独裁者
ダグラス・マッカーサーは一八八〇年(明治十三)にアーカンソー州に生まれました。スコットランド移民の家系で、父のアーサーは軍人でした。アーサー・マッカーサーは米比戦争で功を立て、のちに植民地フィリピンの総督となります。
息子のダグラス・マッカーサーも軍人になります。陸軍士官学校を首席で卒業するほどに優秀な頭脳の持ち主でした。第一次世界大戦時に軍功があり、異数の出世を果たします。フーバー大統領に指名され、五十才にして陸軍参謀総長に就任しました。
フーバー政権は、世界恐慌への対応の遅れから国民の支持を失い、一期で終わります。代わって政権の座についたのはフランクリン・ルーズベルトです。ルーズベルト政権でもマッカーサーは参謀総長を務めます。
マッカーサーは共産主義を強く嫌悪する反共主義者でしたが、皮肉にも容共主義者たるルーズベルト大統領の元で勤務することになりました。マッカーサーは軍事予算の削減に反対しましたが、いわゆるニュー・ディール政策には協力し、ルーズベルト大統領の信頼を得ました。一九三五年(昭和十)まで参謀総長を務めたマッカーサーは、退任後、フィリピンの軍事顧問となります。
アメリカにとってフィリピンはうま味の少ない植民地でした。そこで、アメリカ政府はフィリピンを独立させようと考え、フィリピン軍を創設することにしました。フィリピン軍の創設がマッカーサーの任務となりました。しかし、マッカーサーの熱意不足と予算不足のため、フィリピン軍の整備は遅々として進みませんでした。
やがてマッカーサーはアメリカ陸軍を退役する年令を迎え、退役後も米領フィリピンの軍事顧問としてマニラにとどまりました。
一九三九年(昭和十四)に欧州大戦が勃発すると、太平洋方面でもアメリカによる対日経済制裁が強化され、日米関係が緊迫化していきます。このためアメリカ政府はマッカーサーに現役復帰を命じました。マッカーサーは陸軍中将となり、アメリカ極東陸軍司令官に任命されました。
アメリカは、対日戦争に備えるため在フィリピン米軍を強化します。とはいえ、アメリカ陸軍は総じて日本軍を過小評価していたので、増援はわずかでした。マッカーサー中将も日本軍の実力を下算し、甘い見通しをもっていました。
「空の要塞B一七があれば日本本土を制圧できる」
これがマッカーサー中将の持論でした。たとえ日本軍がフィリピンに進攻してきても、水際で撃退して上陸を抑止できるとマッカーサー中将は考えていました。
一九四一年(昭和十六)十二月八日、大東亜戦争が始まります。米英蘭支による対日圧迫政策により国家の存立を脅かされた日本は、国力二十倍のアメリカに挑戦することになりました。ほかに道がなかったからです。
開戦と同時に日本軍は、ハワイ奇襲作戦、マレー作戦、フィリピン作戦を発動します。戦争の第一弾はハワイ真珠湾に投下されました。これより数時間おくれて、台湾を発した日本海軍航空隊がフィリピンのクラーク空軍基地を爆撃しました。つづいて十日にも日本海軍航空隊は、マニラ周辺の飛行場を爆撃しました。日本軍の爆撃は成功し、在比米軍の航空戦力およそ百機を壊滅させることに成功しました。このときマッカーサー中将は次のように本国に報告しています。
「戦闘機を操縦しているのはドイツ人だ」
日本人が軍用機を製造し、それを操縦していることがマッカーサー中将には信じられなかったのです。マッカーサー中将が濃厚な人種差別意識を持ち、しかも日本についてまったく無知だったことがわかります。
日本陸軍第十四軍は迅速にフィリピン上陸作戦を実施します。十二月十日にはルソン島北部に先遣隊が上陸し、二十二日には第四十八師団がリンガエン湾に上陸し、二十四日には第十六師団がラモン湾に上陸しました。両師団はマニラを目指して進撃します。そして、昭和十七年一月二日、第十四軍はマニラを占領しました。
アメリカ極東陸軍司令官マッカーサーは、中将から大将に昇格していましたが、その指揮には精彩がありません。日本軍を侮って警戒を怠り、日本海軍航空隊に空襲され、日本陸軍を水際でくい止めるという戦術も準備不足のため早々に破綻してしまいました。やむなくマッカーサー大将は、司令部のあるマニラの防衛をあきらめ、バターン半島およびコレヒドール要塞で持久するという戦術をとりました。
マッカーサー大将の作戦は功を奏します。米比軍十万はバターン半島とコレヒドール要塞に籠城することに成功し、豊富な火力と堅固な防御陣地で日本軍の進撃を阻みました。唯一の心配は食糧が不足していたことです。
日本軍にも落ち度がありました。米比軍の戦力を過小評価し、第十四軍の主力を蘭印方面へ転進させてしまったのです。これが失敗でした。第十四軍はバターン半島を攻めあぐね、二月八日、攻撃を中止します。
三月、日本軍は戦力を補充し、四月から攻撃を再興し、ようやくバターン半島を攻略します。そして五月にはバターン半島沖のコレヒドール島要塞を攻略して米比軍を全面降伏させることに成功します。しかし、そこにマッカーサー大将はいませんでした。
アメリカ本国ではマスコミがマッカーサー大将を誉めあげていました。「フィリピンで勇敢に日本軍と戦うマッカーサー大将」というのがマスコミの創作したマッカーサー像です。しかし、内実は違いました。マッカーサー大将はコレヒドール要塞の地下にひそみ、膨大な戦況報告と援軍要請を毎日のように本国に向けて打電していたのです。それは、まるで赤ん坊の悲鳴のようでした。
ルーズベルト大統領は「兵力と資材のすべてを投じてフィリピンを支援する」と演説しましたが、実際には援軍を送りませんでした。真珠湾で被った損害があまりに大きく、フィリピンへの海上輸送が危険だったからです。
アメリカ政府は、マッカーサー大将が日本軍の捕虜になることを恐れました。すでにマスコミがマッカーサーを英雄として喧伝していましたから、そのマッカーサーが捕虜になれば国民の士気を喪失させると考えたのです。そのためマッカーサー大将に脱出を打診します。
「フィリピンを脱出して、オーストラリアに新司令部を設置せよ」
マッカーサー大将はこれを拒絶し、本国政府に対してアメリカ艦隊を派遣するよう要請しました。マッカーサー大将は、真珠湾空襲によるアメリカ太平洋艦隊の大損害を知らなかったようです。
その後、米比軍内の食糧不足が深刻化してくるとマッカーサー大将は考えを変え、脱出を決意します。コレヒドール要塞にはアメリカ海軍の潜水艦が出入りしていましたので、潜水艦による脱出が安全でした。ところが、マッカーサー大将は閉所恐怖症だったので潜水艦への乗艦を拒否します。
「脱出方法は自分で決めさせて欲しい」
マッカーサーは本国に懇願し、結局、魚雷艇で脱出することとなりました。
三月十一日、マッカーサー大将とその家族、使用人、幕僚は、三隻の魚雷艇に分乗し、危険な海域をうまく脱出し、八百キロ離れたミンダナオ島へ逃れました。オーストラリアのアデレードに到着したのは三月二十日です。このときマッカーサー大将が報道陣に向けて発言したのが「アイ シャル リターン」です。
この言葉は、戦後、美化されて伝えられるようになりましたが、当時のアメリカ世論は否定的でした。とくにアメリカ軍将兵はマッカーサー大将を「敵前逃亡」と罵り、「十万の将兵を捨てて逃げた卑怯者」と酷評しました。以後、マッカーサーは懸命に自己演出するようになります。
マッカーサー大将は、自身は安全なオーストラリアへ脱出しておきながら、しかも一兵の援軍もフィリピンへ送らないまま、米比軍の指揮を執り続けます。マッカーサー大将の現実離れした命令はフィリピンの現地軍司令部を困惑させました。
四月にバターン半島が陥落し、五月に米比軍が全面降伏するとマッカーサー大将は激怒します。こうした身勝手さと傲慢さはマッカーサーの人格的特徴でした。
大国アメリカに挑戦した日本軍は、短期決戦を目指して積極攻勢作戦をとりました。しかし、日米海軍の戦いは互角のまま推移し、開戦一年にして早くも日本海軍が消耗してしまいます。とくに空母機動部隊と基地航空部隊の損耗が激しく、空母艦隊は整備のために日本本土へ帰還せざるを得ませんでした。
アメリカ海軍の空母艦隊もはげしく損耗し、実働可能空母が皆無になるほどでしたが、アメリカ本国では軍需産業がフル稼働していました。世界最大の国力が数多くの優秀な軍艦と軍用機を製造し、それらが圧倒的な兵站力によって大量に前線に輸送されました。アメリカ軍の膨大な人員物資兵器は、その物量と性能において日本軍を凌駕していきます。
一九四三年(昭和十八)の後半になると、日本軍は防戦一方となります。アメリカ軍は史上空前の巨大な空母艦隊を編制して太平洋へ送り込みました。日本海軍の空母艦隊は再建が遅れました。アメリカ海軍は太平洋の制空制海権を確固たるものとし、どんどん進撃します。アメリカ陸軍の充実も進み、これを支える大規模な兵站線も拡充していきます。もはや「大軍に兵法なし」です。マッカーサー大将はただ「前進せよ」と命ずるだけで充分でした。
戦後、マッカーサーの「蛙跳び作戦」が称賛されるようになりましたが、きわめて不可解な評価です。ラバウル要塞に立てこもる日本軍を迂回して進撃するという作戦は、きわめて初歩的な戦術であるにすぎず、なぜこれが称賛されるのか不思議です。また、「蛙跳び作戦」が有効だというなら、フィリピンを迂回して日本本土を目指しても良かったはずです。日本の降伏を早められたに違いありません。しかし、マッカーサー大将はあくまでもフィリピン奪還にこだわりました。
アメリカ軍中枢でも、フィリピンを迂回するか奪還するかで意見が対立しました。マッカーサーはマスコミを動員してフィリピン奪還の世論を煽り、ルーズベルト大統領に三時間にわたる演説をして、ついにフィリピン奪還を承認させます。これはもはや軍事合理性というより、マッカーサーの個人的名誉欲と政治力のなせる業でした。
一九四四年(昭和十九)十月、アメリカ軍は総勢十七万の大兵力と大艦隊を連ねてフィリピンに押し寄せ、レイテ湾に上陸します。念願を果たしたマッカーサーは、幾度もレイテの海岸線を歩きました。上陸する様子を写真に撮らせ、ビデオカメラに収めさせ、フィリピン奪還の英雄を自己演出したのです。
同年十二月、マッカーサーは元帥にのぼります。日本本土進攻作戦の主導権をめぐってニミッツ提督と角逐したのはマッカーサーらしい挿話です。また、マッカーサーが原子爆弾の使用に反対したというのは誤りです。マッカーサーは、広島や長崎ではなく瀬戸内海に原爆を投下せよと提案しました。原爆の衝撃によって生じる津波によって沿岸諸都市を一挙に壊滅させるというのがマッカーサーの構想でした。
一九四五年(昭和二十)八月十四日、日本政府はポツダム宣言を受諾しました。これにより日本軍は武装を解除し、戦闘状態が終了します。マッカーサー元帥が厚木飛行場に降りたのは八月三十日です。その時の感慨をマッカーサーは回想記に書いています。
「わたしは日本国民に対して、事実上、無制限の権力を持っていた。歴史上いかなる植民地総督も、征服者も、総司令官も、わたしが日本国民に対して持ったほどの権力を持ったことはなかった。わたしの権力は至上のものであった」
まさに独裁者らしい感興を子供のように誇っています。そして、これは単なる感想ではなく、連合国指令という法的根拠を伴うものでした。
「降伏の瞬間より、天皇と日本政府の国家統治権は貴下に従属し、貴下は降伏条件の実施に貴下が必要と認める措置をとる。貴下は日本における降伏条項実施のため連合国が割り当てるすべての陸海空軍の最高司令官となる。われわれと日本との関係は、契約によるものではなく、無条件降伏によるものである。貴下の権力が至上のものである以上、貴下はその権力の幅について日本側が疑義をはさむことを許してはならない」
ポツダム宣言は条件付き降服だったのですが、その約束は反故にされてしまいました。つまり、マッカーサーは至上の独裁者として日本に来たのです。その独裁者が日本を「民主化」したというのは、あり得ない虚構です。
一九四五年(昭和二十)九月二日、戦艦「ミズーリ」艦上にて降伏文書の調印式が実施されました。調印の直前、マッカーサー元帥は長い演説を行いましたが、美辞麗句に満ちたこの演説を読む価値はありません。そこには人種差別意識に凝り固まった欧米白人の尊大さと自惚れと傲慢だけしかないからです。
ともあれ、こうして停戦が実現しました。あくまでも停戦です。そして、こののち連合軍による日本の占領が始まります。占領はあくまでも戦争の一環です。つまり、戦争はなおつづいており、マッカーサー元帥は戦争行為の一環たる占領を実施するために来日したのです。「民主化」をするつもりなどありはしませんでした。
戦争は宣戦布告によって始まり、講和条約の締結によって終了します。つまり、大東亜戦争の場合、一九四一年(昭和十六)の宣戦布告によって始まり、一九五二年(昭和二十七)のサンフランシスコ講和条約発効によってようやく終わります。足かけ十二年にわたるじつに長い戦争でした。そして、その長さの大半は連合国による日本占領です。そして、その占領を指揮したのがマッカーサーという独裁者だったことは歴史理解の大前提として記憶しておくべき事実です。
ポツダム宣言の一項目に次のような記述があります。
「日本国の主権は本州、北海道、九州及び四国ならびに我々の決定する諸小島に限られなければならない」
要するに大日本帝国は分割されたのです。大本帝国の領土は、日本本土、千島列島、南樺太、朝鮮半島、台湾、小笠原諸島、沖縄諸島、南洋諸島に及んでいました。これを連合国が分割して自国領とするわけです。実際、そのとおりになりました。
千島と南樺太はソビエト領になり、南洋諸島と沖縄諸島はアメリカ領となりました。朝鮮半島は韓国となり、台湾は紆余曲折のすえ中華民国となります。そこに暮らしていたのは日本国民でしたが、その日本国民は、なんら民主的手続きを経ないままに日本国籍を剥奪されてしまいました。
問題はそれだけではありません。ポツダム宣言は日本本土における日本国の主権を認めていたのですが、占領軍はこれを反故にして、次のように布告しました。
「行政・司法・立法の三権を奪い軍政を敷く」
さらに、公用語を英語とし、日本円を廃して軍票を発行すると公布しました。
「これではあまりにひどい」
猛烈に抗議したのは重光葵外務大臣です。さすがの連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)も重光外相の正論には反対できず、間接統治となりました。つまり、日本の行政、司法、立法機関をGHQが指導するのです。結局、独裁と同じことです。
以後、国会も行政機関も裁判所もGHQ官僚たちの指導と干渉を受けながら運営されることとなりました。衆参両院議長は、GHQ官僚に指示された法案を通過させ、指示されたとおりに法案を修正しました。各省の大臣や官僚たちは、GHQ官僚に指揮命令されて仕事をしました。裁判官はGHQ官僚に拳銃を突きつけられながら判決文を書きました。これが「民主化」の実態です。
マッカーサー元帥は、皇居を見下ろすことのできる第一生命館を連合国軍最高司令官総司令部とし、その社長室を自身の執務室とし、豪華な内装を整えさせました。
その日常は、朝八時に起床し、家族と遅い朝食をとり、午前十時に第一生命館に出勤し、午後二時まで仕事をすると、アメリカ大使公邸に帰宅して、昼食と昼寝をとり、午後四時に再度出勤して、午後八時に帰宅し、夕食をとり、家族と団らんするというものでした。食事は、天皇の食事番たる主厨長につくらせていました。そもそもマッカーサーは「皇居に住むつもりだ」とうそぶくほどの思い上がりぶりだったのです。
アメリカから実情視察のために来日した上院議員は、マッカーサー元帥の贅沢ぶりに驚嘆し、
「この素晴らしい宮殿はいったい誰のものかね?」と皮肉を言ったくらいです。まさに独裁権力者らしい贅沢な暮らしぶりであり、「民主化」という言葉が虚しく響きます。
連合国は、天皇の戦争責任を追及するべきかどうかを議論し、結果、天皇を利用する方が占領政策を遂行しやすいとの判断から天皇の戦争責任を問わないことを決めました。マッカーサー元帥と昭和天皇がはじめて会談したのは九月二十七日です。マッカーサーは軽装のまま、横柄な態度で天皇との会見に臨みました。おそらく人種差別意識の強いマッカーサーは、インディアンの酋長かハワイ王国の国王と会うくらいに思っていたのでしょう。
マッカーサーは昭和天皇と並んで写真を撮りました。正装して直立する昭和天皇の横に立つ、軽装の大男こそがマッカーサー元帥です。この写真を撮らせたマッカーサーの意図は明らかに自己顕示です。まるで幼児のような態度です。
この会見の際、昭和天皇は次のように発言したとされています。
「責任はすべてわたしにある。文武百官は、わたしの任命するところだから、彼らに責任はない。わたしの一身はどうなろうと構わない。わたしは貴方にお委せする。このうえは、どうか国民が生活に困らぬよう、連合国の援助をお願いしたい」
昭和天皇のこの御言葉こそ「民主的」なものといえるでしょう。仁徳天皇の「民の竈」の逸話にみられるように国民のことを第一に考えておられました。これこそが御皇室の伝統です。
アメリカ軍の空襲によって皇居内宮殿が焼失していたため、昭和天皇は、ご不自由な居住環境に甘んじておられました。それは国民の苦衷をお考えになってのことでした。
(国民が苦しんでいるときに自分だけ良い思いはできない)
贅沢三昧のマッカーサーと天皇陛下とを比べたら、どちらが「民主的」でしょうか。昭和天皇は、その御心中をいっさい語られませんでしたが、推察の手がかりはあります。長い歴史を有する御皇室には、新しい権力者が登場するたびに懐柔してきた伝統があります。羽柴秀吉が天下をとれば豊臣姓と関白の位を与えて懐柔し、平家が勃興すれば昇殿を許し、源氏や徳川氏が興れば征夷大将軍に任じて統治をまかせてきました。天皇陛下にしてみれば、マッカーサー元帥といえども、京の都に攻めのぼってきた田舎者の木曽義仲くらいに思っていたのかも知れません。
昭和天皇は、一九四六年(昭和二十一)一月、詔書を発せられました。「新日本建設に関する詔書」と言われるものですが、その正式名称はじつに長く、「新年にあたり誓いを新にして国運を開かんと欲す国民は朕と心を一にしてこの大業を成就せんことをこいねがう」というものです。
この詔書の冒頭に昭和天皇は五箇条のご誓文を掲げておられます。これこそ天皇陛下から国民にむけた秘かなメッセージだったと思われます。つまり、連合国の連中が尊大な態度で日本を「民主化」するとほざいてはいるが、そんなものはまがい物であり、すでに日本は民主化しているのだよ、という日本国民だけにわかり、連合国の連中にはわからない秘かな伝言だったように思われてなりません。
「朕は爾等国民とともにあり、常に利害を同じうし、休戚をわかたんと欲す」
とあります。十万の将兵をフィリピンに残したまま敵前逃亡したマッカーサー元帥には言えないセリフです。
マッカーサー元帥とGHQ官僚たちには、日本に対する無理解と、勝者の傲慢と、欧米白人特有の人種差別意識が濃厚にありました。マッカーサーは回想記に書いています。
「日本国民は、基本的人権というものは有形にも無形にもまるで持っていなかった。日本国民は、そのような先天的な権利があるという考えに触れたことがなかったため、何世紀もの間、基本的人権をもつということがどのようなことかを知らずにすごしていたのである」
アメリカ人の無知と傲慢が見事に表現されています。マッカーサーは日本のことを何も知らなかったのです。大日本帝国憲法さえ知らなかったことがわかります。それにしても、ずいぶん馬鹿にしてくれたものです。アメリカよりも遙かに早く普通選挙を実施したのが日本だったことを知らなかったのです。
そもそもアメリカの歴史はどうでしょう。欧州で食い詰めたあげくにアメリカ大陸に移民し、インディアンを虐殺し、黒人を奴隷にした奴隷商人の末裔に過ぎないアメリカ人の思い上がりが極まったような文章です。
マッカーサーの無知を昭和天皇は感得されていたに違いなく、だからこそ詔書の冒頭に五箇条のご誓文を引用なさったのでしょう。
問題は、日本国民が昭和天皇の御宸襟をお察しできたか否かです。それは難しかったようです。敗戦直後の日本国民は、その日の食事やねぐらを探すのに精一杯でした。マッカーサーと昭和天皇のふたりが並ぶ写真が新聞に掲載されると、それ見て激怒した日本人もいましたが、早くもマッカーサーになびく日本人も現れました。残念ながら、勝者になびく日本人が決して少なくなかったのです。