萌芽1
交番に戻ってきた札川は目の前に、制服を着た女の子がボーっと立っている姿を見つけた。
何をしてるんだろう。
声を掛けようか、札川は逡巡した。それは少女があまりにも可愛いかったせいだ。可憐な容姿はアイドル歌手を思わせ、若い札川の胸をときめかせるには充分だった。しかし、彼は警察官だ。自分の職務に忠実であらねば。その結果、メアドなり携帯の番号を知ったとしても、それは職務の結果ということだ。「どうかしました?」
「え?」
少女は札川の存在に初めて気付いたようだった。少女の澄み切った瞳に見つめられて、札川は頬が上気してくる自分を感じた。
「何か困ったこと?お巡りさんで力になれるかな?」
「ううん」
首を傾げて悩んでいる姿も愛らしかった。
「人が死ぬの」
「へっ?」
札川は少女に見とれて聞き逃してしまった。
「今、なんて」
「分かってるの。警察に話したところで、何にもならないことぐらい」
少女は自分の無力さを恥じているようだった。
「人が死ぬの。ううん、殺されるの」
この美しい少女は何を言っているのだろうか。札川は一瞬見失って、反射的に問い返した。
「誰が?」
「官房長官」
「カンボーチョーカン」 少女の口から出た言葉は余りにも似つかわしくなくて、札川の頭で漢字でイメージするまでに、多少の時間がかかった。
「か、官房長官ね」
札川は少女の横顔を見つめた。そして、その似つかわしくない言葉の中に、狂気の兆しがあるのか、見極めようとした。
「死ぬわ。その人」
札川は彼女が普通でないと、判断した。
「官房長官って何する人?」
「さあ」
「警察官のくせに、知らないの?」
考えてみると、札川には分からない。元々が政治に疎い方だ。
「でも、もう無駄だったようね。彼は殺されたわ」
「わかったよ。ちょっと待っててもらえる?」 札川は彼女の捜索願が出されているに違いないと考えて、交番に取って返した。
「今戻りました」
交番の奥はひっそりとしている。先輩がいるはずなのだが。奥からテレビの音が聞こえたて来た。
「すいません。施設辺りからの捜索願って・・・」
先輩はテレビに目を据えたまま札川の方に、視線を向けずに言った。
「テロだ」
「は?」
「日本にもテロだ。いやな世の中だな」
「何があったんですか?」
「官房長官が殺された。テロだ。声明文は新聞社に送られて・・・」
札川は先輩の言葉を、最後まで聞かずに、交番から飛び出した。あの少女は知っていた。どうして?
慌て交番を飛び出した札川は、既に消えてしまった少女の残り香を嗅いだような気がした。彼女はこの世のものであったのだろうか?札川には自信を持って言い切ることが出来なかった。