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金陵群芳傳  作者: 春秋梅菊
2/8

一、玉は砕け、白きを失う

 その楼閣の一室からは、南京(なんきん)の町並みがよく見えた。 

 連なる灯籠は赤く燃える龍のよう、吹きつける風は秦淮の水気を含んで心地よく、通りは人足がいつまでも絶えない。豪奢な楼閣達は月の下で輝き、笑い声が幾重にも重なって、遠く遠くまで響いていく……。

「いつまで、外を眺めていらっしゃるの」

 女に呼びかけられても、花盛開(かせいかい)は相変わらず、窓の外を見やったまま答えた。

「こういう景色を、前に見たことがあります」

「でも、南京は初めてなのでしょう?」

「南京ではありません。史書を通して見た、もっと昔の、別の場所です。梁の建康、唐の長安、北宋の開封……滅びる直前は、どれも目の前の南京とそっくりでした。歴史というのは、時々奇妙なほどに過去の出来事をなぞります。この街の行く末がどうなるのか、それを考えていました」

 女の、感心したような声が返ってきた。

「本当に、お父上とそっくりですね。お姿のみならず、お話しすることも。将来はきっと、あの方と同じく立派な史家になっているのでしょう」

「……ここには、父が来るべきでした」

 花盛開は答えて、おもむろに相手と向き合った。

 その女は、もう四十の半ばだった。容貌は既に絶頂を過ぎ、衰え始めている。けれども、それを感じさせない美しさがあった。外からではなく、内から輝く美しさが。

「長年の知己であるあなたがこんな目に遭っていたことも、父はとっくに知っていたはずだ。身請けが出来る金もあった。それなのに……」

「もしあの方が来ても、私の運命は何一つ変わらなかったでしょう。それどころか、二人とも余計に辛い思いを味わっただけです。お互いが傷つかないためにも、これでよかったのです」

 気丈な声だった。それでも、潤む瞳が全てを物語っていた。

「そうでしょうか。父はどんな手を使ってでも、あなたを廓から連れ出すべきだった」花盛開は相手の言葉を待たずに続けた。「あなたを身請けした平国公(へいこくこう)という男の噂、ここに来る途中でいくつか耳にしました。権勢を頼みに好き放題をしている俗物だ。そんな男のもとへ行けば、餌を与えられても自由になれない籠中の鳥と変わらない」

 女は、黙って聞いていた。

「この部屋に入った時、父があなたの何を愛したのか、すぐに合点がいきました。紫檀の棚に並んだ古書の数々、窓辺に置かれている造花、壁に掛けられた山水画……あなたはいくつもの素晴らしい才能をお持ちだ。平国公のような男では、その才能を万分の一も理解出来はしない。私が何より耐えられないのは、そのことです。父はあなたを救うべきだった。それが出来たのに」

 窓の外へ、女は顔を向けた。

「優れた才能が人を救い、幸せにするとは限らないもの。あなたなら、それもおわかりでしょう。まして私のように苦界へ落ちた人間なら……。だからといって、あなたの父上を悪く言う理由にはなりません。私の思い出に生きるあの方は、まだよき知己です。どうか、その旧情を傷つけないでください」

 花盛開は確かに、平国公のことなどどうでもよかった。父の間違いを訴え、その父を思いやるのもまた間違いだと彼女に伝えたかったのだ。だが、花盛開の憤りは、彼と父の間の問題だ。女にとっては関係無いことだ。彼女の思い出を踏みにじる権利も、花盛開には無い。

「わかりました。もう何も言いません」

「ありがとう」

 女は弱々しく微笑んだ。それから腰を上げて、書斎の奥から油紙の包みを引っ張り出し、花盛開の卓へ恭しく置いた。包みを開くと、褪せて茶色になった本が三冊、姿を見せた。

「お約束の本です。お持ちになって」

 花盛開は一番上の本を手に取った。自分は父の命でこれを持ち帰るため、女のもとを訪ねたのだった。

 この古びた書物は、唐の時代に無名の文人が記した南京の史書だった。当時の人々の習俗や、物珍しい事件が、細やかに記されている。十数年前、父が女のもとへ通っていた時も、この書物を喉から手が出るほど欲しがったという。

 嘆息した花盛開は懐から小箱を取り出し、蓋を外した。金の延べ棒が三本入っている。

「書物の代金として父より預かりました。お納めください」

 女は首を振った。

「いただけません。この本は、私とお父上の旧情の証として差し上げるのです。それに平国公のもとへ行けば、少なくともお金に苦労することはないのですから」

 花盛開はためらったが、結局小箱に蓋をして、懐に戻した。

 余計なことを言ってしまった。女が本を包み直す間、後悔の念が胸中を渦巻いていた。

 花盛開がいる間、彼女は涙を流さなかった。けれど、この後で流すだろう。過去の知己が、自分を見捨てたことを知って。



「よくやったじゃないか」

 馮笙(ふうしょう)は笑って、杯を掲げた。

「こんな宝物をただで手に入れたんだ。親父殿も鼻が高いだろうぜ」

 花盛開は椅子の上でぎこちなく身をすくめた。廓を出た後、罪悪感はいよいよ無視出来ないものになっていた。あてもなく街をふらふら歩いていたところ、この友人に捕まり、そのまま酒楼へ連れ込まれたのだった。

 盛開は、卓に放り出した本を睨みつけて言った。

「これが歴史的に価値のある、貴重な本だというのは認めるよ。それでも、生きている人間を見捨てる理屈にはならないだろう?」

「偉大な事業のためさ。俺が親父殿なら、そう答えるね。考えすぎるぞ、君は。綺麗事でやるもんじゃないんだ。これが親父殿個人じゃなく、お国の手にかかったらどうなってた? 殆ど賊の手口だぜ。どこぞの誰某が史料を持っていれば、大金でもって脅し、聞かなければ投獄する。墓にあるなら暴き、書店にあるなら潰して持ち出し、やりたい放題だ。死人がどれくらい出たろうな?」

「父だって、殆ど同じことをしているよ」

 花盛開は口をきゅっと結び、顔を背けた。

 父はかつて京師で要職に就いていた。国への忠義厚く、優秀で仕事熱心だったが、数年前に国家の危機を訴えたところを弾劾され、ついには退官へ追い込まれた。失意の父が新たに生きる目的として見つけたのは、自分の手で王朝の史書を完成させることだった。

「我が大明は、もうこれまでだ。北の地は蛮族の不穏な気配が強まり、朝廷は腐敗に腐敗を重ね、民は増税にあえいでいる。私は、国があと十数年のうちに滅びると思う。だから残りの生涯をかけて、歴史の全てを書き残しておきたい」

 それからは、狂ったように各地の史書・小説・地図・記録・紙切れをかき集め、寝食も惜しんで筆を振るうようになった。それが、もう一年あまり続いている。

 花盛開は最初こそ、父の事業に憧れ、協力を惜しまなかった。だが、次第についていけなくなっていた。史料の収集に、父は手段を選ばなかった。貴重な史料が他人の手にあれば、金にものを言わせるのは序の口で、下僕に盗みを働かせたり、言いがかりをつけて裁判を起こしこともある。

 勉学のため、南京にいる叔父のもとへ逗留したい。口実を作って、花盛開は父のもとを去った。ところが、南京へ着くなり父は手紙を寄越してきた。昔なじみの芸妓が近くにいるはずだから、貴重な本を貰ってきて欲しい、と。

「父はわかっていたんだ。あの人が身請けされることも。その時を狙えば、本を手放してくれると。あまりにも酷いやり口じゃないか」

「妓女だって、金のために客を殺すんだぜ。男が裸になるまで搾り取り、そいつが路頭に迷っても知らん顔だ。その人が名妓なら、何人かは確実に犠牲になってるさ。同情には値しない」馮笙が身を乗り出した。「それより、君を呼び止めたのは愚痴を聞くためじゃないんだ。例の探してた本が見つかったんだよ」

「本当か? どこに?」

「君にとっては嬉しいことに、悪党のところだ。奪い取ったところで良心が痛む気遣いもない」

「誰のことだ?」

 馮笙が薄く笑った。

「余宝生という商人だ。君も、多少は名を耳にしたことがあるだろう。普段から、どこで仕入れたかもわからんいかがわしい代物を、廓や会館で売りさばいてる。今夜、ちょうどそいつの宴席に呼ばれてるんだ。一緒に行かないか?」



 場所は、南街にある「聚宝荘(しゅうほうそう)」という場所だった。官吏や富豪ご用達の店だ。

 一階の広間には、数十人の男達が、七つほどの円卓に分かれて座っている。

「そら、あそこにいる男だ」

 馮笙が、最も奥の卓へ顎をしゃくった。豪奢な紫の着物をまとった男。これがあの余宝生か。

 両隣には取り巻きとおぼしき連中がいる。右手の男は、盛開も知っている顔だった。張継善(ちょうけいぜん)という幇間だ。広い肩幅に突き出た下腹、ふてぶてしさの漂う顔立ち。いつも有力者にくっついて廓に出入りし、おこぼれを預かってその日暮らしをしている。左には、棒のように痩せた男が座り、長い山羊髭をしきりにしごいていた。身なりからして文人らしい。

 馮笙が肩を叩いた。

「さて、行くとしようか。流れはさっき伝えた通りににな」

「わかってる」

 余宝生の卓までやってくると、馮笙が進み出て抱拳の礼をとった。

「どうも、余先生。遅れました」

「ああ、ああ! 馮君だね、かけたまえ! おや、そちらの御仁は?」

 隣の張継善が、いち早く口を挟んだ。

「兄貴、わしが前に話していたのを憶えてませんか。花鴻先生の甥で、盛開君だ。そうだろう。歴史の勉強は続けているのかな? いや関心関心!」

 おだてと裏腹に、背中をどっかり椅子に預け、胸を横柄に反らしている。若い文人風情など、歯牙にもかけぬ様子だ。彼は手を振って、余宝生の隣にいる文人を示した。

「こちらは、宋然(そうねん)先生だ。家塾の教師をやっている。お話を聞けば、君にもいい刺激になるだろう」

 花盛開は宋然へ一礼してから、余宝生に向き直った。

「余先生、今日は珍しい宝が入っていると聞きました。是非、拝見したいのですが」

 余宝生が答えるより先に、張継善が冷笑した。

「はっはっは。花盛君、お前さんは若造だ。見せてやるのはいいが、その価値がどれほどのものかはわかるまい。あと十年も世間の冷たい風を浴びて、わしのようにもうちっと見識を身につけないとな」

「そう無碍にせずとも。本当のお宝があるなら、是非父のいる京師へ持ち帰りたいものです。父から、多少小遣いも貰っていますからね」

「小遣いなんて高が知れてるだろう。背伸びをするもんじゃない」

 幇間というのは、宴席の主導権を握ることに命懸けだ。若造の花盛開が、主賓の余宝生へ直接話を通そうとしたのが気に入らなかったらしい。花盛開は内心せせら笑った。こちらは別に、あんたへ話があってきたわけではないのだ。下手に出るつもりもない。懐へ手を伸ばし、悠然と言った。

「実はつい今も、珍しい古本を知人のもとから買ってきたところです。金の延べ棒が三本、懐に余っていますよ。南京を立ち去る前に、使いきれるかどうか」

 張継善は大袈裟に眉を逆立てた。

「そういうのを、分不相応というんだ。たまたま小金を持っているくらいでひけらかすんじゃない」彼は鼻を鳴らし、ちらっと余宝生を横目にうかがってから言った。「……だが、まあいい。お前の叔父上とは長いつき合いだ、その顔を立てぬわけにもいかんからな。さあ、座った座った」

 馮笙がにやりと笑い、盛開へ目くばせした。君は餌を撒くのが上手いな。張の馬鹿め、すぐ乗り気になりやがった。

 二人が腰を下ろすと、張継善は首だけを動かして、後ろの方へ怒鳴った。

「おいっ、雪友! 新しいお客さんがお見えだ。こっちへ来て酒をつげ!」

 窓際の壇上で、一人の妓女が琵琶を弾いていた。色白で、艶やかな黒い髪、たおやかな風情に満ちている。歳は二十歳くらいだろうか。

 呼びかけられたその妓女は、楽器を置き、滑らかな足取りでこちらへやってきた。張継善が得意げに紹介した。

「知ってるかな、笙君、盛開君。南京でも有名な、瑞烟楼(ずいえんろう)周雪友(しゅうせつゆう)だ。姉妹順は六番目で、詩歌の達人。会えただけでも眼福ものだぞ」

 花盛開は軽く一礼するに留めた。今日は妓女と戯れにきたのではない。

 張継善が両手をもみ合わせ、余宝生に言った。

「余の兄貴、まあ一つすみませんが、自慢の品をいくつかお披露目いただけませんかね」

「そうだのう。では、あれを持ってこさせよう。赤箱だ。あれにはとっておきが入っておるからな」

 もったいぶってそう言えば、張継善も大袈裟に調子を合わせる。

「おお! あれですか! 今晩、人目に晒すのは初めてですな。是非そうしましょう」

 花盛開は椅子へ深く背を預けた。本題はこれからだ。馮笙曰く、例の本はかなりいかがわしい経路で余宝生の手元に入ったらしい。となると、引きずり出すには少々手間がかかるだろう。しばらくは、彼らの茶番につき合う必要がある。

 周雪友は、卓の全員に酒を酌してまわった。やがて、下男が赤い布に包まれた箱を運んできた。

 布を解き、化粧箱を開けると、四つ足の香炉が姿を見せる。あちこち錆びつき、端が欠けている部分もある。いかにも胡散臭げな代物だった。

 余宝生が、大袈裟に咳ばらいをしてみせた。

「これは亀寿香炉(きじゅこうろ)といって、五百年も昔に作られた宝じゃ」

「ははあ。見たところ、ただの古びた香炉にしか見えませんなぁ」と宋然。

「そうじゃろう。無論、ただの香炉ではない。これで焚いた香を吸えば、あらゆる病気を遠ざけ、寿命を伸ばせるのだ。それも十年や二十年どころではない。前の持ち主だった杭州(こうしゅう)の富豪は、これを使って二百年を生きたという」

「そりゃ凄い! 本物のお宝ですな!」張継善が勢い込んで言う。「盛開君、こりゃ得難い逸品だよ。五百年の古物ってだけでも価値がある。親父さんの土産には、またとないおすすめだな」

 花盛開はからからと笑った。これは典型的な詐欺の手口だ。

「なるほど、確かに珍宝のようです。実は、私も京師で、似たような物を見たことがあります。万寿酒杯(ばんじゅしゅはい)というんですが、それを使って酒を飲めば、病気にもかからず、数百年生きられるというのです。ある男が、客商からそれを買ったんですが、何と十年もしないうちに逸り病で亡くなってしまいました。男の遺族が客商のもとへ押しかけ、この杯を使っていたのにどうして死んだのだと問い詰めると、商人はこう答えたそうです。「そりゃあんた、『万寿酒』の杯なんだから、万寿酒を入れて飲まなきゃ効果は無いよ。それはただの杯だから」とね。恐らく、こちらの宝も香炉だけでは役に立たず、亀寿香のような代物が必要なのではありませんか?」

 余宝生と張継善の表情が凍りついた。ややあって、張継善が笑みを繕いながら言った。

「ハハ……これだから若いのはいかん。勉強ばかりやってると、余計な知識ばっかりため込んで、変に疑り深くなるんだなぁ。余兄貴、こいつは間違いなく本物だ。そうでしょう?」 

「う、うむ。もちろんじゃ。この香炉は、あー、どんな香を焚いて使っても効果がある。しかしまあ、花君のようにまだ若いのには、大した価値も無かろう。……そうじゃ、あれを持ってきなさい」

 余宝生は下男に香炉をしまわせ、代わりに一本の巻物を持ってこさせた。開いてみると、山水画である。粗末な家屋と小さな畑、そして背後に連なる山々が描かれている。画の右上には詩が一首あった。

「これは五代の荊浩(けいこう)が描いた梨林図(りりんず)という山水画じゃ」余宝生は右下の印を示した。「ここに本人の直印もある。画自体が素晴らしいのはもとより、歴史的な価値も大きい」

 花盛開は真っ先に画中の詩を示した。

「この七言絶句詩は、范成大(はんせいだい)の「晩春田園(ばんしゅんでんえん)雑興(ざっきょう)」に見えますが」

 張継善が片方の眉を上げた。

「ほほう、それも有名な詩人なのかね。だとしたら、この画には一層箔がつくのは間違いない」

「いえ、問題ですよ。范成大は南宋(なんそう)の詩人です。五代の画家が、どうしてまた数百年以上後の詩人の作品を乗せているのでしょう?」

 途端に、余宝生の表情がひきつった。

 妓女の周雪友が、くすっと笑みを漏らした。袖で口元を隠すしぐさが、またあでやかだった。

 張継善がすかさず怒鳴る。

「おいっ、雪友、何が可笑しい! ぼやっと座ってないで、酒をつげ!」彼はすぐに宋然を振り向いた。「宋先生。まさかこれが偽物ってわけはないでしょう。あんたは学者様だから、わかるはずだ」

「むむ……」宋然は思案気な顔つきになり、穴のあくほど山水画を睨みつけていた。「そ、そうですなぁ。恐らく、五代にも范成大という御仁がいて、同じような詩を書いたのでは……」

 学の無い張継善でも、さすがにこの言い分は無理があると思ったらしい。途端に顔つきを変え、馮笙を睨んだ。

「おい、馮君。せっかくまたとない場へ呼んだのに、花君のこの態度ときたら何だ。連れてきたお前さんの方から、少しは注意してやるべきじゃないかね」

 馮笙は笑い出した。

「ははは、そりゃ筋違いってもんでしょう。この兄弟分はそこらの有象無象とは違うんですよ。きちんと見る目を持った相手には、それなりの宝物を用意して売りつけるべきだ」彼は身を乗り出した。「実はね、我々はもともとお目当てのお宝があってお邪魔したんですよ。ただ、どうにもその宝は出所が怪しくてね。いきなりその話をしたんじゃ、突っぱねられたに違いない。だから、ここからは真剣な話です。お互い、誤魔化し抜きにしてくれませんか」

 余宝生と張継善が顔を見合わせる。用心深く、余宝生が尋ねた。

「何だね、その目当ての宝というのは」

「書物ですよ。といっても、あなたに心当たりはないかもしれないから、その出所を話すとしましょう。

 一か月前、郊外の石員外(せきいんがい)という富豪が、酒の席で諍いを起こし、知り合いの男を殺してしまったため、投獄されたんです。一刻も早く出ようと、石員外は知事へ賄賂を贈ることにした。彼は金陵の西町に別荘を持っていて、そこの倉には書画やら骨董やら、長年かき集めた宝の山がある。自分は牢を出られないから、知り合いの商人に、別荘の宝を売って金を工面をするよう依頼したわけだ。ところが、商人から思いがけない返事がきた。別荘の倉は空っぽだと。石員外が困っているうちに、杖刑の判決が下った。もう六十を過ぎた老人だから、数十回も叩かれるうちに根をあげて、そのまま死んでしまったわけです。で……肝心の宝だが、実は倉が空というのは嘘だった。宝の山を見た商人が、欲を起こして嘘をついたのですよ。彼は倉の中身を丸ごと自分のものにして、あちこちで売りさばき、莫大な利を得ている……」

 余宝生は、馮笙の話半ばですっかり険しい顔つきになっていた。やがて、ふーっと息をつき、椅子に深くもたれて言った。

「その商人がわしだと? 一体、どこでそんな話を聞いた?」

「知っての通り、私は画家です。その私の作品を、あなたから買ったという人間がいましてね。はて、私は余先生に一枚も画を売った覚えが無い。早速、その買い手のところへうかがって確かめたところ、五年前石員外に売ったものだったんです。仕入れのもとをたどり、情報を集めれば、おのずと真実もわかります」

 張継善がバシンと卓を叩いた。

「デタラメだ! その話なら俺も聞いてるが、兄貴が石員外の別荘を訪ねた時、もうそこはお上に押収された後だったのさ。兄貴は石員外が死んだ後、お上が公売にかけてた別荘の品物を仕入れただけだ。それを兄貴が盗人みたいな言い方しやがる!」

「そりゃ、盗人の烙印をおされないために、そういう流れを仕組んだんでしょう。余先生は知事とも昵懇だと聞いていますからね。宝物の一部は、もちろん知事の懐にも入ったわけだ」

 張継善がぐっと詰まり、歯ぎしりしている。

 あまり荒事になってはまずい。花盛開はなだめにかかった。

「私達は、余先生の商売の是非をどうこう言うつもりはありません。脅す気も無い。ただ、目当ての書物を探し、買いたいだけです。単刀直入に話を切り出したのは、はぐらかされるのを恐れたからです」

 余宝生はへっと笑った。顔つきには、ふてぶてしい色が浮かぶ。悪事を認めた人間の表情だ。

「わかった。よかろう。要するに、君達は求めている品物について、全て調べをつけてあるわけじゃな。ならば、隠しもすまい。石員外の別荘にあった遺品は、全てお上の公売を経由してわしが買い込み、手元で管理しておる。欲しいものがあれば、売ってやるわい。書物となると、自分の目で中身を確かめたかろうな?」

「そうさせていただければ幸いです」

「構わんよ。わしは書物に疎くてのう。値がつけられず、扱いかねておったのじゃ」目の前の若者が隠し事の要らぬ相手とわかったせいか、余宝生の態度は先程よりくだけたものになっていた。「売値は後程相談するとしよう。君は実直そうじゃから、言い値で構わん。明後日、遣いの者を送り、品物のある別宅へ案内させよう。それでどうかね?」

「ありがとうございます」

 余宝生は杯を干し、それとなく尋ねた。

「石員外の件は、君らの周囲でも噂になっておるのかね」

「さほどではありません。僕と花君のように、何かしらの目的が無ければ、深く首を突っ込んでくる者もいないでしょう」

 馮笙が答えた。その言葉を信じているのかどうか、余宝生の表情からは読み取れなかった。張継善がすかさず口を添える。

「兄貴、心配することはございませんよ。石員外の遺品は、もう大半を売り払ったことですし、うるさく言ってくる輩なんて、それこそ数えるくらいのもんです。問題が起きたら、わしに声をかけてくださればいいんですからね。さあさ、話もまとまったとこですし、飲みなおしましょう。おいっ、雪友! このクソアマ、いつまでだらだら座っとるんだ! せっかく声をかけてやったのに、無礼なヤツめ。少しは立場をわきまえて振る舞ったらどうなんだ! 生意気をやってると許さんぞ」

 妓女への罵倒は、途中から明らかに花盛開へ向けられていた。張継善の恨みを買ったところで何ともないが、自分のせいで無関係な妓女が怒鳴られたことには、苛立ちを感じる。

 周雪友は、この手の扱いに慣れているのか、平然とした様子だった。「大事なお話の最中でしたもの。私なんかが口を挟めまして?」と受け流し、一人一人に酒を注いで回る。花盛開のもとへ来ると、彼女はにこやかに尋ねた。

「若様、詩がお好きなんですか? 先程、一目で范成大の詩を言い当てましたけど」

「多少嗜む程度です」

「世の人は、口を揃えて唐詩を讃えてますが、若様もそうですか?」

「唐詩はもちろん素晴らしいですが、古詩も捨てがたいですね。日頃、古書をよく読み漁っているのですが、遥か昔の詩人には後代と違って素朴な味わいがあります」

 周雪友は嫣然と笑った。

「素敵。いずれ、詳しくお話を聞かせていただきたいわ」

 張継善がまた怒鳴った。

「おいっ、雪友。何をむにゃむにゃとわけのわからん話をしとるんだ。この宴席の主人は余の兄貴だろうが。俺が甘くしてやるのをいいことに、主客の区別まで間違えやがる。もう酌はいいから、琵琶を弾け!」

花盛開は持っていた酒杯に力を込めた。沸々と怒りがこみ上げてくる。この幇間の意図はわかっていた。直接花盛開をけなせば、彼を宴席に呼んだ余宝生までも批判することになりかねないから、いちいち雪友を介して怒鳴るのだ。何であれ、気に入らなかった。

周雪友は大人しく、壇上から琵琶を取って戻った。口を真一文字に結び、流行りの曲を演奏し始める。

 酒が一巡したところで、馮笙が花盛開の胸の内を察し、肩を叩いた。

「盛開。用も済んだし、そろそろ行こうか」

 不用意に長居しては、余宝生はともかく、張継善がせっかくまとまった商談を駄目にしかねない。花盛開にも否やは無かった。

 余宝生へ挨拶を述べ、席を立ち上がると、張継善が聞こえよがしに吐き捨てた。

「けっ! 雪友、今日のお前ときたら何だ。しみったれた曲ばかり弾きやがって。こっちに来い。酒を注ぐんだ」

 周雪友が琵琶を弾く手を止めた。挑むような目を張継善に向け、冷ややかに言う。

「嫌です。自分でやったら?」

「ああん?」

「今日のあなたときたら、人に噛みついてばかり。いい加減にしたらどうなの? 他のお客の前でみっともないでしょう」

 周雪友の言葉は、明らかに花盛開を弁護したものだった。張継善の悪し様な物言いの意図を、彼女もとうに理解していたのだ。

「みっともねえだと? 俺に言ってるのか、ええ!」

 張継善がすごんで、腰を上げる。

「ここには余先生に呼ばれてきたの。あなたじゃなくてね」

「馬鹿抜かせ。兄貴は別にどの妓女だって良かったんだ。俺が勧めたおかげで、兄貴はお前を指名したんだよ!」

「だとしても、あなたに感謝するいわれは無いでしょう。お金を払うのはあなたじゃないんだから」

「クソアマ! いつからそんなデカい口が叩けるようになった!」

 今にも手を出さん勢いだが、余宝生と宋然は止める素振りすら見せない。恐らく、この幇間が妓女に乱暴を働くのはよくあることなのだろう。

 花盛開は既に卓を離れていたが、思わず足を止めた。周雪友は大人しく黙っていることも出来たのだ。それが彼のため難儀に遭っている。このまま去るのはためらわれた。馮笙が袖を引いて促すのを、彼は片手で制した。

 周雪友は一歩も引かず言った。 

「あなたもいっぱしの男なら、たまには他人のお金じゃなくて、自分のお金で私を呼んだらどうなの」

「てめぇ、なんて言い草だ。俺が口添えしてやらなきゃ、お前みたいな瑞烟楼のみそっかすを、わざわざここへ呼んでやるかってんだ!」

「あらそう。でしたら、二度とお口添えなんて結構です」

 ぴしゃりと、冷たい酒が周雪友の顔に叩きつけられた。怒り狂った張継善が、杯の中身をぶちまけたのだ。広間がしんと静まり返る。

「売女! お前、恩を仇で返しやがるとはいい度胸だ! 見てろ、今に瑞烟楼からてめえを追い出して、野垂れ死にさせてやる。死骸は秦淮へぶちまけて、魚の餌だ!」

 見かねた花盛開は卓へ戻り、声を張り上げた。

「張先生、もういいでしょう」彼は幇間と周雪友の間に立った。「用件は彼女じゃなく、私にあるはずだ」

「黙れ若造、口出しするな!」張継善は鼻息荒く迫り、胸倉を掴んだ。「これ以上調子に乗りやがると、どうなるかわからねえぞ」

「どう始末をつけるんです? 殴り合いでも始めますか?」花盛開は相手を見返した。「もし裁判沙汰になれば、私には後ろ盾がある。あなたはどうです? 泣きついたところで、裁判の大金をはたいてくれる主人がいますか? 私はもともとあなたのような人間は嫌いなんだ。それが生意気にうつったかもわからないが、あなたは自分の行いをよく見直した方がいい。世間に誇れるような人間なのかどうか」

 張継善はじっと盛開を睨みつけていたが、やがて静かに手を離した。それから、へへっとおどけた笑みを浮かべ、大仰に肩をすくめてみせた。

「おい、わしは雪友と話をしていただけさ。それをお前、いきなり突っかかってきて、殴り合いだの裁判だのとばかばかしい。わしはお前なんぞ本気で相手にせんよ。ああ、わかったぞ。お前、わしに盾突いたのは建前で、雪友の気をひこうと思ったんだろう? さっき宴席で仲良さげに、こそこそやり合っていたものな。忠告しておくが、やめとけ。あの雪友はろくでもない女だ。さっきも見たろ。あれが客に対する態度か? 大体、廓の女なんてのはな……」

 態度を急変させ、全てをはぐらかしにかかった張継善に、花盛開はあきれ返った。馮笙が近づいてきて、袖を引っ張る。べらべらまくし立てている幇間を無視し、二人は大股で立ち去った。




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