第五十九話 毒薬の香り
騎士の抱き枕でなくなってから十日が過ぎた。塔の控室で一人で眠るのは寒い。
買い与えられていた物は靴一足以外、クレイグの部屋に置いてきた。結局、あの香水を完成させることは出来なかったけれど、香油と石けんは数年分あるだろう。
靴も侯爵家に帰ったら代金を返して、新しい靴を買う。私の手には何も残さないと決めた。残ったのは優しくて楽しい夢の記憶と、残酷な現実。最初から期間限定だったと思えば、寂しさは多少紛れる。
クレイグが好きという気持ちは変わらない。ただ、信じることが難しいだけで。お嬢様の秘密を明かしたのはお嬢様を護る為だと思っても、私の秘密も何か理由があれば誰かに明かしてしまうのではないかと疑う心が苦しくなる。
お嬢様の隠れ部屋の準備は慌ただしくて忙しい。私が担当するのは家具や調度品の注文と、ドレスや装飾品の好みを書き記すこと。分厚い見本帳を何度も見て、侯爵家の人々と手紙をやり取りしながら整えていく。
ゴドフリーは、あれ以来姿を見せなくなった。王子に関する仕事が増えて多忙になったとマイルズから聞いた。お嬢様に会いたいと言っているらしくて、諦めた訳ではない。
今日は王城から来た侍女に交代してもらって、準備の為の客室へと向かって回廊を歩く。
「メイ! どしたの? 浮かない顔しちゃって!」
突然横から、ベリンダが肩でぶつかって来た。ベリンダが持つ銀色の丸いフタ付きの大きなお盆が目に入る。今日は珍しく髪を結い上げてエプロン姿。
「そ、それは?」
「王子に出す特別なお菓子なんですって。すっごい美味しそうよ。持って持って」
言われるままにお盆を抱えて持つと、ベリンダがフタを持ち上げた。中には白いクリームと茶色いスポンジが層になった美味しそうなケーキ。
「珈琲のケーキらしいんだけど、珈琲って何なのか知ってる?」
ふわりと周囲に広がるのはクリームの甘さと香ばしく炒った豆の匂い。その中に隠れるように微かに匂うのは腐り落ちる直前の果実のような甘ったるい香り。そしてとげとげしい動物臭と苔とカビ。
「これ……」
血の気が引いていく。一族秘伝の毒薬と酷似した匂いをかいで、私は町ですれ違った赤茶色の髪の男を思い出した。
「どしたの?」
「誰から?」
「誰って、わかんないわ。今日のお茶会用のお菓子の箱がいっぱい届いて、これは王子にってカードが付いていただけだから。残ったら好きなだけ食べていいって言われてるの!」
ベリンダがフタを戻すと同時に、私はお盆を持って走り出した。
「ちょっと! メイ! どこいくのよ!」
「騎士の控室! 後で説明するから!」
「は? 何なの? 後で絶対、説明しなさいよー!」
叫ぶベリンダを残し狭い使用人通路に飛び込んで、騎士の待機場所に向かって走る。外を走ると近くても目立ってしまう。廊下に出て、体当たりで部屋の扉を開くと談笑していた数名の騎士が驚きの顔で私を見た。
「クレイグはいますか!?」
私が叫ぶと、奥の扉が開いてクレイグが出てきた。久しぶりに顔を合わせる喜びと、安堵が涙になって零れていく。
「どうした!?」
慌てた顔で駆け寄って来たクレイグにフタを閉めたままのお盆を押し付けるように示す。
「王子に出すお菓子なの! でも、これ、毒が入ってて!」
私の叫びで、部屋にいた数名の騎士が凍り付いた。
「……この娘は、何を言ってるんだ?」
クレイグよりも年上の騎士が、近づいてきた。偉い人だと直感する。
「この毒と同じ匂いをさせた男が、町にいました!」
「同じ匂いだからって、毒を持っていたとは言えないだろう?」
「絶対持ってました! これは特別な毒なんです! 日を置いて二度口にすると死ぬの! 検査薬には反応しないんです!」
私がこんなに訴えているのに、どうしてわかってくれないのか。このままでは、いつか王子が殺されてしまう。
「彼女は様々な薬の匂いを判別できる能力があります」
私の手からお盆を受け取ったクレイグが私の隣へと立って、年上の騎士に説明する。
「信じてもいいのか?」
「はい。私は彼女を信じます」
テーブルの上にお盆を置いてフタを開くと、ケーキは崩れていた。白いクリームから、毒薬の匂いが強く香る。
「……危ないかどうか私にはわからんな……そもそも、この香ばしい匂いが何なのかわからない」
その場にいた全員が試してみても、同じ感想。
「珈琲のケーキと言っていました」
私の言葉で年上の騎士の顔つきが変わった。
「……珈琲は王子がお好きな飲み物だ。普段甘い物を口にはされないが、このケーキならお食べになっていたかもしれない。二度口にすると死ぬ、だったな?」
「はい。二日以上空けて十日以内にもう一度口にすると即死します」
「そんな薬が存在するのか……魔法薬なのか?」
「いいえ。魔法薬ではありません。沢山の毒と薬草で作られる特別な薬です」
それは皇帝陛下自らが相手を殺す為に作らせた毒薬〝天与の夢〟。同じ酒瓶や皿で同じ物を口にして、油断させて殺すのが目的。その薬と匂いがほぼ同じ。
「普段、王城では王族が口に入れるものすべてを毒見役が食べて検査をしている。だが、ここでは検査薬だけだと知っている者の犯行か……」
騎士たちの空気が張り詰めていく。クレイグの口添えのおかげで信じてもらえたようだ。
「毒薬を持っていたのは赤茶色の髪の男だったな。確かに珍しい髪色だが、それだけで探すのは弱い。まだ町に滞在しているという保証もない」
「私が探しに出ます! 私なら必ずわかります!」
この毒の匂いは間違うことはない。
「わかった。必要な時には力を貸してもらう。我々は毒を仕込んだ者と、毒を持っていると思われる者の確保に動く。今回が一度目なら、二度目の犯行があるだろう。警戒を怠るな。王子が到着次第、私から報告する」
そうして騎士たちの捜査が始まった。
◆
町をクレイグと数名の騎士と間諜が探し回り、赤茶色の髪の男を見つけたのは四日目。裏通りの宿に半年近く泊っていると報告があった。
私は判別する為に呼び出され、クレイグと共に町に入った。クレイグは髪に靴用の茶色のクリームを塗り、私は髪を覆うツバ付きのボンネットを被っている。この国では髪色を変える習慣はなく、髪色が違うだけで別人と認識されることを利用した目くらまし。お嬢様が髪を脱色していたことから、クレイグが思いついた。
魔道具屋がある裏通りのさらに奥、昼間でも暗い場所に入っていく。ぼんやりとした赤色の魔法灯が看板代わりに掛けられた店は怪しい空気を漂わせ、強いお酒の匂いと香水の匂いが流れてくる。
「あの店で酒を飲んでいるそうだ……参ったな……」
「どうしてですか?」
「……あれは連れ込み宿だ」
男性が女性を伴って泊まる宿だということは知っている。赤色の魔法灯がその印らしい。男が酒を飲んでいるのは、宿の建物の中にある酒場。
窓から見える店内では、酔った男女が人前にも関わらず、抱き合い口づけていた。
「!?」
生々しい光景を目にして、驚きを隠せない。頬どころか、顔全体が熱くなっていく。
「無理すんな。持っているかどうか確認したいが、店を出るまで待つか」
「は、入って近づいてみましょう」
赤茶色の髪の男がいるのなら、早く確認したい。いいのかと問われて、頷く。
クレイグに肩を抱かれて、緊張しながら扉の中へと入る。店内の柱や天井は赤く塗られていて、薄汚れた壁の棚には、ホコリだらけの人物や動物の彫刻や、古い酒瓶が飾ってある。混じり合う酷い匂いに耐えられず、意識して遮断する。
「本日はお泊りですか? それともご休憩ですか?」
男とも女ともわからない店員が出迎えた。上着の裾は長く、ズボンを穿いているのかスカートなのかよくわからない。のっぺりとした顔が人形のようで不自然に感じてしまう。
「……その前に少し飲みたいんだが」
「それでは、こちらへどうぞ」
店員が開いた赤い扉の中は、賑やかで猥雑な光景が広がっていた。あちこちで男性が女性を膝の上にのせ、口づけたり、服の中に手を入れて体を触っている。一人で座る男たちは男女が絡む光景を見てにやつきながら、お酒を飲んでいた。
店内を見回したクレイグが、一人で酒を飲む赤茶色の髪の男を見つけたものの、男の周囲のテーブルは客で埋まっている。
人が少ない場所がいいと希望を店員に告げると、窓際のテーブルに案内された。窓を背にするとちょうど男のテーブルが見える良い場所で、何も注文していないのに、すぐに酒瓶とカップが運ばれてきた。
「どうやって近づくかな……」
クレイグが窓際に座り、私は猥雑な光景を背にしているから見えなくてほっとする。
緊張を紛らわす為にちらりと隣のテーブルを見ると、男女がお酒を酌み交わしていた。女性が美味しそうにお酒を飲み干す姿を見て、目の前のカップに手を伸ばすとクレイグに取り上げられた。
「あ、あの……」
「お前は飲むな」
「で、でも……一口くらいなら」
あの時は一気に飲んだから二日酔いになっただけ。一口くらいなら緊張がほぐれていいかもしれない。
「駄・目・だ。喉が渇いたのなら果汁を頼むぞ」
「いえ。喉が渇いている訳ではなくて……緊張がほぐれるかな、と」
私の言葉を聞いて、クレイグが口を引き結ぶ。少しの沈黙の後、重い口を開いた。
「……いいか、よく聞けよ。……お前は酒を飲むと人の服を奪って匂いをかぐ」
「えっ?」
声を潜めたクレイグの言葉に驚く。そんな馬鹿なと思っても、何も思い出せない。
「待ってください。それではまるで変質者ではないですか」
これはきっとクレイグの意地悪な冗談だ。私をからかっているに違いない。
「俺が下穿きを死守するのにどれだけ苦労したか語ろうか?」
「結構です」
どうやら冗談ではなさそうだ。そう言われても全く覚えていない。
「さらに酔いが回ると、自分の服を脱ぐ」
「ええっ?」
「そして暑いと言って外に出たがる。扉だろうが窓だろうがお構いなしだ」
「えええっ!?」
「あの夜、俺はお前が外に出て行かないように、一晩寝ずの番をしていた」
理解不能というよりも、恥ずかしくて理解したくない。自分が下着姿だったのとクレイグが私の腰に腕を回していた理由は、色気も何もありはしなかった。
「で、でも、シャワー浴びたって言ってましたよね? 浴室に入ってたなら私を見張ってることなんてできませんよね?」
嘘だと、冗談だと言って欲しい。
「さんざん服の匂いをかがれたから、次は身体かと俺は恐怖した。かがれる前に洗うしかないだろ? で、目が離せないから仕方なく浴室へ一緒に入った。お前は予備の石けんの包み紙を全部剥がして高級品なのに匂いが悪いって散々文句言ってたよな?」
全く少しも覚えていない。あの朝の『俺は何もしていない』というクレイグの言葉の裏には、私がいろんなことをしたという意味があったのか。
「わかったか? という訳で、お前は外で酒は飲むな。……飲むなら俺の部屋で飲め」
「……もしかして……私を抱き枕にしていたのは……ずっと護っていてくれたのですか?」
騎士と侍女、下働きの若い女性たちとのお見合いが行われていて、夜に食事に出ることもある。もしも、そんな中でお酒を飲んでいたらと血の気が引いていく。
「……誰に何をされたのかわからない、なんて嫌だろ?」
クレイグが指の背で、私の前髪を優しく撫でていく。
青い瞳と見つめ合うと頬が熱くなっていく。やっぱり、クレイグが好きだと思う。情報を聞き出す為だったとしても、私のことをずっと護ってくれていたことが嬉しい。
「先にそう言ってくれたら、私……」
「……いや、その、俺は……お前を護ってた訳じゃなくて……」
耳を赤くしたクレイグが、口を引き結んで視線を逸らす。窓の外に顔を向けた時、まとう空気が変わった。
「手巾持ってるか?」
「はい」
ハンカチを手渡すと、クレイグが私の手を引いて膝の上に乗せる。
「!?」
「口を閉じろ」
叫び声を上げそうになった口を閉じるとハンカチで覆われて、そのままクレイグの唇が近づいてきた。
ハンカチ越しの口づけ。そう気が付くまで少し時間がかかった。鼓動は一気に跳ね上がり、近すぎる青い瞳を覗き込む。
クレイグの青い瞳は私の背後を見ていて視線は合わない。大きな手が頭を撫で、腰を抱き寄せる。
時折角度を変える瞬間に息を吸う。長い長い拘束で意識が揺らめく。気を失って足手まといにならないために、クレイグのシャツを握りしめて耐えることしかできない。
頭を押し付けるように撫でていた手の力が緩み、唇がゆっくりと離れて行く。ハンカチが滑り落ち、気が抜けて脱力していく体をしっかりと抱きしめられた。
「気分が悪いのか? 今日は帰るか。また今度にしよう」
優しく気遣う言葉は周囲に聞かせる為のもの。クレイグに腰を抱かれ、支えられるようにして店を出た私は、角を曲がって小道に入った途端に気を失った。




