五、尽きせぬ悩み、重ねて災難を招く
周雪友は、女将のやり方に苛立ちを隠せなかった。
生きている人にはお金を出さないのに、死んだ仏には五十両も出すなんて……。五十両があれば、弟を瑞烟楼へ引き取って数か月は問題なく養ってやれるだろうに。あんな欲張りの尼僧へ喜捨するのは、金をどぶに捨てるようなものだと思った。
そのまま部屋へ戻ったものの、気分がおさまらない。読書をしたり、詩作をしてみたりしたが、まるで集中出来ないので、すぐ投げ出してしまった。
程なく、夕刻になった。今日は文人達の詩会の宴席に呼ばれている。雪友はせっせと支度にかかった。
詩会といっても、何のことは無い。参加している文人の多くは科挙に何度も落ちている半端者で、日頃の勉学の疲れを忘れるべく、定期的な会合を開いているのだ。一応、各人が詩を持ち寄って合評などもしたりするが、宴会の殆どは飲んで騒いで、やれあの妓女は可愛いだの、あの役人は気にくわないだのといった、どうでもいい話題に費やされるのだった。
会場は南京の東にある翠玉館という楼閣だった。瑞烟楼からは、雪友以外に白楓娘にも声がかかっていたので、二人は一緒の馬車に乗って翠玉館へ向かった。楓娘も郭静がまんまと五十両をせしめたことに憤り、散々あの尼を罵った。
「あたし、ほんとは今日の宴会も行きたくなかったの」
楓娘がふと話題を変えて言った。
「どうして?」
「だって、あたしを呼ぶのに十両しか出してくれなかったんだもん。あたし、二十両出さない宴席には顔を出さないことにしてるの。だけど、今日はいつも懇意にしてくれてる張様の知り合いがいるから、仕方なく十両で承知したんだ」
雪友は曖昧に笑い、口をつぐんだ。自分がこの宴席に、たったの四両で呼ばれたことは、とても言えなかった。
今日の宴会の主催は、詩人としてそこそこ有名な胡求という文人だった。今年で六十歳になる。二十代の頃から科挙試験を受け続けているが、未だ及第ならず、妻帯もしておらず、家塾の教師をやって細々と食いつないでいる男だ。
宴席には、五つの卓に別れ、二十人近い文人が顔を揃えている。卓一つにつき、二人の妓女が座った。瑞烟楼以外にも、南京のあちこちの廓から、それなりの妓女が呼ばれていた。
胡求が、長々とした挨拶を述べ、ようやく宴会が始まった。詩の合評もそこそこに、雪友と楓娘のいる席の文人達は、最近の科挙に対する文句をぶちまけ始めた。
「近頃の試験ときたら……試験官はあまりにも見る目が無さすぎる! 受験者があまりに多いんで、回答文を最後まで読まず、冒頭の文言が気に入らなけりゃすぐ落第ではじくんだ!」
「蘇州に籍を持ってるだけで、及第させるって話だよ。派閥が幅を利かせてるのさ。まったくけしからんね!」
「歳をとってるというだけで落とすそうだ。受かっても長く働けないという理由でな。ふん、若いのが必ずしも優秀とは限るまいが?」
本当か嘘かもわからない話を、雪友は愛想笑いで受け止め、酌をしたり、慰めの言葉をかけたりした。何人かは自作の詩を彼女へ押しつけ、批評を求めた。どれも大した出来では無かったが、雪友が必死にいいところを見出し、無理に褒めてみせると、文人達は満足げに頷くのだった。
向かいに座っている楓娘は、次第に退屈な表情をあらわにした。日頃、酒令や的当てのような遊びばかりやっている彼女からすれば、学問にどっぷり浸かったお堅い連中の宴会は性に合わなかったし、詩の批評となるとまったく出来ない。酒をぐびぐび飲んで、宴会の半ばにはすっかり泥酔していた。
妹分の無様な姿を見た雪友は、いささか腹が立ってきた。自分が真面目に接待をしている横で、こうもいい加減な振る舞いをするなんて。ところが、卓の文人達はそんな楓娘を咎めるどころか、背中をさすってやったり、酔い覚ましに温かいお茶を飲ませてやったり、主客の転倒したような気遣いを見せた。楓娘は真っ赤な顔ににこにこ笑みを浮かべて、愛嬌たっぷりに応じた。
「アハ、皆さん、ありがとうございます。あたし、学が無いから、詩とか文章とか、ぜーんぜんわかんないんです。それでも良かったら、出来の悪いあたしに、沢山教えてくださいね!」
文人達は一斉に笑い出した。初老の書生が尋ねた。
「お嬢さん、自分の名前は書けるかね?」
「あっ、ハイ! 知ってます。あたしの部屋の前に、名札が下げてありますから! ええっと……」
楓娘は箸を一本手に取ると、酒杯に先端を浸し、卓上にぐにゃぐにゃした字を書き始めた。同席の文人達が全員身を乗り出し、面白そうにその様を眺める。雪友だけが、その空気に置いていかれた。
楓娘が意気揚々と書き上げた字を見て、文人達がまたしてもどっと笑う。楓の字の「風」が「凧」になっていた。客の何人かが、懇切丁寧に正しい字を教えてやると、楓娘も大袈裟に笑って「あーあ、間違えちゃった! あたし、罰杯飲みます!」と手近な杯を一気に空けてみせた。文人達は大喝采だ。彼らは日頃、詩文に優れた妓女達の接待ばかり受けているから、楓娘のような人間がかえって珍しく、また可愛らしく感じたらしい。卓の雰囲気は、あっという間に楓娘が支配してしまった。
雪友はげんなりした。私ときたら、酔っぱらって、デタラメな接待をしてる妹分にも及ばないの? まったく、やっていられない……。
ご不浄を口実に、雪友は席を離れた。誰も気に留める者はいない。
楼の外へ出ると、人気のない場所でほんの少し泣いた。冷たい夜風が肌にしみる。幾らか気を取り直して戻ると、楓娘の周りには先程より多くの文人達が集まり、一層盛り上がっていた。
「あれ、あんたのとこの子なんでしょ?」
突然声をかけられ、雪友はぎょっと振り向いた。緋色の着物をまとった細面の妓女が、すぐ隣にいた。口端を歪め、忌々しげに楓娘を見ている。
「ああ……ええと、はい」
「あんな無学で下品な子、よく連れてきたわね。男どもも見る目が無いよ。物珍しさにちやほやしてるけど、どうせすぐ飽きるんだから」
雪友は妹分のために弁解しようかと思ったが、妓女の言葉は見事に自分の気持ちを代弁していた。そこへ、さらに数人の妓女が集まってきた。誰しも思うところは同じらしい。密やかに言葉を交わし、楓娘の悪酔いや、教養の無さをあざ笑った。一人が雪友へ尋ねた。
「同じ店で働いてるんでしょ。あの子、実際のところはどうなの?」
雪友は、ちらっと楓娘のいる方を見た。がやがや騒いでいて、こちらを気にしている様子はない。少しくらい、たまった鬱憤を吐き出すのも構わないと思った。
「うちでは一番の売れっ子です。でも……我がままで、よくもめ事も起こしますけど。ついこの前も、窃盗まがいのことをして、姉妹と喧嘩したんです」
妓女達がやはりそうか、と頷き合う。
「問題児ってわけね。稼げる妓女にはよくある話よ。女将からすれば、金の成る木みたいなもので、可愛いんでしょうけどね。ふん、好き放題飲み騒いで、階段から転がり落ちればいいわ。多少痛い目を見ないと、ああいうのは自分の振る舞いを改めやしないものよ」
そこへ、若い男の声が飛んだ。
「おい、そこのお前達。かたまってないで、こっちへ来いよ」
手招きしているのは、錦の着物をまとった、三十そこそこの男だ。席には他に誰もいなかった。片手で気だるげに扇子を仰ぎ、くちゃくちゃと音を立てながら胡桃を食べている。雪友を含む妓女達は、呼ばれるままに彼の席へついた。妓女の一人が、からかうように言った。
「あら、童様。あちらの賑やかな席に加わらなくてよろしいんですの。確かあの白って子、あなたのお目当てだったのじゃなくて?」
童はぺっと吐き捨てた。
「けっ! あいつはとんだアバズレさ。俺が張旦那の友達だと聞いてただろうに、この卓へ挨拶にも来やがらん。あの書物臭い文人どもにちやほやされる方が幸せってわけだ」
ふと、雪友も思い出した。もともと楓娘は懇意にしている客の知り合いがいるから、この宴席に渋々顔を出したのだ。それが、目の前にいる童なのだろう。とうの楓娘は多分、そのことを忘れているに違いなかった。
このまま童の面子を丸潰れにするのは、いかにもまずい。楓娘を呼んできて挨拶させよう。雪友は椅子から腰を浮かしかけた。が……少し考えて、また座り直した。
これはあの子の問題よ、あんたがそこまで世話を焼く意味があるっていうの。あの子が飲み騒いで、自分の義務を忘れるのが悪い。周りの妓女がさっき話していた通りだ。痛い目を見るのは、あの子自身のためにもなる。
あれこれ理屈をつけて、雪友は自分の行動を正当化した。そのまま席に留まることにしたが、生憎童という男がまた最悪だった。ふてぶてしい態度と、妓女を見下した物言い、飲み食いの行儀も酷い。口では楓娘のことなど何でもないと装っていたが、しきりにそちらへ視線を飛ばしては、ぺっと唾を吐いて罵ったりする。道理で楓娘が嫌がったわけだ。
ほどなく、主催の胡求が宴会のお開きを告げたので、童とは長居せずに済んだ。雪友は楓娘のいる席へ戻り、泥酔しきった彼女に肩を貸して広間を出た。階段を降りる途中、意地の悪い妓女が楓娘の背中を突き飛ばしたので、危うく雪友も一緒に転がり落ちるところだった。これ以上酷い目に遭わされまいと、急いで迎えの馬車へ乗り込んだ。
雪友達が瑞烟楼へ戻った時、夜はまだ半ばを過ぎたばかりで、広間は宴会の真っ最中だった。店の侍女達は給仕や案内で忙しく、二人を出迎える余裕も無い。
雪友はまだ酔いの覚めない楓娘を支えて、店の裏口に向かった。表から入って、客達に楓娘の醜態を見せるのはまずいと思ったのだ。
裏口は厨房に通じており、そこの階段をのぼれば誰とも顔を合わせることなく妓女達の部屋に行ける。頭をぐらつかせていた楓娘が、ふと呻くように言った。
「ねえや……水……」
見れば、楓娘の顔は汗が引いて真っ青だった。喉元でごろごろと奇妙な音を鳴らしている。これはあまりいい兆候ではない。
「まずはあんたの部屋へ行って、横になりましょう。すぐ飲み物を持ってきてあげるから」
雪友は何とか彼女と共に階段をのぼり、部屋にたどり着いた。ふかふかの寝床に楓娘を横たえると、急ぎ厨房へ戻り、お茶を一杯入れて戻った。
が、既に遅かった。楓娘は寝床のうえで嘔吐して、汚らしいものをそこら中へまき散らしていた。つんとした臭いが室内に蔓延している。
「ああ、まったく……!」
雪友はうんざりした。人手も借りれない以上、自分が処理するしかない。放っておいたら女将に怒られてしまう。何といっても、楓娘は瑞烟楼で一番の売れっ子なのだから。
妹分が全部吐き出すのを待って、雪友はお茶を飲ませた。それから、店の裏にある納屋から布巾と桶を取って戻った。誰かの吐いたものを掃除するなんて、下働きの時以来だ。まさか妓女になってからこんなことをやるとは思わなかった。
布団と敷物を取り換え、そこら中に散った汚い代物を布巾でふき取る間、楓娘への苛立ちは募る一方だった。いい気なものだ。酔っぱらって、好き放題やって、それでいて沢山のお金がもらえるんだ。なのに私ときたら? ばかばかしい! 真面目に働いた報いが、こんな汚物の始末だなんて。楓娘のことなんか、置いてけぼりにすればよかった。
汚れた布巾を桶の中へ投げ捨てた時、誰かが部屋へ駆け込んできた。下女の臙児だ。
「白姉さん、お戻りですか?」
「どうしたの?」
雪友が聞き返すと、臙児は一瞬きょとんとした。それから合点したように続けた。
「あ……今夜は六姉さんが一緒だったんでしたっけ。実は、何日も前からお約束していたお客様がこれから白姉さんと会うことになってるんですけど……」
「無理よ」雪友は、寝床で死んだように眠っている妹分へ顎をしゃくった。「あんな様だもの」
「えぇ、どうしましょう……? 六姉さん、代わりにお願い出来ませんか」
「出来ないわ。今、すっかり汚れてるし。それに疲れてるから」
雪友はぶっきらぼうに答えた。今夜はもう妹分の尻拭いはしたくない。
そこへ、また別の人影が現れた。瑞烟楼の四番目、黄湘君だった。
「臙児、お客様がお見えよ。楓娘はまだなの?」
おろおろしていた臙児は助けがやってきたとばかり、彼女へ駆け寄った。
「白姉さん、すっかり酔っぱらっちゃったみたいで……。とてもお相手なんて出来ません。六姉さんもお疲れだって言いますし」
「あら、そう。じゃあ私が代わりに行くわね」
湘君はあっさり答えた。雪友は気に入らなかった。今夜の楓娘の行いをぶちまけ、助け舟を出すのは間違いだと訴えようかと思った。みんなが売れっ子の楓娘を持ち上げ、気遣ったりするから、彼女もつけあがるのだ。たまには痛い目を見せてやってもいいだろうに。
湘君は微かに片方の眉を持ち上げ、雪友を見た。彼女の心の内を見透かしたかのように、慰めの言葉をかけた。
「雪友、大変だったみたいね。今日はもう休んだら? 楓娘のことは、臙児にやって貰いなさいよ」
「そうします」
雪友は自分の部屋へ戻り、汚れた服を着替えて布団にもぐった。とにかく眠って、嫌なことは早く忘れてしまおう。半刻ほどが過ぎ、うつらうつらしかけたところだった。
誰かが足音荒く部屋へ踏み込み、雪友の体を乱暴に寝床から引っ張り出した。
「何――」
ぼんやりしていた彼女の頬へ、いきなり張り手が飛んだ。驚きと痛みで意識がはっきりすると、目の前に鼻息を荒くした女将が立っていた。
「お前! 何てことをしてくれたの!」
「え……」
「うちのお得意様の張旦那が、さっき遣いを寄越してきたのよ。今夜の宴席にいた友人が、瑞烟楼の妓女から酷い扱いを受けたとね!」
「ちょ、張旦那様? 誰のことですか?」
雪友は女将の剣幕にすっかり狼狽した。一体、何の話だろう?
「宴席に童という方がいたでしょう? その方が楓娘をご指名で呼んでいたのよ。なのに挨拶一つせずに帰ってしまったそうじゃないの」
ようやく、雪友も女将の話がわかりかけてきた。あの男か。どうやら宴席での扱いを根に思って、わざわざ張旦那を通し、女将にケチをつけてきたらしい。雪友はまたしても楓娘を憎んだ。あの子のせいで、今日は散々なことばかりだ。
「でも、私……その童様や、まして張旦那様とは関わりなんてありません。あれは全部、楓娘のお得意様ですし……」
「その楓娘は、他のお客と飲んで酔っ払っていたそうね。お前は序列こそあの子より下だけど、歳は上でしょう? 何故姉貴分として、気遣いをしてあげなかったの? 飲みすぎないように一言か二言、注意してあげればよかったでしょう。童様はあんたのことも言ってたわよ。周雪友という妓女が同じ席にいたけれど、楓娘をそばに呼んでくれなかったとね! あんたが楓娘に群がってるお客の相手を代わってあげれば、全ては丸く収まったんじゃないの?」
「それは、あの男……いえ、童様は、その、行儀があんまり酷かったので……」
女将の唇がひくついた。すっかり汚いものでも見るかのような目で、雪友を睨みつける。
「お前は随分偉くなったのね。妓女がお客を品定めするなんて、百年早いよ」
「でも、童様は私のお客様じゃありません……」
「お前も瑞烟楼の妓女でしょう! お客様はそれがわかってた。とんでもない失態よ。張旦那とそのご友人が、うちの店へどれだけお金を落としてくれると思ってるの。二百両よ! もし張旦那にそっぽを向かれたら、その損失の穴埋めに、うちは役立たずの妓女を一人捨てることになるでしょう」
雪友はぞっと背が寒くなった。女将が何を言いたかったのか、はっきりわかったのだ。
「おかあさん、そんなのあんまりです。だって、張様も童様も、楓娘のお客様でしょう……。それなのに、どうして私が……」
「どうしてだか、はっきりしてると思うけどね。お金も稼げない、お客の相手も出来ない、妹分の面倒も見ない、他にまだ理由がいるの?」
雪友は言葉に詰まり、涙を流した。女将は今回の失態を、全部雪友へ押しつける気だ。そうすれば売れっ子の楓娘の評判を傷つけず、また張旦那を繋ぎ止めることが出来るかもしれないから。
雪友は嗚咽混じりに訴えた。
「私、ちゃんとお勤めはしてました……! それに楓娘のことだって、酔っぱらっていたのを連れ帰って、彼女が吐いたから世話もして……何も間違いなんてやってません」
女将は冷ややかに言った。
「ああ、そう。汚物の片づけならきちんとこなせるというのね。だったら、下女として店に残すことは考えておきましょうよ。他に弁明がなければ、これまでよ」
雪友は気が遠くなりかけた。悪い夢を見ているのだと思いたかった。妓女から下働きに落ちぶれたら、周りにどんな目で見られることだろう。蔑まれ、笑われながら、汚物を拭いて回る自分の姿が頭に浮かんだ。胸が張り裂けそうだった。
そこへ――。
「おかあさん!」
どこか掠れたような声で、よたよたと誰かが部屋に入ってきた。楓娘だ。着物は乱れて、顔色も悪かった。女将は慌てて彼女に駆け寄り、体を支えてやった。そして赤子をあやすように優しく言った。
「楓娘、寝ていなきゃ駄目じゃない。具合が良くないのでしょ」
「あたし、話、聞いてたの……」
「後にしなさい。もう少し休んでからね――」
「周ねえやは悪くないの!」楓娘が叫んだ。「あたしが全部いけないの! あたし、童様のお相手が嫌だったの。だからわざと酔っぱらって、知らない振りしてたのよ! それにあたし、行きの馬車で童様の悪口を言ったから……だからねえやも気遣って、わざと童様のいる席に呼ばなかったのよ」
雪友は胸をつかれた。まさか、楓娘がこれほど必死に自分を庇ってくれるなんて思わなかった。
「そのことは、私の方で考えがあるから。お前は何もしなくていいの」
「駄目! ねえやを売ったり、下働きなんかに落としたら嫌よ! あたし、これから張旦那様のところへお詫びに行く!」
女将はすっかり困り果てた様子だった。楓娘は稼ぎ頭で、養女でもある。誰よりも可愛い娘だった。だから我儘を言われても、すぐには逆らえない。
女将は値踏みするように、雪友を見た。楓娘の言う通りにするか、自分の考えを通すか、どちらが益になるか胸算用しているようだ。やがて、諦め顔になって言った。
「いいでしょう。張旦那のところへ遣いを出しましょう。お前、明日お詫びに行ってちょうだい。それで無事に済めばいいけれど……」
楓娘は、青白い顔にぱっと笑顔を浮かべた。
「うん。大丈夫よ、あたし、ちゃんとやりますから」
女将も微笑みを返し、楓娘の頭を優しく撫でた。それから雪友を振り向き、睨みつける。
「お前、楓娘によくよく感謝することね。次は無いわよ」
言い捨てると、足早に出て行った。
楓娘が雪友のそばへ来て、きつく抱きついた。
「ねえや、ごめんね。起きたら臙児が教えてくれたの。あたしを連れ帰って、色々お世話してくれたって」
「ああ……いいの。そんなの、大したことじゃないから」
雪友は少し恥ずかしくなっていた。楓娘のことを散々悪く言ったし、心の中で呪いもしたから。
「ねえ、酔っぱらって言い忘れちゃったんだけど、あたし、宴席で文人様にお誘いを受けたの。今度お花見するんだって。ねえやも一緒に呼んでくれるよう頼んだよ。あたしたち二人に、四十両出してくれるの! 十日後って言ってたから、空けておいてね」
雪友は面食らった。
「え? 宴席? 四十両?」
「うん! 二人で四十両だから、一人あたり二十両ね」
「あの人達が、出すって言ったの?」
「そうだよ」
雪友は唖然とした。あの文人達の宴席には何度も出ているが、誰も彼もケチくさい連中ばかりだ。何度も科挙受験に落ち、稼ぎのつてもなく、常日頃貧乏に喘いでいる。雪友は彼らが五両より大きな金を払うところを見たためしがない。それが、楓娘にはぽんと大金を出してくれたなんて。
悲しいのか、それとも可笑しいのか、雪友は涙と笑いが同時に出てきた。まったく、楓娘は根っからの妓女なのだ。この苦界で生き残るために必要な才能を持っている。
だけど、私には無い。雪友は痛いほど、妓女として楓娘との差を感じた。
「どうしたの、ねえや」
訝しげに尋ねる楓娘へ、雪友はありのままを打ち明けた。
「あなたみたいになれたら良かったのにって、思ったの。でも、私にはきっと、それが出来ないから」
楓娘が瞳をしばたく。恐らく、雪友の言葉の意味は伝わらなかったに違いない。
「もう休みましょう。二人とも疲れてるんだから」
雪友は妹分の肩を優しく叩き、部屋から送り出した。
「ねえや、また明日ね!」
廊下の曲がり角で楓娘が手を振ると、雪友も微笑みを返した。けれど、その姿が見えなくなった途端笑みは消え、彼女はおぼつかない足取りで部屋の中に戻った。
翌日から、雪友の生活は変わってしまった。
何といっても、仕事へまったく身が入らなくなった。自分みたいに馬鹿真面目な人間、頑張っても頑張らなくてもおんなじだ。お客を惹きつける才覚や愛嬌も無い。それならいっそ、駄目な妓女として生きていこうと思った。どうせ十日もしないうちに、二十両も稼げる仕事が入ってくるから、多少さぼったところで困りはしない。
ある日、数少ない常連の田広が遊びに来たが、雪友は終始おざなりに相手をした。酌もしなければ、ろくに話もしない。田はすっかり戸惑った様子で、長居せず帰っていった。雪友はその様を見てせせら笑った。普段なら立場は真逆だったはずだ。彼女が心を尽くして接待しても、田広は見下したような態度でそれを受け入れていた。
――やっぱり。いつもお客へ散々やっていた気遣いは、どれも無駄骨だったんだ。
そう思う一方、
――あんないい加減な接客をしたのだから、もう私のところへは来てくれないかもしれない。
そんな不安が胸をよぎりもした。常連を失うのは妓女にとって大きな痛手だ。けれど、しばらくすると考えるのが馬鹿らしくなり、彼女は寝床へ体を放り出した。
さらに数日すると、姉妹達も異変に気がつき始めた。真っ先にやってきたのは仲のいい鳴鳳だ。雪友は誰とも話したくなかったが、仕方なく卓を囲んで彼女を迎え入れた。
「姉さん、宗旨替えでもしたの? お客が怖がって逃げたそうじゃない」
「あなたが話してくれたことを実践してるだけよ。真面目なお勤めは廃業したの」
「ああ、そういうこと」鳴鳳はくつくつと笑った。「姉さん達が、あなたの様子が変だって心配してたから、私も気になっちゃって。いいじゃない。気楽にやっていきましょうよ。私は大歓迎だから」
しばらく二人で話し込んでいると、李能が黄湘君を伴って現れた。噂をすれば、だ。李能は鳴鳳に、雪友と大事な話があるから席を外すよう告げた。偏屈者の妹分がいては、話をかき回されると思ったのかもしれない。鳴鳳は渋々ながら出て行った。
李能が椅子へ腰を下ろしながら尋ねた。
「あなた、楓娘と一緒に出かけて以来、お勤めが雑になっているようだけれど、何があったの? 私と湘君は、以前あなたにどう頑張っていくべきか、ちゃんと話したはずよね。もし困っていることがあるなら言ってちょうだい。私達は姉妹なんだから」
そういう話は、したくないのに……。雪友は苛立たしげに思った。今にして思えば、李能や湘君の助言は何の意味も無かったように感じる。
二人がすんなり引き下がりそうもないので、雪友は適当に言い繕うことにした。
「おかあさんが、あたしのことを要らないって言ったんです。私、それがとても辛かったから……」
湘君があぁ、と嘆息した。
「そうだったの。あんたはあの晩、楓娘と一緒だったんだものね。かあさんはあれが売れっ子で可愛いから、何か起こると見境が無くなっちゃうのよ。あんたもうちに来て長いんだから、それくらいわかってるはずでしょ。いつまでも引きずってちゃ駄目よ」
李能も口を添えた。
「おかあさんなら、もう怒ってはいないわ。確か例の童様にも、楓娘がお詫びをいれたらことは済んだそうだし。あなたも気持ちを切り替えて、商売に励むようにしなさいな」
「はい。わかりました」
早く話を切り上げたくて、雪友はそう答えた。
二人は頷き合い、安心した様子で席を立つ。
ごめんなさい、姉さん。雪友は二人が部屋から出て行くのを見送りながら、心の中で謝った。私はもう、前みたいには戻れません。真面目に妓女をやっていくことに、意義を見出せないから……。