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金陵群芳傳  作者: 春秋梅菊
4/8

三、混迷の妓、殊更に惑う


 半刻も過ぎただろうか。周雪友は、まだ寝つけずにいた。

 夜中になって、母はこっそり帰ってきた。足を引きずる音が、彼女のいる部屋で止まる。

「雪友」疲れ切った声だ。雪友は聞こえない振りをした。「寝ちまったのかい……」

 母は長いこと突っ立っていた。すぐ立ち去るだろうと思っていた雪友は、怪訝に思った。

 それから、母は部屋に入ってきた。忙しない物音、震える息づかい。ちらっと頭を動かせば、闇の中で母の影がうっすら見えた。

 雪友の荷物を漁っている。

 彼女は怒りを新たにした。

 母の手が、荷袋から銀の入った包みを掴み取り、懐へ押し込んだ。それから、音もなく部屋を去ろうとする。

 雪友は体を起こし、その背へ冷たく言葉を浴びせた。

「お母さん。こんな夜中に、何のご用ですか」

 母の影は小さく飛び上がった。ぎこちなく振り向いて、娘を見た。

「ああ……お前、起きてたの——」

「何をしてたんですか?」

「お前が寝てるのか見に来ただけだよ。何もしないよ」

 雪友は布団をはねのけ、静かに詰め寄った。

「してない? 何も? じゃ、私に言わせるつもりなんですね。親として恥ずかしくないんですか」

 昼間とまるきり同じ展開だ。けれど、雪友は気持ちを抑えられなかった。

 母の瞳にも怒りがたぎった。

「うるさい子だね! 遠回しにどうのこうのと、はっきり言ったらいいだろ!」

 雪友が手を突き出した。

「盗ったお金を返してください!」

「盗っただって! 何て人聞きの悪い! これはもともと私に渡すために持ってきたお金だろ? だから貰ったんだよ。それの何がいけない! ええ?」

 母の奪った銀は、楓娘の簪を質入れした時の残りだ。確かに当面の生活費にあててもらうつもりだった。けれども、こんな形で持って行かれるのは許せなかった。娘への感謝と引き替えでなければ渡せない。

 雪友は、即座に理屈をつけて言い返した。

「昼間に話したでしょう。帳簿をつけるんです。お金の使い道は全部私が決めて、それから渡します」

「馬鹿を言うんじゃない! なんでお前がそんなことをするのさ! 理不尽だよ!」

「私が稼いできたお金です! 使い道を決めるのが、どうしていけないんです!」

 嘘だ。彼女のお金ではない。母はがめつさのせいか、もと妓女の勘が働いたのか、娘の言い分に穴があるのを見逃さなかった。

「はん! 本当にお前の金なのかい。この前は五両しか仕送りがなかったじゃないか。ここには八両も入ってるよ! あれから半月足らずで、どこからこんなお金が出てきたんだ。ははあ、わかった! 本当はいつもこれくらい出せるのに、わざと出し渋ってたんだろう。あたしがお前に泣きつくまで、苦しめるつもりだったんだ! 何て酷い子だろうね!」

 一気にまくし立てられて、雪友は咄嗟に反撃の言葉が無かった。母が勝ち誇って、追い打ちをかける。

「やっぱり! 図星なんだねぇ! よしよし、お前は帳簿をつけたいんだろ。だったら瑞烟楼に行って、女将と話すことにしよう。あんたが月々幾ら稼いで、手元にどれくらい金を隠してるのか、きっちり記録をつけてくれってね!」

 雪友の怒りは頂点に達した。無言で母に掴みかかり、銀の包みを取り戻そうとする。母はぎゃあぎゃあ喚き、死に物狂いで抵抗した。とはいえ、日頃の不摂生がたたったのか、力づくだと娘には敵わなかった。雪友が包みをひったくった拍子に、無様にその場へ倒れ込む。

「何してるの……」

 掠れ声が、母娘の間を流れた。いつの間にか起きていた秀格が、まじまじとこちらを見つめている。

 母の反応の方が早かった。息子の華奢な体にむしゃぶりつくと、派手な声を立てて泣き始める。

「ああァ! 秀格や。可哀相に! お前の姉は、あたし達を飢え死にさせるつもりなんだよ! それに、見てたかい? あたしを罵って、乱暴に突き飛ばして……!」

弟が困惑と恐怖の入り混じった瞳を、雪友へ向ける。母はなおも、あること無いこと喚き散らしていた。雪友は血が滲まんばかりに拳を握り締めた。もういい。親不孝者でも何でも、好きなように思えばいい。それならお金は渡さない。絶対に渡すもんか!

 雪友は足音荒く部屋を出た。厨房の隅へうずくまると、一人で泣いて夜を明かした。



 朝早く、瑞烟楼から迎えの馬車が来た。

 夜のことでうんざりしていた雪友は、母や弟に構わずさっさと帰ることに決めた。いったん寝室へ戻り、置きっぱなしにしていた荷物をまとめにかかる。

 弟はまだ寝ていたが、母は目を覚ましていた。帰り支度をしている雪友の姿を見ると、わざとらしく嘆息し、弟の頭を撫でながら聞こえよがしに言った。

「酷い娘だねえ……。お金も寄越さず、帰りの挨拶もせず、一体何をしに来たんだろう。あたし達が弱っていくのを見て、面白がってるのかねえ……」

 雪友は無視した。荷袋の紐を結び、大股で部屋を出る。

 すると、母が慌てて追ってきた。雪友は門の前でようやく立ち止まり、振り向かずに言った。

「お母さん。何かお話でも?」

「話だって? フン、お前には無いよ。ただ、迎えの下男に言伝を頼むだけさ。お前がとんでもないろくでなしってことをね。実の親を飢え死にさせても平気な娘なんだ。こんなのを廓に置いといたら、そのうち足元をすくわれるよって、女将に忠告してやらなきゃいけないよ」

 雪友は落としどころを考えた。このまま立ち去れば、母はきっと黙っていないだろう。本気で瑞烟楼へ乗り込んでくるかもしれない。かといって、素直に金を差し出すのも業腹だ。

 しばし思案した後、彼女は母に向き直った。

「弟の薬を買って、余ったお金は全部お母さんに渡します。それでいいですか」

 相手は疑わしげに娘を睨んだ。

「薬を買い込んで、一両しか残らなかったなんてことはないだろうね」

 雪友はせせら笑った。

「私のことを信じられないなら、それまでです。このお金は持って帰りますから」

「ふん。買いたいならさっさと行っておいで。親を挑発するのもいい加減におし!」

 話はまとまった。けれど、親子の溝は少しも埋まらなかった。

「昼までには届けさせます。それじゃ、これで失礼します」

 素っ気なく一礼し、馬車に乗り込んだ。

 


 瑞烟楼に戻った周雪友は、侍女の小彩(しょうさい)を呼んで薬を買いに行かせた。侍女は半刻ほどで戻ってきたが、携えている薬の包みが妙に小さい。その場で開けてみると、果たして磨り潰して飲む薬草が、お椀半分くらいの量しか入っていなかった。雪友は侍女を問いただした。

「何でこんなに少ないの? まさか売り切れていたの?」

 小彩は首を振った。

「いただいたお金だと、それしか売ってもらえなかったんです」

「そんなはずないでしょ。二両も渡したじゃない。私が前に行った時は、これの倍近くは買えたわ」

 小彩は不服そうに答えた。

「下男の小福(しょうふく)に行かせたから、多分彼が手間賃を引いたんだと思います」

「下男が? あなたが行ったんじゃないの?」

「私は他に仕事があったので……」

 雪友は拳を卓に叩きつけて怒鳴った。

「私は”あなた”に買いに行けと言ったでしょ! どうして勝手に他人を使ったの。おまけに手間賃を引かれたですって? 二両出したのに薬がこれしか買えなかったんじゃ、一両近くも持っていった勘定じゃない! 人が何も知らないと思って、いい加減なことしないでよ!」

「量のことは言われませんでした。買いに行ったのも手間賃を余計にとったのも小福のせいです。もしかしたら薬屋も、値段を吊り上げたのかもしれないですし。私にあたられたって困ります」

「だったら、小福を呼んできなさい!」

 小彩はうんざりした様子で出ていった。それから長いこと経っても戻らない。苛立ちが爆発しかけた時、瑞烟楼の三番目・李能(りのう)が部屋に入ってきた。

「雪友。侍女に当たり散らしたりして、一体どうしたの?」

「三姉さん。小彩は? 何してるんです?」

「店前で小福と喧嘩になったのよ。お前が薬をいい加減に買ったせいだとか、だったらお前が買ってくればよかったとか。とりあえず、二人とも裏庭に追いやって、待たせてあるわ。まずはあなたの話を聞かなきゃと思って」

 李能は万事公平に物事を見る質で、廓の全員から信用されていた。何かいざこざが起きると、女将も最近は彼女に処理を任せっきりだ。

 雪友がいきさつを語ると、李能は深く頷いて言った。

「あの小彩って子は、自負心ばかり強くて扱いづらいのよ。買出しなんて、無能な人間の仕事だと思ってるの。次からは別な子に頼みなさい。小彩でなくても、下男や下女は、日頃から私達にとやかく仕事を押しつけられてるから、少し隙を見せると、手を抜いたり、お金をせしめたり、そういうことはしょっちゅうやるものなのよ。いちいち怒っていたら、きりが無いわ。

 別にあんたは悪くないの。でも、お金のことであまりけちけちしないのね。細かいところでうるさいと、下女達もあんたを舐めるようになる。そうなったら、本当に必要な時言うことをきかなくなって大変よ。やっぱり、私達上の人間はどっしり構えていなければいけないわ。大本の問題は、あなたがもっと稼げる妓女になることだと思うの。一両ぽっちのお金を持っていかれても、笑って済ませられるくらいにね。董蘇はこの前水揚げを終えたばかりだからいいけど、あなたと鳴鳳は、そろそろ一人前になって長いでしょう。でも、稼ぎはいつも姉妹達の中で下の方だわ。今回のことは教訓だと思って、頑張ってみるのがいいんじゃなくて?」

 李能の前だと、雪友もあまり不平は言えない。こうして正論を並べられては尚更だった。

「わかった。三姉さんがそう言うなら……」

「ええ。二人には、何かしら罰を与えておくから、それでこの話は終わりにするのよ」

 雪友が頷く。しばらく他愛ない話をして過ごした後、李能は部屋を出ていった。

 雪友は肩を落として、卓上の薬を包み直した。こんな少量では送る意味も無い。母は嘲笑するだろう。ごらん、秀格。お前の姉は散々薬のことで喚いていたのに、結局これっぽっちしか寄越さなかったよ……。面目を保つためには、買い足すしかなかった。

 それにしても、どうして小福はこれだけしか買えなかったのだろう。確か、処方箋には——。

 雪友は、頭を殴られたような衝撃を受けた。慌てて化粧台の引き出しを探り、処方箋を引っ張り出す。これだ。これが無かったから、薬屋が値段を吊り上げたんだ。雪友はうんざりした。小彩には薬の名前が入った書付を渡しただけだったのだ。彼女は、渋々母の言葉が正しかったことを認めた。医者も商売なのだ。客に落ち度があれば、容赦なく金を持って行ってしまう。

 観念した雪友は、化粧台の隠し棚からへそくりを二両取り出した。それから下女の秋鈴(しゅうりん)を呼び、処方箋と一緒に持たせて買出しを頼んだ。予想通り、倍近い量の薬を買って戻ってきた。雪友は八両のうち残った六両と、買い込んだ薬を母のもとへ送った。

 

 急ぎの用事が片付くと、雪友は白楓娘の部屋を訪ねた。妓女達は夕方から朝までが仕事だから、昼間は大抵部屋で休んでいる。雪友は二度戸を叩いたが、返事が無い。すると、隣部屋の黄湘君(こうしょうくん)がひょっこり顔を出した。

「どうしたの? 楓娘なら、花見に出かけたけど」

「え、本当に?」

「売れっ子なんですもの。あの子が休みたくても、お客が離さないでしょ」

 雪友は驚くばかりだった。朝自分が帰ってきた時、楓娘は部屋で客達と飲んでいたのだ。それから休みもせずに、また別の客と外へ出かけるとは。

「何か用でもあった?」

「うん……。お礼が言いたかったの。あと、ちょっと相談が」

「相談?」

「ああ、うん。大したことじゃないんだけど……そうだ、四姉さんでもいいかな。時間があったら、ちょっとつき合ってくれる?」

「もちろんよ。じゃ、中にいらっしゃい」

 雪友が頷いて、中に入る。黄湘君は瑞烟楼の四番目で、今年二十一歳になる。見た目も中身もおっとりしていて、穏やかな春風のようだった。体型はぽっちゃり、頬にはそばかすが散り、美貌は姉妹達の中でも下の方だが、弁舌巧みで宴席を和ませる術をよく知っていた。

 室内は珍しい物で溢れている。西洋の丸鏡、大食(アラブ人)の香炉、倭人(日本人)の刀……。果たして価値があるのか無いのか、雪友にもさっぱりわからない。

 黄湘君は席を勧め、話を切り出した。

「それで? ご相談って何かしら?」

「うん……。新しいお客を手っ取り早く捕まえる方法って無い? 色々困ってるの」

「はーん、なるほどね。生憎、そういうのは無いのよ。地道にやっていかなくちゃ。あなたも水揚げして三年目だし、商売について考え始めたのね」

「まあね」雪友は肩をすくめた。「四姉さん、いつか独り立ちして、自分の店を持ちたいって言ってなかった?」

「そうよ」

「だったら沢山お金がいるでしょう。何か、うまいやり方を持ってないの?」

「お金よりもっと大切なことがあるのよ」

「へえ。なあに?」

「つてを増やすこと。お店は一人じゃ出来ないわ。だから色んな人達とつき合って、仲を深めて、将来協力して貰えるよう努力してるの。それから勉強すること。人を雇ったり、物を買い入れたり、お店を切り盛りするには沢山の知識が無くちゃ。商売って、とっても奥が深いのよ」

「うーん。そうなんだ」

 雪友にはあまり興味の無い話だ。湘君は笑った。

「あんた、そんなに客に困ってるなら、知り合いの幇間に頼んで、引っ張って来てもらいなさい」

「嫌よ。あんな金魚の糞みたいな連中あてにするなんて。大体、ろくな客を連れてこないし」

「それよ。客を選ぼうとするから駄目なの。もっと割り切らなきゃ。まあ、あんたは生真面目だもんね。変なお客が来ると、すぐ顔や言葉に出しちゃうもの。鳴鳳はもっと酷いけど。相手がどんな客であれ、お金を落としてくれるなら愛想良くしなきゃ。嫌なことされても、笑って済ませばいいのよ」 

「それはそうだけど……」雪友は目を伏せて、爪をいじくりながら言った。「幇間でしょう? 誰か信用出来そうな人いる?」

「あら、あんたを気にいってくれてるのがいたでしょ。ほら、あの張何とか」

 雪友が顔をしかめた。

「張継善? あの人は本当に駄目。ついこの前だって、怒鳴られたり酒を浴びせられたり、散々だったんだから。つき合ってるのだって、インチキ商人の余宝生とか、全然学の無い宋然とか、うさんくさい講釈師の風一吹(ふういっすい)とかだし」

「私のお客さんだって、大半はそういうロクデナシばっかりよ。まともな人なんて、三割でもいればいい方だわ。……そうだ。私の確か知り合いの幇間が、有名な画人の(えい)先生と繋がりを持っていたはずよ。もしよければ、取次をお願いしてみましょうか」

「本当?」

 雪友が身を乗り出すと、湘君も苦笑した。

「ええ。でも、あんまり期待しないでよ。あの衛先生、取り巻きや友人が何人もいて、毎日引っ張りだこらしいから。そう簡単に捕まえられないと思うわ」

「それでも構わないわ。四姉さん、ありがとう」

 二人はそれからしばらくの間、お茶を飲んで談笑しながら過ごした。夕方、そろそろ仕事の時刻となりかけたところ、にわかに廊下が騒がしくなった。誰かが言い争ってるようだ。雪友は湘君と一緒に顔を出した。

「だから、あたしは知らない! あげちゃったものはもう仕方がないでしょ!」

 甲高いその声は、白楓娘のものだった。即座に、言い争っていた相手が切り返す。

「仕方ないで終わりにしようって? それが許されると思ってるわけ?」

 鋭く、芯のこもった声。瑞烟楼の七番目・王鳴鳳(おうめいほう)だった。美しくなめらかな肌、大きな瞳、思わずかじりたくなるような瑞々しい唇、そんな愛くるしい見た目と裏腹に、物腰は凛として少しも隙が無い。彼女は大層な偏屈者で、瑞烟楼の姉妹達も手を焼く存在だった。気に入らないことがあればいつでも誰彼構わず突っかかるし、お客であってもそれは変わらない。楓娘とは特に仲が悪く―もっとも、これは彼女が売れっ子なのを鼻にかけてわがまま放題なせいもある——、喧嘩もしょっちゅうだった。楓娘は、ギャーギャーうるさいからという理由で、鳴鳳のことを鳴(からす)と陰で呼んでいる。

 湘君はくすっと笑い、穏やかに割って入った。

「あなた達ったら、また喧嘩してるのね。今度は何事なの」

 楓娘が素早く姉貴分の腕に飛びついた。

「聞いてよ、黄ねえや! あたしお客さんのとこから帰ったばかりで疲れてるのに、こいつったらずっとつきまとってくるんだよ!」

「人様の物を勝手に盗んで、勝手によそへやったりされて、放っておけるわけないでしょ!」と鳴鳳。

 雪友が怪訝そうに尋ねた。

「楓娘が何を盗んだの?」

「盗ってない! 借りたの!」

 怒鳴って訂正する楓娘を後目に、鳴鳳が答えた。

「棋譜よ。ほら、二姉さんが大事にしてたやつ。部屋に飾ってあったのを楓娘が四日前勝手に持ってって、そのうえお客さんに渡しちゃったのよ。こんな無茶苦茶、放っておける?」

「えっ」雪友もあんぐり口を開けた。「だってあれ、蘇州の(せき)ご老体から譲ってもらった由緒ある棋譜でしょう? 確か百年前の有名な対局を記したものだって……」

 瑞烟楼の姉妹達にはそれぞれ特技がある。雪友は詩歌、鳴鳳は画、楓娘なら遊戯……。その道に通じれば――例えば詩歌なら、高級な文房具を買い入れたり、名高い詩人の作品を集めたり、といったことにも当然手を出すようになる。だから妓女達の部屋は、そうした宝物で溢れていた。

 姉妹達の二番目・鄭愁霞(ていしゅうか)は囲碁と書に秀でており、棋譜を幾つも収集していた。中でも、三年前に石老人に譲り受けた棋譜は、彼女の中で一、二を争う宝だった。金額にしたら……いや、そう簡単に値はつけられないかもしれない。何せあれを手に入れたばかりの頃、囲碁好きやお宝好きな客が連日押しかけて、愁霞の部屋は大層な賑わいだったのだ。今でもそれを目当てにやってくる者は多い。

 楓娘は真っ赤になって反駁した。

「あたし、ちゃんと鄭ねえやに許可をもらって持っていったのよ! 確かにお客へ渡したけど、その人はうちでも大事なお得意だったし、断れるはずないじゃない。後で鄭ねえやにもそう伝えたら許してくれたもん。あの人が怒ってないんだから、別にいいでしょ!」

 鳴鳳も負けじと言い返す。

「二姉さんの性格を知らないわけじゃあるまいし! 大人しくてもめ事が大嫌いだもの、謝れば何だって許してくれるに決まってるでしょ。だからって、あんたのやった間違いが消えるわけ? 同じ調子で他のみんなのところからぽんぽん物を持ってってみなさいよ! 儲けより損の方が大きいじゃない!」

「あたしは囲碁に詳しくないんだから、そんなこと知らない! 大切な旦那様に頼まれたんだから仕方ないでしょ!」

 楓娘は歳が若いせいか、軽はずみなところがある。おまけに結構な我がままだ。それでも廓一番の売れっ子だから、女将も姉妹も下女達も、大抵は黙って許してしまう。こんな風に正面きって挑んでくるのは、鳴鳳くらいなのだ。

 雪友はつい先日楓娘に助けてもらったので、話を聞く前はこの妹分の味方をしようと考えていた。が、さすがに今回は擁護しかねる。自分がもし鄭愁霞の立場だったら、簡単に許せただろうか。

 言い争いが続く中、折よく李能がやってきた。湘君が近づいて、その耳元にあれこれと囁く。頷いた李能は、楓娘と鳴鳳の間に立ってたしなめた。

「もうすぐ店を開けるのに、いつまで言い争っているの」

「李ねえや、こいつったらずっと噛みついてくるんだよ。何とか言ってよ」

「あなたも不注意なのよ。自分の物でも他人の物でも、見境なしにあっちこっちへ放りだすのだから」そう言って、鳴鳳を振り向く。「あなたも、他人のことへいちいち首を突っ込むのはやめなさい。きりが無いんだから」

「言うべきことを言ったまでです」

「だったら、今度は言うべき時もわきまえるようにするのね。商売前の時間に喧嘩したって、余計な体力を使うだけよ。とりあえず、棋譜は取り戻せるかどうか確かめてみるから」

 しかし楓娘はおさまらなかった。あたしは絶対に悪くないの一点張りだ。そうなると鳴鳳も黙っていられる質ではない。再び言い争いになりかけたので、李能と湘君が楓娘を、雪友は鳴鳳をそれぞれ引っ張っていった。雪友は自分の部屋に妹分を招き入れると、話を聞いて憂さ晴らしにつき合った。

 二人は歳が近く、廓に売られてきた時期もほぼ一緒だ。辛い見習いの時期を支え合って乗り越えてきたので、仲はとても良い。

「……あの子、歳を追うごとに野放図になって。そのうち、手がつけられなくなるわよ。それなのに女将(かあさん)も姉さん達も、まるで何も言わないんだから」

「あなたの言うとおりね。でも……私は楓娘が羨ましいと思う時もあるの。あれだけ稼いで、お客さんにも好かれていたら、何にも心配することないんじゃないかって」

「六姉さん、最近いつも切羽詰まってる感じね。何か悩み事?」

 雪友は肩をすくめた。

「まあね。実家のこととか、将来のこととか。それに私とあなたは、ただでさえ売り上げがよくないもの。あれこれ考え過ぎるのは良くないと思うけれど……」

「六姉さんは立派よ。こんな苦界でも、真っ当に生きようとしてる。だけど、それって矛盾なんだわ」

「矛盾?」

「一度妓女に落ちぶれたら、その人がどれほど優れていたって、世間はもう人間として扱ってくれないのよ。六姉さんはとっても綺麗で優しいわ。でも落籍してどこかの家に行けば、姑や正妻はあなたの人柄をろくに見もせず、妓女だからという理由で蔑むのよ。姉さんは学問も出来るわ。だけど、それを心から褒めてくれる客が何人いる? 大抵は妓女の分際で生意気だとか、ただの遊びで学問をやってるだけだと馬鹿にするでしょう。そんな世界にいたら、真面目に生きることは苦役と違わないじゃない?」

「楓娘にはいい加減なことをやるなと怒ったのに、私にはいい加減に生きろって言うの?」

「あいつは考え無さ過ぎなのよ。姉さんは真面目過ぎ。そんなんじゃ、いつか潰れちゃうわ」

 雪友は黙って頷いた。鳴鳳はいつも物事を複雑にとらえて、他人と違う見方をする。大抵の者は、そんな彼女を偏屈だの変人だのといって、本気で相手にしようとしない。けれど、雪友は時々はっとさせられることがある。ちょうど今のように。確かに自分は馬鹿真面目過ぎるのかもしれない。まともでない客や母に対し、まともな考え方で対処しようとしている。

彼女は鳴鳳に笑いかけた。

「わかった。あなたの言う通り、ちょっと考えてみる」

 そこへ、侍女の小環(しょうかん)が入ってきた。

「六姉さん、お客様です」

「あら。どなた?」

 小環はくすりと笑った。

「それが……あの張継善なんです」

 これには雪友も面食らった。つい一昨日、ひと悶着を起こしたばかりなのに。正直、今はあの顔を思い浮かべるだけでも吐き気がする。

「どうしてあの人が? 別に用もないし、追い返してよ」

「でも、きちんとお茶代をいただきました」

「嘘でしょ? あのごろつきがお金を払ったですって?」

 雪友は一層驚いた。鳴鳳が手を叩いて笑う。

「あはっ。張継善が金魚の糞を廃業して、真っ当に稼ぐようになったの?」

「そんなことあるもんですか。たまたま小金が手に入っただけよ」

「面白いじゃない。会ってやったら。せいぜいからかってやればいいんだわ」

 雪友はふんと鼻を鳴らした。まったく、どういうつもりなのだろう。

 小環がおずおずと促す。

「姉さん、どうしますか? お通ししない方がよろしいでしょうか?」

「いいえ。通してあげて」雪友はちらっと鳴鳳を見た。「あなたがさっき言ってくれたことを試すには、ちょうどいい相手かもね」

 程なく、張継善が部屋に入ってきた。普段と変わらず、横柄に胸を反らし、見ているだけで腹立たしくなるようなにやけ笑いを浮かべている。

「はっはっは。雪友や、会いに来てやったぞ。驚いただろう?」

 雪友は丁寧に一礼したものの、冷ややかな声で言った。

「よくぞいらっしゃいましたこと。どういう風の吹き回しか存じませんけれど」

「おいおい、そんな不愛想な態度をされちゃたまらねえな。俺様はちゃんと身銭を切って瑞烟楼の門をくぐったんだぜ。おっ、そっちにいるのは鳴鳳じゃねえか。しばらく見ないうちに別嬪になったなァ。もしかして、あんたも相席してくれるのかな?」

 鳴鳳は嘲笑した。

「お生憎。口を利いて欲しいなら、先に払うもの払ってもらいましょうか」

「ケッ。相変わらずだな。もてなす気が無いなら、さっさと出て行け」

 張継善が面倒くさげに手を振る。鳴鳳はぷいと顔を背け、大股で部屋を去った。

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