表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/6

裁判形式の捕虜虐待

 大東亜戦争のあいだに連合国軍が犯した戦争犯罪はじつに多く、枚挙に暇がありません。アメリカ軍による広島および長崎への原爆投下、東京をはじめとする諸都市への無差別爆撃、ソビエト軍による満洲侵攻と大虐殺、日本軍将兵のシベリア抑留などは明らかに平和に対する罪であり、人道に対する罪です。その主な被害者は日本の一般庶民であり、被害者の総数は数百万に達します。

 このほかにも数多くの戦争犯罪がありました。連合軍は、日本軍将兵の捕虜を輸送機から突き落としたり、素っ裸にして行軍させたり、ガソリンを撒いて焼き殺したりました。また、占領地における一般市民への虐殺、暴行、強姦は数限りなくありました。しかし、こうした連合軍の戦争犯罪はいっさい不問に付されました。勝ったからです。まさに「勝てば官軍」です。むろん日本軍にも戦争犯罪はありました。それらは日本軍の憲兵隊によって検挙され、軍事法廷で裁かれていました。しかし、連合軍は規律が甘く、戦争犯罪はやりたい放題の状況でした。

 そうした連合軍の戦争犯罪にはいっさい触れる事なく、日本軍人だけを一方的に、しかも不確かな根拠と法律によって裁いたのが連合軍です。大東亜の各地で実施された軍事裁判は、そのすべてが連合国の私怨にもとづく私刑でした。日本に対する欧米諸国の私怨は、われわれ日本人の想像を絶するほどに強烈でした。

 当時、欧米白人が有色人種を差別することは常識の範囲でした。それが当たり前だった時代です。欧米白人は有色人種を猿か、植物かという程度にしか考えていませんでした。そんな時代に、日本という黄色人種国家が白色人種国家の軍隊を一時的にとはいえ撃破し、欧米列強のアジア植民地を解放したのです。欧米諸国にしてみれば、あり得ない事態でした。しかも、日本軍の健闘を見たアジア諸国は植民地状態に甘んじることを拒絶し始めました。白人国家群にしてみれば、アジア人に対する見せしめのためにも日本人を酷たらしく処刑する必要がありました。それが東京裁判をはじめとする数々の戦犯裁判でした。

 この軍事裁判には法的根拠がなく、事後法で裁くというタブーを犯しており、しかも証拠採用がきわめて杜撰でした。検察側の証言と証拠だけが次々と採用され、弁護側の証拠や証言はほとんど採用されませんでした。法と証拠を踏みにじった形式だけの裁判によって、千名を超える日本軍将兵が無残に死刑に処されました。

 マッカーサー元帥も私怨を隠しませんでした。マッカーサーがフィリピンから敵前逃亡せざるを得なかったのは、本間雅晴中将の率いる第十四軍に攻め立てられたからです。マッカーサーは、本間中将を処刑するために、ありもしなかった「バターン死の行進」なる虚構をでっち上げさせ、その罪をかぶせて本間中将を死刑に処しました。

 本間雅晴の判決がでた後、妻の本間富士子が弁護人とともにマッカーサーに面会し、裁判記録を開示するよう求めました。しかし、マッカーサーは「女のくせに口を出すな」と言い、拒絶しました。なぜ、拒絶したのでしょうか。裁判の杜撰さが露見するのを恐れたに違いありません。

 マッカーサーがフィリピンへの反攻を達成したとき、フィリピンを守っていたのは山下奉文大将の率いる第十四方面軍でした。第十四方面軍はレイテ決戦に敗れると、ルソン島における持久戦を展開しました。山下大将は、終戦まで部下を率いてルソン島北部山岳地帯で持久しましたが、終戦とともに降伏しました。この山下将軍に対する裁判もじつに杜撰な似非法廷でした。ありもしない犯罪をでっち上げられた山下将軍は死刑に処されました。その際、マッカーサー元帥は、「軍服、勲章など軍務に関するものを全て剥ぎ取れ」と命令しました。このため、山下将軍は囚人服のままマンゴーの木で絞首刑にされました。

 これが「民主化」の名の下に実施されたことです。法と証拠を無視した似非裁判が「民主化」でしょうか。降伏した捕虜を虐待することが「民主化」でしょうか。


 開戦時の総理大臣だった東條英機大将は、逮捕される直前に自決を計りました。心臓をピストルで撃ち抜いたはずでしたが、銃弾は心臓を外れました。しかし、東條英機は昏倒し、大量の出血が床を塗らしました。ここで死なせてやるのが武士の情けというものです。しかし、アメリカ軍は、これと反対の行為をしました。

「東條を死なせるな」

 アメリカ軍の最新医療によって東條英機は蘇生させられました。これは人道に反する行為です。なぜなら、殺すために生かしたからです。事実、東條英機は裁判の被告とされ、GHQによるプロパガンダの材料に使われ、最後は絞首刑に処されました。


 東京裁判の被告のなかに松井石根大将がいました。松井大将も無実の罪で処刑されてしまいます。

 すでに退役していた松井大将に大命が降下したのは一九三七年(昭和十二)八月でした。上海派遣軍司令官に任命されたのです。中部支那方面にいた多数の日本人居留民を保護するのが目的でした。

 北支で始まった支那事変は、上海をはじめとする中支に舞台を移していました。蒋介石の国民党による日本人排斥運動が激化し、中支方面からの避難がはじまっていました。居留民と日本企業は家財も工場もすべてをなげうって上海租界に避難しており、これを救う必要があったのです。蒋介石は十万を越える大軍で上海租界を包囲していました。

 松井大将の率いる上海派遣軍が敵前上陸したのは八月下旬です。これに先立ち、松井大将は次のように訓示しました。

「支那官民に対しては努めてこれを宣撫愛護すべきこと」

 アジア主義の松井大将が人道的配慮をしていたことがわかります。

 上海での戦闘は苦戦に次ぐ苦戦となりました。蒋介石軍は、ドイツ軍顧問団に指揮され、最新式の武器と堅固な要塞陣地によって武装されていたからです。屍山血河の要塞戦となり、上海派遣軍の損害は累積しました。このため陸軍参謀本部は三個師団を上海に増派したのですが、それでも蒋介石軍を駆逐できませんでした。

 ここにおいて戦線拡大を抑制してきた陸軍参謀本部は方針を変更しました。新たに第十軍を編制し、杭州湾に上陸させ、南から上海派遣軍を援護させることにしたのです。

 十一月中旬、第十軍の三個師団は杭州湾に上陸しました。これに合わせて上海派遣軍は上海市街に「日軍百万杭州湾上陸」のアドバルーンを上げました。すると蒋介石軍は浮き足だち、やがて南京方面へ向けて敗走していきました。

 第十軍は、進路を上海から南京に変えて北進します。大損害をこうむっていた上海派遣軍も態勢を立て直して北進を始めました。

 十一月七日、松井石根大将は中支那方面軍司令官に任命され、上海派遣軍と第十軍とを統一指揮することとなりました。

 十二月一日、南京攻略の正式命令を受領した松井石根大将は、全軍に要領を下達しました。

「開城を勧告して平和裡に入城することを図る」

「皇軍が外国の首都に入城するは有史以来の盛事にして・・・将来の模範たるべき心組みをもって各部隊の乱入、友軍の相撃ち、不法行為等絶対に無からしむるを要す」

「軍紀風紀を特に厳粛にし、支那軍民をして皇軍の威武に敬仰帰服せしめ、名誉を毀損するがごとき行為の絶無を期するを要す」

「中山稜その他革命の志士の墓および明孝稜には立ち入ることを禁ず」

「城内外国権益の位置等を徹底せしめ絶対に過誤なきを期し、要すれば歩哨を配す」

「掠奪行為をなし、また不注意といえども火を失するものは厳罰に処す」

「軍隊と同時に多数の憲兵、補助憲兵を入城せしめ不法行為を摘発せしむ」

「敵軍といえども抗戦意志を失いたる者および一般官民に対しては寛容慈悲の態度をとり、これを宣撫愛護せよ」

 松井大将がいかに軍紀の厳正に心を砕いていたかがわかります。松井大将は、国際法の権威たる斎藤良衛博士を司令部に招き、その意見を聞いて降伏勧告を実施しました。

 蒋介石軍が降伏勧告を拒絶したため、戦闘が始まりました。しかし、蒋介石軍はすでに浮き足立っており、やがて我先にと敗走し始めます。その際、清野戦術を採用しました。清野戦術とは焦土作戦と同じです。敵軍に占領される前に南京を破壊し尽くしてしまうのです。南京は、蒋介石軍によって破壊されつくしました。

 松井石根大将が南京に入城するのは十二月十七日です。この日までに南京城内の掃討戦は終わっており、入場式は静謐かつ厳粛に行われました。翌十八日には忠霊祭が行われ、松井大将は、軍紀の粛振と支那人蔑視思想の排除を全軍につよく訓示しました。

 松井石根大将は、翌年一月と二月にも南京を視察し、病院で負傷兵を慰問したり、難民区の代表に会って米麦を進呈したり、復興の様子を巡視したりしました。

 支那兵の清野戦術によって廃墟と化していた南京は急速に復興していき、南京戦の翌月には人口が五万人増えました。小さな事件を別とすれば南京は平穏でした。日本軍は大量の支那兵捕虜の扱いに困り、解放して故郷に帰らせたり、輜重係として雇用したりし、一部の過激分子を別とすれば紛争は生じませんでした。

 一九三八年(昭和十三)二月、松井石根大将は任務を終え、凱旋します。予備役となった松井大将は、熱海に平和観音を建立し、日支双方の英霊のために祈りを捧げる生活に入ります。

 その生活が暗転するのは終戦後です。松井石根大将は戦犯として逮捕されました。歴戦の名将の晩年が悲劇に変わります。

 東京裁判において、検察は南京大虐殺によって二十万人が殺害されたとし、その罪で松井石根大将を断罪しようとしました。松井大将は驚嘆します。南京大虐殺という言葉を初めて聞いたからです。

「そんなことがあったのか?」

 松井大将は、かつての部下たちに問い合わせましたが、ありはしませんでした。松井大将と弁護団は、南京大虐殺がなかった証拠や証言をあつめて提出しましたが、軍事法廷はまったく証拠採用してくれませんでした。他方、検察側の証拠や証言は、その根拠が怪しいものまで含め、ドシドシ証拠採用されていきました。ここにおいて松井大将は、この裁判の正体を悟りました。

 判決により松井石根大将は絞首刑に処されました。松井大将は最期にあたり書簡を書き残しています。

「過去一世紀における東洋の戦乱は、欧米諸国の東洋侵略の歴史なり」

「昭和十二年以来の支那事変は、日支間の条約、協約に対する支那側の違反にその原因がある。日本の目的は在支那日本人の生命財産またはその既得権益を守るための自衛だった」

「南京において、俘虜、一般人、婦女子に対し、組織的かつ残忍なる虐殺、暴行をおこなえるというがごときはまったくの誣妄なり」


 東京裁判の欺瞞性をあますところなく指弾したのは、ほかならぬ東京裁判の判事だったラダ・ビノード・パールです。インド出身のパール判事は、判事団の中でも数少ない国際法の権威でした。

パール判事は、全被告を無罪とする意見書を提出し、そのなかで東京裁判の欠陥の数々を国際法に照らして指摘しています。そもそも戦争を犯罪だとする法的根拠がなく、事後法で裁くことの違法性を明らかにし、判事が戦勝国に偏っており、証拠採用の方法が検察側に有利に行われ、弁護側の証拠がことごとく不採用になったことなどをあげ、まったく裁判の体を為していないと結論づけています。

 また、パール判事は歴史を再検証し、欧米列強によるアジア侵略を暴力的だとし、日本が共同謀議によって侵略を企てたとする検察の意見を完全否定しました。

 パール判事は、その意見書の最後に、アメリカ連合国初代大統領ジェファーソン・デイヴィスの言葉を引用しています。

「時が、熱狂と、偏見をやわらげた暁には、また理性が、虚偽からその仮面をはぎとった暁には、そのときこそ、正義の女神はその秤を平衡に保ちながら過去の賞罰の多くに、そのところを変えることを要求するであろう」

 これはきわめて示唆的な引用といえるでしょう。アメリカ連合国とは、南北戦争のときの南軍側政府です。南部諸州はアメリカ合衆国からの分離独立を訴えて、アメリカ連合国を建国していたのです。その初代大統領ジェファーソン・デイヴィスは、南北戦争後、やはり裁判にかけられて有罪とされました。パール判事は、この引用によって、戦勝国民なかんずくアメリカ人に反省を求めたのでしょう。

 しかし、パール判事の意見書は、その存在をGHQによって秘匿されました。日本国民は、その存在を全く知らされぬままに時を過ごし、GHQによって洗脳されていきました。

 パール判事の意見書が日本国民に知らされたのは、サンフランシスコ講和条約発効後、一九五二年(昭和二十七)四月二十八日でした。田中正明によって「真理の裁き パール日本無罪論」が出版され、日本国民は初めてパール判事の日本無罪論を知ったのです。しかし、時すでに遅く、洗脳が日本の隅々にまで行き渡っていました。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ