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占領下の人間狩り

 占領期の日本に君臨した独裁者マッカーサーに触れるまえに、まずは占領下の日本がどのような情況だったのか、占領下で日本国民がどのような苦難を強いられていたのか、この点を明らかにしておかねばなりません。

 占領とは、国家が主権を失った状態です。国家が主権を失うと、すべての権限が占領軍によって掌握され、すべての行政機構は占領軍のために働くようになります。結果、日本国民の人権はいっさい顧慮されなくなります。実際、日本国民の人権は占領軍将兵によって蹂躙されました。そして、日本の行政機関と官僚は、占領軍への奉仕こそすれ、日本国民の人権を擁護するようには動きませんでした。このことが、いかに過酷な運命を日本国民に課したかをあきらかにすることは、必ずしも容易ではありません。占領軍によって証拠が隠滅されてしまったし、強烈なプロパガンダによってだまされてきたからです。占領下の日本国民が占領軍将兵から受けた甚大な被害の全貌は、もはや歴史の闇に掻き消されてしまったかに見えます。しかし、ごく一部ながら残された歴史史料が占領軍による深刻な被害の一端を語ってくれています。

 

   ―*―


 「連合軍による不法行為」という文書があります。昭和二十一年四月十五日の日付です。このなかに連合軍将兵による不法行為の統計が掲載されています。


 昭和二十 年 十 月 一○五七件

        十一月 一七五六件

        十二月 二一九九件

 昭和二十一年  一月 二八八〇件


 占領軍の将兵が日本国民に対して強盗や暴行や強姦や拉致などの不法行為をはたらいた件数です。たいへんな件数であり、占領軍は規律のない軍隊だったことがわかります。

 警視庁管内における昭和二十年九月から昭和二十一年一月までの五ヶ月間の統計は次のとおりです。


事件総数 三五〇四件

  内訳

   財物奪取 二七二四件

   交通事故  二〇一件

   警官暴行  一五八件

   強姦拉致   五二件


 解説もついています。

「物品強奪に際し、拳銃を発射して殺害ないし威嚇し、または暴力をもって被害者を昏倒せしむるなど次第に凶悪化する傾向なきにしもあらざるとともに、犯行は次第に知能犯的傾向を帯びきたり、あるいは総司令部部員なりと詐称して銀行に至り、偽造紙幣の取り調べに必要なりとて多額の銀行券を提出せしめてこれを詐取し、または煙草空き箱に木屑などを詰めて販売し、あるいは一名において物貨を売りつけ代金を巻き上げたるうえ、直後、他の者においてMP(占領軍憲兵)なりと称し、物貨を奪還する等のごとき事件、全国各地に発生しつつあり」

 占領軍将兵が単純な強盗傷害のほか、悪質な詐欺をはたらいていた様子がわかります。連合軍の軍機がいかに乱れていたかがわかります。

 また、全国調達庁職員労働組合がまとめた「占領期間中の被害者実態調査(昭和三十六年)」によると、占領軍将兵によって被害を受け、戦後、日本政府から見舞金を給付された被害者の総数は九千三百五十二人にのぼります。この数字は実際の被害者全体のごく一部に過ぎませんが、被害の実情を知るためには貴重な資料です。

 被害の内訳は次のとおりです。


  死 亡 三九〇三人

  障 碍 二一○三人

  療 養 三三四六人


 占領期の日本は決して平和ではなく、むしろ混沌の極みだったことがわかります。すでに停戦が成立していたにもかかわらず、多くの日本人が占領軍将兵によって殺され、傷害を負わされていたのです。

 アメリカ軍による無差別爆撃によって都市という都市が廃墟にされていたため、家や職や家族を失って路頭に迷う生活困難者であふれかえっていたのが占領期の日本です。政治も経済も混乱し、人心が乱れていました。ただでさえ治安の悪化するなか、占領軍将兵による加害が加わって日本国民を苦しめました。「被害者実態調査」(前掲)は、被害の理由を次のように類型化しています。


  危険運転

  暴行傷害殺人

  労働災害

  日本軍弾薬処理

  軍事演習

  軍機墜落落下物


   ―*―

 

 危険運転というと、スピード違反とか、あおり運転とか、酒酔い運転が思い浮かびます。しかし、占領下の日本において占領軍将兵がやらかしていた危険運転は、そのように生やさしいものではありません。それらは「車輌を凶器として用いた殺人」でした。幾つか事例を挙げてみましょう。

 昭和二十年九月十四日、神奈川県藤沢市で子供が死亡する事故がありました。そのときの模様は次のとおりです。二台の軍用ジープがやや間隔をあけて走行していました。先行するジープは低速で走りながら沿道の子供たちに声をかけ、チョコレートやキャンディーを撒き散らして行きます。飢えていた日本の子供たちは路上に出て夢中になってチョコや飴を拾います。すると、二台目の軍用ジープが高速で走行してきて子供をはねて死亡させました。

 昭和二十一年二月十六日、青森県青森市で起きた事故では、日本人女性が死亡しました。この女性は道を歩いていましたが、後方から占領軍のジープが接近してくるのに気づき、道路の脇に身を寄せました。たまたまそこに商店があったので、女性は店内に入って商品を見ていました。すると、占領軍のジープはその商店に突入し、女性もろとも商店を半壊させました。

 昭和二十一年三月二十日、山口県岩国市において悲惨な事故が起きました。幼い姉妹が橋の上を歩いていました。そこに占領軍の軍用トラックが接近してきたので、姉妹は橋の欄干に身を寄せてトラックが通過するのを待ちました。すると、あろうことか軍用トラックは姉妹めがけて突進したのです。欄干とトラックにはさまれて姉妹のひとりは死亡し、ひとりは重傷を負い、重篤な後遺症に悩まされました。同じような事故が同じ場所で六日後にも起き、幼い子供ふたりが死亡しました。

 同年五月四日、兵庫県明石市でやはり橋上で幼い姉妹が軍用車により死傷させられ、昭和二十三年六月十二日にも神奈川県厚木市の橋上において少女が欄干と車輌にはさまれて死亡しています。昭和二十五年三月三日にも神奈川県横浜市で少年が橋の欄干と軍用車にはさまれて死亡しています。

 この現象をどのように理解したらよいのでしょうか。橋上で日本人の子供を発見したら幅寄せして圧殺せよという命令が出ていたのでしょうか。そのように疑いたくなります。

 昭和二十三年元旦、埼玉県の氷川神社は初詣の参拝客で賑わっていました。その混雑に向けてアメリカ軍のトラックが突入しました。神社の境内は車輌進入禁止区域でしたが、そのルールを無視して突進したのです。このため一家五名が被害に遭い、三名が死亡、二名が重傷を負いました。

 昭和二十三年五月二十九日、広島県呉市において起こった事故では、日本人男性が死亡しています。男性は、後方から猛烈なスピードで接近してくる軍用ジープに気づき、道路の隅に身を避け、さらに柵を越えて道路脇の公園緑地内に避難していました。いったん行きすぎた軍用ジープは、わざわざ後進し、柵を押し倒して公園内に突入し、日本人男性を轢き殺して去って行きました。

 昭和二十三年十二月十四日、千葉県九十九里浜において、下校中の小学生三名が道路を歩いていました。占領軍の車輌が接近してきたので三名は道路脇の電柱に身を寄せていました。すると占領軍車輌は電柱に突撃して薙ぎ倒し、勢い余って民家にまで突入して半壊させました。このため小学生一名が死亡しました。

 昭和二十三年の大晦日、赤ちゃんを背負った母親が川沿いの道路を歩いていました。アメリカ軍のトラックが接近してきたので母親は道路脇に避けていましたが、米軍トラックはそこに突進し、母子を川中へはね飛ばし、死亡させました。

 昭和二十四年三月四日、山梨県山中湖村において、老婆と孫娘が歩いていました。するとアメリカ軍の車輌が追い回してきました。老婆と孫娘は林の中に逃げ込みましたが、アメリカ軍の車輌は執拗に追跡し、ついにふたりを轢きました。老婆は死亡し、孫娘は重傷を負いました。

 これら何れの事案にも明らかな殺意があります。過失致死ではなく、故意に日本人を轢き殺しているのです。しかし、これらの事案は警察や占領軍によって調べられることなく、むしろ隠蔽されました。とはいえ、占領軍将兵の殺意を裏付けるニュージーランド兵の証言が残っています。

「わたしがショックだったのは、意図的に危害を加えているニュージーランド兵がかなりいたことである。幾度かわたしは恐怖を感じた。普段は分別のある者たちが、ジャップを恐がらせるために、故意にトラックを加速させ、ひき殺し、そしてそれを自慢するのである」

 当時、欧米白人は強烈な人種差別意識を持っていました。白色人種の優越性を信じており、有色人種のことを猿か、家畜か、野菜ほどにしか考えていませんでした。だからこそ、平気で殺すことができたのでしょう。奴隷商人が奴隷を扱うように日本国民は扱われていたわけです。

 さらに、戦争がまだ継続していたという事情もあります。戦争は講和によって終わりますが、占領はまだ戦争状態です。よって、占領軍の将兵にしてみれば日本国民はなお敵性国民だったわけです。だから殺すことに躊躇がなかったようです。

 軍用ジープや貨物トラックだけでなく、上陸用舟艇や戦車や軍艦や戦闘機までが殺人凶器となりました。

 昭和二十年十月十五日、佐賀県三田川村において、自転車を降りて道路脇に退避していた男性を上陸用舟艇が轢いて死亡させました。

 昭和二十年十一月九日、神奈川県横浜市の市街において上陸用舟艇が暴走し、歩道に乗り上げ、歩行者数名を轢き、二人を死亡させました。

 昭和二十一年一月十八日、青森県弘前市にて市街地の歩道上にいた男性がアメリカ軍の戦車のキャタピラに巻き込まれ、片足切断の重傷を負いました。

 昭和二十五年七月十日、神奈川県横浜市において戦車が民家に突入し、家屋を倒壊させ、家人に重傷を負わせました。

 昭和二十三年五月十二日、大阪府岸和田市において装甲車が高速で交差点に突入したため曲がりきれず、民家に突入しました。装甲車は反動で道路の反対側の民家にも突っ込み、電柱と歩行者を薙ぎ倒しました。このため死者一名と多数の負傷者が出ました。

 昭和二十五年七月十四日、福岡県博多湾でエビ漁をしていた漁船にアメリカ軍の軍艦が衝突しました。漁船は沈没し、漁民一名が死亡しました。

 昭和二十年九月十日、大分県名護屋岬沖合で操業中の鯛釣り船にアメリカ軍の戦闘機が超低空で接近し、プロペラに漁民の頭を引っかけて即死させました。

 こうした故意殺人を犯した占領軍の将兵が罪に問われることはありませんでした。そのまま逃げて終わりです。まさに「斬り捨て御免」であり、まるで「人間狩り」です。

 重傷を負わされた被害者や、死亡者の遺族は泣き寝入りさせられました。占領軍が補償をしたり、謝罪をしたりすることはありませんでした。被害者や死亡者遺族が占領軍に抗議しても門前払いだったのです。そのうえ、被害者と死亡者遺族を悲憤慷慨させたことは、日本の警察も役所もまったく頼りにならなかったことです。これこそ占領の本質です。日本国家が主権を失うと、日本の官庁組織はすべて占領軍の下部機関となり、占領軍を守るために機能するものの、日本国民の人権を守ろうとはしなくなります。警察官も官僚も同じ日本人でありながら、被害者や死亡者遺族の抗議を受け付けず、ただ、諦めるよう勧めました。

「相手が悪いからどうしようもない」

「占領軍には逆らえない」

「敗戦国だから我慢するしかない」

 実際、日本の官僚が占領軍に逆らうことはできませんでした。逆らえば、公職から追放されてしまうからです。

 占領軍の凶行によって一家の大黒柱を失ったり、最愛のわが子を喪ったり、後遺症に苦しんだりした日本国民は筆舌に尽くしがたい苦渋をなめさせられました。

「父は病院で死亡しました。わたしは家におりましたが、知らせを聞いてびっくりし、泣くにも泣けず、小さい子供がふたりおりまして、茫然としてしまいました」

「大きな黒人兵の運転する自動車が驀進して、息子に触れたと思った瞬間、上空へ持ち上げられ、前方へ投げ出されていたということです。すぐに警察がきたものの、進駐軍が来るまでは現状を保存するよう指示したため、息子は重傷を負ったまま三時間ちかくも放置されていたのです」

「戦災に遭い、裸一貫になり、親類から品物をもらってどうやらしのいでいましたところ、九月に水害に遭い、十一月、夫がアメリカ軍のジープに轢かれて死にました。途方に暮れて、いっそ死んでしまおうと思いました」

「警察に相談したのですが、相手が悪いからあきらめるように言われました。犯人のアメリカ兵の所属と名前はわかっていました。しかし、相手が悪いというだけでした。進駐軍に逆らえば何をされるかわからないというのです。だから、相手が悪いとあきらめるほかはないと言われ、相手にしてくれませんでした」

「警察や役場に相談しても、相手が進駐軍ではどうしようもない、泣き寝入りするしかない、と言われてしまいました。長男死亡のショックで、ただでさえ戦傷で弱っていた夫がまもなく死亡しました。高齢の父親と幼い娘三人を抱えて、わたしは路頭に迷い、生ける屍のようでした」

「片足を失い、いまでは松葉杖です。家事もやれず、仕事もやれず、家計上そうとうの負担となっており、生活も苦しく、人知れぬ苦しみに悩んでおります」

「酒を飲んで運転し、ふたりもの人間を殺しておきながら、アメリカ軍からは線香の一本、見舞いのひと言すらなく、加害者を取り調べてくれと警察に訴えても、戦争に負けたのだからしかたないと取り合ってくれなかった」

「脊髄の鈍痛が絶え間なくあるのです。家財の損失は補えますが、身体の傷害は年々ひどくなっています。働かなければ生きていけません。三人の子供が一人前になるまで親としての責任を全うすべきは当然、人知れず痛みに耐え、働かなければならないつらさ。誰にこれがわかってもらえるでしょう。世の中すべてが恨めしく、なにかひねくれた子供のような気持ちになります」

「民主国であるアメリカがなぜこうした事件を無視するのか。一方ではタンクや飛行機を与え、一方では事件をもみ消す。納得できません。人間ひとり死亡させて謝罪ひとつしないアメリカ政府を民主国家だとか、人権尊重の国だとか、言えますか」

「事故現場はゆるいカーブで見通しがよく、運転に注意すれば決して事故にはならない。加害者の運転手は泥酔していたということで、故意に悪戯で加害したとしか思えません」

「戦災と水害に遭って生活が不安定なところ夫に死なれ、学齢の三人の子供を抱え、生活に困り、感傷に浸る暇もなく、厳しい生活と戦わねばならなかった」

「優しい夫でした。幼い子を含めて家族七人が残されました。杖とも柱とも頼む夫に死なれて、どうやって生きていくかと本当に迷いました。働くことを知らないわたしは本当に死のうかと考えました。蓄えとてないわたしは気を取り直し、土方や野良仕事に朝から晩まで働き抜きました。今では子供も成長して働いておりますが、亡き夫を一日とて忘れたことはありません。空襲にも水害にも無事であった夫が、こともあろうにジープに轢かれるとは、想像もできませんでした」

「現場に駆けつけて父を病院に運ぼうとしたところ、現状を動かすなと警察に言われ、やむなく一時間半ほども父をそのままにせざるを得ませんでした。たまりかねたひとりの警察官が父を助けようとしてくれたのですが、MP(占領軍憲兵)がその警官を蹴っ飛ばして止めました。翌日、父は死亡しました。もっと早く病院に連れて行けば助かったかも知れません」

「人生いまだ八才。小さい子とはいえ、天使のごとき罪なき、近所でも学校でもよい子であり、わが家では灯りのような存在であった子供を、ひき殺されたときの悲憤は筆舌に尽くされません。兄弟のなげき、ことに母親の悲しみは気も狂うかと思われる様でした」

「幼い子供三人を抱えて就労もままならず、憤りと悔しさで夜も眠れなかった。アメリカ軍も県も警察もだれひとり見舞いに来なかった。香典ひとつなかった。毎日、赤ん坊をおぶって県庁、警察署、米軍憲兵隊に通ったが、どこも親身になってはくれず、冷たい目で見られた。働くために赤ん坊は他所へ預け、長女ひとりに留守番をさせ、次女は他家へ出すほかなかった。子供の食事はご近所に頼まざるを得なかった。毎日、憤りと口惜しさで泣き暮らした」

「警察官がその場にいながら、現状保存を優先して、被害者が生きて動いているのに放置していた。周囲の人々が早く助けろと警官を叱責してもなお現状維持を優先した。そこへわたしが駆けつけて母を抱き上げた。救急車が来て入院できたが、四日後に死亡した。後日、取り調べの時、警察から、陳謝しろと言われた。母を抱き上げたからです。現状保存ができなかったからです。まったく権威のない警察でした。ひき殺されて悲しんで葬儀が終わって、陳謝して、メチャクチャだ」

 これら日本国民の声を、占領軍も日本政府も無視し続けました。占領下では、日本国民の人権を守る機関は皆無です。日本国民はただただ悲嘆に暮れるばかりでした。外国軍に占領され、国家が主権を失うと、国民の人権は弊履のように蹂躙されるのです。


   ―*―


 占領下の日本には日本国民が安心して過ごせる場所がありませんでした。占領軍将兵は、ありとあらゆる場所に侵入して日本国民を虐待しました。金品強奪、強姦、乱暴、酒乱、住居侵入、殺傷など、理由なき犯行が横行しました。

 昭和二十年九月二十五日、長崎県長崎市の民家にアメリカ兵が侵入し、戸主を縛り上げて金品を強奪し、殺害の上、逃走しました。妻と子供は便所に隠れていたため無事でした。

 昭和二十年十月八日、宮城県村田村では、農家の主婦が草刈りをしていたところへ、アメリカ軍のジープが接近し、数名のアメリカ兵が車上から銃を乱射して主婦を殺害し、逃走しました。

 昭和二十年十一月十三日、長崎県佐世保市の民家にアメリカ兵ふたりが押しかけ、遊郭の場所を教えろと強要しました。やむなく遊郭に案内した戸主は、翌日、死体で発見されました。

 昭和二十年十一月二十四日、奈良県の奈良公園でアメリカ兵が日本人ふたりを刺殺しました。

 昭和二十年十二月四日、アメリカ兵が妙齢の女性がいる民家を訪問したところ、その女性が偶然に不在でした。このアメリカ兵は、隣家の主人に八つ当たりして殺害しました。

 昭和二十年十二月七日、神奈川県大和町の民家にアメリカ兵が来て戸を叩きました。戸主が応対に出ると、アメリカ兵は銃殺して逃走しました。

 昭和二十年十二月十二日、栃木県足利市で男性がおでん屋に入ったところ、たまたま居あわせたアメリカ兵に撃たれて死亡しました。このアメリカ兵は泥酔していました。

 昭和二十年十二月十四日、広島県呉市にある占領軍基地内で守衛として働いていた日本人が占領軍兵士に金品を要求され、これを拒絶したところ射殺されました。

 昭和二十年十二月二十二日、青森県八戸市で、遊郭帰りのアメリカ兵が、偶然に出会った男性を銃殺しました。

 昭和二十年十二月二十五日、山口県下関市のビアホールでアメリカ兵が理由もなく店内にいた客の男性の頭をビール瓶で殴り、死亡させました。

 昭和二十一年三月十日、宮城県塩竃市の民家にアメリカ兵五名が乱入し、家人を暴行して死亡させ、金品を強奪して逃亡しました。

 昭和二十一年四月八日、十七才の女性が夜道を歩いていると、六名のアメリカ兵に追いかけられたので、怖くなって逃げたところ銃撃され、重傷を負わされました。この女性は「夜の道は怖くてたまりませんでした」と後に語りました。

 昭和二十一年四月二十八日、宮城県仙台市で十七才の女性が強姦された上、殺害されました。

 昭和二十一年六月四日、長崎県佐世保市で十四才の少女と十才の弟が頸動脈を切られて死んでいるのが発見されました。当時の新聞は「アメリカ兵は、姉幸子さんに暴行を働かんとしたが、姉弟が頑強に抵抗したため遂に殺害するに至ったものらしい」と伝えています。

 こうした事件は枚挙に暇のないほどです。占領下日本の治安がいかに低劣であったか、占領軍将兵がいかに規律の弛みきった悪兵であったかがわかります。占領軍将兵は、酒に酔っては銃を乱射し、街灯を破壊し、理由なく日本人を殺傷し、暴行し、それでいて罪に問われることはごくごく希でした。

 ハウスと呼ばれる占領軍将兵の娯楽施設が各地にありましたが、そこには多くのアメリカ軍将兵が集まりました。そして、その周辺では決まって強盗や婦女子の強姦被害が頻発し、治安が悪化しました。

 長崎県佐世保市のある地区も同じでした。地区住民たちは恐怖し、夜間外出をとりやめるとともに、自警団を組織して地区内の警備をしていました。

 昭和二十一年七月八日、非常警笛が鳴ったので自警団の青年が出動しました。しかし、この青年は頭部を銃撃されて発見されました。何が起きたのかはわかりません。ただ、銃声を聞いて現場にかけつけた自警団長が目撃したのは、撃たれた青年をアメリカ兵がジープに乗せて病院に運んだことと、アメリカ兵が現場の血痕を水で流して証拠を隠滅したことです。撃たれた青年は即死でした。診察した医師は、銃撃による貫通銃創と診断しましたが、アメリカ軍は青年自身の不注意による転倒が死因だと言い張りました。

 昭和二十二年一月三十一日、アメリカ軍立川基地に所属するアメリカ兵五名がジープに乗って銃を乱射しながら八王子から相模原にかけて暴走し、行く先々で破壊行為を働き、人々を殺傷しました。死者五名、重傷者一名の被害が出ました。

 昭和二十二年十月二十六日、神奈川県海老名市においてアメリカ軍の黒人兵が深夜に次々と民家を襲い、ハンマーで殺傷して回りました。死者四名、重傷者三名の被害です。

 昭和二十三年十一月二十五日、北海道札幌市でふたりのアメリカ兵が徘徊しつつ日本人を殺傷しました。死者三名、重傷者九名という被害が出ました。

 戦闘機による民間人銃撃事件さえあります。昭和二十一年九月十三日、神奈川県綾瀬町で八才の小学生がアメリカ軍の戦闘機に銃撃されて死亡しました。

 昭和二十四年七月二十一日、茨城県那珂湊市において農作業中の男性がアメリカ軍機に銃撃されて死亡しました。

 昭和二十五年七月十七日、茨城県那珂湊の海水浴場で海水浴中の小学生がアメリカ軍戦闘機に銃撃され、一名が死亡しました。

 戦闘機が無抵抗の市民を銃撃するのです。たとえ停戦前であっても戦時国際法違反の行為です。それが占領下の日本でくり返されていました。これはもはや殺人遊戯としか言いようがありません。


   ―*―


 占領期の日本は失業者であふれかえっていました。一方、占領軍は基地建設などのため多くの労務者を必要としていました。ここにおいて多くの日本国民が占領軍の労務に従事することとなりました。労働環境は極めて劣悪でしたし、そもそも差別意識を有する占領軍監督下での労働です。言葉が通じないことも多く、結果として多数の労働災害が発生しました。しかし、ほとんど補償らしい補償はなされませんでした。

 各地で多発したのは労務者を満載した貨物トラックの暴走に伴う事故死です。占領軍の運転手は規律に甘く、酒酔い運転を平気でしていました。貨物トラックが暴走して横転し、荷台の労務者が死亡したり、急カーブで労務者を振り落として死亡させたりしました。

 例えば、昭和二十年十二月二十五日、愛知県豊橋市でアメリカ軍のトラックが労務者を運搬中、乱暴な運転のために激しく動揺し、労務者を振り落としました。死亡一名、負傷一名という被害が出ました。その際、死亡した労務者の遺族は、「終戦直後の事故でしたのでアメリカ軍がただただ恐ろしく、何ひとつ抗議することができませんでした」と語っています。

 昭和二十一年一月九日、長崎県佐世保市でタイヤ運搬中の労務者がタイヤの破裂により死亡しています。遺族は「わたしどもは泣くより術をしらなかったのです。アメリカ人が憎くて、わたしは狂いかかりたい気持ちでしたが、それもできず、ただ悲しむだけでした。口惜しくて忘れられません」と証言しています。

 不可解な事案もあります。たとえば、昭和二十二年九月二十七日、兵庫県神戸市のアメリカ軍施設内倉庫で荷役作業をしていた男性は、休憩中に寝ていたところ、いきなりアメリカ兵に蹴られて起こされ、暴行されました。言葉が通じず、わけもわからず吃驚して逃げ出したところを撃たれ、病院で死亡しました。遺族は次のように語っています。

「息子は病院で二日間も苦しんで死にました。戦争に負けた悲しさ、被害を受けた親の気持ちをお察し下さい。わが子の苦しむ顔を見て、断腸の思いです。憎いアメリカ兵を脳裏に思い浮かべ、心より、怒りと怨みに泣きました」

 こんな例もあります。昭和二十六年三月三十一日、青森県八戸市のアメリカ軍基地内でアイロンがけの仕事をしていた日本女性にアメリカ兵が語りかけ、戯れに言いました。

「カウボーイごっこをしよう、手をあげろ」

 女性は冗談だと思い、手を挙げてみせました。すると、驚くべきことにアメリカ兵が発砲しました。銃弾は女性の腕に命中しました。結果、女性は深刻な後遺症に悩むこととなりました。あまりに無責任なアメリカ兵の行動であり、過失というよりも、むしろ悪意があったことが疑われます。

 朝鮮戦争がはじまると海上保安庁の掃海艇が朝鮮半島で掃海作業に従事しました。また、日本人労務者も荷役や輸送のために朝鮮半島で働かされました。事故や戦火によって死亡した日本人が少なくありません。


   ―*―


 旧日本軍が保有していた武器弾薬の処理作業は、占領軍の監督下で日本人労務者により実施されましたが、管理が杜撰だったため、各地で多くの犠牲者が出ました。

 昭和二十年九月二十日、千葉県館山市の旧日本海軍航空隊掩体壕で弾薬の爆発事故が発生し、相当数の死傷者がでました。

 同年九月三十日、北海道小樽港では海上で武器弾薬を海中投棄作業中に爆弾が暴発し、作業員二十名が死傷しました。

 同年十月十六日、岡山県福渡町の石引山にあった弾薬保管場で爆発が起こり、周辺の家屋六十戸が半壊し、死者一名、負傷者三百名の被害が出ました。

 同年十一月八日、鹿児島県鹿屋市にある弾薬集積場で爆発が発生し、隣接する集落八十戸が焼失しました。死者は一名でした。

 その四日後、十一月十二日、福岡県添田町二叉トンネル内にあった武器弾薬集積場が爆発しました。山が吹き飛ぶほどの大爆発で近隣集落が壊滅しました。死者百四十七名、重軽傷者百四十九名という大災害となりました。

 昭和二十年十二月十五日、北海道小樽港沖で真岡丸が武器弾薬を海中投棄していたところ、弾薬が暴発し、真岡丸が轟沈、乗組員八十八名が死亡しました。

 同年十二月二十八日、兵庫県高砂でも同様の事故が発生し、死者十九名、負傷者四十名がでました。

 昭和二十二年十月十五日、高知県室戸岬沖で旧日本海軍の機雷を解体作業中に爆発し、現場にいた三十八名が即死しました。

 こうした事故は占領期を通じて各地で発生しましたが、被害者にも遺族にも補償はなされませんでした。


   ―*―


 占領軍の進駐にともない、日本各地に占領軍の演習地が確保されました。これが日本国民にとっては塗炭の苦しみの種となりました。土地や海域の接収に伴って農漁業ができなくなりました。また、演習地周辺の集落に出没する不良占領軍将兵の蛮行、演習地から頻繁に飛んでくる流れ弾による被害、不発弾による被害など、数え上げれば際限のない被害が発生しました。

 宮城県王城寺原で起きた悲劇はその一例です。宮城県王城寺原はもともと日本陸軍の演習地でしたが、昭和二十年、陸軍の解体に伴い、政府は食糧増産のため演習地を開拓地とし、開拓農民を募集しました。応募したのは入植三百九十戸、地元農民二百二十一戸、合計六百六十一戸です。

 開墾は困難をきわめました。最初の一年はまったく農作物を収穫できませんでした。それでも苦労の甲斐あって二年目には丸々としたカボチャが収穫できました。

 運命が暗転するのは昭和二十二年七月です。王城寺原開拓事業地にアメリカ軍が突如として現れ、一方的に通告しました。

「二週間以内に建物を撤去し、営農を中止せよ」

 開拓農民らは騒然となり、むろん抗議しましたが、アメリカ軍は日本国民の権利などまったく考慮しません。結局、二百二戸の開拓農家が泣く泣く立ち退くこととなりました。うち半数は離農し、残りは新開拓地へ移転しました。これだけでも砂を噛むような苦難です。

 開拓農家四百九戸は、王城寺原で営農をつづけることが許され、安堵しました。しかしながら、ここからが地獄の始まりでした。

 アメリカ軍の実弾演習は大規模であり、流れ弾が頻繁に飛び交うため演習中は営農できませんでした。アメリカ軍は農地を平然と踏みにじり、戦車を乗り入れさせたり、塹壕を掘ったりしました。抗議をしても門前払いでした。こんな証言が残っています。

「家の前に戦車が止まって、もうほんとうに戦場で開墾しているような状態だった」

 さらに開拓集落では強姦と放火が激増しました。アメリカ兵は女性と見れば襲おうとし、実際、襲われる女性が後を絶ちませんでした。放火は、女性を戸外に誘き出すための手段だったようです。妻や娘を強姦されて離農していく農家が続出しました。各農家は、夜になると入り口に鎌や鍬を置いて用心せねばなりませんでした。開拓民の証言です。

「アメリカ兵は、片言の日本語で『お嬢さん』と『酒』を挨拶がわりに話しました。酒はないか、お嬢さんはいないかと押しかけてくるアメリカ兵のためにそうとうな被害がでました。お客が来ればお茶でもてなすのが農村の風習ですから、ついついアメリカ兵を家に上げ、お茶でもてなしてしまったのです。これが失敗でした。家に上がり込んだアメリカ兵は、男性を家から追い出して女性を襲ったのです。占領軍という怪物には手も足も出ませんでした」

 一部の開拓民は、旧陸軍兵舎に集団で暮らしていましたが、ある夜、ここに数名のアメリカ兵が侵入し、放火しました。

「火事だ」

 開拓農民の方も警戒しており、アメリカ兵の手の内を知っていましたから、「火事だ」と大声で叫び、男はアメリカ兵を食い止めるために揉み合い、そのすきに女性たちは戸外へ逃げました。

 逃げた女性たちは一晩を麦畑で過ごして無事でした。しかし、女性を助けようと揉み合った日本人男性はアメリカ兵に連れ出され、暴行され、重傷を負わされました。

 まことにおぞましいことながら、一部の日本人は、アメリカ兵から金や煙草を与えられ、どこの家に女性がいるという情報を売りました。あるいは、わざわざ女性のいる所までアメリカ兵を案内するヤカラさえ現れました。

 開拓集落の女性たちはアメリカ兵が恐ろしく、昼間でもひとりでは出歩くことができませんでした。暑い夏、美しい水の流れる花川で水浴して開拓民は身体を浄めました。そこには当然、女性もいたのですが、そこをアメリカ兵が襲いにきたことがあります。そのときに女性を助けた日本人男性の証言があります。

「まさか駐留軍がこっちまで来るとは思っていなかったす。そんときにね、人間ってのは、あそこまで理性を無くすのかと思った。アメリカ兵がだよ、ズボンを脱ぎ捨てて、男のシンボルをおっ立てて、そのまま追っかけるんですよ。ほんとうに情けないっていうか。うまく女性を助けることができて良かった。まずね、本当に人間は情けないよ、理性を失ったらね」

 空き家を売春婦に貸してパンパン宿にしたらどうかという意見がでましたが、賛否は割れました。これで安全だとする意見もあれば、ますます危険になると危惧する意見もあったのです。結局、現金収入になるという理由でパンパン宿が開拓村の付近にできました。

 するとアメリカ兵が引きも切らずに押し寄せて淫売商売は大繁盛しました。パンパン宿のおかげで強姦事件は減少しました。

 パンパンの中には将校だけを相手にするオンリーと呼ばれるパンパンもいました。ある日、そのオンリーが逃げ出しました。すると、オンリーに逃げられたアメリカ軍将校は激怒し、ある農民に嫌疑をかけ、「お前が逃がした」と因縁をつけて暴行し、重傷を負わせました。

 王城寺原に限らず、進駐軍演習地の周辺では同じような被害が頻発し、開拓民を悩ませました。山梨県北富士演習場の周辺も似たような状況でした。その農婦の証言です。

「思い出しても身体が震えます。営農の道を断たれたわたしたちは、アメリカ軍とともに部落に押し寄せた売春婦に部屋を貸し、部屋代を取りました。政府の役人たちは、その時なんと言ったでしょうか。『良かったな、これで楽して金が取れる。あんたたちは働かなくても良いんだ』。それが日本の役人であり、日本政府です。わたしたちは確かに愚かで恥知らずでした。売春婦の部屋貸しを政府に励まされているうちに部落は地獄のようになりました。部屋を貸し、遊んで食っているうちに、本当に失ったのは精神であり、道徳でした。部落では若い人たちが身を誤り、堕落した者が少なくありません。それでも政府がわたしたちに与えたものは、嘲笑だけでした。『楽して金が取れる、よかったな』。悪魔の言葉です。政府は、農民に農業を忘れさせ、女郎屋のようなことをさせようとしたのです」

 開拓村は、アメリカ兵のための売春村と化しました。日本の官僚は、日本国民のためではなく、ひたすらアメリカ軍に奉仕していたことがわかります。しかも、開拓農民を侮蔑し、嘲笑していたのです。占領あるいは主権喪失という事態が、いかに日本社会を堕落させたかがわかります。


   ―*―


 日本が占領されると、旧日本軍の飛行基地が連合国軍によって接収されました。朝鮮戦争が始まると航空基地が拡張され、激しい訓練が実施され、朝鮮半島への出撃と帰投が頻繁となり、基地周辺では墜落や落下物などの被害が発生しました。

 昭和二十二年七月十四日、東京都横田基地で離陸直後の爆撃機が墜落しました。この墜落に八高線の列車が巻き込まれて転覆し、爆弾が爆発しました。死者四名、負傷者三名の被害でした。

 昭和二十三年一月二十八日、兵庫県姫路市でアメリカ軍機が燃料タンクを投下したところ、このタンクが家族五人の住む民家を直撃しました。妻が死亡し、幼い子供三名が残されました。

 昭和二十四年一月八日、兵庫県西宮市上空で二機のアメリカ軍爆撃機が衝突して墜落しました。両機は工場の上に落下し、死者三名、負傷者二十六名の大事故となりました。

 昭和二十五年八月二日、沖縄県読谷村にてアメリカ軍機が燃料タンクを投下しました。タンクは民家を直撃し、二才の女児が死亡しました。

 昭和二十五年九月二十七日、山口県岩国市にてアメリカ軍爆撃機が離陸直後に墜落して民家に突入しました。死者三名、負傷者五名、全焼二棟の被害がでました。その被害者遺族の証言です。

「母を助け出すことはできましたが、子供は死んでしまった。すべてアメリカ軍の言いなりでした。わたしの子供も含めて三人も殺したアメリカ軍がやったことは、立ち入り禁止にして残骸を回収しただけでした。わたしたちは泣き寝入りでした」

 昭和二十六年一月二十日、沖縄県那覇市の民家にアメリカ軍機の燃料タンクが落下し、一瞬にして燃え上がり、一家六名が焼死しました。

 昭和二十六年五月十日、福岡県福岡市にてアメリカ軍戦闘機二機が衝突して住宅地に墜落しました。飛散した航空燃料に引火して大火災となりました。死者十一名、負傷者多数の被害でした。

 昭和二十六年十一月十八日、東京都横田基地を離陸した直後にB二九大型爆撃機が墜落しました。航空燃料が飛散し、爆弾が爆発し、大惨事となりました。被災家屋百戸、死亡十二名、負傷三十名でした。

 昭和二十七年二月七日、埼玉県金子村において、朝鮮戦争に向かうB二九大型爆撃機が集落に墜落し、大炎上しました。死者四名、負傷者十余名、焼失家屋十五棟となりました。

 

   ―*―


 占領時代の日本は、長い歴史のなかでも希なほどの暗黒時代でした。国家が主権を失い、すべての官僚機構が外国軍の支配下に置かれると、国民の人権を守るべき存在が皆無となるからです。

 日本国民の人権は完全に無視され、占領軍将兵たちによって奴隷のごとくに使役され、虫けらのように殺されました。数知れぬ日本女性が占領軍将兵に強姦され、多くの混血児を産まされ、泣き寝入りを強いられました。占領軍将兵の正体は、「ズボンを脱いで男のシンボルをおっ立てて女を追い回す」強姦魔でしかありませんでした。そして、その占領軍の親玉こそダグラス・マッカーサーという男です。


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