第六十話 秘密の話
目を開くと白い天井。私はふかふかとしたベッドに横たわっていた。
「大丈夫か?」
覗き込んで来たクレイグの顔が近すぎて、一気に顔が熱くなる。ハンカチ越しとはいえ、口づけてしまったことに動揺しつつ、支えられて起き上がる。
「大丈夫です。ここは?」
先程の店の薄暗い雰囲気とは全く異なっていて、一目で上質とわかる調度品が揃っている。
「別の宿屋だ。さっきは悪かったな。初めてで、力の加減ができなかった」
クレイグの耳が赤くて、目が泳ぐ。ハンカチ越しの口づけの理由はわかっている。普通の客と偽装する為だったのだろう。初めてと言われて、私も視線が落ち着かない。
「一体、何があったのですか?」
グラスに入った水を手渡され、一口飲むと頭もはっきりしてきた。私の問いにクレイグが目を閉じる。しばらくの無言の後、何かを振り切ったように目を開く。
「ゴドフリー様が、あの男から何かを受け取っていた」
「毒薬を?」
「袋に入っていたから、中身が何なのかはわからん。周囲から隠しながら受け取っていた。……手慣れた様子だったな……」
深い深い溜息は、寂しさと諦めの色を帯びていく。
「……正直に言うと、お前が毒入りのケーキを持ち込んだ時から、俺はゴドフリー様を疑っていた。お前の姫さんに渡した菓子に惚れ薬を仕込んだだろ? 誰にでも優しいゴドフリー様が薬を使うような人だと今までは思いもしなかったが、実は卑怯なことも平気で出来る人だと認識が変わった」
「シリルはゴドフリー様に依頼されて珈琲を使ったケーキを焼いていた。珈琲は初めて扱う材料だと張り切って、ケーキだけでなくいろいろ作っていた。……あいつは自分の菓子に薬を仕込むようなことは絶対にしないと思う」
そう言って、クレイグは肩を落とす。今まで見たこともない苦悩の表情を見ていると胸が痛い。ベッドから立ち上がり、クレイグの手を両手で包む。
「クレイグ、大丈夫ですか?」
「……大丈夫だと言いたい所だが、大丈夫じゃないな。騎士見習いの頃から、世話になってる恩人だ。自分の目で見ても信じられん。あれは毒薬じゃなく、別の物だと思いたい」
「あの……不思議に思うのですが、あんな場所に王子の側近が行けば、目立つとは思わないのでしょうか。誰か人を使うとか、他に受け渡し方法はあるはずです。だから、もしかしたら」
薬を受け取っていたのではないかもしれないと、続けようとした私の言葉をクレイグは優しく遮った。
「気を使わせてすまん。俺もわかってるんだ。わかってるんだが、納得したくない。……本人が受け渡しをするのは、関わる人間が多くなると秘密が漏れやすくなるからそれを避けたんだろう。それにゴドフリー様は貧民街でもどこにでも、困っている人がいる場所には平気で入っていく。だから知らずに見かけたら、また世話焼きに行くのかと思うだけだ。……それが目くらましだったとわかると、もう怪しいことだらけに見えてくるな」
無理に明るく笑おうとするクレイグの表情が痛々しい。
「クレイグ、無理に笑わなくてもいいですよ」
私は、黙り込んで俯いてしまったクレイグの手を握っていることしかできなかった。
◆
翌日、古城で王子のお茶会が行われた後、私はクレイグに声を掛けられて王子が滞在する客室へと迎え入れられた。部屋には王子と坊ちゃまが待っていた。
「初めまして。これから君にいくつか質問をしたいのだけれど、いいかな?」
茶色の髪の王子がふわりと優しい笑顔を浮かべる。それだけで、部屋の空気が柔らかくなったような気がした。何か答えなければと思っても、恐れ多くて言葉が出なかったので頷く。
「レヴィ、クレイグ、少しの間部屋から出てくれ。僕は彼女と二人きりで話がしたい」
坊ちゃまは王子からレヴィと呼ばれているらしい。はいと答えた二人は部屋から出て行った。
「さて。これで二人きりだ。間諜もいないから自由に発言していいよ。不敬とか言葉遣いとか気にしなくていい。――君が話したことは、絶対に他言しないと女神に誓う」
王子が女神に誓う姿は驚きしか感じない。どうしたらいいのかと周囲を見回して助けを求めてみても部屋の中には、本当に王子しかいない。
「僕は王族として、この国の未来を担っている。選ぶ道を間違うことのないように、可能な限り多くの情報を耳にしたいと思っているんだ。だから君の話を聞きたい」
座るようにと勧められて、王子と同じテーブルに着く。
「君は何故、検査薬で検出できない薬の判別ができるのか、教えてもらえないかな。クレイグに聞いても、個人的に君を信じているからって言うだけで、理由を教えてくれないんだ」
クレイグは私の秘密は知らないから説明できないのだろう。それでも一緒に過ごした短い間に、私を信じていてくれたことが嬉しい。
私が自分の秘密を話すまで、少し時間が必要だった。王子は優しく微笑むだけで急かしたりはしない。王子が覚束ない手つきでお茶を淹れようとしたので、慌てて替わる。
いつものようにお茶を淹れると、気持ちも落ち着いてきた。
「……私は蝶遊苑国の〝香魔〟と呼ばれる一族の出身です。香魔とは、この国の言葉にすれば香りの魔女。あらゆる匂いに敏感に反応し、あらゆる香りを操り、様々な薬を作ります。私たちの一族は、一度覚えた匂いを忘れることがありません」
「国の名前は聞いたことがある。この国がある大陸とは別の大陸にある国だね」
「私には場所がわかりませんが、遠い国だと思います」
空に輝く月と星の位置が違うことには気が付いている。これまで見たことのある地図には、祖国の名前が載っていたことはない。
「香魔というのは初めて聞く言葉だ。僕の勉強不足で申し訳ない」
「それは仕方のないことです。私たちの一族は存在自体を隠されています」
「一族の一人である君も、あの不思議な毒薬を作れるってこと?」
「いいえ。……一族の女には必ず魔力が備わっているのですが、私には魔力がありませんでした。魔力のない女は一族と認められず、秘伝の薬の作り方を教わることができませんでした」
私の魔力は双子の妹に独り占めされてしまった。そんなことはあり得ないと思っても、実際、妹は一族の誰よりも魔力を持っていた。
妹は十歳で一族秘伝のすべての薬と香りの製法を習得し、十一歳で皇帝陛下の後宮へ侍女として召し上げられた。父母は妹の手紙で呼ばれて帝都に向かう途中、事故で亡くなった。
「薬は作れなくても、薬の匂いは知っていた?」
「はい。祖母は皇帝陛下に名前を知られる程の魔女でしたから、様々な薬を作って献上していました」
媚薬も惚れ薬も、浄化薬も毒薬も。ありとあらゆる注文が皇帝陛下直筆の手紙で届いた。その度に祖母は苦笑しながら手紙を燃やして、薬を作っていた。
後宮にいる妹に頼めばいいのにと私が口にした時、祖母が皇帝陛下の幼い初恋の相手だったと聞いた。
「君はどうしてこの国に来たのか、教えてもらえるかな」
「私が十二歳の時、私を育ててくれた祖母が亡くなり、どうやって生きていけばいいのかわかりませんでした。一族と認められない私が、祖母の保護なしに村で暮らすのはとても難しい状況だったのです」
一族の偉大なる魔女と恐れられた祖母がいたから、私はその年まで無事に育った。祖母がいなければ、村の外に捨てられるか、売られていたかもしれない。
「私は母が遺してくれた〝精霊石〟を持っていました。一生に一度だけ願いを叶えてくれるという小さな石に『どこでもいいから安全な遠い場所に行きたい』と願ったのです」
ただの茶色の石だと思っていた。それでも、母から唯一貰った物だからいつも身に付けていた。
「願った途端に地面が大きく揺れて、次に目を開けた時にはラザフォード侯爵家の領地の森に立っていました」
精霊石は消え、本当に何も持たない着の身着のままで私は森の中にいた。侯爵夫妻に見つけてもらえなければ、今頃どうなっていたかはわからない。
「私たちの一族は皇帝陛下の庇護を受け、外国に出ることは許されていません。私がこの国に来ることができたのは、不思議な石の力です」
何が起きたのか、今でも本当にわからない。この世界に精霊がいるとは聞いていても、その姿を見たことはなかった。
「外に出ることができない一族の薬が、どうしてこの国で出回っているのか、わかる?」
「今回の薬を作っているのは、私の一族ではなく、薬の製法だけを手に入れた者だと思います。一族の薬の匂いとは、少しだけ異なっています。一族が作る薬には最後に自らの魔力を使って、その香りを〝丸める〟という工程があります。強い効果を持つ毒や薬を使うとそれぞれが主張して不快な香りになる。それを落ち着かせるためです」
「ほんのわずかでも匂いが違うのなら、同じ効果があるとは言えないんじゃないかな?」
「匂いが丸められていないだけで含まれる成分は同じです」
「成分が詳細にわかるのなら、君も作れるんじゃない?」
「混ぜられた物がわかっても、混ぜる順序や温度が重要です。あの毒には二百近い材料が使われています。同じ結果にたどり着くまで試作を繰り返しても、完成させるには一生かかるかもしれません」
薬に含まれる匂いはわかっても、再現は難しい。王子は薬に関する様々な質問をして、私は答え続けた。
「……そうか。君の薬を判別する能力の理由はわかった。改めて、助けてくれてありがとう。君が気が付いてくれなかったら、僕はきっとあのケーキを食べていた」
「……あの……ゴドフリー様が毒を入れたのですか?」
「それはまだわからない。今も調べている最中だ」
私は、クレイグの為にゴドフリーが犯人でないことを願っている。別の悪い人がいて、誤解だったと判明すればいいと思う。
「ゴドフリーといえば……君の主であるシルヴィア嬢も世話好きだね。他人のことばかり優先して、自分は損をするばかりだ。だからこそ、誰にでも親切で、誰にでも手を差し伸べる優しい人物は、皆から尊敬のまなざしを注がれる」
「他人の悩みをただひたすら聞くというのは、なかなかできないことだ。心に弱さを持つ人間が何度も話を聞いてもらううちに、その人物を信じて……他の人には絶対に話を漏らさないと信じて、さまざまなことを話してしまうことがある」
そこで王子の話が一旦途切れた。
「その雑多な話を邪心のない者が聞くだけならいい。でも、邪心があって頭の良い人間なら、多くの無駄話の中から情報の断片を集めて、重要な情報を組み立てることができるんだ。世話好きのお人好しの姿を装って、収集した情報を利用して領地の収入を上げているのかと、僕は最初疑った」
「え?」
王子がお嬢様のことを怪しいと疑っていたなんて思いもよらなかった。
「僕の疑いはすぐに晴れたよ。シルヴィア嬢は、邪心も無く純粋に世話好きなのだろう。彼女の知識は彼女自身が元から持っていたものだとわかったし、彼女に話をした令嬢たちは、あきらかに良い方向へと変化している」
「同じく世話好きと思われていたゴドフリーは……僕が見ていた顔とは、別の顔を持っていたらしい。ラザフォード侯爵家の金鉱脈の報告があった場にゴドフリーはいなかった。ケーキに毒が盛られた時にも茶会にゴドフリーはいなかった。いつもゴドフリーは疑いの外にいて、誰も疑問にも思わなかった」
誰もがゴドフリーは良い人だと信じて疑わなかったと王子は繰り返す。
「……僕は数年前から、ゴドフリーの行動に度々疑問を感じていた。でも、子供の頃からの付き合いと贔屓目で、僕の思い過ごしだと目を逸らし続けていた。それどころか、犯罪の証拠に繋がりそうな報告を握りつぶしてしまったこともある」
信じて庇い続けてきたのに裏切られたのかもしれない。それは、どれだけ悲しいことなのだろう。ずっと微笑んでいた王子が、一瞬だけ目を伏せた。
「……君のおかげで、僕は道を誤らずにすみそうだ。ありがとう」
微笑みを強めた王子が立ち上がって、この会見が終わりであることを知る。差し出された手に手を乗せると、貴婦人を扱うように優しく誘導されて扉へと案内された。
王子自ら扉を開けようとして、手を止める。
「そうだ。クレイグが最近つけている香りは、君が調香したのかな?」
「はい」
クレイグは、あの未完成の香水をつけてくれている。作っていた時には何か足りないと思っていたのに、時間が経ったからなのか、良い香りになっていると思う。
「ものすごく近づかないと匂わないけど、クレイグにとても似合う自然な香りだと思うよ。いつか僕にも専用の香りを作って欲しいな」
「はい。いつか必ず」
クレイグが王子に甘えられると弱いと言っていた理由が私にもわかったような気がした。こんなに可愛らしい笑顔でねだられたら、何でも叶えてしまいたくなる。
「僕が王になったら、君を〝王国の調香師〟として任命すると約束する。これからも、人を幸せにする香りを作り続けて欲しい」
童話の中から抜け出てきたような王子は、私にそう言って微笑んだ。




