二、有情の娘、母の無情に哭す
「まったく、あんなの相手にしてどうする?」
帰りがけに、二人でまた別の酒楼へ立ち寄ると、馮笙が真っ先に文句を言った。花盛開は肩をすくめた。
「放っておけなかった。彼女は私のために張の奴とやり合ったんだよ」
「騒ぎの原因は確かに君だが、弁護をしたわけじゃない。自分の評判を傷つけられたくなかったからだ。妓女なんてそういうものさ」
「どちらでもいいよ。私のやったことも、気まぐれみたいなものだからね」
花盛開は顔を背けた。彼自身、周雪友を助けた理由は別にある。あの時、頭によぎったのは平国公に貰われていく女のことだった。今日はもう、誰であれ不幸な女の顔を見たくは無かったのだ。
店の小僧が、酒と料理を運んでくる。馮笙は杯を満たしながら言った。
「まあ……その話はこれまでだ。とりあえず、本を手に入れる段取りはついたが、余宝生の様子は少々気がかりだな。もうひと手間かかるかもしれん」
花盛開が眉をひそめる。
「売ると承諾をしたのに?」
「本当に売る気があるなら、あの場で現物を持ってきて、支払いを済ませたさ。明後日に期限を延ばしたのは、商売っ気を起こしたからだ。明日は四方を訪ねて、本にどれだけの価値があるのか調べ始めるだろう」
「鑑定したところで何にもならないさ。あの本を欲しがるのは、私の父くらいだよ。そもそも史料として役立つかも疑わしいのに」
「まあな。だが、値がつけられないとなると、余の奴はかえって手放す気を無くすかもしれん。もとが疑り深いからな」
「石員外の件を暴いたことも、問題になるだろうか」
「恐らくな。まあ、口封じをするほどでもないだろう。君や俺くらいの人間となると、後始末も面倒だ。あとの問題は張継善だな。君がちょっかいを出したから、明後日までの間に余宝生へ何を吹き込むかわからん」
「あんな連中相手に、気を遣うことばかりだ」
毒づく花盛開を、馮笙が笑った。
「ここに腰を据えて商売を始めれば、色々見えてくるさ。あの余宝生はまだやりやすい方だ。陳威山や呉崇みたいな大物だと、こうはいかない。張継善みたいな連中を、三四人挟んでようやくご対面が叶うくらいだからな」
「せいぜい勉強させてもらうよ」
花盛開は、杯をかち合わせながら答えた。
その後はとりとめのない話をして、時間を潰した。存分に飲み食らいして楼を出ると、肩を貸し合い、よろめきながら通りを進む。既に夜も遅いが、南京の街はまだ明るく、人足は多かった。
夜風で少々酔いが醒めてきたところへ、ふと誰かに声をかけられた気がした。のろのろ振り向いてみれば、小綺麗な身なりの娘が立っている。お屋敷に奉公する侍女の類だろうか。
盛開と馮笙は真っ赤な顔を見合わせた。
「君かな?」
「さあ?」
近づいてきた娘が一礼し、にこやかに言った。
「花盛開様ですね? わたくしのご主人が、お礼をしたいと申しております。それでお迎えに上がりました」
「お礼?」
訝しげに聞き返す盛開へ、侍女は持っていた名刺を差し出した。受け取って、裏面の差出人を見ると「瑞烟楼妓女・周雪友」とある。
馮笙がげらげら笑い、ばしばし背中を叩いた。
「やっぱり君だ! 報いが来るのが早いなァ。どうする? ここで行かなかったら、聚宝荘での好意もおじゃんだぞ」
花盛開は名刺を何度もひっくり返し、困惑気味に言った。
「誘われてるのは……私だけみたいだ」
「当たり前だろ。君がしょい込んだ面倒事だぜ。俺に何の関わりがある?」
盛開は目を瞬き、侍女を見返した。
「これは……まいったな。今、ご主人は私を待っているのかな?」
「はい。瑞烟楼で支度をしております」
馮笙は花盛開から身を放し、盛開の肩を叩いて言った。
「行ってやれよ。そしてゆっくり楽しんでこい。だが、あんまり深入りするなよ。あと、懐に注意しとけ。翌朝になって延べ棒が無くなってました、なんてことにならんようにな」
そのまま盛開を置いてけぼりにして、右に左に揺れながら行ってしまった。
花盛開はやむなく、侍女へ向かって言った。
「わかりました。ご案内をお願いできますか」
迎えには馬車の用意があった。花盛開はその中で出来る限り身なりを整えた。馮笙と飲んだくれて、すっかり酷いことになっていたのだ。
馬車は城内を南へ下っていった。南京には三つの色街があり、それぞれ南市・珠市・旧院と呼ばれている。南市は城内の西に位置し、最も下等な遊び場として知られていた。城内の北にある珠市は、道が複雑に入り組み、妓館も狭苦しく並んでいる。そこに集う妓女も並ばかりだが、中には美貌教養並外れ、名士や富豪を惹きつけてやまない者もいた。そして城内南、武定門のあたりに旧院がある。南京の色街で最も賑やかな場所だ。一流の妓女達が、一流の歓楽を提供し、夜の繁華を競っている。妓館もそれぞれが意匠を凝らし、一つとして同じものはない。秦淮を挟んだ向かいには科挙の試験会場があり、受験の時期になると、試験の疲れを癒すため学生や文人が次々と旧院へ押し寄せてくるのだ。
瑞烟楼は、その旧院の一角にあった。三進式の楼閣で、控えめな装飾と落ち着いた紅色の屋根が、いかにも上品だった。旧院は、妓館も妓女も派手なものを嫌い、地味なのが良しとされている。瑞烟楼もその例に漏れないようだ。楼閣は秦淮に面しており、客の要望に応じて船を出し、水上の宴会をすることもあるのだと、侍女が説明してくれた。
花盛開は、ふと尋ねた。
「瑞烟楼には、全部で何人の妓女がいるのですか?」
「はい。今は八人の姉さんがいます。一番上は名を白梅娘といいまして、女将さんの実の娘です。今年二十六になります。舞が得意ですが、人前じゃ滅多に踊りません。
二番目は鄭愁霞姉さん。でも、この方はちょっと……。大人し過ぎて、廓のみんなから馬鹿にされてます。それでも、お客はきちんととってくるので、女将は何も言いません。殿方から見て、どこがいいのかわかりませんけど。
三番目の李能姉さんは素晴らしいです。普段から周りに気を配り、誰に対しても公平なので、瑞烟楼の姉妹のまとめ役を引き受けています。お酒がお好きで、しかも強いんです。
その次が黄湘君姉さん。一見おっとりしているんですが、抜け目が無くて商売上手です。気前も良くて、私達みたいな侍女からはとても好かれてます。
五番目が白楓娘姉さん。歳は十六になったばかりで、姉妹達の中では一番若いです。五年前に女将が養女に迎えたんですが、とにかく見た目がいいし、酒令やすごろくといった遊戯が得意で殿方の受けもよく、今じゃうちで一番の売れっ子です。
六番目が周雪友姉さんです。それから、七番目の王鳴鳳姉さん。この方がまた凄い偏屈者で、気に入らないことがあると、姉妹の皆さんばかりかお客ともしょっちゅう喧嘩してます。画才があるので、それだけは救いですね。
最期が董蘇姉さん。最近水揚げを済ませたばかりです。他の姉さん達と違いこれといった得手も無いので、今は先生を呼んでお芝居を勉強しています」
花盛開は心に留めておくことにした。馬車が楼の前で止まると、店の入口で別の下女が出迎えた。
「花盛開様ですね。周姉さんが部屋でお待ちです。こちらにどうぞ」
一階は宴会用の広間だ。柱には色鮮やかな垂れ絹、床には異国風の絨毯、壁には水墨画。他にも骨董や香炉が置かれている。六つの円卓は全て埋まり、客の笑いで賑わっていた。それを横切り、下女の案内で階段を上がる。二階と三階は、それぞれ部屋が四つある。どれも妓女達が個人用の接待で使うためのものだ。
花盛開が通された一室は、詩集が沢山並ぶ紫檀の本棚、文房具の揃った机と、まるで文人書生が住んでいるような内装だった。奥間にある鏡つきの化粧台や、白檀の香が漂う寝床が無ければ、とても妓女の部屋だと思えないだろう。
「いらっしゃいませ」
周雪友が出て来て、恭しく一礼した。聚宝荘で酒を浴びた彼女は、着物をすっかり取り換え、髪も綺麗に直している。花盛開はわが身を顧みて、やや気恥ずかしさを覚えた。
「来ていただいて嬉しいわ。どうぞ、おかけになって」
周雪友はにこにこしながら、手で卓を示した。花盛開は腰を下ろし、戸惑いがちに言った。
「私に礼をしたいとのことでしたが……」
「ええ。私が張継善に絡まれた時、助けていただきましたから。それと、色々お話もしたくて。お嫌でした?」
「嫌なら来ていませんよ」
周雪友が満足げに頷く。花盛開は、改めて彼女の容貌を見た。親しみと優しさの溢れる瞳、雪白の肌と真っ赤な唇、なるほど確かな美しさを備えていた。
下女が酒と果物を運んでくると、周雪友は自ら酌をして言った。
「何かご所望でしたら、遠慮なくおっしゃってね。今日はお礼の席なので、私がご馳走しますから」
乾杯の後、周雪友は改めて自分の身の上を語った。歳は今年十九で、七年前にこの廓へ売られてきたこと。詩歌が好きで、書物や文房具を収集していること。南京でも名の知れた文人墨客とつき合いがあること。盛開は彼女の話しぶりと上品な立ち振る舞いを見て、ひそかに尊敬の念を抱いた。やはり旧院の妓女だけのことはある。
「若様は、廓は初めてじゃありませんね?」
花盛開は曖昧に笑った。
「そう見えますか? 殆ど通ったことはありませんよ」
「お若いのに、物腰がとても落ち着いていらっしゃるから。今、おいくつなの?」
「二十二です。勉強のし過ぎで、老成しているのかもしれませんね」
「道理で、あの張継善と渡り合えるわけだわ。そういえば、あの人とはどういう知り合いですの?」
「これといったつき合いはありませんよ。ただ取引があったので、そのために会いました」
「本をお探しだとおっしゃってましたね」
「ええ。今から二百年ほど前の、江南一帯の商工業について記録している本です。父が史料に欲しがっていたのです」
「お父様が?」
「はい。個人で史書の編纂をしています。私はその手伝いで南京に来たのです」
「個人で史書を作るだなんて。とても偉大な事業ですね」
「ええ。そう聞こえるでしょうね」花盛開は肩をすくめ、力無く笑った。「実際のところ、穏やかなものじゃないんです。父は、必要な本を得るためにはどんな手も使います。文字通り、どんなことでもね。私はその先兵というわけです。時には……」
「何か良心に背くこともなさいまして?」
花盛開は、ためらいがちに答えた。
「ええ」
「だけど、それこそあなた様がまだ良心をお持ちになっている証拠ですわ。大抵の悪人は、自分がそうだって自覚がないんですもの」
「あなたも悪党とつき合いが?」
周雪友はころころと笑った。
「宴席でもご覧になったでしょう? 余宝生に張継善に宋然、どれもまともな人間なものですか。客の半分以上は、ああいう連中ばかりなんです。私は馬鹿真面目な性分ですから、でたらめな人間を相手にしてると、後先考えず喧嘩してしまうこともあって……。本当は、あなた様のような常識も教養もありそうな方とおつき合い出来れば何よりなんですけど……多分、廓はお嫌いでしょうね? 大事も抱えていらっしゃるみたいですし」
最後の方は、妓女の本音が出ていた。花盛開も最初は、今晩だけのつき合いに留めるつもりだった。友人の忠告もあったし、深入りすれば父と同じ過ちを犯すような気もした。一方で、周雪友の率直な人柄に早くも惹かれ始めている自分がいた。それに彼女は文人との交際も広そうだ。もしかしたら、史料収集の助けが得られるかもしれない。
「私などでよろしければ、通わせていただきます」
周雪友の顔が華やいだ。
「本当に? 嬉しい。じゃあ、月に二三度でいいから、顔を出してくださいな。何か気が塞いだり、話し相手が欲しくなった時に。ちょっと立ち寄ってお酒を飲むくらいなら、うちは良心的な値段ですから」
「ええ。そうします」
周雪友の白い手が伸びて、花盛開の手をぎゅっと握り締めた。柔らかい肌の温かみが伝わる。
「きっとですよ。私、いつでもお待ちしていますから」
周雪友は門の前まで花盛開を見送ってから、自室に戻った。
聚宝荘では酷い目に遭わされたけれど、それでも今日は悪くない一日だった。旧院に限らず、色街では客の取り合いが激しい。新しい客を捕まえるのは簡単ではなかった。あの花盛開という人が約束通り月に何度か通ってくれるようになれば、随分と商売の助けになる。それまで繋ぎとめる努力をしなくては。
彼女は部屋の化粧台を動かして、その裏にある隠し棚を開いた。中には大小の銀子と、お客に貰った髪飾りや腕輪の類が入っている。普段の売り上げは、女将が七八割がた持って行っていかれ、殆ど手元に残らない。棚の中身は、周雪友が女将に内緒で少しずつ溜めてきたものだった。
およそどんな妓女も、数年働くうちに身の振り方を考えるようになる。とにかくこの商売はろくなことがない。客の大半は悪質な連中だ。妓女のことを人間とは思ってないから、手酷く扱う。口汚く罵り、暴力を振るい、あるいは無理強いをする。また、妓女の殆どは売られてきた身分だから、借金を抱えている。幼い頃に廓入りすれば、独り立ちするまでの養育費も加算され、大変な金額に膨れ上がる。普通に商売するだけでは、十年経っても返済出来ない。
周雪友も水揚げをして一人前になってから、もう三年が経つ。この商売の大体のことは経験して、近頃は将来について思い悩むようになった。
妓女が苦界から抜け出す方法は、二つしかない。
一つは、客に身請けして貰うこと。最も良いのは、お金も人格も兼ね備えた殿方だが、これはあまりに望みが薄い。旧院で最も一流とされる妓女ですら、そういう話は滅多に聞かないのだ。
もう一つは、自分で自分を請け出すことだ。相当稼げる妓女なら、自分の借金を返済して自由の身を手に入れられる。とはいえ、これも簡単ではない。瑞烟楼の姉妹達を見ても、それが出来るのは半分以下だ。
雪友は、隠し棚のへそくりを寝床に並べて、そっくり数えてみた。銀は全部で十六両、宝飾品は質屋にあたらないと正確な額はわからないが、多分十両くらいだろう。あとは、部屋にある本や文房具。これも雪友が自分の趣味で買い集めたものだから、売ればいくらか足しに出来る。
だけど、全部合わせても、せいぜい四十両だ。雪友の借金は、まだ七百両近くある。着物や化粧品のように商売で必要な品も、買う度に借金へ加算されてしまう。月々の稼ぎで徐々に減っているとはいえ、自由の身になれるのは到底先のことだった。
それに……雪友は他の妓女達と違って、もう一つ大きな出費を抱えていた。こうしてへそくりを数えたのも、そのためだった。
その時、部屋の戸が乱暴に叩かれた。ぎょっとした雪友が、急ぎへそくりを布団の下へ隠す。
外から酔いの混じった声が聞こえた。
「ねえや、入ってもいい?」
まったく、人を驚かして。雪友は鼻を鳴らながら答えた。
「どうぞ」
戸を開いてなだれ込んできたのは、瑞烟楼の五番目・白楓娘だった。ここの稼ぎ頭でもある。愛嬌に満ちた顔立ちと、健康そうな色の肌、太過ぎず痩せ過ぎない理想の体つき。雪友より歳は三つ下だが、姉妹順は上だ。瑞烟楼では通常、水揚げを済ませて一人前となってから、姉妹の仲間入りをする。けれど楓娘は例外だった。女将は、楓娘が妓女として格別な才能を持っていると見込んだ。それで自分の養女にして、姉妹にも早くから加えていたのだった。
楓娘は酒を飲み過ぎたのか、両の頬を真っ赤に染め、着物は襟元が崩れていた。
「うふ、ねえや、いたんだ」
へらへら笑いながら、しなだれかかってくる。布団に倒れられたら困るので、雪友は急ぎ彼女を椅子に座らせた。
「どうしたの? 何の用?」
「李ねえやの部屋ですごろくをするの。周ねえやもいっしょにやろうよ」
「もうこんな遅い時間じゃない」
「だけど、姉妹のみんなで遊べる機会は少ないもん。ねえ、行こう」
「私、明日帰らなきゃいけないから」
雪友は俯きがちに答えた。
「ええ? またぁ? この前行ったばかりでしょ」
「そうだけど、弟の具合がよくないの。母親の様子も心配だし」
「そっかぁ……」楓娘は、ふと自分の頭から簪を二本抜いて、雪友に渡した。「これ、あげる。お金にして、弟さんに何か買ってあげなよ」
見れば片方は花をかたどり、色鮮やかな真珠が真ん中についている。もう一つは翡翠で出来ていて、精巧な模様が刻まれていた。どちらも値が張る品なのは、一目でわかった。多分、金持ちの客から贈ってもらったものだろう。
「あなたったら、駄目よ。こんないいもの、軽々しく渡したりして」
戻そうとするのを、楓娘が押し返した。
「遠慮しないでよ。姉妹なんだから、困ったと時は助け合うの」
雪友は簪をぎゅっと握り締めた。
「うん……。ありがとうね」しばらくは、この子に頭が上がらなくなりそうだ。「もう寝るわ。明日は昼頃に起きて出かけたいから」
「うん。お大事にね。ちゃんと帰ってきてよ」
「心配しなくても大丈夫よ」雪友は寂しげに笑った。「他に帰るところなんて、無いんだから」
日が変わった。
瑞烟楼の妓女は身よりのない孤児ばかりだが、中には雪友のように家族を持つ者もいた。彼女は自分の売上げの中から、家族へ仕送りを続けている。家には、働けない母と病弱な弟だけ。父はやくざ者で、ずっと昔に行方をくらましてしまった。雪友のお金が唯一の収入だった。
家に帰るのは、決して楽しいことではない。悩みの種が増えるだけだ。けれども、家の存在は雪友が必死に廓で働く理由の一つだから、やっぱり放ってはおけなかった。
昼時、雪友は馬車で外出した。途中、質屋で楓娘に貰った簪を十四両の銀に代える。思った以上の金額だ。彼女はお土産を沢山買い込んだ。
馬車は秦淮を越え、城外に出て、さらに南を目指した。ここまで来ると、風景も段々さびれてくる。都会というのは大抵、裕福と貧乏が同居しているもので、南京も例外ではない。華やかな場所を離れれば、そこには苦しい生活を送る人達がいる。
地面へ斜めに突き刺さったように見えるぼろ家の前で、馬車は止まった。雪友はお土産の包みを抱えて、車を降りた。
門が開きっぱなしになっている。何だか胸騒ぎがした。
「お母さん、いないの?」
声をかけたが、何も返ってこない。奥の間から、微かにせき込む音がした。慌ててそちらに向かうと、寝室の床で、四つん這いになった人影が喘いでいた。
「秀格!」
慌てて駆け寄り、助け起こす。重みが無く、華奢だった。秀格は青白い顔に、微かな笑みを浮かべた。
「姉さん……帰ってきたの」
「どうしたの?」
「大丈夫だよ。お茶が飲みたかっただけだから……」
枝のような手を伸ばして、卓上の急須を示す。雪友は肩を貸して、弟の体を寝床に横たえた。それから急須を掴み、中身を椀に注ぐ。ところが、口先から吐き出されてきたのは、茶とはとても呼べない濁った水だった。
「あんた、こんな物を飲んでたの?」
弟は小さく頷いた。雪友は胸が詰まり、涙を流しかけた。
「母さんは? どこにいるの?」
「朝早く、出かけて……」
弟は口をもごもごさせて、俯いた。
あの人ときたら! 雪友は歯ぎしりして、厨房へ向かった。廓からもらってきた茶葉で、きちんとしたお茶を作り、寝床に持っていく。弟は物凄い勢いで三杯も飲んだ。雪友は見ているだけで辛くなった。
「薬はちゃんと飲んでるの?」
弟は曖昧に頷いた。尋ねる意味の無いことだった。
暖かいお粥でも作ってやろう、そう思い立った矢先、尖った声が聞こえた。
「おや、帰ってたのかい」
雪友の身は怒りに震えた。振り向くと、背の曲がった母が口をくちゃくちゃさせて立っていた。濁った瞳、しわしわの頬は垂れ下がり、肌も土気色。不摂生な暮らしをしているは目に見えて明らかだった。
「お母さん……どこへ行ってたんです」
母は顔をしかめた。片方の足を引きずり、部屋に入ってくる。
「親を前にして、なんて顔をしてるんだい。帰ったら挨拶の一つでもするもんだよ」
雪友は無視して、また尋ねた。
「どこへ行ってたんですか?」
「買い物だよ」
「薬は? 切れてましたけど、買ってきてくれたんですか?」
母がぺっと吐き捨てた。
「馬鹿だね、お前! 家の中を見たろ。そんな金がどこにあると思うんだい」
「お金なら、この前来た時にきちんと渡しました! 丘先生の店で薬を買うようにも伝えたはずです!」
「あの薬は駄目だったんだよ! 効かないんだから」
雪友は思わず怒鳴った。
「すぐに効くはずないでしょう! 飲み続けないといけないんです。お医者様の話を、お母さんも一緒に聞いてたじゃないですか!」
「まったく! これだからお前はバカなんだよ。医者が言ったからって、何もかも真に受けるのが間違いさ。廓にこもってるから、世間のことをわかっちゃいないんだね。医者にとって病人は金蔓なんだよ。簡単に治したら商売にならないじゃないか。だから効き目の無い薬を何度も買わせるんだ。実際のところ、薬なんてのは飲み過ぎないくらいがいいんだよ。養生していればよくなることもあるんだから。ましてお前の弟は体が弱いからね。強い薬は良くないよ。やっぱり私の考え通り、自然に任せて治すのが正解さね」
母親も、もとは妓女だ。減らず口を叩くことにかけては達人の域だった。が、それなら雪友だって現役だ。負ける気がしないどころか、自らの非を認めない母親を、徹底的に叩きのめしてやろうと思った。
「そんなばかげた理屈で、この子が少しだって良くなりましたか! 見てください! こんなに痩せて、血の気もなくなって! 私が来た時、お茶を自分でいれることも出来なかったんですよ。お母さんは養生と言いましたけど、じゃあ弟に何をしてくれたんです。ご飯を沢山食べさせてくれましたか? 布団を替えて、部屋を清潔にしてくれましたか? 何一つやってないじゃありませんか!」
「なんて口のきき方だ! 私はお前の母親だよ! 私のおかげで生まれてこれたんだ! 世間のどこに、親を説教する娘がいる! それがまともな人間のすることかい!」
雪友はせせら笑った。
「世間? まとも? 実の娘を廓へ売り飛ばし、息子の面倒も見ないあなたに、世間のまともな人間を語る資格がおありなんですか!」
「お前っ……お前は……!」
反駁の余地を失った母へ、雪友はさらに追い込みをかけた。
「全部わかってるんです。買い物だなんて嘘ついたって。どうせ賭博でお金をすってきたんでしょう。そうじゃないなら、何を買ってきたのか、ここで私に見せてください」
「この鬼っ、親不孝者っ! お前の端金なんかで、私と弟が暮らしていけるもんか。ちゃんと耳に届いてるんだよ。瑞烟楼の周雪友は評判が悪くて、姉妹達の足手まといだってね! ろくに稼げてもいないんだろ! だからうちに金が来ないんだ!」
「私がお金を出してないですって! じゃあこれから先は、きっちり帳簿をつけることにしましょうよ。いくら渡して、いくら使ったのかわかるように。そうしたらどちらが間違ってるのか、はっきりするでしょう! 私が言い出したんじゃないですからね。お母さんが納得出来てないから、そうするんです!」
「うるさいうるさい! 黙れ! 誰がお前みたいな娘をあてにするもんか! どっかへ行け! 行っちまえ!」
母はそう怒鳴りながらも、自分から出て行った。
雪友が勝利の高揚感に酔えたのは、つかの間のことだ。後には酷い惨めさだけが残った。
一部始終を見ていた弟が、瞳を泣きはらして言った。
「姉さん、母さんを虐めないで」
「虐めてなんか……あんたが一番虐められてるのに」
「僕は大丈夫だよ。母さん、いつもあんなんじゃないんだ」
雪友は弟の頭を撫で、布団をかけなおしてやった。弟の言う通りかもしれなかった。雪友は母を憎んで、必要以上に傷つけた。母もそんな娘の敵意を感じて、強情を張ったのだ。
雪友は厨房へ行ってお粥を作り、二人で食べた。
「お土産があるの」
食事の後、雪友は街で買ってきた本を渡した。一つは詩集、残り二つは小説だ。本当は勉強のため、きちんとした経書でも読ませたかったが、体調の思わしくない今は、こういう気軽なものが良いと思った。弟は喜んだ。しばらく読みふけっていたが、やがて疲れを覚え、そのまま寝入ってしまう。
雪友も、弟の隣に布団を敷いて寝た。今後のことを、もっとよく考えなければならない。母をあてには出来なかった。妓女というのは、廓を出るとろくな働き口が無い。歳をとると尚更だ。九年前、父に捨てられた母は、再び廓へ戻らず、かといって他の仕事をするでもなく、手元の金を使って暮らした。そうして困窮すると、雪友を七十両で売った。それからまた金が尽きると、あちこちで借金をした。その全ては、雪友に降りかかってきた。彼女は自分の身代を清算する前に、その借金を片づけなければならなかった。雪友は母を憎んだ。弟がいなければ、とっくに全てを投げ出していた。
秀格には未来がある。勉学を積んで、科挙に及第し、役人になって欲しかった。そのためにも、今は病気を治さなければならないのに。
考えれば考えるほど、問題が積もっていく。雪友は寝返りを打った。明日だ。また明日、考えよう……。