にしないようだった。


 左指の感触を楽しみながら大地に突き刺さった〝姫〟の愛剣へ視線を運んだ。うっすらと金色の煌めきを表面に纏う白金の刀身。黄金色の柄から刀身の中心を垂れるように真っ赤な線が一本伸びていた。ゆっくり、ゆっくりと、目を凝らして見続けなければ変化に気づけないほどの速度で刀身の先端へ向けて進む。まだ、刀身の一割にも満たない。〝姫〟は焦っているのか力一杯に柄を握りしめていた。そんなに力んでもなにも変わらないさ――。声をかけようと息を吸ったドルドーナだったが、風に乗った砂塵も連れて吸い込んでしまったようで、喉のむず痒さに咳きこんでしまった。眉をひん曲げて怪訝そうな顔を上げたドルドーナは、砂を巻き上げたであろう犯人の尻を睨んだ。  


 〝姫〟とは違い無機質で無骨な冷たさを放つそいつらは、地面にめり込むほど重厚な巨体だった。泥がこびりついた履帯を回転させることで焦げた地面をじゃりじゃりと抉りつつ、〝姫〟を囲むように迫ってきた。前後左右にそれぞれ一台ずつの計四台。パワーのわりには、無駄に静かな動力ではあったが、尻から吹きこぼれる排気の真っ只中に立たされたドルドーナをじんわり汗ばませた。白シャツの上に特殊繊維の赤茶色の防刃ベスト、それに脚にピッタリなブラウンのパンツとそこまで暑い格好でもなかったはずだが、やはりこいつらと並ぶだけでいつも汗をかく。おまけに独特な音高で鳴るモーターの回転音は、人よりも敏感な鼓膜をざわつかせてくる。しかも、そいつらに囲まれることとなり、消費される空気の量も相まってか、こめかみをなにかがズキズキと駆け抜けていく。今日も相変わらず迷惑な奴らだと思う。とりあえずつけましたとほざきそうなブレーキランプをちょこんと乗せた角ばった尻は相変わらず可愛くない。そんな尻をいますぐにでも殴ってやりたい衝動を抑えていると、〝姫〟から五メートルほどの距離で四台とも動きを止めた。サスペンションから空気が抜ける音が四方から響き、わずかに巨体の背が縮む。触れれば小刻みに振動を感じられていたはずの尻もピタリと静止した。ようやく迷惑な音と熱から解放されることになって、ドルドーナの肩から自然に力が抜けた。


「大尉」


 鼻を突いてくる排ガスの臭いに眉を曲げていたドルドーナは、背後から掛けられた声に返答することもなく、むしろ八つ当たりするように睨んだ。二十代半ばだろうか、鼠色の軍服を泥で汚した青年が敬礼をしている。顎ひもが千切れたヘルメットを斜めにかぶり、ブルパップ方式の七・六二ミリ自動小銃を肩に背負った青年は、敬礼を終えるとドルドーナの表情を窺うこともなく口を開いた。


「指示通り、配置につきました」


「言わなくてもわかってるよ。それよりもさ、あと何発撃てる?」


「は。百二十五ミリは四台合わせて、十二となります。あとは副武装の二十ミリが少々、銃座の五十口径が六箱、四十ミリ擲弾が一斉射、手榴弾一箱、そして、個人火器が一人一丁ずつであります」


 これで何分戦えるのか。脳内で必要な時間をざっと計算したドルドーナはくるりと一周、周辺を見渡してみた。四台の車体にはめ込まれた砲塔の上には、ボロボロになった男が数人ずつ、小銃を抱えてドルドーナのことを見下ろしていた。虚ろな目、血走った目、それぞれの無言の葛藤が、〝姫〟を中心にして渦巻いている。男など、どうでもいい。男共の視線を振り払い、ごつごつした尻の向こう側を覗き込んだ。


 なにもなかった。正確には、全て焼け落ちていた。かつては農場だったように見えた。真っ黒ではあるが、おおまかに区画でわけられていたような形跡がある。どこからどこまでが――というのは、いくつも存在する榴弾の弾着痕によって定かにはならなかったが。炭になった馬小屋のようなものもあった。遠くで朽ちているのは風車だろうか。かつて、ここは何色でなびいていたのだろう。灰色の分厚い雲と焦げ茶色の土に挟まれた地平線は殺風景というより死風景とでも呼ぼうか。なにもないことで平らな平地ではなく、緩やかに傾斜がある土地であることに気づけた。とても小さな山がいくつも集まってできたような土地。そのうちの一つの山頂に〝姫〟は跪いていた。


 比較的〝姫〟の正面と左右は小さな谷のようになっているおかげで視界が通っていた。ただ、姫の背後だけは百メートルほど離れたところから傾斜のきつい坂になっており、坂の上になっているこちらからは坂の下を認識することができなかった。効率良く戦わねばならない。したがって、ドルドーナは迷うことなくすぐに結論を導いた。


「こいつの残弾を、全て他に移せ。人手もだ」


 〝姫〟の背後で佇む巨躯を肩ごしに親指で指すドルドーナに、青年の兵士は目を丸くした。


「ですが、そちらから攻めてこないとは……」


「一人で充分だ。おまえらは前を頼む」


 むしろ、危険なのはそちらなのでは。唇を噛んだ青年の兵士はどうせそんなことを言いたかったのだろう。承知の上だ。余計なことを喋られる時間が惜しかったドルドーナは腕を組み、顎で青年の兵士に早くやれと急かした。青年の兵士はわずかばかりに目を見開いてはいたものの、目を伏せると、そのまま無言で作業に取りかかった。砲塔の上で静かに会話を聞いていた他の兵士らも、空気を読んでくれたのか視線で会話しながらのそのそと動きだしている。てっぺんのハッチが開かれると、見るからにも重そうな百二十五ミリの砲弾を二人がかりで取り出し始めた。外づけの二十ミリ機関砲からも弾薬は抜かれ、数人の男がジャラジャラとチェーンのようにベルトで連なった二十ミリの塊を背負って運んでいく。まるで強制労働をさせているような気分に、ドルドーナはらしくもないため息をこぼした。五体満足で手の空いている上官はドルドーナしかいない。なら、兵士らの鼓舞も自分がするべき。頭では納得していながら、ドルドーナは口を開く気分にはなれなかった。そもそも、自分の言うことに耳を貸す者がどれだけいるのか。自分の上辺だけの言葉など届くのだろうか。〝姫〟なら、うまく鼓舞してくれただろう。なぜなら、〝姫〟はきっと本気で切り抜けられると信じているからだ。いつもそうであったからだ。ドルドーナは違った。ドルドーナは、嘘を口にしたくなかった。だから、思ってもいないことを言葉にできなかった。


〝姫〟なら、切り抜けられる。〝姫〟だけなら切り抜けられる。〝姫〟だけなら……これ以上は考えるな。思考の無駄だ。


 憂鬱に縛られながらも兵士の様子を探っていたドルドーナは、知った顔が足りないことに気づいた。ちょうど目の前を横切ってきた青年の兵士に「おい」と声を掛けた。鉄箱を抱えた青年は足を止めて首だけ振り返り「なにか?」と返事をしてきた。


「なあ、少佐はどうした? 死んだのか?」


「……は、いえ、まだご存命です」


「なら、なんでここにいない?」


目を泳がせた青年は鉄箱を地面に置くと、鋼鉄の間を指差した。青年の兵士は顔を上げないまま粛々と答えた。


「少佐殿は……あちらです」


 


 築いた円周陣地から三百メートルほど離れたところに一台の輸送トラックが乗り捨てられていた。つい先ほどまでドルドーナも乗っていたトラック。唸っていたはずのディーゼルエンジンの鼓動は感じられない。見上げるほどの大きさのわりには迫力が無かった。どうやらただの鉄の棺桶と成り果てているようだ。車体を撫でながら荷台に近づいたドルドーナは、赤黒く変色した荷台のカバーをめくった。


 光の届かない荷台の奥でぎらついた薄黄色の眼光がまだ生き残っていた。太ももから先が無くなった両脚を覆っていた包帯は、赤ではなく黒となって暗闇と同化している。金の刺繍が入った栄えある軍服もボロボロに破れてしまっては威厳など微塵も感じられない。予備の燃料タンクに挟まれる形で運転席に体重を預ける少佐は、右手で手榴弾をがっしり握りしめていた。


「指揮官のあなたが諦めては、部下の士気に関わると思いませんか?」


「……」


 少佐は無言のまま、ぎらつく目でキッと睨んできた。まだ若気を忘れていない鋭さだ。顔を引き上げ、もごもごと血紅に塗られた唇は動かしてはいた。しかし、力を振り絞ったであろう努力は声にはならなかったようで、少佐の意志は眼光でしか感じられなかった。


「まあ、ただでは死んでやらないという、そのプライドは認めますよ。ええ、安全なところで野垂れ死ぬより、先頭で敵を道連れにしてくれたほうが、見栄えのある最期になりますから。あなたのことは、きっと、我らの〝姫〟が伝えてくれますよ。……ただ、〝姫〟は、あなたの最期は見届けてはくれませんが……ね」


 ドルドーナの言葉に反抗するように少佐は鼻息を荒くしていた。いつしか、ぎらつく目には涙が浮かべ、真っ赤に染められた歯を食いしばっている。恐怖か、悔しさか、痛みか、少佐はプルプルと小刻みに震える左手を負けじと持ち上げると、手榴弾の安全ピンを一気に抜いた音が荷台の中で反響した。もし、このまま少佐が手を放しセーフティレバーが外れれば、ものの数秒後にこのトラックは火の海になるのだが、ドルドーナは鼻息一つで少佐を一蹴すると、気にする素振りもなく荷台に背を向けた。


「そうそう、あなたは以前、我々のことを薄汚い獣と例えられていましたが……」


 顔だけ振り返ったドルドーナは、虫を見るような心底見下しているような目で、食いちぎるために尖った八重歯が見えるくらいに口角を上げていた。少佐は、その表情にビクリと体を震わせていた。


「いまのあなたの、その目のほうが、よっぽど……獣らしいですよ」


 ケタケタと笑いながらドルドーナは荷台から立ち去った。最後、視界の隅に映った少佐はただ茫然と、誰も支えてくれない右手で手榴弾を握りしめるだけだった。




 陣地に戻るころには兵士らの配置転換も済んでいた。均等に割り振られた人員はそれぞれ決められた方向を注視している。〝姫〟は微動だにしていないようで、相変わらず大剣にしがみついていた。刀身の赤は、ようやく一割、といったところか。先は長いな……と脳内で呟きながらドルドーナは鋼鉄の脇を通り過ぎようとした。が、その鋼鉄の尻の上で双眼鏡を覗いていたはずの青年の兵士が、鋼鉄から飛び降りるとドルドーナの行く手を塞いできた。歩みを止めたドルドーナは無言のまま首をかしげたが、青年は言葉を発することはなく口は閉じたまま。何か用か、そう目で訴えたドルドーナに対して、改めてという素振りでようやく青年が口にしたのは、ただの報告であった


「偵察個体を確認しました。……もうじき、やってくるかと」


「予想よりも遅かったな。このまま見逃してほしいところだが……やることはわかっているな? お前らの戦いについては詳しくないから、指揮は適任の者が行え。少佐殿からは任せた、とだけだ。こっちはこっちでやる。時がくれば、〝姫〟の指示に従え。いいな?」


「……了解しました」


 ドルドーナはそれだけを残して自分の守るべき場所へ赴こうと、行く手を塞いだままの青年を躱そうとした。しかし、まるで恋人に振られたような寂しさを匂わせる青年の横顔を見てしまったドルドーナは、一瞬だけ迷ったものの、ため息を漏らしたあとにも青年へ声をかけてしまった。


「あの少佐とは、どのような関係だ?」


 問うた瞬間、青年はヘルメットが飛んでいきそうな勢いで顔を向けてきた。ぐっと、こらえたようにヘルメットを目元まで深く被ると、深く息を吸ってから静かに一言だけ答えた。


「……身内ってだけ、です」


「……そうか。なら、見届けるのが、お前の仕事だ」


「……は」


 青年の兵士から視線を外したドルドーナは、背負っていた二メートルもある蒼の大槍を手で掴んだ。槍ではあるが、全体の四割が刃になっているため、突くというより引き裂くように使うのが日常になっていた。どちらかというと鉈の分類になるかもしれない。先端になるほどより細く、より鋭くなっていく。〝姫〟からもよく褒められる器用さを持ち合わせているドルドーナは、精密機械のように狙ったところを刺すことができる。特別、槍を好んでいるわけでもなく、剣や銃だって扱えるが、〝姫〟の隣で戦うとなるとピンポイントで狙ったところにだけ攻撃できる、この槍はなにかと都合が良かった。なにぶん、〝姫〟は、ピョンピョン跳ね回るように戦うから、気を使わなければならないのだ。振る必要のある剣はまだしも、跳弾の可能性もある銃など恐ろしくて〝姫〟の前では使う気になれなかった。


 物思いにふけりながら焦げた地面を革のブーツごしに踏みしめていると、〝姫〟の傍らで自然に脚が止まった。顔は見えない。せめてもう一度だけ声だけでも聴きたかった。最後に頭でも撫でようかと右手を伸ばしてはみたものの、やはり〝姫〟の邪魔だけはしたくないという強い思いが右手を宙で空振らせた。ため息を吐くことすらもぐっとこらえ、行き場所を失った拳を仕方なく握る。〝姫〟から視線を外して足早に立ち去ろうとしたときだった。ふわり、右手をくすぐられた感触に、ドルドーナは思わず立ち止まって息を呑んだ。


 優雅で気品があり、さらに愛嬌もある大きな尻尾に、右手を抱擁されていた。手を繋ぐように右手に絡んでくる。くすぐったい。けど、焦るように脈打っていたドルドーナの鼓動を、穏やかに癒してくれた。このまま包まれてしまえば、あっという間に夢うつつになってしまうだろう。たとえ、ここが戦場の只中だとしてもだ。もし、二人きりの状況だったら、抱きしめているところだった。〝姫〟の様子を窺うも、表情を見せてはくれなさそうだった。きっと、いまごろ眉間に皺を刻みながら、内心では唸っているのだろう。それでも、〝姫〟はなにか伝えたいのかもしれない。やっぱ、可愛い娘だ。ドルドーナは目を細めると、名残惜しいものの〝姫〟の尻尾から右手を解いた。それから、「いってきます」とだけ呟いておいた。〝姫〟の尻尾は一往復だけゆらゆらと振れると、また黒い地面にゆったりと横たわった。


 これからは、ちょっぴり暑苦しくなってくる。雪景色の暖炉の前で寄り添えば、他では味わえない至福の時を過ごせた。あの誘惑にだけは、勝てない。勝てなかった。毎晩、手入れをする時間は胸が躍って仕方なかった。一杯に抱きしめて甘い香りに包まれれば、どんなに体が重くても、なにもかも忘れられるくらい癒された。あの肌触りは個人的な趣味だった。気に入った触り心地になるまで梳いた。理想の香りを求めて、丸一日売店で悩んだこともあった。なにもかもが、遠かった。いま、脳裏に浮かぶ思い出さえも。


「コンタクト!」


 悲鳴のような叫びがした。誰の声なのかはわからなかったが、そんなことは問題ではなかった。目覚ましのアラームのようなものだからだ。朝を知らせるかのように、ただ、始まりを告げられた。絶対に避けられない選択を選ぶときがきた。肺の中を空にしてから唇を噛んだドルドーナは、加速する鼓動の遥か向こう側を、双眼鏡のレンズごしに揺れる暗赤色の瞳で見据えた。


 距離は千、くらい。ドルドーナは焼きつかせた目測で判断した。ここまで発見できなかったのは、地平線を遮る濃霧の影響……いや、暗視装置は備えていたはずだ。記憶の欠片を探るドルドーナは、肉眼から伝わる情景から単純に地形のせいかもしれないと結論づけた。居場所は正確に把握されていた以上、死角を進むのは容易いだろう。まだ豆粒ほどのサイズではあったそれを、端から順に数えていたドルドーナだったが、十を超えたあたりで現実を直視することをやめた。


 焦げた大地で群れを成すのは焦げた朱色。基礎は蟻。駆ける六本脚は象。五の黒玉と二のギロチン。棘と傾斜のある外殻。丸々と身が詰まった腹。睨みをきかせている灰色の鋼鉄と大差ない図体。求めるは生きた血肉。ドルドーナは、視界を徐々に浸食してくる朱に抗うかのごとく、己の柘榴色で短く切り揃えてある後ろ髪を千切れんばかりに握った。曇天の下では、どうしても似てしまう。自分の姿を幻想越しに見とめたドルドーナは、何百回目かの侮蔑の視線を自分自身に送った。


「朱殷虫接近! 対地戦闘! 一号車、二十ミリ攻撃始め!」


「撃て!」


 〝姫〟の正面で履帯を沈ませて居座っていた兵士達の力の象徴は、立派な直径百二十五ミリではなく、その上で鎮座していた直径二十ミリの火を噴かせた。鼓膜を震わせる破裂音が三回鳴り響き、閃光が三回呼応する。硝煙の臭いが漂ってくるよりも先に、先頭を疾走していた朱は、風通しの良くなった頭を焦げた土に埋め込みながら動きを止めた。途端、横一直線に並んで駆けていたはずの朱は、扇を開くように散開を始める。しかし、再び三回の破裂音が鳴ると、隣を疾走していた朱に向かって三つの鮮緑光の尾が解き放たれ、首を抉るようにへし折り、また動きを止めさせた。なにもなかったはずの地平線に朱色の死体が転がる。破裂音のたびに先頭から順々に前進を止められていた朱は、逃げるように左右に散らばっていた。次々に現れる後続の朱は先頭に釣られるように横に流れていく。いつしか縦に連なったさまは、さしずめ赤い波に見えた。双眼鏡を覗いていた中年の兵士が、耳に装着していたインカムに合図を一息で吹き込んだ。


「一号車、主砲、てっ!」


 耳をつんざく轟音を待ち構えていたドルドーナだったが、襲い掛かる空気の振動は、音という枠を超えて衝撃であった。鼓膜から脊髄を通して横隔膜まで揺さぶられると、さすがに目が回る。それでも立ち昇る白煙越しの景色から焦点は外さなかった。


 水風船を針の束で貫くような破壊だった。最初に弾着した朱が破裂すると、後ろにいた三頭とも頭と尻を残して砕け散った。破壊はそのまま止まることはなく、さらに後続の胴体におびただしい数の穴をこじ開け、肉片が飛び、紫色の血しぶきが霧状に拡がった。正確にはわからないが、いまの一撃で二桁の朱を粉砕したことは間違いなかった。一台だけで、この火力。朱との距離感はまだ縮まってはいない。


 ドルドーナは目の前で拡散していく理不尽に打ちひしがれていた。硝煙に隠れる鋼鉄の兵器は、閃光が放たれるたびに輪郭をはっきりと見せる。再び轟音。風圧に巻き上げられた黒い土は、後ろで事の成り行きを見守っていたドルドーナの顔めがけて降ってきた。目を庇うように瞼を閉じる。閉じた裏の闇に映し出されるのは、理不尽。何度も繰り返し記憶した光景だった。どの記憶も、赤色か朱色。記憶に腹の奥底を冷やされた途端、なぜ? と自問自答でもない、行く当てのない問いが胸の内で反復した。救いを望む声が鼓膜の奥で反響していく。とてもよく知っている声。やめろ。お前は救えない。覚悟は決めたはずだ。とうの昔に。たまたま、今日だってだけで、今日を迎えられたこと以上を欲してはいけない。頼む。前を見ろ。救うのは、お前じゃない。


 痙攣する瞼を持ち上げた。臓腑が締めつけられる感触に、背中を気色悪い汗が垂れ落ちていく。小刻みに笑い出した両脚を踏ん張ると、革のブーツは焦げた地面に沈んだ。踏ん張れたのは、すぐそこに生きてくれている〝姫〟を暗赤色の瞳に映せたから。度重なる破裂音の陰に〝姫〟の甘い声が聞こえた気がした。


『諦めては、ダメですよ? 帰ったら、続きを聞かせますから』


 ついさっき聞いたはずの声は、遠い思い出のようだった。もう手から零れて霞んだ幼少期のように。


 三回目の轟音で、ドルドーナはようやっと現実に引き戻された。兵士の怒号が行き交う間で立ち尽くして何秒無駄にしたのかはおおよそ予想できたが、狂った調子は戻らなそうであった。重なる破裂音に濃くなる硝煙は、緊迫感をドルドーナに教えた。見渡せる限りの地平線は朱色で埋まっている。鮮緑の残光が屍に吸い込まれだしたいま、いよいよ始まったと実感した。上擦った怒声に混じったのは焦りか。拳銃なぞ握りしめてもどうにもならないのに。青ざめた泥まみれの兵士を尻目にしながら、ドルドーナは戦場に背を向けた。「大尉!」と聞き慣れてきた声に呼び止められたが、ドルドーナは手を振りながら歩き始めた。


「大尉! 少なすぎます!」


「ああ、わかっているよ。ここは任せた」


 理不尽だ。そう考えるほど、嚙み合わせに力がこもる。どうせなら、槍を握るこの右手に力が欲しかった。やめだ、考えるのは無駄と判断したドルドーナは、兵士らが一人として視線をよこさない下り坂へ、なるべく無心を心掛けながら脚を運んだ。少なすぎる、か。ほんと、勘弁してほしい。怒号が途切れ途切れになり破裂音が遠くなったころ、硝煙の臭いも薄れていく。その代わりに漂ってきていたのは鉄を連想させる異臭だった。右手に掴んだ槍の無機質な感触を確認しながら下り坂を覗き込んだドルドーナは、暗赤色の瞳に映った光景に、舌を鳴らすと一歩分だけ右にずれた。


 ドルドーナの背丈ほどはある鋭利な鎌が、左肩を掠めたのは舌打ちの一瞬後であった。鎌が焦げた地面に突き刺さって動きを止めたのと同時に、飛び上がった黒い土よりも素早く、右手に掴んだ槍を捻るように振り上げた。外殻と外殻の間にある関節へ運ばれた刃は、摩擦すらも感じない。切断面を見て金切り声で鳴く五の黒玉の中心を槍で突くと、右手に力の抜けた肉体の重みがずしりと伝わってくる。右足で動きを止めた朱色を蹴り落とすと、朱色が朱色に混じっていった。


 ひしめき合うとはこのことか。これまで幾度となく見てきた光景は、過去最高の密度を誇っていた。鳥肌がたった理由を考えないままに、ドルドーナは槍を下段で構え朱色を見下した。


「諦めるなと言うほうがどうかしてるよまったく……でも、そういうところが良いよな」


 失笑ともおぼつかない笑みを浮かべたドルドーナは、迷うことなく朱色へ飛び込んだ。




 どんな生物であろうとも、空中の獲物を狙うときは、やはり着地の隙を狙うものだ。少なくとも、ドルドーナと朱は同じ考えらしかった。最初に目掛けた朱に槍が届こうとしたとき、別個体の鎌が左右から迫ってきた。脊髄で危険を察知したドルドーナは、まずより近かった左側鎌の関節に槍を突き立てた。そのまま槍を軸にして体を捻ると、背後を右から鎌がすり抜けた気配。両手に少し力をこめて体ごと槍を一回転させると、立派な鎌は二本とも分離してドルドーナの頭上を越えていった。のけぞった朱の頭に槍をめりこませながら着地し、目一杯に両脚に力を込めて再び跳躍。全高三メートル近い朱を軽々見下しながら、脳天へ叩きつけるように槍を振り下ろす。二体目の頭がかち割れたときには、新手の鎌が真横から迫ってきていた。咄嗟に黒い地面に頬が触れるほどへばりついて鎌を躱し、地に添わせるように槍を思いっきり水平に振るう。朱の象のように太い脚は少々抵抗にはなったが、ドルドーナの槍を止めるほどの理由にはならない。前脚が二本千切れてバランスを崩した朱の脳天を突いたドルドーナは、追撃が来ないことに、訝しげな視線で周囲を見渡した。


「包囲ね……」


 前後左右、どこも朱がひしめき合う。鎌を擦りあわせる金属のざらつく音、威嚇するような甲高い鳴き声。追い詰めた、観念しろと声が聞こえてきそうであった。朱に突撃以外の頭脳があったことに内心驚きつつも、顔には出さないように努めたドルドーナは、槍を肩にかつぎ屍を足蹴にしながら嘲笑を浮かべた。


「なーに様子を窺ってんだよ。ここには俺一人だぞ? いつもの勢いはどうした? 死ぬのが怖いとかはやめてくれよ。天下の朱殷中様がそんなに情けないと、せっかくの覚悟も無駄になっちまう……」


 腰を落とし、槍を上段で構えながらドルドーナは先頭の朱を睨んだ。甲高い鳴き声は、あざ笑っているようにさえ感じた。ここは獲物を嬲り殺すのを楽しむショーなのかもしれない。それも時間をかけながらじっくりと。


 ならば好都合だと胸が高鳴った。ここで立ち止まっているのには理由がある。それはドルドーナを囲む朱はもちろん、坂の向こう側で奮戦しているであろう兵士らも確実に理解はしていないであろう。ドルドーナでさえ、現実的ではないと密かに考えていた。だが〝姫〟が判断したのならこれが最善であるはずだ。〝姫〟のことはよく知っているつもりであるドルドーナは迷うことなく〝姫〟に従った。兵士らは、〝姫〟に従うか、最速で離脱するかで二分されてはいたが、少佐の一言で〝姫〟に従うことになった。少佐も戦場の〝姫〟のことは知っていたのだろう。そう、〝姫〟がここで戦うと提案したから。あの〝姫〟が。〝孤独の殿姫〟とまで呼ばれた〝姫〟が兵士らを逃がさずにここに残した。その意味は、あの少佐なら察知できたのかもしれない。


 背後から風切り音。サイドステップの要領で左に跳ねると、足蹴にしていた屍に鎌が深々と突き刺さる。横目に新手を視認したドルドーナは、着地した左足から右足へ体重を移し、さらに槍の先端へも体重を込めながら朱の首を貫いた。ゴキッと硬いものが折れる振動が槍を通じて手のひらに伝わってくると、ほどなく新手の朱は屍の中にその巨体を沈めていった。すぐさま聞き耳を立ててはみたが、周りを取り囲む朱はいまだに静観を続けている。舐められたものだとドルドーナは舌を上顎に這わせた。やはり、いつもと違う――。言葉にできない違和感を胸の内で混ぜながら、一面の朱を舐めまわすように睨みつけていると、突然、両足の土踏まずに奇妙な感覚を感じた。眉をひそめながら視線を落としたドルドーナは、革のブーツごしに大地の感触に意識を向ける。この揺れるような振動が教えてくれるのは重量だ。それと距離。より振動を強く感じる右足から右横へ視線を流したドルドーナは、自身が朱に囲まれている理由を叩きつけられることになった。


「甲種ね……ああ、そうかい……まあ、そんなもんか」


 一際大きな岩が迫っていた。朱よりも二回りは大きく、六メートルは高さがあるか。白みがかった淡紅色の外殻に、四本の名刀のように磨かれた大鎌。象よりも立派な八本の脚は、地震の訪れを予感させるように大地を揺らしていた。しかも、それが三つともなると、もはや火山が噴火したような地響きを生み出す。こいつの存在を忘れていたわけではない。ただ、現実を直視することをおざなりにしてしまっていただけだ。ゆえに、揺れる大地のように正面から向き合ったドルドーナの吐息も小刻みに震えていた。もう、どこにも逃げられない。


 〝姫〟が待っているはずの坂の上、そのさらに奥から爆発音が聞こえた気がした。ふと見上げた曇天へ駆け上る黒煙。一瞬、脳裏をよぎった〝姫〟の微笑む顔で腹の奥底が冷えたドルドーナはすぐに、まだそこまでは大丈夫だと己に言い聞かせた。〝姫〟を守ってくれているあの兵士らはそこまで軟弱な部隊ではなかった。それに、まだ弾薬は尽きていないはず。あの黒煙を生み出した張本人はおそらく――。


 途端、周囲から鼓膜を張り裂いてしまいそうな音圧の金切り声に襲われたドルドーナは、自分のことより大事なことへの思考を無理やり止められた。耳を塞いでしまいたかったが、それも朱の狙いかもしれない。キンキンに唸る聴覚をしかめっ面で耐えながら、ドルドーナは暗赤色の瞳を左右に動かした。


 三つの山はすぐそこまで迫っていた。デカブツの到着を待っているであろうドルドーナを取り囲む朱は勝利を確信しているのか、あざ笑うように金切り声で鳴いている。ギュッと槍に力をこめたドルドーナは刃先に焦点を結びつけると、わずらわしい金切り声を遥か遠くに追いやった。すべての五感は両手を通じて刃先に向かう。まるで、槍も体の一部――ではなく、槍が自分であるのだと。槍は魂であると。そうすれば、槍は呼吸を始める。


 ブーツの底が地面に埋まるくらいに重心を落とした刹那、槍は電流で痺れるように唸った。鼓動するように両手に伝わってくる熱は、元々ドルドーナの体温であった。両手に群がる血液から、槍が貪るように熱を奪っていく。吸われれば吸われるほど、槍の刀身は残光を空中に刻めるほど眩く輝き、ドルドーナの視界は刺さるような眩しさで埋め尽くされた。


 槍を大きく振りかぶったのと、取り囲んでいたはずの朱が一目散にドルドーナへ向かって突進してきたのは同時だったように思えた。なぜなら、槍を一回転振り終えたドルドーナの足元に千切れた朱が滑りこんできたからだ。どの朱も、槍を振るった高さで両断されている。刀身に蓄えられたドルドーナの熱は、槍を振った遠心力に押し出されるように、目に見える光線となり刀身の先端から放出されたのだ。光線は、朱の外殻を熱線で溶かすように切断し、地面と水平に飛翔した。いま、半径五十メートル以内に心拍を奏でている存在は、ドルドーナ以外にはいなかった。


 猛獣の雄叫びが迫った。朱の死体を踏み潰しながら名刀のように磨かれた大鎌を振りかざして突撃してくる淡紅色を見とめたドルドーナは、躊躇うことなく山のような巨体の足元へ飛び込んだ。巨大な四本の大鎌はドルドーナを狙ってピンポイントに落ちてきたものの、左右に小刻みに軌道を変えるドルドーナを潰せるほどの速さは無い。全速力で細かい歩幅を刻みながら駆け抜けたドルドーナは、四本目の大鎌が地面に穴を開けるよりも速く、巨体の懐に滑り込んでいた。象よりも逞しい八本脚に支えられている胴体を見上げると、左前脚のつけ根へ、まだ刀身の輝く槍を突き立てた。淡紅色の鉄のような外殻が割れ、その下で守られていた筋肉が裂ける。噴出した紫色の返り血で顔を濡らしたドルドーナは、苦虫を嚙み潰したような表情を浮かべていた。


 浅い。くそ、やっぱりまだ――。手応えの薄さを実感するのもつかの間、淡紅色の巨体に槍が押し返された。潰される、肌で感じたドルドーナは、すぐさま巨大な脚の隙間から外に飛び出した。そこで待ち構えていたのは、また別の四本の大鎌だった。


「くそがっ!」


 巨大な脚に挟まれる形になっていたせいで進路が狭かった。左右に逃げられなかったドルドーナは、大鎌を受け止めるしかない。とはいえ、大鎌の動きを止められるほどの力は無かった。咄嗟に一本の大鎌だけ、槍をぶつけてなんとか軌道をずらすことで、小柄なドルドーナだけなら生き残れる空間をこじ開けた。大鎌がブーツの先端を削りながら地面を抉った衝撃で体が宙に浮く。吹き上がった土や小石にむせ返りそうになったが、そんな猶予は微塵も無い。四本の大鎌は地面に突き刺さったまま、地面を引っ掻くように引いてきたからだ。触れるだけで両断できるほどの鋭利さに襲われたドルドーナは、無我夢中で後ろに飛びのいた。ありったけの力で地面を右足で蹴りつけて大鎌からは逃れたものの、逃げた先に待っていたのが三体目の大鎌だった。


 最後は真横から挟まれる。右から二本、左から一本。伏せても避けられない。考えるよりも、槍の刀身に注いだ熱を焦げついた大地に叩きつけるほうが早かった。刀身と大地の接地面に挟まれた熱は、行く先を求めて衝撃波のような圧力放出を生み出した。もはや爆発に等しいエネルギーによってドルドーナの体は曇天に向かって放り出される。同じく吹き飛ばされた小石に頬を裂かれたドルドーナの暗赤色が追いかけたのは、四本目の大鎌だった。


 槍の蒼い柄と銀の大鎌がぶつかった。槍は大鎌に耐える強度を有していたものの、空中で漂っていたせいで踏ん張ることもできなかったドルドーナは、なすすべなく吹き飛ばされた。地面に叩きつけられても止まらなかった体は、〝姫〟が頭上に待つ上り坂まで転がることでようやく慣性を止めてくれた。痙攣した横隔膜に肺が押され、激しく咳き込んだ。びくついた肺ではうまく空気を吸えなかった。全身を押し潰すような圧迫感のなか、舞い上がった塵で結べなくなった焦点が映したのは鎌を振りかぶった朱色であった。


 やけに遅く感じた。おかげで、痺れる腕で持ち上げた槍でも鎌を受け止めることができた。力の入らない腕では鎌の動きを完全には止められない――。


 鎌が防刃ベストの特殊繊維に引っかかった瞬間、連続した破裂音がこだました。なにかが坂の上から滑ってきたことだけは判別できた。それと、鎌の持ち主の頭が穴だらけになったことも。ドルドーナと同じように力の抜けた朱が倒れていく様を眺めていると、上半身を抱きかかえられ誰かになにかを叫ばれた。輪郭はおぼろげだったものの、ヘルメットの顎ひもが切れていることだけは、はっきりと見えた。


「大尉! しっかりしてください! さあ立って! なに甲種三体も相手にしてるんですか! 一人じゃ無理ですよ!」


「ぅあ……おまえ、なんで……〝姫〟を……」


「〝姫〟はまだ大丈夫ですから! それよりも大尉ですよ!」


 この声は少佐の身内か。顔までは覚えていなかったが、なんとなくわかった。肩を担がれ無理やり立たされると、硝煙と汗の匂いが混じる。引っ張られるように坂を登った。背後から唸り声が近づいてきていた。なぜ、こいつは逃げない? そんな疑問が胸の内に湧き上がってくるころには、ようやくドルドーナの意識も鮮明になっていた。引きずられるだけだった両脚に血が通い、おのずと坂を登りきるために脚を運ぶことに専念していた。もう、地響きはすぐ後ろであった。


「四号車! 構わないから撃てぇ!」


 坂を登りきったとき、耳元で青年の兵士がそう叫んだ。わずかな日差しを頭上のなにかに遮られている。戦え。守れ。自分によく似た声が頭の中から語りかけてきていた。ずっとだ。逃げるな。立ち向かえ。ドルドーナが歯を食いしばりながら振り返ったとき、轟音が顔を撫でた。


 音速を超えた百二十五ミリは淡紅色の外殻を突き破ると、そのまま彼方まで突き進んだ。六メートルを超す巨体に一点の大穴を開けたエネルギーは、巨体の図体を浮かせるほどのパワーがあった。紫色の飛沫が飛散させながら坂の下に消える淡紅色には目もくれず、青年の兵士はドルドーナを引っ張る。泥で汚れ、乾いた唇が裂けて血が滲んでいる横顔を見上げたドルドーナは、なぜか胸の奥が締めつけられた。途中、何体に襲われはしたものの、なにかをするまでもなく全て穴だらけになって倒れていった。


 円周陣地にたどり着くと、重なる破裂音と立ちこめる硝煙の内側へ押し込められた。小銃の弾倉を手慣れた手つきで交換し、再び戦地に赴こうとした青年の肩をドルドーナは掴んだ。


「おい、待て! そいつのは全部移してなかったのか!」


 ドルドーナが指差した〝姫〟の背後で佇むだけだったはずの鋼鉄の巨体は、砲塔上部の二十ミリは閃光を放ち、百二十五ミリの砲口からは硝煙が煙草の煙のように昇っている。戦闘が始まる前に間違いなく弾薬は移していたはずだった。おかげで、坂から溢れてくる朱を食い止めてくれてはいるが、こうなることを予期していたのだとすれば、ドルドーナは信用されていなかったことになる。事実ではあったものの、ドルドーナは体内外から圧迫感を押し付けられているような感触がして、それを吐き出したい衝動に悩まされていた。


「いや、だから攻めてくるならそっちだと言ったじゃないですか!」


「だから俺がやるって言った! おまえらは、反対側を守ってれば良かった!」


「は? あんた死ぬ気ですか⁉」


 胸ぐらを掴まれ眼前で浴びせられた怒声に、ドルドーナは言葉を失った。違う。守るためだった。脳髄の言い返せという指令を詰まった声帯は受け入れてくれなかった。違う。いや、違わないか。死なせるつもりはあっても、死ぬつもりはなかった。〝姫〟を守るためなら死なせても構わない。それは目の前の兵士のことであり、ドルドーナ自身でさえ。


「こんなところで死ぬつもりも、死なせるつもりも毛頭ありませんから! 生き残るためには、我々と、あなたたちの協力が絶対必要です! なんでそう、あなたがたはどいつもこいつも意地で戦おうとするんですか……少しは頼ってくださいよ。あなたにも……死んでほしくなんかないのに……」


 青年の顔から目が離せなかった。口を半開きにして、まんまるにした暗赤色の瞳で青年の瞳を凝視してしまった。少しツリ目で、枯れ葉のような黄朽葉色の瞳。まつ毛が焦げている。ドルドーナの視線に気づいたのか、青年は逃げるように黄朽葉の瞳を泳がせると、胸ぐらを掴んでいた右手を緩めた。


「とにかく、少しだけなら休めるはずです。もうじき、近接戦闘になりますから……そうなれば、あなたに頼るしかないので」


 言い終わらないままに青年は立ち上がった。小銃のコッキングを引き、薬室に弾薬が装填されていることを確かめた青年は、チラリとドルドーナを一瞥してから鋼鉄の尻を登っていった。置いていかれた素朴感に包まれだしたドルドーナは、目のやりどころを求めて〝姫〟の大剣に視線をやった。


 ようやく半分といったところだった。




「主砲残四! どうする⁉」


「甲種はあと二体! 二発は絶対残せ!」


「二号車二十ミリ残無し! 五十口径に切り替える!」


「おい! 四号車の方まずいぞ! 数が多すぎる!」


「三号車! 坂に向かって四十ミリ擲弾斉射しろ!」


 圧縮空気が抜ける音が連発したあと、複数の爆発音が連なる。ドルドーナがへたり込んでおよそ五分といったところか。背中を中心に広がっていた圧迫感も多少和らぎ、詰まっていた肺も通りが良くなってきた。周辺どこを見ても誰かがいるのにも関わらず、全員の意識外でドルドーナは座り込んでいた。輝きを失った槍の刃を見上げるドルドーナは、きゅっと唇を結びながら槍を強く握った。


 覚悟をできていないのは自分だけだった。みっともないなとも思えた。ここで戦っている兵士は一人とて諦めていない。生き抜こうとしている。それに比べて自分はどうなのか。勝手に一人で自分を追い込んで、勝手に周りを見放して。やるべきことはわかっている。しかし、やるべきことを果たせるのなら、ほんの少し欲を出しても文句は言われないのではないか。例えば、今日苦楽を共にした男たちと一緒に帰る、とか。


「こちら二号車! ジャムった! 突破される!」


「撃て撃て撃て!」


「突っ込んでくるぞ! ちっ、リロード!」


 金切り声が真横で聞こえたかと思えば、鋼鉄の上に張り付く朱が視界に広がった。鋼鉄の尻の上で仰向けに倒れている兵士が二人。一人は撃っても仕方ない拳銃を乱射し、もう一人は必死になって小銃のマガジンを交換している。朱の鎌が、兵士を切り裂くために振り下ろすほうが速い。


 だが、ドルドーナの槍が朱の脳天を貫くほうがもっと速かった。


「うおわっ! あ、ああ、助かった……」


 朱の亡骸を蹴飛ばしながら、倒れていた兵士に手を伸ばす。二人の兵士は一瞬時間が止まったようにきょとんと顔を見合わせたが、「ありがとう、助かった」と口にしながらドルドーナの手をとった。


「礼は……帰ったらまた聞く」


 ドルドーナは、二人目を起こすときに唇を尖らせながらぽつり呟いた。


「へ? ああ、そうかい? ならまた帰ったら言うよ」


「いいからさっさと弾こめろ」


「もうやってますよ」


 無精髭の生えた中年と、調子に乗ってそうな笑みを浮かべる若造。中年が手早く銃座の五十口径の弾詰まりを直すさまを見届けないままに、ドルドーナはその場から立ち去った。「意外と可愛いっすね」と減らず口が聞こえたが、聞かなかったことにしておいた。


 改めて状況の確認にドルドーナは努める。朱との距離は近い奴で百メートルほどだが、まばらに突っ込んできてくれるおかげで良い的になっている。ほとんどの朱は二百メートルほどの距離で、同族の死体の影に隠れながらこちらの様子を注視しているようだ。坂の朱もじっと覗いてくるだけで、淡紅色の二体を含めて攻めてくる気配は無い。破裂音の聞こえる頻度もめっきり減り、いつしか硝煙だけが立ちこめ、誰かの息切れしか聞こえない静寂が訪れた。


 嵐の前の静けさ。誰かが呟いた。安直だとドルドーナは思う。しきりに視線を泳がしている兵士たち。おそらくこの場に生きているすべての者が、このあとに起こりうることを予感しているであろう。ならばさきほどの安直も的確かもしれない。


「おい、まだ戦えるな?」


 手榴弾の箱をひっくり返している青年に声をかけた。青年は顔を上げたが、相変わらずヘルメットがずれて目元を隠してしまった。ヘルメットのつばを持ち上げた青年は、まばたき一つの後にドルドーナと視線を絡めた。


「……は。まだ、戦えます」


「……そうかい、多分だけど、次で……最後だ」


 なにが、とは言わなかった。言わなくても青年は理解したようで、手榴弾を握った右手がぶるりと震えた。それでも、ぎらついた黄朽葉色の瞳はまだ生を諦めていない獣のようだった。


「ほんとうに、勝てるのですよね?」


 〝姫〟に視線を投げた青年。つられてドルドーナも〝姫〟を眺めた。あと二、三割くらい。これでも早いほうだと思える。それだけ〝姫〟が頑張ってくれているのだろう。帰ったら、たくさん褒めてやらないと。


「俺たちの〝姫〟を信じろ。いつだって答えてくれたさ。俺は〝姫〟を守るだけだ」


「自分は――」


 青年は手榴弾をズボンのポケットにねじ込むと、立ち上がって姿勢を正した。ちょうど同じ高さでお互いの目線が交わる。……真っすぐな目だな。ドルドーナは、らしくもなく高鳴った胸に驚きながらも青年の言葉を待った。


「……自分は、大尉も信じていますから」


「…………ぁ、そ」


 なんなんだこいつは。青年に反感しながらも思わず暗赤色の瞳を逸らしてしまった。高鳴る胸から首元へ熱が駆け上がってくる。青年を見返してやろうとはしたものの、戻そうとした視線は青年を通りすぎ曇天を見上げて――。


 曇天に溶けていく黒煙があった。見つけた瞬間、胸の鳴りは息を潜め、沸騰しかけた熱も瞬時に冷え切る。記憶に残る数少ない青年との会話が蘇った。


「……なあ、見届けたか?」


「……いえ」


「なんで見届けてやらなかった? 身内だったろ?」


「見届けていたら、大尉はここに立っておりませんでした。少佐の決めたことです。追悼はあとでもできます。それよりも、生き残ると決めましたから。死ぬ覚悟ではなく、生きる覚悟を」


 青年が少しだけ霞んで見えた。「そっか」とだけ返したドルドーナは、直後に湧き上がった金切り声に耳を向けた。始めは一つだけだった金切り声は、連鎖するように周囲に拡散していく。大きさもさることながら、やはり虫に囲まれることは居心地の良いものではなかった。吐息を一つ漏らした青年は、腰を落として手榴弾をかき集めだした。青年を見下ろした後、踵を返したドルドーナは一つだけ聞いておきたいことを思いつき、顔は向けずに青年に問うた。


「なあ、名前、教えてくれない?」


「は? ……自分はイエルト、であります」


「覚えとくよ。あと、俺は――」


「知っていますよ。ドルドーナ・ユーリリー大尉」


「あっそ。じゃあ、精々しぶとく生きてくれ」


「は。大尉もどうか健やかに」



 終わりはいつだって急に始まる。



 最初に引き裂かれたのは無精髭の中年だった。全方位すべてを守りきることなどドルドーナには荷が重すぎた。銃座の五十口径しか弾薬が残っておらず、最も火力の低いところが狙われたわけだ。五十口径の残弾が無くなった瞬間、嬉々として朱は群がってきた。慌てて手榴弾を投げたものの間に合うはずもなく。今では真っ赤に染まった五十口径を泣き叫びそうな顔で若造が乱射していた。タイミングが悪かった。装填の時間を稼ぐためにドルドーナは走り回ったが、ほぼ同時に発砲を開始した以上、弾切れになるのも同時になってしまった。二ヶ所ならいけた。三ヶ所はもう、厳しいとしか言い訳するしかなかった。言い訳している間にも、誰かの悲鳴が食いつぶされた。


「くそぉ! ふざけるなあああああああああああ」


「撃てえぇあああああああああああああああああ」


 破裂音、爆裂音、号哭、金切り声。血が跳ねる音と内臓が撒ける音。硝煙に火薬と人間の臭いが混じる。ドルドーナはなにも考えないことにした。ただひたすらに朱を屠ることだけに集中した。もう黒い地面は見えない。朱色で埋め尽くされてしまったから。ほとんどの朱はドルドーナには目もくれず狂ったように兵士らを貪った。すべての二十ミリが沈黙しても、備え付けの五十口径は火を吹き続けていた。小銃だってあった。手榴弾もひたすらに投げ続けられた。それでも一人、また一人。同族の屍を盾に肉薄してくる集団に対しては、あまりにも非力だったのかもしれない。もはやどの朱が動いているかも判別できないほどに群がっていた。いまにも圧し潰してきそうな勢いだったが、鋼鉄の前に積み重なった屍のおかげで朱は進路を無くし、屍を乗り越えてきた朱を各個撃破できる状況で耐えることができていた。理不尽な数の暴力のおかげで皮肉にも生き延びている。ドルドーナは目が合った朱の頭を片っ端から突き刺し、切り裂き続けた。屠った数なんて数えられないほどに。紫と混じった汗が顎から滴り落ち、紫を吸い取っていく槍は鈍重に感じる。この血の匂いは、赤と紫どちらから漂ってくるのか。徐々に生存空間が狭まってくるせいで思うように槍を振るえない。朱の鎌より長いはずのリーチを全く生かせなくなってきたころ、誰かの雄叫びを聞いた。


「十二時の方向甲種接近!」


「四号車早く撃て!」


「こちら四号車! 死体に砲塔が引っかかっている! 誰か援護を!」


「三号車は!」


「もう四号車しか残ってないぞ!」


 いまはもうわからないが坂の下からだろう、淡紅色の背中が見える。赤紫色に変色した鋼鉄の百二十五ミリの砲口からは若干左にずれた位置だ。砲塔を旋回させようと油圧モーターは唸るが、朱にがっちり固定された砲身は震えるだけで向きを変えてはくれない。どんどん淡紅色の山は大きくなってきている。火照った頬を引きつらせたドルドーナは知ったばかりの名前を叫んだ。


「イエルト! カバーしてくれ!」


「り、了解!」


 イエルトの声と小銃のコッキング音は背後から聞こえたが、ドルドーナは決して振り返ることなく駆けだしていた。頭上を飛び交う銃弾など意にも介さずに鋼鉄の砲塔へ飛び乗った。車体前面に朱が頭を被せるようにして事切れている。その頭部に引っかかった砲身。油圧モーターのトルクなら押せるはずなのに、車体左側面で重なっている複数の朱が、砲身の邪魔をしている頭部を固定してしまっていた。こいつらが壁の役目を果たしているのか。ならとっとと引っかかった頭部を切り落とせば――。


「大尉!」


 イエルトの切羽詰まった叫びと風切り音は同時にドルドーナの右耳へ届いた。膝と腰を折り、砲塔の二十ミリよりも姿勢を低くしたとき、目と鼻の先にあった二十ミリ機関砲は鎌に抉られて銃身をバラバラに砕かれた。二十ミリの発射機構が空を舞い、固定していたボルトが顔に跳ね返る。見上げて睨んだすぐそこに、同族の死体の影から顔を覗かせる鎌の持ち主を見つけたドルドーナは、間髪入れずに右手に握っていた槍で突き刺した。ざまあみろと笑えたのは一瞬だった。あっけなく力尽きたその背中を乗り越えてきた新たな朱は、性懲りもなく笑っているように見えて、臓腑が氷水に浸ったような悪寒にドルドーナは喉を詰めた。槍を引き抜くよりもそいつの鎌のほうが速いのは明白だった。


 槍を手放そうとしたとき、高レートの破裂音が鎌の動きを阻害させた。関節にめり込んだ七・六二ミリは振りかぶっていた鎌をそのまま迷子にさせ、再び鳴り響いた破裂音は朱の頭部を破壊した。目を見開いたまま振り返ったドルドーナは、小銃の弾倉を交換していたイエルトから「はやく!」と急かされ、慌てて視線を戻した。淡紅色の地鳴りは鋼鉄を揺らせるほどにまで迫っていた。


 砲塔のハッチに向かって「耳を塞げ!」と叫ぶ。砲手に聞こえたのかはわからなかったが、気にしている猶予は無い。横隔膜がせり上がるまで一気に呼気を吐き出したドルドーナは、空いた左手を砲身と死体の頭の隙間に滑り込ませた。眼球の奥のあたりからうなじを通り、肩と腕を経由して高温高圧の蒸気のような熱気が左手に集中したとき、ドルドーナは目を瞑った。


 蒸気を密閉空間で加圧していた容器が裂けたような噴出が左手のひらで起きた。火薬ではなく大規模な水素爆発に似た衝撃音。気圧の急激な変化で鼓膜は一時的に機能を失い、反動で左腕は千切れそうなほどに跳ね返る。ドルドーナの体は踏ん張りきれずに後ろに飛ばされたが、鋼鉄の前面を埋めていた朱は生死関係なく空気が勢いよく抜ける風船のようにすべて吹き飛んだ。左斜めに軋みながら傾いた鋼鉄の車体と右側面に向かって逆回転した百二十五ミリの砲身は、ドルドーナがイエルトに受け止められるころ、吹き飛ばされた朱色の雨を押しのけながら突っ込んでくる淡紅色に砲口を向けていた。音の世界が戻ってきたドルドーナは、腹に響く轟音によって再び目を回した。


 焦点が揺らぐ暗赤色の瞳では認識できなかった。代わりに、頭頂部近くに生えるようにでていた赤毛の犬のような耳が、人間よりも優れた聴覚機能を発揮して周囲の気配を伝えてくれる。耳のすぐそばで呼吸を殺されたような声にならない悲鳴。こだました轟音の残音。巨体が地に伏した音。そして、機械を叩き割ったような騒音と電気が断続的に跳ね回るような音。最後に響いたのは誰かの叫びだった。


「四号車無力化!」


 誰かが声で形どった現実で肌がひんやり冷たくなった。背中だけは防刃ベストごしでも微かに温もりを感じ取れる。それでも体の芯は凍っていく。麻痺した左手の存在を確かめるべく、腹に回されていた別の左手に重ねた。ドルドーナよりも少しだけ長い指の間に左指を通し、入れられるだけの力で左手を握ってみる。じゃりじゃりと擦れる砂の感触と、指先を抱きしめられる感覚。後ろからぐっと引き寄せられると「ドルドーナ大尉」と耳元に息がかかった。ドルドーナがまばたきする間に、吐息も背中の温もりも、左手さえ遠のいた。


「大尉、ここが正念場です。最後の百二十五ミリは潰れました。甲種はまだ一匹残っています。甲種を相手にできるのは大尉しかいない。きっとすぐに来ます。ほんとうに少しだけですが、呼吸を整えていてください」


 囁くように語りかけてくるイエルトは、ドルドーナの正面に立つと、屈んで目線を合わせてくれた。イエルトの背後で淡紅色に潰され、大鎌が砲塔と車体を貫通し、白煙を吹かせる鋼鉄が見える。そしてイエルト。目を細めて黒く汚れた口角を上げるその表情は、笑みとは思えなかった。なにかを悟ったような寂しい顔だった。


「死なないでくれ……」


 誰かにすがりついたのはいつぶりだろうか。震える唇を跨ぐ声も震えた。わずかばかりにイエルトの焦げたまつ毛も揺れる。すると、感触を知っている左手が頭にポンと置かれた。撫でられるわけではなく、ただただ犬耳の間に触れていた。


「大尉、頼りにしていますから。あと、俺は大尉の色、嫌いではないですよ」


「え、おい、ま」


 もうドルドーナの声は、イエルトが引いた引き金の銃声にかき消されて届くことはなかった。




 ようやく白金を割る赤が真っ黒な地面に触れるかというとき、すでに動けるものは半分以下になっていた。鋼鉄は破壊されたか残弾がなくなったかですべて無力化。いまでは防壁代わりにしていたものの、いかんせん高さが足りない。むしろ、鋼鉄の上で朽ちている朱のほうが壁になってくれていた。事実、鋼鉄の上で重なる同族を乗り越えられなくなった朱は、まず行く手を塞ぐ屍を引きずり降ろしてから飛び込んできている。包囲されていても、侵入経路が限られた防衛戦においては圧倒的な物量差でも五分五分といったところか。疲労と弾薬の概念を無視すればの話だが。小銃を構えた兵士は動ける兵士のさらに半分だけであった。


 進行が止まった。死体が動かなくなり、生きている個体は姿を見せなくなった。死体の山で周囲の様子はわからなかったが、相変わらず金切り声は四方八方から聞こえてくる。何事かと顔を見合わせる兵士らは、目を見開き、頬を引きつらせているものが大半だ。なにかを仕掛けてくる。ここに立っているものの共通認識であるだろう。朱は手詰まりになると動きを止め、なにかを待つことが多い。いままではそうではなかった。特に今日に限っての話。そう、今日の話なのだ。散り散りになったものたちは生きて帰れたのだろうか。そもそも帰るところは無事なのか。今頃、防衛ラインはどうなっている?


 そこまで思慮を巡らせたドルドーナは、考えても無駄、と自分にそっくりな声が内から響いてきていることに気づいた。確かにそうかもしれない。どうせ次で終わる。力は残っていない。どんなにイエルトが時間を稼いでも、五分十分では昨日から消耗し続けた力は回復しないのだから。


 イエルトをまぶたの裏に浮かべたとき、自然と両の暗赤色はその姿を求めて彷徨った。戦友の亡骸を漁っているイエルト。袖を赤黒く染めながら血濡れた手榴弾と予備の七・六二ミリの弾倉手にしている。ヘルメットが目元深くまで下がっているせいで表情ははかれない。イエルト以外の兵士は立ち尽くしているものが一人と、座り込んでいるものが三人。あとは半分になった死体が転がっているだけであった。


 ドルドーナは次で仕留めにくるであろう朱の行動はあらかた予想できていた。むしろ、よく冷静に考えられているなとも思っていた。朱は、戦略の概念という迷惑な産物を手にしているのは間違いない。とはいえ、最終的には突撃以外はしてきていない。タイミングを合わせているだけだ。数の暴力という点では正解ではある。しかし、朱同士で意思疎通はできる言葉のようなものを朱が使えたとして、なぜ今日、いきなり使いこなせた。朱は進化しているのかもしれないが、いきなり全個体が同時に進化することはありえるのだろうか。そもそも意思疎通がとれるのなら、もっと細かい連携がとれそうなものだが……。


「……司令塔がいる?」


 ぽつりと呟いたドルドーナの声は届いたのか、イエルトがヘルメットのつばを持ち上げながらゆっくりと顔を上げた。眉をしかめながら左手で口元を覆うドルドーナに、イエルトは首をかしげた。


「大尉? なにかおっしゃいましたか?」


「あ? いや、すまん。独り言だ。少しばかり、今日の敗因を考えていてな」


「敗因……ですか」


「今日の朱の動き変だと思わなかったか? 昨日まで馬鹿みたいに突撃しかしてこなかったのに、いまだってそうだ。息を潜めて待っているだろ? すぐそこで俺たちがへばっているくせに、だ。いつもなら我先にと突っ込んできていただろ?」


「は……たしかに、大尉のおっしゃる通りではありますが……これまでも、待ち伏せ自体は経験がありますし……」


「軍団規模で全個体が待ち伏せなんてあったか? 俺はなかった。しかも霧に紛れてだぞ」


「……」


 切れたあごひもを右手で転がしながら何度もまばたきをしていたイエルトは、やがて唇を噛みながらドルドーナを真っすぐ見据えた。「その……」と躊躇う様子でイエルトは口を開いた。


「あのとき、声が聞こえたような気が……ずっと、していまして」


「声?」


「は。奇襲を受ける直前です。無線がなにかを拾いまして……聞き取ることはできませんでしたが、なんというか……女性の声のような……」


 オカルト話はやめてくれとも思ったドルドーナだったが、やけに聞き覚えのある内容に眉をひそめた。そう、それこそ奇襲を受ける直前……。


『あら? いま、なんとおっしゃいましたか?』


 〝姫〟もあのとき――。


 記憶を覗いていたせいで、ドルドーナは気づかなかった。次に目を動かしたとき、最初にとらえたのは口を開けて身構えるイエルトだった。震える黄朽葉色の瞳は、ドルドーナの頭上を一心に見上げていた。


 振り返ったとき、曇天の下を伸びる四本の大鎌に目を奪われた。わずかな陽光を煌めかに反射させるそれは名刀に相応しい。明らかに近かった。朱の死体の山のすぐ向こうで伸びているようにしか見えなかった。イエルトが息を呑みこんだとき、ドルドーナは槍を杖代わりにして鋼鉄よりも重くなった腰を浮かした。槍に体重を預けながら小鹿のように震える両膝を伸ばす。いつの間に近づかれた? 心当たりを探ろうと頭を揺らしたとき、曇天から大鎌は振り下ろされた。


 四本の大鎌は、朱の死体をバターのように切断し、砲塔で倒れていた首のない兵士を虫のように潰すと、そのまま鋼鉄にたどり着いた。金属が擦れる不愉快な音色と残っていた電気が花火を撒き散らす音。歪みすぎたサスペンションが破断する音が聞こえたとき、大鎌の先端は焦げた地面に刺さっていた。動力は停止していたはずなのに、鋼鉄の尻はゆっくりと遠ざかっていく。屍の壁は転がるように崩れていき、やがて鋼鉄一台分、つまり朱一体分のなだらかな道が完成した。巨大な淡紅色の両脇で、無限の黒玉がこちらをじっと見ている。痙攣する瞼ではまばたきはできない。急速に乾いていく暗赤色の瞳を〝姫〟にぶつける勢いで振り向いたドルドーナは、黒い大地に浸み込んでいく一筋の赤を見とめた。纏わりついてくる吹雪のような悪寒は、頸椎をへし折るように絞めてきていた。


 これが物語だったら、絶対に助かるのに。


 歯を食いしばりながら引き金を絞るイエルトは、閃光のたびにはっきりと表情を見せてくれた。やけに破裂音の感覚が長いし、放り出された空薬莢は無重力かのように宙を漂っている。雪崩のような朱も、破裂する兵士の脳髄も、なにもかもが鮮明でコマ送りの映画のよう。呼吸は現在に縛られ、過去も未来も、赤と朱以外はなにも映らなかった。




 こんなところで終わってたまるか。まだ、生ききっていない。まだ、生きてほしい。




「うあああああああああああああああああああああああ!」


 過去に出したことのない声量の雄叫びは、全身を巡る血液を加速させた。暗赤色の瞳が映す世界も早送りにさせる。イエルトの首根っこを掴んで足元に力任せに転がすと、一杯まで曇天に突き上げた槍を全力で振り下ろした。


 刀身からの凄まじい圧力放出は、いままさに力尽きた兵士の息の根を止め、血液が抜けきった兵士らの亡骸ごと雪崩れ込んできた朱色を逆流させた。渦巻く空気の巨大な塊は、真っ赤な血と黒い土を巻き上げながら突き進み、巻き込まれた朱は足掻くこともできずに吹き飛ばされる。激しすぎる気圧の変化に、朱はいたるところから紫を噴出させ中身を口から吐き出しながら重力に逆らう。ドルドーナも脳の中心でなにかが弾けるような痛みとともに左の犬耳から音が搔き消されたが、それに構うこともなく駆けだしていた。残った右耳から自分の名前が聞こえたような気がしたものの、すべての五感は視界中央に佇む淡紅色に注がれていた。一直線に飛び込もうとしたドルドーナの前に衝撃波を免れた朱が横やりを入れてくる。自分でもよくわからない叫びを上げながら、殴るように槍で朱の頭部を粉砕してやった。しかし、気づいたときにはどこからか伸びてきた鎌の先端が左目のまつ毛を捉えていて。音に頼っていたドルドーナは、左から接近していた朱に反応できなかった。だから、後ろから引っ張られたとき、イエルトが左肩から右脇腹を引き裂かれたことも理解できなかった。


 真っ赤な鮮血が左目を潤わせ、鉄が口腔内から肺と嗅覚を満たした。抱きかかえようとしたのにイエルトは地面に仰向けに落ち、あごひもが切れていたヘルメットはどこかへ転がっていく。頬が緩んだイエルトと視線を絡ませたとき、一際大きな鼓動が全身を震わせた。


 極限にまで絞められた声帯では空気の振動は生まれなかった。がむしゃらに目と鼻の先で鎌を振り上げようとしていた朱に槍を突き立てた。視界の両隅から朱が浸食してきていたが、真っ赤な視界では気にもならなかった。ただただ、踏み込んだ右足で、まだ生きている実感を惜しみなく潰すように押し込んだ。


 右の足裏が裂けるように痺れると、後頭部に裂くような痛みを感じたが、そのかわりに体は浮遊感を得た。一ミリも淡紅色から目を離さなかった。いつもは見上げている淡紅色が、いまはドルドーナを見上げている。顔を隠すように四本の大鎌を構えた淡紅色に対し、両手でしっかりと槍を握ったドルドーナは、すべてを槍に注いだ。もう槍を振ることしか頭では考えられなかったが、槍は望みを叶えるように熱く呼応していた。槍に意志が芽生えたかのごとく、槍に引っ張られるように両腕を振るった。白銀に輝いた刀身は、名刀のような大鎌を棒切れのように三本破壊した。砕けた大鎌の海に飛び込んだドルドーナは、体のあちこちに切り傷を刻みながら淡紅色の脳天に槍を突き立てた。硬い外殻は脳にたどり着く前に槍の刀身を食い止める。皮がめくれた両手には、槍を押す力はもう無い。動きを止めたドルドーナを笑うように唸った淡紅色に、ドルドーナはほくそ笑んでいた。


「よう、脳が破裂する感覚って、どんな気分だ?」


 言葉を理解したのか淡紅色の唸り声が止まった。ドルドーナは、感情を殺してから槍を捻った。


 槍の先端から圧力放出が起こったとき、頭の奥で破裂音を聞いた。甲種の頭が内側からめくれ、槍の刀身は粉々に散る。圧力放出に顔面を殴られた衝撃で体は吹き飛ばされ、世界が回った。ぬるりとした感覚にへそのあたりを舐められる。たった一本だけ破壊できなかった大鎌と、見慣れた革のブーツがやけに遠く感じたとき、ドルドーナの意識も遠のいていった。






 初めて会ったときは、ボロ布が肌に張り付くくらい汗ばんだ真夏の日だった。水分を求める喉に唾液まで搾り取られた舌が痛かった。雑草すらも朽ちかけ、割れ始めた地面の熱気にむせ返った。太陽はさんさんと照りつけてくるのに、徐々に目の前が闇で狭まっていたときだった。鉄格子のような塀の向こうから声をかけられたのは。


「あなた、大丈夫かしら? こんなところでなにをしておられますの?」


 真っ白な日傘をさした純白のワンピースの少女。大きな狐耳と大きな尻尾。くりくりの大きな翡翠の瞳は太陽よりも眩しかった。天使のように思えた。天使なら助けてくれると思っていた。だから骨と皮だけになった擦り傷だらけの右腕を伸ばして、擦れきった喉で必死に声を絞り出した。


「み、みず……くだ、さ、い」


 この日、ドルドーナの運命は変わった。記録的な猛暑日が続き、元々満足な配給も支給されていなかった孤児院では水の一滴さえ奪い合いになっていた。孤児院の数に対して戦争孤児が多すぎたのだ。無理もない話だ。数年でいくつもの国が滅び、たくさんの大人たちが死んでいったのだから。町で見かける人間は、やつれた女か薄汚い子供ばかり。しかも敵はもうすぐそこまで来ていると、シスターたちがひそひそ話しているのを小耳に挟んだ。お金に余裕のある一家はこぞって国外脱出をしているのだと。配給が少ないのはもう見捨てられたからだと。朝を迎えるたびに表情が暗くなっていくシスターを見ていると、ドルドーナはどうして逃げないのだろうと疑問に思っていた。ドルドーナはずっと逃げてきながら生きてきた。逃げることこそが使命であるかのごとく。


 ドルドーナの故郷は戦争が始まって最初の月に喰われてしまった。そのときに父親を亡くした。以来、母親との避難生活が続いたものの、なにもかもがうまくいかなかった。避難先を間違えた、と母親が漏らしていたことはよく覚えている。故郷から逃げ出すときに避難先を考えている余地なんて無かったことは、幼いドルドーナにもなんとなく理解はできていたが。歩けなくなるくらい怖かった。虫なんて見ればいまでも鳥肌が立つ。ようやく軍に拾われて知らない国に避難できたときは心底安心した。だが、そこで待っていたのはドルドーナにとっては初めて受ける人間の醜さであった。


 人間至上主義。薄汚い獣に人権は与えることなかれ。獣耳は駆逐すべし。


 もし、ドルドーナの故郷と最も険悪な関係だった国に避難せず、中立派の国に避難できていたら。少なくとも母親は死なずに済んだとは思える。


 どうして、人間とは違う耳と人間には無い尻尾があるだけで殴られるのか。全く意味不明だった。聞けば大昔の戦争のせいと母親は潰された右目を隠しながら微笑んでくれた。わからなかった。そんな百年以上も前の話のことなんて。獣姿の避難民がドルドーナと母親だけだったのもまずかった。家を失い、パンを買う財産すら燃えた他の避難民にとっては、このうえない獲物だったわけだ。不安や鬱憤を晴らすために攻撃される日々。そのたびにドルドーナを庇って傷を増やしていく母親。半年もそんな生活が続けば、こんな国燃えたら良いのに、とだけ考えるようになっていた。もちろん、その願いはすぐに叶った。数少ない願いが叶ったとき、ドルドーナは目を輝かせながらその景色を眺めた。虫が共食いをしている情景は、なんとも言えないほど滑稽だった。走って逃げるとき、両脚は雲の上を走るような信じられない軽さを感じた。  


 そんな高揚感は三十分も続かなかった。全身に傷を負い、ドルドーナばかり優先した母親は極度の栄養失調で、走り続けることなど不可能に決まっている。脳味噌を啜られる母親の前では、もう立ち上がることもできなくなった。呼吸の仕方もわからなくなったとき、ドルドーナは一人の軍人に救われることになる。えらく筋肉質な体格で、浅黒い男だった。自慢の左腕はあっけなくちぎられていたが、それでもドルドーナを地獄から連れ出してくれた。


 二回目となった避難生活では、死んだ母親の代わりに、左腕を無くしたせいで後方送りになった男が面倒を見てくれた。面倒を見るといっても、次の避難先を見つけるまでの間ではあった。男は、他の子供よりも明らかに瘦せ細ったドルドーナを見て全て察してくれた。最初に到着した避難先は男が蹴った。どうせ内地に戻るから、そこまでは付き合ってやる。なに、俺は義勇軍だから家は超遠いからな。ガハハハッと大声で笑う姿が印象に残っている。赤色の十字マークを貼りつけた大きくて鉄臭いトラックに揺られ、初めてのテントを設営してキャンプをする日々。短かったが、この男のおかげでドルドーナは人間と話せるようになった。強面の男の隣なら、見下した目線はあっても罵倒も暴力もありえない。温かいスープは飲めたし、あとから思えば避難生活の中では一番恵まれた生活を送れていた。避難先を見つけるころにはドルドーナも少しは笑えるようになれた。笑うときだけは大声になるのは男の影響かもしれない。


 正直、このまま男に拾われたかった。別れるとき、泣いてごねてはみたが男は頑なに頷いてはくれなかった。なんでも、奥さんが獣嫌いだと。左腕の原因がおまえだとわかれば、きっとよくない仕打ちを受けるから、と。この国なら、共存できるからずっと生きやすいはずだ。だから泣くな。もし、俺様に恩義を感じるなら、べっぴんさんになって、晩酌に付き合ってくれ。最後にポンと頭に置かれたとっても大きくて太い右手が名残惜しかった。


 三回目の避難生活。男のおかげで虫からは遠く離れられたし、ここは獣耳の子供もたくさん暮らしている。ようやく解放されるのだと、そう安堵していた。


 だが、ドルドーナを待っていたのは、やはり外見からくる差別であった。ここでの差別は獣耳でも尻尾でもなく、母親から受け継いだ柘榴色の髪と尻尾だった。


 子供は陰湿だ。たとえパンを奪われてもシスターは気づかない。服で隠れるところばかり蹴られたから、痣ができてもシスターは気づかない。痣に気づいたシスターもいたが、すぐさま階段で転んでいたと周りから生まれた嘘にドルドーナは反発できなかった。なにも言えないことが歯痒い。確かに赤色だけど、あの朱色とは違う。そう喚いても石を投げられてお終い。なにもできなかった。一人ではなにも。これまで母親や男に頼りっぱなしだった少女には、頭で考えてもなにひとつとして思い浮かばなかった。


 だからあの夏の日、水を奪われたドルドーナは乾きに耐えかねて孤児院から逃げようとした。行くあてなんてなかったけど、ここよりは外のほうがめっぽう輝いて見えたから。しかし、脱水症状が進む少女には孤児院の塀は高すぎた。もう戻ってシスターに助けを求める体力も残っていない。膝が折れ、まぶたが落ちかけたとき、ドルドーナは天使に出会ったのだった。




「そんなに急がなくても、お水は逃げませんのよ?」


 天使の肩にかかっていた水筒を受け取ったとき、貪るように口に運んだ。両手に収まるくらいの小さな水筒だったせいで、ものの一口で全て飲み込んでいた。喉が潤いに歓喜し、空っぽの胃が突然の来訪者に跳ね上がる。急に額から汗が吹き出し、少し景色の輪郭がはっきりしてきたころ、桃色で円柱の軽くなった水筒を見たドルドーナは血の気を引かせた。


「……ご、ごめん、なさい」


「あら? どうして……謝るのかしら?」


「ぜんぶ、のん、じゃった」


 目をぱちくりさせながら首を傾げる天使。これまで受けてきた仕打ちが脳裏を埋めているドルドーナは、大罪を犯したのだという自負があった。


「おみず、きちょう……なのに……」


 また目をぱちくりさせた天使は、納得したように目を細めると真っ白な日傘をくるくると手の中で回し始めた。


「大丈夫ですの。今日はもう帰るところですから。わたくしはお家でいただきますから、そこまでお気になさらなくても大丈夫ですの。それに、もうすぐ水道のほうも復旧するとのことですのよ」


 なんだかふわふわしている女の子。おっとりした口調と丁寧な言葉遣い。きっと、いや確実にドルドーナとは正反対のお嬢様。それが第一印象であった。孤児院の塀を挟んでいるように、別世界の住人なのだろう。なんだか胸の奥がチクチクしてきた感触に耐えられなくなったドルドーナは、また言葉がわからなくなり衝動のままに駆けだしてしまった。後ろから聞こえた天使の声は無視して孤児院に駆け込んだ。肩で息を吐きながら自分を見下ろしたドルドーナは、手に持っていた桃色の水筒に気づいて絶句した。




 それから三日間、窓から塀の外を監視してみたが天使の姿は見つけられなかった。水筒は隠しているけど、もし他の子に見つかればどうなるかわからない。もし、彼女の親が怒鳴り込んで来たらどうしよう。そんなことばかり考えて寝つけない夜を繰り返した。他人の物を奪うのは虫けらだ。虫にはなりたくない。早く返さないと。


 四日目、見上げられないほど眩しいお昼前、探していた真っ白な日傘を見つけたドルドーナは、隠していた水筒を引っ張りだして急いで塀まで走った。初めて会った塀のところで、彼女は日傘をくるくる回しながら青空を見上げていた。


「あ、あの!」


 ドルドーナは自分の声に驚いて思わず口元を手で隠した。大きな声を出したのはいつぶりだろうか。喉のあたりがヒリヒリする。まごまごしていると、今日も純白のワンピース姿の天使は、ゆっくりと翡翠の瞳を空から運んできた。目があった途端、優しげに口角を上げたものだから、ドルドーナは頭上の空のような眩しさを感じて直視しないよう目を逸らした。


「ごきげんよう。今日も暑いですわね」


「え、えっと、ご、ごきげん……よう? その、これ……」


「あら、水筒」


 天使の顔は見られなかった。顔を伏せたまま、塀の錆びれた鉄柵を意識しながら水筒を差し出した。こういうとき、謝らなければならないことは知っている。ただ、もう謝罪の言葉を発することに嫌気がさしていた。毎日、毎時間、何度も繰り返してきた単語は、本当に必要なときに限って喉を通ってはくれないのだ。


 すっと、水筒の重みが消えた。指先からひんやりした鉄のような感触が消え失せると、ドルドーナの凝り固まっていた両肩からも重みは落ちた。これで、やっと返せた。はやく、走ってでもここから去ろう。手を引っ込めようとしたドルドーナだったが、指先を撫でたひんやりとした感触に全身の筋肉を強張らせ、目を見開きながら感触の正体を確かめた。


 葉色の水筒だった。桃色の水筒は返したはずなのに、なぜか葉色の水筒を握っている。空ではない重み。頭での理解は一切追いつかなかったドルドーナは、答えを求めて翡翠の瞳を探し求めた。天使は、初めて会ったときと同じように首をかしげているだけだった。


「え? これ、は?」


「これはと聞かれましても、水筒ですわ」


「いや、それはそう、だろうけど……そうじゃなくて、えっと、これ、なに?」


「あら? 不思議なお方ですわね。お水、いりませんでしたか?」


「へ?」


 わからない。水筒を受け取った。中には水が満たされている。そこまではわかる。ただ、なぜこれを渡してきたのか。盗んだ物を返そうとしただけなのに。水筒を返して二度と会わないようにしたかっただけなのに。この娘は一体なにを考えて――。


「困っているのなら、助け合う。それだけのことでしてよ。あなた、暑さにひどくお悩みのご様子でしたから。ほら、今日も良い天気ですこと」


 日傘の影から見上げた天使につられてドルドーナも空を見上げた。雲一つない青空と肌を焦がす太陽。いつもより眩しく感じないのは、より眩しいものを見たからかもしれない。


「だから、遠慮なさらなくても良いのですよ」


 太陽で焦げた顔は内側からさらに熱くなった。だが別段、不快な熱さでもなかった。むしろ、熱々の表面に比べて芯は凍っていたドルドーナは、あの筋肉隆々の男以来、忘れていたなにかを思い出したような気がした。




 天使はお昼前か夕方にちょくちょく姿を見せた。会うたびに水を飲ませてくれた。十分か二十分ほど他愛ない会話を交わしてから別れる。ドルドーナは、決まった時間に塀の外を眺めるのが日課になっていた。なんでも、天使は習い事の帰り道に寄り道をしているのだと言う。帰っても勉強ばかりだから、ちょっとだけサボっているらしい。そのサボり相手が孤児院の赤い子供でも大丈夫なのかと会うたびに不安がよぎるが、孤児院で構ってくれるのはシスターくらいのドルドーナにとっては唯一の楽しみになっていた。


 他の餓鬼に見られたら彼女にも迷惑がかかるかもしれない。それでも、孤児院の裏にある茂みの陰に隠れた鉄の塀は、ドルドーナの精神衛生上必要な空間である。視線を感じることには敏感になっていたこともあり、知らない間に忍び足は得意になっていた。人目を避けての天使のと密会がこなれてきたころ、天使からの持ち掛けられた提案にドルドーナは戸惑っていた。


「ここから外に遊びに行く……? い、いまから?」


「そうですの。今日は一日お休みでして。なのに、お家でゴロゴロしようものならお手伝いやら宿題やら……わたくしもたまにはお暇させてほしいものですわ。どうしてあそこまでお勉強ばかりさせるのかしら!」


 プンプンと頬を膨らませる天使はやけに新鮮だとドルドーナは見惚れた。普段お淑やかな天使も怒ったりすることがあるのだと思うと、雲の上の存在が地上に舞い降りてきてくれたような感覚になる。天使に触れることは二人の間で錆びている鉄柵のせいで叶わないが、それでも沸いた親近感をちょっぴりだけ胸に溜め込んでおくことにした。


「その……いまから外には出られないよ……ここから出られるのは週一の散歩だけだし……それに、一人で出るのはシスターが許してくれないよ……」


 もちろん、ドルドーナだってここから出ていきたい。天使についていきたい気持ちはあった。しかし、現実はいつだって都合が悪くなるようにできている。そんなわかりやすい現実問題を伝えるとさすがに天使も引いてくれるかと考えていたが、どうやらこの柔らかそうなピンクの唇を尖らしている天使でさえも、ドルドーナの都合良くはできていないようであった。


「あら? 次に皆様が集合なさるのはいつかしら?」


「え? 皆様……っていうのは孤児院の他の子ってこと? シスターから用が無ければ、夕飯までは自由行動だけど……」


「では、お夕飯までに帰ればよろしくて?」


「……なにがよろしいのかわかんないけど……。え? 黙って外に出るってこと? い、嫌だよ……怒られる」


「わたくしがうまいことやりますから!」


 意外と天使は変な子なのかもしれない。ムフッと小さな鼻を膨らませる彼女から少しずつ天使の清らかなイメージが崩れていくドルドーナは、これ以上はやめてくれと祈るように物理的な障害を彼女に伝えた。


「そ、それに門は鍵が掛かっているし……こっそり外に出るのは無理だよ……」


「門から行き来なさらなくても、ここからこっそりお出になれば誰もお気づきにはなりませんこと?」


「へ? こ、ここ? これを乗り越えるの……?」


 膝上あたりまでは赤煉瓦。そこからは天に向かって真っすぐにそびえ立つ錆びた鉄柵。自分の背の倍はありそうな高さを見上げたドルドーナは「無理……」とだけこぼした。足を掛けれそうなところは無いことも無いが、まるで槍のような先端の鋭利さに身震いしてしまう。一人で顔を青くしているドルドーナに、天使のような彼女は目をぱちくりさせていた。


「別に上れとは提案しておりませんわ。隙間を通ってこちらにいらしてほしいですのよ?」


「……ん?」


 はやくやれと言いたげに首をかしげる彼女に、一抹の不安をドルドーナは抱いた。隙間? 腕は通るが腕だけだ。頭や胴体は絶対に通らない。もしかして壊れている箇所があるのかとも思ったが、見渡すかぎりではそんな雰囲気は感じないし天使も目の前から動こうとしない。確かに自分は痩せているなとは自覚はあるけども、こんな狭いところを通れるほど貧相に見えていたのだろうか。さすがに頬を引きつらせたドルドーナは天使と同じ角度で首をかしげた。


「……狭くて通れないよ……だから無理だって……」


「あら? 狭いのはわかっておりますわ。だから、通れるまで広げたらよろしいのでは?」


 鉄だと思っていた柵の真の材質は紙であり天使はそれを見抜いている……なんという冗談もなく、右手で握った鉄柵はひんやりしていてザラザラと錆びている。もちろん、まごうことなき鉄でできており、どんな角度で力をこめてみたところでピクリとも動かない。鉄の存在を知らないわけではないはずなのに、天使はなにを考えているのかわからなかった。


「あ、そういうことでしたのね。あなた、力の使い方をまだご存じではないのですわね。それならそうとおっしゃっていただければ……」


 力? 天使の腕を見たドルドーナが頭の中を整理していると、華奢な左腕が伸びてきた。いつも日傘をさしているおかげか、ワンピースからは露出している肩から先は一切の日焼けが見受けられないほど白く透き通っている。一年ほど日にあたらない生活をしたときは白さだけならこのくらいの経験はあったが、そのときにはありえなかった肌の清潔感と健やかな造形ライン。細いけど絡まってきそうな指が鉄柵を包んだ。よく手入れされているであろう天使の爪は、太陽光を反射して輝いていた。いままで意識してこなかった天使の体に見惚れてしまったドルドーナは、暑くなる前くらいに孤児院で読んだおとぎ話を思い出した。


 天使の皮を被った悪魔は美しさで惑わすのだ。魅了されたものの末路は二本の指だけで首を折られることになるだろう。


「えいっ」


 幾度か聞いたことのある歪むような音が聞こえた。火と血の中を走って逃げていたときだ。この音の正体はこれまで知らなかったが、天使のおかげで理解することができた。


 これは鉄の悲鳴なのだと。


「…………え?」


 こっちを覗いている天使の輪郭がはっきり見えた。翡翠色の瞳に捕まると心臓はドクンと跳ねる。なぜか両足首をなにかに掴まれているような錯覚に陥っていた。動けない。高鳴る心臓の理由がわからなかった。肺と喉が絞られる。この感覚は知っている。他人の意識がこちらに向いているときはいつもこうだ。孤児院で毎日味わう焦燥感。殴られるかもしれない肉体が、勝手に身構えるせいで肩は狭くなる。天使だけは話しかけられても体に変化はなかったのに。それは天使との間に越えられない壁があったからということか。だけど、手を伸ばさなくても触れられる天使から香る蜜のような刺激に鼻腔を突かれるたびに、鼓動が加速していくのを揺れる視界が教えてくれる。さらりと流れるブロンドの前髪とつるりとした白いおでこのコントラスト。絶妙な鼻のラインはくりくりの両目を惹きだたせ、弾みそうな頬に挟まれるつやつやした唇の淡さは、昔一度だけみたことのある桜という花びらを脳裏に思い浮かばせてくれる。数少ない家族との素敵な思い出。それを連想させてくれる天使からは目を逸らすことができず、伸びてきた左手が絡まってくることにも抵抗できなかったドルドーナは、次にまばたきしたときには、逃げられなかった鉄壁をくぐり抜けていた。




 腐った枕木と雑草に纏わりつかれる鉄のレール。千切れたポスターや砕けた透明な瓶。脚をへし折られたベンチと割れて欠片もどこかに消えた電灯。煉瓦の壁は蔓の住処となり、腐って朽ちた天井は巣と卵の殻が散らばる。天使の指に絡められたままドルドーナがたどり着いたところは潰れた無人駅だった。


「わたくし、この町でずっと暮らしているのだけれど」


 唐突に口を開いた天使の横顔を見たドルドーナは、なにをしているのだろうと思えた。ここまで特に会話も無かったし、なにかを考えていたわけでもなかった。ただただ言われるままについてきた。すべて任せておけば大丈夫だとなんとなく思ったから。その根拠は一切無かったけれども、それが正しいと足りない脳味噌は判断したようであった。閉じた日傘を右手で転がす天使は、珍しくドルドーナと視線を交えないまま言葉を紡いだ。


「わたくしのいちばん遠い思い出のなかで、一度だけですけど、列車に乗せてもらったことがありましてよ」


「列車……」


 別段特別だとも思わなかった。故郷にも線路は通っていたし、列車もよく高架から眺めたりしたものだった。永遠に続きそうな長い貨物列車の迫力に圧倒されたこともあった。あの日、たくさんの人を乗せた列車はひっくり返り、まるで列車が内臓を撒き散らしているようにも見えた真っ赤な記憶。あのとき列車は間に合わないと父親が判断していなかったら、自分もあの中に閉じ込められたのだろうか。


 いっそのこと、家族で一つになれたのならそのほうが――。


「最後だから、とお父様が乗せてくれましたの。今日で終わるから、記念にと」


 ぐにゃりと歪みかけた視界は、天使の言葉に意識を集中すれば、何事もなかったように平静になった。忘れてしまいたいことなんかより、いまは天使の声を聴きたい。


「とっても速かった。知らない景色が次々と流れていきましたの。文字や言葉だけの風景とは違って、たくさんの色に溢れる景色。あのときはじめて、世界の広さを知れたと思っておりますの」


 そういえば乗ったことはなかった。そうだ、あの日の数日前は楽しいことが待っていたはずだった。たしか、どこかに出かけようとしていて、そこであの駅から……。白黒になった記憶のカット場面に目の前を埋められていくドルドーナは、「でも……」とため息混じりの声に耳を傾けながら古い記憶を色づけようとした。


「あのときはこの町からどんどん人々がいなくなっておりましたの。お店も減っていって、お友達もいなくなってしまいましたわ。お父様は、みんなのお仕事が無くなってしまったから、と。お父様のお仕事は大丈夫だから安心してとも……。あのときは、つまらない毎日でしたわ。勉強しかすることがなかったですもの」


 勉強できるだけでも素晴らしい生活だと、いまなら言える。ドルドーナも勉強は好きではなかったが、一年だけ通えた最初で最後の学校は楽しかった印象しかない。差別されることも、殴られることもなかったからだ。クラスの子と遊んで、母の待つ家へと帰り、父が帰ってくるのを待つ。きっと、どこにでもある普通の家だった。いまはどうだろう。とりあえず挨拶代わりに殴られて、食べ物は盗まれるし、遊んでくれる相手もいない。隅っこのほうで夜になるのを待つだけ。いつも考えているのは、なにをしたらいいのだろうということだけだ。


「寂れていく町。わたくしのふるさとは、大人になれたその日まで生きているのかしら……。そんなことを考えたときぐらいでしたわ。この町に人々がいらしだしたのは」


 その一人は自分。理由はもう聞かないでほしい。毎晩とてもよく知っている声に責められているから。何度も何度も、同じことを繰り返し耳元で囁いてくる。耳を塞いだって、瞼の裏にこびりついた赤色。逃げることなんて、できないのだ。


「はじめは嬉しく感じていましたの。だって、人がいればお店だって経営できるはずですし、子供だって大人たちについてくるでしょう? 人がたくさん移動してくれれば、もう一度、ここからあの景色を見られるかも……。すごく楽しみになっておりましたわ」


 ギュッと手を握られた。ふと見上げた彼女はいつもの天使だった。しかし、大きな狐耳は力なく垂れている。それは似合わないなとドルドーナは胸の中で呟いた。


「でも実際、誰も望んでこの町には来ておりませんでしたわ。わたくし、なにも知らなかったですの。薄い新聞なんて読んでも仕方なかったですから。日に日に厚くなっていく新聞にも気づきませんでしたわ。お友達が欲しかっただけですの。お話がしたかったの。だから、お年の近そうな女の子に話しかけたとき、すごく無神経でしたわ。どこから来たの、とか、ご両親はどんなお方、とか。泣かれるまでわかりませんでしたわ。故郷を亡くした方に、酷い仕打ちをしていたと……」


 言葉を紡ぐたびに首から力が抜けていく天使はやがて、ドルドーナの普段と同じ目線になっていた。朽ちた天井によって遮られた陽光は天使を影で塗り、影を遮るブロンドの前髪も天使の顔に陰を落とした。なにひとつとして輝かない天使は、天使ではなく、まるでいつも鏡に現れる気味悪い柘榴色の自分だった。


「……あとでお父様からお話を聞いたとき、すごく反省しましたの。遠い異国の地でとても悲しいことが続いていると。せめて謝りたいと思いましたの。でも、たまたま見かけただけの女の子を探すのは難しかったですの。わたくし、なにもできませんでした。わたくしのちっぽけな両脚では……どこにも行けませんでしたわ」


 子供なんてきっとそんなものだよ。そう言いかけたドルドーナは、なにか違うような気がして口を開かなかった。筋肉男以来、まともな会話をしたことがない。慰めたら良いのだろうか。慰めてほしいのはむしろ自分だ。慰めることなんかできない。なら、ここは黙って天使の――彼女の言葉を聞いてあげるほうが理にかなっていると感じた。


「わたくし、皆様のお役に立ちたいと考えましたの。困っている皆様に、わたくしで良ければですけど、お手をお貸したいと。そう張り切って避難所を覗いてみたりしましたの。でも……」


 避難所は悲惨だ。戦場とはまったく別の重さがある。手足の千切れた見たくもない怪我人で溢れ、ろくに風呂にも入れないせいで酸味の強い異臭が立ち込める。そこに自力で歩けない人の糞尿と血の鉄が混ざっていく。魂の抜けた大人と親を亡くした子供の叫び。地獄だ。威勢だけは残っている大人は怒鳴り散らす。もっとどうにかならないのか、と。


 こんなに多くの人が押し寄せているのに無理であろう。ドルドーナでさえ思っていたのに大人たちはなぜ我慢できないのだろうか。一つの町に、一国の避難民。騒ぐな。唾でこれ以上空気を汚さないでくれ。そう呟きながら頭を掻き毟る母親の血走った目は、なんと醜いものだったか。


「わたくしのできることはなにもないと、すぐに悟りましたわ」


 思い出すたびに母親の表情が歪んでいく。だから、歪みきってしまう前に現実に連れ戻してくれる彼女の柔らかい声音が好きだと思った。いまだけは、いつもの凛々しさはないけれど、それでも彼女の音色は胸の奥を落ち着かせてくれるのだ「それでも」と顔を上げた彼女だったが、目線はまだドルドーナよりも地面に近かった。


「……それでも、なにかしたかったですの。避難所ではお邪魔になるだけでしたから、なら、同じ子供たちならどうかなって、もしかしたら、遊びたい子もいるかなって、そのくらいならわたくしにも……」


 声が震えると口調も震えた。息を吸うことよりも言葉を吐き出すことを優先する彼女は、とてつもなく苦しそうに見える。なにも亡くしていないくせに、なにがそんなに辛いのだろう。  


 ドルドーナは理解できなかった。理解できなかったが、彼女のことは嫌いではなかった。だからこそ、もっと彼女の言葉を、思いを知りたくなった。


「……諦めて帰ろうとしたときですの。あなたに出会ったのは」


 今日はあの日よりは涼しい。日陰にいるせいだろうか。それでも繋いだ手は汗ばむくらいに熱はまとわりつく。滑らないように、しっかりと握ろう。


「とても苦しそうなあなたには悪いのだけど、わたくしは手を伸ばしてくれる方がいることをすごく嬉しく思いましたの。頼ってくれて嬉しかった。ようやく役に立てた。これでやっと、償えるかなって」


 天井にぶら下がっている錆びて文字も搔き消えた看板を見上げる彼女は、いっぱいに目を見開いていた。顎が震えたかと思うと、噛むように唇をすぼめた。頬を下に引きつらせた彼女が呟いた言葉は、「最低」という単語だった。その意味は、ドルドーナがいつも周囲に撒き散らしたい感情であった。


「みんな苦しんでいるのに。わたくしだけそれを喜んだ。お父様は言ってたの。悪い人は、人を見下して優越感に浸ると。あなたが水を求めたとき、とても興奮したの。きっとあれは優越感。わたくし、役に立ちたいなんて思っていなかったのかな。誰かのためにって考えていたはずなの。でも、もしかしたら、ほんとう、は」


 彼女はなにも亡くしていない。でも、なにも手に入れられていない。だからこそ辛いのかもしれないと、ドルドーナは小さい脳を懸命に回した。自分はすべてを失ったと思った。貰うはずの温もりも優しさも。亡くしたものは誰かに与えられない。そんな気がしていた。だからこそ、すべてから、この現実から逃げてしまいたいと願ったあの瞬間、あのとき貰った水は果たして彼女の優越感だっただろうか。あのときの彼女は悪魔のように見下してきていただろうか。違う。あのとき見上げた彼女は確かに――。


 いま、なにを伝えれば良い? 彼女が彼女を見失ったきっかけのとき、あのとき感じたことは、それは。


「……ぅあ!」


 胸で渦巻いた感情が溢れると、大きな声が出てしまうのか。ビクッと顔を向けてきた彼女の翡翠色の瞳を覗いた。大きく見開きながらぱちくりする彼女は、子犬ような愛らしさしか浮かんでこなかった。


「あ、あ、あり、がと」


「……え?」


「み、みず、うれし、かった、よ」


「……っ」


 顔は焼けているかのように熱かった。日陰なのに、太陽はすぐそこにあるみたいだ。高鳴る鼓動のせいか、彼女の顔を直視できなくなる。彼女の左手を握っていた右手も痺れて思わず解いてしまった。慌てて顔を逸らしてみたが、解いたはずの彼女の左手と日傘を握っていたはずの右手に頬を包まれ、無理やり目線を合わせられた。カタッと日傘が倒れる音だけが無人駅に響いた。翡翠に吸い込まれると、息を忘れた。


「そう! あなたのお役に立てたのなら! 良かったわ!」


 はにかむように微笑む彼女は、目を細めると一粒だけ小さな粒を流した。頬を染め上げる彼女の赤は、なにものよりも美しい赤だと思う。太陽のように眩しい彼女の笑顔はまるで天使のようだった。


「ね! あなたのお名前は?」


「え? えと、ドルドーナ……」


「そ! じゃあ、ドルね!」


「……きみは?」


「わたくしは――」








 ふと重い瞼を上げると曇天の隙間から眩しい太陽が見えた。六月の太陽はまだまだこれからだと肌は覚えている。なにを、していたっけ?


 背中でなにかが動いた。自分のではない左手が視界の隅から覗いた。泥で汚れ、赤く濡れたその左手は、ポンと頭に乗ってくる。知っている感触。撫でられるわけではなく、ただ触れるだけ。寂しいのは、温もりを感じないことだった。


 つむじのあたりでか弱い風を感じた。震えるような圧は、吐息だと思った。背中に上下するような感触がある。そういえば、息が吸えないな。太陽が眩しいわりには夜のように暗い、いや、色がわからない。


 頭を動かしてみた。首は凍っているのかと思うくらいに凝り固まっている。左横を見てみれば、知っている下半身が落ちている。昨日履いたような気がするブラウンのパンツは、色がわからない目でも赤く染まっていることがわかった。落ちている内臓は見たことはなかったが、なんとなくそれらの持ち主はわかってしまった。


 ズン、と重いものが胸に落ちてきた。目玉だけを動かし見れば、胸に鎌が生えていた。途端、背中の動きは止まり、頭に乗っていた手もどこかに落ちてしまった。


 落ちる瞼の裏に懐かしさを覚える眩しさを見た。それに反応した目玉はまだ動かせた。機能を停止させた首を無理やり曲げて真上を見上げた。


 たくさんの亡骸の陰で大きな狐耳と大きな尻尾が揺れている。なにかを叫びながら視線を彷徨わせていた。やがて振り返った〝彼女〟〝天使〟〝姫〟は。どうやら見つけてくれたみたいだった。あのときと同じくらいに目を見開いたのはわかった。白黒の世界でも翡翠だけは鮮やかだったから。折れるように膝を崩した姫を、群がった朱が隠してしまった。




 〝姫〟は輝いた。眩しい白に埋め尽くされる。朱は細切れになり、四台の鋼鉄は粉々になった。そうしてドルドーナの意識も白の世界に溶けた。


 包まれているような気がした。


 最期に思い出したのは、輸送トラックの荷台で揺られていたときの風景だった。あのとき、〝姫〟は懐かしいものを持ってきていた。


 最初にそれを見たのは、無人駅で雨宿りをしていたときだ。それは古い本だった。雨に濡れたのかたわんでいて、色褪せていた白かった本。ドルドーナは〝姫〟から教わるまで文字を正確に読めなかった。学校なんて遠い記憶に置き忘れてしまったから。〝姫〟と遊ぶとき、暇を見つけては文字を教えてくれた。ドルドーナが文字を勉強していたとき、〝姫〟も文字を勉強していた。〝姫〟から教わる文字よりも固い印象を受ける文字だった。画数が多くて複雑そうな文字。なんでも〝姫〟は祖父の形見である異国の本を読んでみたかったらしい。〝姫〟の興味があることに興味があったドルドーナもその文字を読もうとはしてみたが、あまりにとっつきにくすぎてすぐに諦めた。そんなドルドーナのためにと、〝姫〟はその本を翻訳して読み聞かせてくれたのだった。


 幼い少年たちの青春物語。彼らの青春は決して明るいものではなかった。一人、また一人と欠けていく仲間たち。たくさんの失望や絶望と出会っていく主人公はなにを思うのか。遠い異国の地で、夢を諦めた男が書いた一冊の本。ドルドーナは思っていた。なんだか少しだけ似ているな、と。


 〝姫〟はある程度翻訳してから聞かせてくれた。あの無人駅では半分くらいしか聞けず、虫の襲撃を受けてからは離れ離れになってしまった。すぐに再会はできたものの、それからは目が回るような忙しさだったから本の存在も忘れていた。一度だけ、思い出したように〝姫〟は本を読み聞かせてはくれたが、翻訳をまとめていた紙を失くしてしまったようで、ほとんどページは進まなかった。それでも、最後まで読み聞かせてあげます、とはりきって寝る前にあの本の翻訳に熱を上げるのが〝姫〟の日課だった。


 どうしてあのトラックで読んでくれたのだろうか。いつもは二人きりのときにしかあの本は見せなかった。なんだか自分だけの特別感が薄れて喉の下あたりがもやもやした。疲労困憊の男どもが〝姫〟の声に聞き入るのを見て文句は言う気にはなれなかったが。あと少しだった。あと数ページだったと思う。あと一日、生きられたら。きっと。結局、本のタイトルもわからずじまいだった。トラックで聞いたけど〝姫〟はきょとんとしていた。一番翻訳すべきはそこだろうとつっこみたくなったが、本の表紙と睨めっこする〝姫〟をいつまでも見守りたいと思って黙っていた。それからすぐにトラックは目的地に、ここにたどり着いた。帰れたら聞かせてくれるという約束は守れそうになかった。


 主人公の少年は夏が好きだった。たくさんの別れを経験してきたけど、たくさんの出会いと思い出を詰め込んだ夏が好きだった。だから青年になった少年は六月の青空を見上げて呟いた。


 ドルドーナも夏が好きだった。あの日、孤児院の塀ごしに〝姫〟と出会えた素敵な季節だから。あのむせ返るような暑さでなければ出会うことはなかっただろう。〝姫〟の尻尾を堪能できる冬も悪くはないけど、やっぱり、夏が良い。暑いと思い出すからさ。貰ったぶんは返せたかな。干からびて死にぞこなったぶんは精一杯生きられたかな。あの尻尾、自分で梳くのは手間だろうな。〝姫〟の背中を守ってくれる人はいるのかな。〝姫〟の返る場所になってくれる人は――。あと、それから、それから。


 最期は、夏が良かった。六月の太陽じゃなくて、彼女のように眩しい太陽に焦がされながら。


 もう、すぐ、夏、だ。




 あの、本、タイトル、もし、つける、なら、――――――。




 ――――――。




 ―――。








『こちら本部、即時撤退を許可する。偵察機より作戦の失敗を確認。繰り返す。即時撤退せよ』


『本部。こちら白鳥。高出力エネルギー反応と閃光を感知。偵察を要請する』


『こちら本部。許可できない。稼働可能な偵察機はすべて撃墜された』


『鴉から白鳥。詳細を共有させてくれ』


『……馴れ馴れしく通信に入ってこないでくださいよ。……はあ、画像だけですよ』


『感謝する。…………おい白鳥、閃光の座標を教えてくれ』


『鴉から鴉へ。ちょっと待ってください。行く気じゃないですよね?』


『まだ生き残りがいる。俺たちの任務を放棄するのか?』


『待ってください! これは相当な爆発ですよ? 生き残りはいませんよ。それに、そろそろ稼働限界――』


『悪い。これには覚えがあるもんでな。行かしてくれ』


『だから――』


『鴉、通信終わり』




 プツンと糸が切れたような切断音とともに喧噪は消えた。聞こえるのは呼吸器の稼働音だけ。残り酸素量を示す圧力計の針が赤いラインを指すのを横目に再確認した。ブルーライトの下で輝く複数の液晶。その一つに表示された座標をキーボードで打ち込む。腕を伸ばせる程度しかない空間を満たすゼリーのような液体はふやけた指先の抵抗となり、キーボード操作の邪魔になる。現在位置と目標までの距離を計算しようとすると、求めていた答えを教えてくれたのは、ややイントネーションが不安になる女性の声だった。


――目標マで、おヨそ二十きロ――


 飛んで行けば間に合うのは間に合う。ただ、帰りのぶんが残らない。いや、帰らなくても良い。あいつなら、近場まで来てくれる。そこまで飛べれば帰れる。あとは、どこまで我慢できるかということだけだ。


――警告。危険。コれ以上ノ活動は身体へノ影響が懸念されまス。最悪の場合、心停止の可能性あリ――


 警告を受けたのは久しぶりかもしれない。液晶に映った数値が心拍数の上昇を正確に知らせてくれる。頬が引きつるように上がった。背もたれにもたれかかり、深呼吸をしてみた。呼吸器から酸素が供給される音と、目から下を覆っている酸素マスクから余分な空気が排出される音に耳を澄ましてみる。しばらくすれば、一定のリズムを刻み続ける心臓の音色に意識を向けられるようになった。まだ、少し速い。じんわり、背もたれから伝わってくるのは過負荷による熱。背中に噴き出した汗は、すべて肌に密着している特殊スーツによって瞬く間に吸収されていく。一番小さい液晶の画面に目をやれば、この体の体温が三十七度を超えていることを知れる。皺が寄る眉間の奥で、小さな虫が這いずり回るような、痛みの渦が生まれた。ぎゅっと瞼を閉じて堪える。あまりちんたらはできない。右目の瞼を開け、コックピットの開閉扉に据え付けられた一番大きい液晶に並ぶ数字の列を睨んだ。数字の列と言っても、下一桁以外は同じ楕円の形しか並んでいなかったが。唯一、違う形である〝四〟という意味を舌の上で転がしてから、全身の力を重力に渡した。


「鴉、起動」


――警告。危険。コれ以上ノ活動は身体へノ影響が懸念されまス。最悪の場合、心停止の可能性あリ――


「鴉、強制起動プロトコルを開始。管理者コード、〇二三三。管理者ジョセウィーヌ・コロブラント司令。緊急起動を許可」


――強制起動プロトコル承認。これよリ、緊急起動を開始シマす――


 圧力蒸気の排出のような音と同時にコックピットがぐらりと揺れた。過負荷のまま高速回転するモーターの悲鳴のような鋭い高音が鼓膜を痺れさすと、コックピットの内壁すべてが眩しく輝いた。


 内壁に見えたのは赤色と朱色だった。足元を見ると大小様々な空薬莢が散らばっている。左右に伸びているのは百五十五ミリ榴弾砲の長い列。それらに頭から突っ込んで動かなくなった朱色の群れが地平線まで連なり、それらに圧し潰されるようにして事切れた兵士たち。どす黒い煙はいたるところから立ち昇り、曇天の空を黒く塗りつぶしていた。誰かの血濡れた軍服は旗のようになびいている。粉雪のように舞う火の粉の中、放棄された百五十五ミリ榴弾砲の砲身の先端で鳥が佇んでいた。初めて見る鳥に意識を奪われた。黒煙より黒い羽と血よりも赤い目玉が印象的だった。


 ――テ――


 耳障りな声が聞こえる。


 ――ケテ――


 それは液晶に表示されているエネルギー出力の数値が上がれば上がるほど、はっきり鮮明になっていく。


 ――スケテ――


 出力が最大値になると、体から重力の感触が抜けた。地平線は遠ざかり、黒煙を追い越し、曇天に触れられそうになったころ、コックピット内のブルーライトが、真っ赤に切り替わった。


 長い数字の列はカウントをやり直していた。違うのは、マイナス表記が増えていたことくらいだった。


 ――たすけて――


 


 ふと見下ろした先で一羽の鳥が羽ばたいていた。優雅に黒を広げる姿は、地上から旅立つ無数の魂を受け止めているような気がして、酷く可憐だと思えた。




 脳が掻き回されるように痛かった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ