ヒトリガの恋人
とある深い森の奥に、朽ち果てた古城があった。
遥か昔に廃棄されたその城は、蔦と苔に覆われ、城というにはあまりにもみすぼらしい。
当然、住んでいる『人』は誰もいなかった。
その古城には、一人の吸血鬼が住んでいた。
染み一つ無い白い肌と同じ色の髪。深紅の瞳を持つ、人間離れした美貌を持った女性だった。
彼女は吸血鬼としては弱い部類らしく、古城に一人で住んでいるのは、同族から身を守るためだ。
力の弱い者は排除される。吸血鬼は人間に姿形は似ているが、性質は動物に近かった。
そんな訳で、本当に長い時間、彼女はずっと一人ぼっちだった。
それが変化したのは十年前からだ。
「先生こんばんは。いえ、先生はこれから活動するから、こんにちはの方が正しいですかね」
「また君か」
誰も寄りつかない森の奥の城には似つかわしくない、朗らかな青年の声が響く。
その声に対し、彼女は呆れたように振り向いた。
そこに立っていたのは、軽鎧と外套に身を包んだ若い騎士だった。
彼の名はウィリアム。この国の騎士団に所属しており、それなりに腕の立つ騎士らしい。
「まったく。十年前に君を助けたのは失敗だったね」
そう言って吸血鬼は肩をすくめる。ウィリアムは今年で28歳になるが、彼がまだ新米だった頃、訓練中に森で迷ってしまい行き倒れてしまった。
その時、彼女はウィリアムを拾って助けたのだ。別に深い理由があった訳ではない。
暇だったので子犬を拾ったくらいの感覚だった。
だが、それ以来ウィリアムは、暇があればこの古城に来るようになってしまった。
敵意は無いので放置している。
というか、むしろ十年間求婚をされ続けて困っているくらいだ。
「先生、これをどうぞ」
そう言ってウィリアムは花束を差し出した。
彼はいつもこうして花束を持ってくるが、そのたび、彼女は複雑な気持ちになる。
「花は好きだけど嫌いだ。あと、先生というのをやめなさい」
「でも、先生には名前が無いじゃないですか」
ウィリアムの言うとおり、彼女には名前が無かった。
吸血鬼は魔力の波長や匂いなどで個体を識別出来るらしい。
だから人間と違って名前を付ける習慣が無かった。
ウィリアムより先に生まれているという理由で、先生と呼ばれていた。
「それに、先生は花が嫌いと言いつつ、ちゃんと飾ってくれているじゃないですか」
「花は好きだよ。私は花を育てたいんだ。けれど、私はそういう風に出来ていない」
古城の一室は、ウィリアムが送った花を入れた花瓶が山ほど飾ってある。
彼女はほとんど物を置かないので、自室にはウィリアムが持ってきたプレゼント以外ほとんど何も無い。
彼女は古城の明かり取り用の窓に腰を下ろし、外を見た。
満月が空に昇り、古城と彼女を優しく照らす。
そんな彼女は吸血鬼というより、月の女神のように見えた。
「花は太陽の光で育つ。けれど私にとって太陽は毒だ。夜に花を摘む事は出来る。でも、私は他者が育てた愛を奪うだけで与えられない。悲しいことだよ」
彼女はそう言って笑う。いつも超然としているが、まごうことなき本音だった。
「先生は吸血鬼という割に、血を全然吸いませんね」
「あいにくダイエット中でね」
はぐらかすように彼女はそう言った。十年前、ウィリアムが出会ったときから、彼女はまったく変わっていない。まるで彼女の周りだけ時が止まっているようだ。
新米騎士だった自分がそれなりの地位になったのに、彼女はいつも変わらずここに佇んでいる。吸血鬼という割に、血を吸っている様子もまるで無い。
「私だって歳を取るよ。でも人間とは全然違う。君からしたら、私はおばあちゃんもおばあちゃんだ。もっと若い子と遊びなさい」
「ご安心ください。他の誘いは全部断っていますので」
「呆れたね」
ウィリアムはなかなか端正な顔立ちをしている。
それに地位も得ているので女性人気はなかなかのものだ。
だが、それらを全て断り、こうして異形の女性に会いに来ている。
「はっきり言おう……というか、もう何百回目になるか分からないが、私は君の気持ちに応える事は出来ない。人には人の幸せがある」
「俺の幸せはここにありますよ」
「呆れたね」
もう何百回このやりとりをしたのか分からないが、ウィリアムは一向に諦める気配が無い。
結局、その夜も当たり障りのない会話をし、いつものように時間を過ごした。
それから数日後、いつものようにウィリアムが古城の最上部にある部屋へ向かっていくと、いつもと少し様子が違う事に気付いた。
気だるげに窓の所に腰を降ろしているのはいつも通りだが、どこか雰囲気が違う。口では上手く言い表せないが、十年間見続けてきた直感という奴だ。
よく見ると、彼女の指先に何かが留まっているのが見えた。
「やあ」
彼女の方からウィリアムの方に声を掛けたが、ウィリアムはしばらく近付く事が出来なかった。
確かにそこにいるはずなのに、今日の彼女は妙に透明に見えたからだ。
「指先のそれは蝶ですか?」
「蛾だよ。ヒトリガという名前のね」
ウィリアムが目を凝らすと、彼女の指先に留まっていたのは蛾だった。
彼女が軽く指を振ると、ヒトリガは夜の空に吸い込まれるように飛んでいった。
「知っているかい? 蛾の中には、大人になると口が無くなる種類がいるんだよ」
「はぁ……」
彼女の言っている意図が汲み取れず、ウィリアムは曖昧に返事をした。
それを特に気にするでもなく、彼女はぽつりぽつりと言葉を紡ぐ。
「子供のころに蓄えた栄養だけで生きるんだ。それはせいぜい数日間。その間に恋をし、子を残して死んでいく」
彼女はさらに言葉を続ける。
「私は彼らがとても羨ましい。ちゃんと目的を持っていて、僅かな時間の中で懸命に生き、美しい姿で死ねるのだからね」
彼女は腰を上げ、ウィリアムに近付いた。
頭一つ分以上違うので、彼女がウィリアムを見上げるような形になる。
「君は私を愛しているんだね?」
「ええ、もう何百回も伝えたはずですが」
「恋しているのではなく、愛していると」
「た、多分……」
恋と愛の違いと言われても、ウィリアムには正直よく分からない。
けれど、彼女はなぜか表情を緩め、背伸びをした。
「よろしい。じゃあ君に愛の試練を与えよう」
そして、彼女はウィリアムに身を寄せ、耳元でそっと囁く。
「私を抱いて殺しておくれ」
「えっ……?」
何を言われたのか分からず、ウィリアムはただただ困惑した。
それからウィリアムは彼女を抱き抱え、古城の頂上へと来ていた。
いわゆるお姫様抱っこという奴で、特に抵抗する事も無く彼女は身を任せていた。
「想像していたのと違ったかい?」
「ええ……まあ」
からかうように彼女は笑うが、ウィリアムの表情は硬い。
「先生、本当にいいんですね?」
「ああ。君には申し訳ないと思うけれど、冠婚葬祭をいっぺんに済ませると思っておくれ」
彼女が要求した事――それは日の出まで、自分が逃げ出さないように抱きしめていてくれという事だった。
「何故こんな事をするんですか?」
「君は私を愛しているんだろう? だったら、愛する人の要望に応えて欲しいのだけれど」
「納得がいきません」
ウィリアムは徐々に昇ってくる朝日を睨みつけながら、彼女に抗議をした。
すると、吸血鬼の方も溜め息混じりに応える。
「私はね、もう疲れてしまったんだよ。君からすれば美しい姿でも、私にとっては何の価値も無い吸血鬼の劣等生さ。私はただ緩慢な自殺を続けている。でも、一人で陽の光の元に出るほどの勇気は無くてね」
「だから、俺に先生が逃げないように抑えていろと」
「まあそういう事かな」
「でも、そんなのあんまりじゃないですか! ようやく先生に思いが通じたと思ったのに……!」
ウィリアムはそう叫ぶが、吸血鬼は宥めるような穏やかな目線を向ける。
「だから言っただろう。君は私を愛してくれているんだろう。なら、その愛が本物か見せて欲しい。君が悲しむのは分かる。けれど、それは君自身を優先しているって事だろう?」
「…………」
「私はね、恋というのは燃え上がるように激しいが、いずれ消えてしまうものだと思っている。でも、愛というものは、時間が経っても消えないものじゃないかな。呪いに近いかもしれないね」
「呪い……ですか?」
「そう。だから私は君に呪いを掛ける。私が日光を浴びて死んでしまっても、君が本当に私を愛してくれているなら、きっと一生忘れないだろう。なら、君の中に残るそれこそが、私を愛しているという証明になる」
それに、と一呼吸置き、吸血鬼はなおも続ける。
「私もね、君の事は悪くないと思っていたんだよ。でも、私と君では違いすぎる。君と私が結ばれても、君が老いて死ぬまで愛してくれても、私はずっと今の姿のままだ。そうして君が居なくなった後、私は本当の意味で孤独になってしまう。この一人家でね」
そうして話しているうちに、徐々に山の向こうから朝日が昇り始める。
日差しが強くなるにつれ、腕の中の小柄な吸血鬼は苦しそうに身をよじる。
「先生……!」
「もし……ここで逃げ出すようなら……私は、一生君を恨む……」
苦しげに喘ぎながら、吸血鬼は強く彼の腕を握る。
他の全ての生命にとって活力となる暖かな日差しは、彼女にとっては生命を蝕む猛毒。
「灯蛾というのはね……まばゆい光に引き寄せられる性質がある……たとえそれが身を焼く炎でもね」
最初は悶え苦しんでいた彼女だが、今はウィリアムの腕の中でなすがままになっている。
無情にも今日は快晴。それはつまり、吸血鬼にとってもっとも殺意を向けられる日ということだ。
「先生……!」
「泣くんじゃない。男の子だろう……」
ウィリアムは泣いていた。何度も城の中に引き返そうと思ったが、どうしてもそれが出来なかった。
それをしてしまえば、きっと彼女はどこか一人で同じ事をする。そんな確信があった。
「……ああ、ちくしょう。綺麗だな……憎たらしいほど綺麗だ」
それは彼女が太陽に向かって言ったセリフだったが、ウィリアムは自分の腕の中、今にも死のうとしている愛しい人に対し、同じ事を思った。
「今度は花に生まれたいな。日の光を浴びて、美しい姿になって愛されたいものだね。なれるかな」
「なれますよ。きっと」
「……ありがとう。君は人の世界で幸せになりなさい。そして、時々、私の事を思い出してくれると嬉しい」
「俺は、生涯あなたを愛し続けます」
「……そうか……それは……嬉しいね」
そう言って、吸血鬼はゆっくりと目を閉じる。その瞳は、二度と開かれる事は無かった。
どれだけの時間そうしていたのだろうか。恐らく、相当な時間が経ったであろう。
しばらくの間、ウィリアムは何もやる気がせず、眠るように死んでしまった最愛の人を、彼女の部屋に横たえたままだった。
それからさらに時間が経ち、ウィリアムはそのまま古城を出て、かつて庭園であったであろう場所に彼女を埋葬する事にした。
「先生、ここなら日当たりもいいですよ。雑草ではありますが、美しい花々も咲いていますからね」
吸血鬼は名も無き古城の庭に埋葬されることになった。
死んでからも永遠に姿形が変わらないのではと思ったが、生きている間は全く姿が変わらなかった彼女なのに、死んだ後は急速に汚れていった。
ウィリアムは逆にそれが嬉しかった。
永遠に朽ちる事が出来ない訳ではない。
きっと、彼女はのけものにされていた生命の輪に、ようやく入る事が出来たのだろう。
それからしばらくした後、ウィリアムは騎士を辞め古城の墓守となった。
朽ち果てた古城の誰の墓を守るのかと皆に問われたが、彼は決して喋らなかった。
ただ一言、「私が死ぬ時は、古城に墓石を建ててあるから、そこに私を埋めて欲しい」とだけ言伝をしておいた。
数十年が経ち、老人となったウィリアムは、彼の希望通り自分が用意した墓に埋葬された。
街から遠く離れた古城に埋葬されるのを希望したのも謎だが、さらに謎だったのは、墓標に記されていた名前だ。
ウィリアムは分かるが、妻の名前が「先生」と表記されていたので、埋葬に携わった者たちは首を傾げた。
とにかく、ウィリアムは当初の希望通り、よく分からないまま埋葬されることになった。
「思ったより早かったじゃないか」
「いえいえ、俺にとっては途方も無く長かったですよ」
ウィリアムを埋葬した時、近くに居るものはふとそんな声を聞いた。
幻聴かと思ったが、周りに居た人間はみな同じ体験をしたらしい。
そういえば、数十年前、ここには怪物が住んでいたという噂話があった。それを思い出した者たちは、目的は果たしたので一目散に逃げ帰っていった。
「ようやく二人きりになれましたね。先生」
「呆れたね」