六、奇才の妓、酔いて宴を騒がす
楓娘が予約してくれた宴会の日は、ほどなくやってきた。雪友は当日に至ってもやる気が出ず、寝床からあがるのも億劫だった。とはいえ、楓娘の顔を潰すことは出来ない。ここ何日かぶりにしっかり身なりを整え、店の入口で楓娘と待ち合わせた。
楓娘は先日の一件以来、すっかり雪友に心を許しているようだった。何かにつけて「ねえや、碁で遊ぼうよ!」「一緒に月見酒をしない?」と誘ってくれる。多分、恩返しがしたいのだ。雪友は、この妹分が次々やってくるお客の相手で忙しいのを知っていたから、いつも理由をつけて断っていた。雪友からすれば、お礼をしたいのはこっちの方なのだ。あの晩、楓娘が口添えしてくれなかったら、自分は今頃女将の言葉通り下女に格下げされていたに違いなかった。
雪友が店前でぼんやり立っていると、ほどなく楓娘がにこにこしながらやってきた。
「ねえや、お待たせ!」
雪友も曖昧な笑みを返した。
「今日はよろしくね。あんたの足を、なるべく引っ張らないようにしなきゃ」
「何言ってるの。ねえやが足手まといだなんて! あたし、そんなこと思わないよ」
楓娘は笑いながら馬車へ乗り込んだ。雪友もその後に続く。
宴会の場所へ着くまでの間、二人は取り留めのない会話で時間を潰した。楓娘は、最近の雪友のだらけた商売態度を、一切話題にしなかった。姉妹や下女達もしょっちゅう噂しているから、楓娘だけが知らないはずはない。わざわざ気遣ってくれているのだとわかる。雪友は感謝の念を覚え、また自分自身が情けなくて仕方なかった。
「真面目だけが取り柄の人間なんて、ろくなものじゃないわね。商売してるんだから、稼げるようにならなくちゃ意味が無いのに」
雪友はぽつりとこぼした。楓娘はちょっと呆気にとられていたが、やがて自分なりの言葉で語り始めた。
「ねえや、あんまり思いつめちゃだめだよ。真面目な人はね、他の人が気にしないようなことが、どうしても気になっちゃうんだと思う。でも、それが悪いんじゃないんだよ。あたしなんて、お金は稼げたって、やることが大体いい加減だから、姉さん達も下女達も陰であれこれ言ってるでしょ。ほんとは、そういうのにも気を遣わなきゃいけないんだもんね。あたし、ねえやを尊敬してるの。もし他の人があたしに説教しても、全然耳を貸すつもりないけど、ねえやだけは別だな。ねえやが注意してくれたら、あたし、絶対に言うこときくからね」
雪友は胸をつかれた。この子は、なんでこれほど私を大事に思ってくれるんだろう。私だって散々この子のことを悪く言ったことがあるし、翠玉館の時だって酷い扱いをしたのに。やってあげたことと言えば、廓に連れ帰って吐いたものの片づけをしたくらいだ。
疑問を口にしかけた時、馬車が止まった。そこは南京城外、方山のふもとで、海棠の花が咲き乱れていた。花見にはまたとない景色が広がっている。
石造りの小亭に集まっていた文人達が、雪友と楓娘の到着に気がつき、ぞろぞろと近づいてきた。楓娘が先に進み出て、にこやかに挨拶を述べる。先頭にいた老書生は嬉しげに返礼し、袖で亭を示した。
「よくぞお越しくださった! もう支度はととのっておりますぞ。ささ、こちらへ!」
亭内の石卓上には、所狭しと酒やつまみが並べてあった。が、そこは日頃ケチケチしているこの客達のこと、ろくなものが揃っていない。最も高そうな酒でもせいぜい五年ものだし、つまみも城内の露店で手に入るような安物ばかり。雪友はすぐに気がついたが、顔には出さなかった。楓娘も同じだ。それどころか無邪気そうに瞳を輝かせて「まあ、こんなに沢山ご用意してもらって、ありがとうございます!」などと言ってのけた。文人達の顔色には安堵、あるいは喜び、また得意げな色が浮かぶ。普段は贅沢な客ばかり相手にしている楓娘だが、貧乏な客を前にしてもそつがない。
私の出る幕はまったく無さそうね。雪友はそう思った。もともと今日の宴会は楓娘が主役なのだから、彼女の顔が潰れないよう気を遣っていよう。
年嵩の文人が短い挨拶を述べ、宴会が始まった。咲き誇る海棠を眺めつつ、酒やつまみをあじわい、妓女と文人達は歓談した。
雪友は酌をしたり、軽くおしゃべりをしながら、妹分の接待ぶりを観察した。そして、見れば見るほど驚かされた。前回の翠月館で楓娘は泥酔していたはずなのに、客達の顔や特徴をほぼ間違いなく覚えていたのだ。そのうえ「あなた、程さんでしょ。あたしの楓の字の書き方、教えてくれましたよね?」「あっ、張様。三日前に、あたしも恵山の水で作った雨前茶飲んだんです! とっても美味しいですね!」といった台詞がぽんぽん自然に飛び出す。あっという間に、彼女はその場の人々の心を掴んでしまった。
しばらくして、誰かが酒令をやろうと言い出した。互いにお題を出し合って詩作をし、うまく詠めなければ罰杯を飲む。科挙を受けるような読書人が好む風流な遊戯だ。
普段から詩文を嗜んでいる雪友は問題なかったが、楓娘にとってまるきり苦手な分野だった。彼女はあっさり諸手をあげた。
「あら。あたし、そんなの難しくて出来ません!」
これが他の妓女だったら、文人達は「やれ瑞烟楼の妓女も教養が落ちたものだ」だの「これしきの遊びにもつき合えぬとは嘆かわしい」だのと、大袈裟に首を振って皮肉っただろう。が、楓娘にすっかり魅せられている彼らは、それならどんな遊びがいいのだ、と笑って聞き返した。
楓娘は指を唇に当て、思いついたように言う。
「あたし、あれが好きです! すごろくと、的当て!」
低俗な遊戯ではないか。文人達は大笑いした。しかし楓娘がどうしてもそれがいいと言い張る。ちょうど、客の一人がさいころを持っていた。楓娘が手を叩いて言った。
「じゃ、賽の目で賭け遊びをしましょ! 順に振っていって、一番目の低い人が罰杯です!」
大勢の賛同を得ると、読書人の宴会らしからぬ低俗な遊びが始まった。各人が順々に賽を振るい、最も小さな目を出した者が酒を飲む。
しばらくは何事も無かったが、やがて郭という中年の書生が、運悪く三回連続で罰杯になった。これ以上は負けられない。次に自分の番が回ってきた時、最も低いのは二の目だった。三以上を出さなければまた罰杯だ。必死に念じながら、賽子を転がす。
円卓の真ん中で回転した賽子が動きを止めた瞬間、郭はいきなり手を伸ばしてそれを掴んだ。
「四だった」
そう言って、隣の者に賽子を押しつける。
すると、反対側から声があがった。
「おい、待て。今のは二だったぞ」
「いいや、四だ」
郭はあくまで言い張る。半分の者は、彼が負け込んでいるから、ちょっとの不正は大目に見ようという雰囲気だった。が、残りの者はイカサマに憤慨している。特に一番低い目を出していた老書生の銭は、しつこく郭に振り直しを要求した。
座の空気が険悪になりかけたところ、楓娘が手を叩いて言った。
「あら、じゃあこうしましょ。郭さんと銭さんで、的当てをやるの。当てられなかった方が罰杯よ!」
二人の返事を待たずに、近くの木に駆け寄っていって丸い的――宴席の誰かが、的当ての道具をあらかじめ用意していた――を掲げる。そして愛嬌たっぷりの笑みを浮かべながら、郭と銭へ小さい投げ矢を押しつける。こうなると、二人の男も断れなかった。周り人々もやれ、やれとはやし立てる。
先に郭が、続いて銭が的めがけて矢を放った。どちらも端の部分に刺さり、同点だ。これでは決着がつかない。
と、楓娘が待ち構えていたかのように名乗りを上げる。
「じゃあ、次! あたしがいきます!」
すかさず投げた矢は、大きく外れて木の幹へ突き刺さった。
「アハッ! 失敗しちゃった。仕方ない、あたしが罰杯いただきますね!」
楓娘は、郭と銭のどちらかが飲むはずだった杯を掴み、一気に空けてしまった。豪快な飲みっぷりに一同が思わず拍手喝采する。楓娘は口元を袖で拭い、あでやかに笑った。
「さ、これで一件落着です。みなさん、仕切り直しよ!」
傍観していた雪友は、妹分の手腕にすっかり感心してしまった。
楓娘は遊び事なら何でもござれで、的当ての腕も百発百中、酔ったところで外したりはしない。
さっきのは、明らかにわざとだ。雪友にはわかっていた。全ては郭と銭の顔を潰さず、皆に楽しんでもらうためだ。
一見、バカ騒ぎをしているようで、その実宴席の雰囲気を巧みに操っている。全て計算づくなのかもしれないし、あるいは天性の才覚なのかもしれない。女将はしばしば、楓娘が妓女として並外れたものを持っていると褒めていたけれど、それはきっとこういうことなのだ。
宴会は、穏やかな空気を保ったまま終わった。のみならず、楓娘は文人達に次の宴会の約束を取りつけてしまった。もちろん金額は二十両、雪友を呼ぶのも条件に入っているので、合計四十両だ。一同は快く承知したが、雪友は彼らのために、半分本気で心配した。普段は三、四両の席代でひいひい言っている男達が、四十両もの金をどう捻出するのだろうか。
雪友と楓娘が瑞烟楼に戻ったのは夕方だ。下女達が支度に追われ、廊下をばたばた駆け回っている。
三階へ上がると、ちょうど李能が自分の部屋から姿を現し、声をかけてきた。
「あら、戻ったの。宴会はどうだった?」
「無事に終わりました。まあ、私は殆ど何もしてなくて、全部この子が――」
振り向くと、足早に立ち去る楓娘の背中が見えた。雪友が呆気に取られていると、李能は苦笑した。
「気にしないで。あの子、私と話したくないのよ」
「え、何でですか?」
楓娘は姉妹達の中でも、李能と最も仲が良い。いつも遊びや飲みに誘い、顔を合わせれば長々おしゃべりをしている。不仲と聞いて驚きを隠せなかった。
「翠月館の件で、私があの子を厳しく叱ったから。宴席へ呼んだお客をちゃんと相手にしなかったから、後々詫びを入れる羽目になったのよ、って。そしたら拗ね出して、私とは口もきこうとしないの」
なるほど、そういうことか。同時に、楓娘が自分へ親しげだった本当の理由もわかりかけてきた。李能と距離が出来てしまい、その代わりとしてちょうどよかっただけなのだ。あるいは、姉貴分へのあてつけも入っているのだろう。雪友なら楓娘を叱ったり、文句を言うことはしない――それどころか、ここ最近は優れた仕事ぶりを見せつけられ、尊敬すらしていた。
もっとも、李能は楓娘と不仲になった状況を、大して気にしていないようだった。
「私のことはいいから、あなた、しばらくあの子をお願いね。実際、孤立気味なの。私以外にも、かあさんと大姉さんに怒られて。四妹は日和見だから、かあさんの肩を持つでしょ。二姉さんや八妹とは日頃そこまで親しくないし、七妹とは喧嘩ばかりだから。仲良く出来そうなのは、あなたくらいなのよ。あなただって、あの子にくっついていれば、稼ぎで色々助けにもなるでしょう? そういうことだから、少し気にかけてあげてね」
雪友は頷いた。
李能と別れて自室に戻ると、王鳴鳳が中にいた。不機嫌な面持ちで、卓に頬杖をついている。不穏な様子に、雪友はぎこちない笑みを浮かべながら声をかけた。
「どうしたの。人の部屋で待ち構えてるなんて、脅かすつもり?」
「まさか。ちょっと言いたいことがあっただけ。もっとも、とうにおわかりかもしれないけど」
「何のことだか……」
鳴鳳はせせら笑った。
「ああ、そう。沢山稼いでご機嫌だから、他の人なんか気にもならないってわけ?」
雪友はようやく、わかりかけてきた。鳴鳳とは仲良しで、悩みはいつも分かち合ってきた。その彼女を怒らせる何かがあるとすれば、恐らく楓娘絡みに違いない。
「もしかして、あの、あなたが怒ってるのは……私と楓娘が仲良くしているせいなの?」
「他に、何があるっての!」鳴鳳が立ち上がり、鋭く言い返した。「ちょっと席代を儲けさせてもらったくらいで、あいつに尻尾を振るわけ?」
「よしてよ。尻尾なんか振ってない。あの子が好意で声をかけてくれてるだけ」
「好意? 馬鹿馬鹿しい。どこが好意だっての。三姉さんやかあさんに叱られて味方がいなくなったから、お金であなたを取り込もうとしてるんじゃない。本心から仲良くするつもりなわけないでしょ。あなたもあなたよ。小細工にまんまとのせられるなんて」
雪友はむっとした。鳴鳳の気持ちも、決してわからなくはない。一番の盟友だった雪友が、最も嫌っている楓娘と親しくなるのが気に入らないのだ。
理屈からいっても、多分鳴鳳が正しいのだろう。楓娘は確かに立場が悪くなったし、だから味方に引き込みやすそうな雪友に何かと声をかけるのだ。李能も同じ意見だった。
けれども、いざ楓娘を罵られると、彼女と親しくしている自分までが罵られたように思えて、不愉快極まりなかった。何より、一緒に仕事をするうち、妹分への尊敬がすっかり高まっている。
こういう場合、理屈の正しさは関係ない。雪友は毅然と答えた。
「水月館の件は、確かに楓娘の間違いだったかもね。でも、あの責任なら私にだってあるもの。一緒に背負ってあげるのが当然じゃない? 姉妹なんだから、持ちつ持たれつよ。あの子を特別扱いするつもりも、あなたをないがしろにするつもりもないわ。だけど、殊更楓娘のことを悪く言うなら、私はあなたの味方でいられないでしょうね」
「へえ」鳴鳳は一歩も引かなかった。「あいつも随分、お上手だこと。あなたにここまで肩入れさせるなんてね。一体いくら払ったんだか」
「勘繰り過ぎよ。あの子が嫌いだからって、何もかも捻じ曲げた見方をしないで」
「捻じ曲がってるのはあなたもなんじゃない? お金に目がくらんで、他人の真面目な忠告もきけないようだし。浅ましいったらない――」
金、金と連呼され、雪友も堪忍袋の緒が切れた。平手で卓を思い切り叩き、怒鳴りつける。
「言っていいことと悪いことがあるわよ! 私がいつ、他人のお金になびいたっていうの! あなたは自分で稼げていないから、私が少し多く席代をいただいただけで過剰に噛みついてくるんでしょう! 忠告だの何だの、本当のところは、ただの嫉妬なんだわ! 浅ましいのはどっちなのよ!」
鳴鳳は肩をすくめ、皮肉そうに笑った。
「話すだけ無駄だね。それじゃ、あんたの好きにしなよ。私はもう知らないから」
きびすを返した彼女へ、雪友は容赦無く言葉を浴びせた。
「今度話がある時は、私が戻るまで外で行儀よく待ってなさい! ここはあなたみたいな人が勝手に入っていい場所じゃないんだから!」
しばらくは怒りがおさまらず、鼻息を荒くしながら室内を行ったり来たりしていた。椅子を蹴飛ばし、それから卓に置いてあった水を数杯飲み、ようやく心を落ち着けた。
その日は、一人だけ客が来た。痩せっぽちの中年書生だ。見るからに貧乏臭い。ちびちび酒を飲み、ちょっとのつまみを注文し、くだらない話をしただけで帰っていった。
席代は一両にもならない。雪友は自嘲した。楓娘の力を借りなければ、私なんてこんなものだ。今日は気分が乗らないし、もう休んでしまおう。下の階は賑やかだったが、雪友は下女を呼び、今晩は客を入れないよう告げた。扉を閉めると、だらだらと読書して過ごす。
その楓娘が、夜中になって部屋へ駆け込んできた。両目を泣き腫らし、着物も乱れている。大分酒を飲んだのか、足取りがややおぼつかない。雪友はやや狼狽して出迎えた。
「どうしたの?」
「聞いてよ、ねえや! みんながあたしを虐めるんだよ!」
「虐めるって、何があったの?」
「あたしは悪くないんだよ! それなのに、李ねえやも黄ねえやも、あの鳳烏も、よってたかって……」
つんとする酒の臭いと一緒に言葉を吐き出しつつ、雪友へしなだれかかる。とりあえず落ち着かせようと、お椀に茶を汲んで飲ませてやった。
そこへ、ぞろぞろと人影が部屋へ踏み込んできた。雪友は楓娘を寝床に座らせ、急ぎそちらへ向かった。
「ほら、やっぱりここにいるじゃない」と黄湘君。その後ろには李能、王鳴鳳、それと姉妹順で一番下の董蘇がいた。
見たくもなかった鳴鳳の顔を見たこと、またしても自分の部屋が喧嘩の舞台になりかけていることに、雪友は早くも苛立った。
「みんな、お客の相手もしないで、こんなところに何の用?」
「用があるのはあんたじゃないから。どいてくれる?」
冷ややかに返した鳴鳳を、李能がしかめ面で後ろに押しやり、なだめるように雪友へ言った。
「ごめんなさいね。楓娘がまたちょっと騒ぎをおこしたものだから」
「何があったんです?」
「西町の黄員外様がうちの広間で誕生祝いを開いて、楓娘と董蘇が同席してたの。董蘇はお酒があんまりいけないから、最初の一杯以外は楓娘が代わりに飲んであげてたわけ。そこまでは問題なかったわ。でも宴会が進んでそれで大分出来上がった頃に、黄員外が楓娘をからかってちょっと冗談を口にしたの。で、同席してた人達が全員大笑いしたものだから、董蘇もその場に調子を合わせて笑ったのよ。そしたら、突然楓娘が怒り狂って…。『お客があたしを笑うのはかまわないけど、なんであんたにまで笑われなきゃいけないの。誰があんたの酒を肩代わりしてやったのよ! 恩を仇で返すの!』って。その先はもう、無茶苦茶よ。董蘇に馬乗りになって叩いたり引っ掻いたり、挙げ句には飲んだ酒を吐き戻して董蘇の着物にまき散らすし……」
話半ばで、李能が額へ手を押し当てる。
あんまりな醜態に、雪友も開いた口が塞がらなかった。
黄湘君が肩をすくめ、後を引き取る。
「まあ、黄員外は楽しんでいたみたいだけど。こんな面白い見世物は滅多に無いって」
「悪趣味よ。妓女のケンカを酒の肴にするなんて」と鳴鳳。
雪友は皆の背後で縮こまっている董蘇を見た。頭を垂れて、何やら袖をいじくっている。頬や顎には引っ掻かれた傷が浮かぶ。橙色の着物もぶちまけられたお酒で汚れ、裾と襟のあたりが大きく裂けていた。これは董蘇が姉妹達の仲間入りをした時、みんなでお金を出して買ってあげたものだ。彼女も気に入っていて、大事な宴席の時にしか着ようとしなかった。今日こんな目に遭って、さぞ落ち込んでいることだろう。
雪友は李能に目を戻した。
「女将は何て言ってるの?」
「この前、翠月館のことで叱ったばかりでしょう。またあれこれ言って楓娘の機嫌を損ねたくないから、今日は全部董蘇がいけないって言うの。騒ぎのきっかけを作ったからって」
「で、董蘇が可哀想だから、こうしてみんなで押しかけて、楓娘の説教に来たの?」
「あたし、悪くない!」出し抜けに、楓娘の怒声が飛んできた。足音荒く近づいてきて、真っ赤な顔で喚き散らす。「だってそうでしょ! あたしを馬鹿にした人達と一緒に、あたしのことを笑ったんだよ!」
「ねえ、楓娘」李能がなだめにかかった。「あなたは董蘇より年下だけど、姉妹の序列は上でしょう? 妹分が間違ったからといって、暴力を振るうことはないじゃない?」
「あたしの面子を潰したんだよ! このあたしの! それで怒って、何がいけないの!」
楓娘の言い分にも、まったく理が無いわけではない。雪友はそう思った。姉妹は手足のごとし、日頃多少の諍いはあっても、助け合う商売仲間だ。宴席で客の笑いものにされたら、庇ってやるのが姉妹の情というもの。もし同席していたのが李能や黄湘君だったら、黄員外の冗談に同調したりせず、楓娘のために弁護したことだろう。けれども、場数の足りない董蘇はそこまで気が回らなかったに違いない。もともと気弱で日和見な一面もあるし、安易に場の流れに乗っかって、姉貴分を笑う側へついてしまったと見える。
黄湘君が、愛想良く楓娘へ寄り添った。
「ねえ、あなた。私達、別に説教なんかするつもり無くてよ。あなたの気持ちもわかってる。でもねえ、八妹のちゃんとした着物はこれっきりなのよ。それを台無しにしたんだから、あなたも気分は済んだでしょ? 仲直りに、新しいのを弁償してあげなさいな」
「弁償なんかしない! 自分で買えばいいじゃない。大して値が張るわけでもないし」
「あなたにとって安物でも、八妹には違うの。知ってるでしょ」
「しないったらしない!」楓娘は怒鳴り返し、続いて董蘇へ指をつきつけた。「あんた、何なのよ。さっきからみんなの陰に隠れて、自分でものも言わないで! 席であたしを笑っただけじゃ、まだ足りないっての!」
董蘇はぎくりとしながらも、ためらいがちに答えた。
「違うんです……。わ、私、ただ姉様に謝りたくて。着物は、もういいです。自分で新しいの買います……」
途中で声は震え、涙の玉が瞳の端で膨れ上がる。傷だらけの顔にぼろぼろの着物、なんとも哀れを誘う姿だった。
董蘇は二年前、女将が十両で買い入れた下女だった。容姿は整っているし、働きぶりも悪くない。何より、客受けが良かった。店前で客引きをさせると、普段より多くの者が足を止めるのだ。可憐で気弱な彼女が、必死に声をかけてまわる姿は、男達の注意をよく引いた。このまま下女として使うのはもったいない、女将はそう判断し、格上げして姉妹達の末席に加えたのだ。
けれども、そこからが大変だった。董蘇にはこれといった強みが無かった。歌も踊りも書も遊びも得手ではない。酒も強くないし話もうまくない。今は芝居の師匠を呼んで稽古をさせているが、まだまだ人前で立派に披露するだけの腕前には達していなかった。
自分は下女あがりで何の能も無い、瑞烟楼の売上げの足を引っ張っている……。何かにつけてそんな弱音を吐くので、姉妹達も日頃から気を遣い、励ましてやっていた。そんな矢先に、今回の事件だ。ただでさえ売れっ子、しかも女将の養女である楓娘にはとても頭が上がらない。そんな相手から怒りを買った日には、董蘇も気が気でないことだろう。李能達がこの末妹に味方しているのは、そんな立場の弱さがあるからだ。
雪友は楓娘と董蘇を見比べた。そして、自分がまずい立ち位置にいることにも気がついた。
私は一体、どちらの側につくべきだろう?
「ねえ、周ねえや。ねえやはあたしの味方だよね?」
案の定、楓娘が雪友の袖を掴み、激しく揺さぶりながら尋ねた。
「ああ、ええと、うん――」
答えを濁した矢先、鳴鳳が意地悪い笑みを浮かべた。
「あんたが頼りにしてるお姉様は、投げ銭が足りなくて味方出来ないってさ」
李能が黙っていろとばかり、肘で鳴鳳を小突く。さっと顔色を変えた楓娘に、雪友は狼狽しながら優しく言葉をかけた。
「そんなことない! 私、その……あなたの味方よ。悪いことをしたなんて、思ってないから……」
話している間に、ちらちらと李能へ視線を飛ばし、どうかわかってくれと訴える。今はどちらの側についても具合が悪いのだ。自分を頼りにしてくれる楓娘を突き放したくないが、かといって他の姉妹達を敵にまわしたくもない。李能が心得顔で小さく頷いたので、雪友もいくらか安心した。この姉なら、後でみんなに雪友の苦衷をうまく説明してくれるだろう。それと董蘇の着物代を出しておけば、彼女自身の気持ちの証明になるはずだ。
楓娘は雪友の言葉を聞いて、いくらか気分が落ち着いたらしい。董蘇もこれ以上騒ぎが大きくなるのに気が引けたのか、小声で「もう戻りませんか?」と促す。
皆が解散しかけたところへ、下女の臙児があたふたしながらやってきた。
「周姉さん、そこにいらっしゃいますか! 大変なんです。外に……!」