第五十六話 最初の香水
早朝、古城へ一台の豪華な馬車がやってきて、一人の令嬢と侍女を乗せて去って行った。黒いベールを被って馬車に乗り込んだのはオルムステッド公爵家のマーティナ嬢。身内に不幸があったのかと、令嬢の中で噂が駆け巡った。
今日も数名の令嬢の話を聞いたお嬢様は、夕食を殆ど残して塔へと戻った。いつもとは違う沈みきった表情で窓辺に座る姿は、どこか疲れている。
「ありがとう、メイ。今日はもう下がって」
「お嬢様、体調がお悪いのですか?」
問い掛けるとお嬢様が弱々しく微笑む。
「体の調子は悪くないの。ただ、後悔で胸がいっぱいなのよ」
「一体、どんなお話をお聞きになったのですか?」
「……今朝、マーティナ様が古城からお出になられたでしょう? 心無い嫌がらせのせいで、心を病まれたらしいの」
「え?」
三人の公爵家の令嬢の中でも、一番控えめで儚げな印象の少女だった。
「ずっと避けられていたから、一度も話を聞いてあげることができなかったの。無理にでも話し掛けておけばよかった……」
窓枠に額を押し当て、お嬢様は後悔を滲ませる。
「一度心を病んでしまうと、回復するには長い時間が掛かってしまう。下手をすると、何度も繰り返すようになるのよ。……どうして気が付かなかったのかしら」
深い後悔の溜息を、これまで聞いたことがなかった。お嬢様自身が闇の中に沈んでいくような気がして、私はお嬢様の手を握る。
「お嬢様、聞いて下さい。お嬢様はたったお一人です。手は二つしかありません。令嬢全員を救える訳がないのです」
毎日毎日、お嬢様は自分の時間を犠牲にして、令嬢たちの話を聞いてきた。これ以上、何ができるというのだろう。
「……そうね。そうだった。……私は思い上がっていたかもしれないわね。私の手は二つだけだった……。気付かせてくれてありがとう、メイ」
そう言ってお嬢様は、いつものように微笑んだ。
◆
三つの公爵家の令嬢の一人が欠け、マーティナ嬢の替わりに派閥の長になったのはファニヴァ伯爵家のミキャエラ嬢だった。他の公爵家の令嬢にも怯まない姿は、黄金色に輝く長い髪のせいなのか輝いて見えるから不思議で仕方ない。
令嬢同士の揉め事があると、両者の話をじっくりと聞いて収めていくお嬢様と違って、ミキャエラ嬢は令嬢とは思えない酷い言葉を投げつけて揉め事を止め、押さえ込んでいく。まさに力技。変な話だけれど、見ている周囲にはすっきりとした爽快感が漂う。
その物言いは、敵を沢山作るとは思う。でも、同じくらいに味方もできると思う。はっきりと自分の意思を示すというのはこういうことかと感心してしまう。
お嬢様は侍女も付けずに一人で歩いていたミキャエラを呼び止め、話し掛けた。
「ミキャエラ様、他の令嬢に対する嫌がらせをやめて頂けないでしょうか」
いつもの柔らかい言動と違って、王子に対するようなはっきりとした言葉に驚く。ミキャエラは青い瞳を鋭くしてお嬢様を睨みつけた。十八歳とはいえ、お嬢様よりも背が高く迫力がある。
「嫌よ。何を聞いたのか知らないけど、あっちが先に仕掛けてきたのよ。私はやられたら、絶対にやり返す。私の友達や仲間を護る。ただ、それだけよ」
上位貴族に対する礼儀も敬意もない言葉を叩きつけるように残して、ミキャエラ嬢は走り去った。
「どうすれば話を聞いてくれるかしら……回りくどい話は苦手だろうと思ったからはっきり言ったのに」
黄金の髪を揺らして走っていく背中を見ながら、お嬢様が溜息を吐く。
「……この狭い古城の中でなら通用するけれど、貴族社会へ戻ったら……このままではファニヴァ伯爵家を含めて大変なことになってしまうわ」
お嬢様の言葉は正しい。令嬢の後ろにはそれぞれの家が付いているという常識を一切無視するミキャエラ嬢は、ここでは強くても審査が終わって戻れば家ごと潰される可能性もある。
「残された時間は少ないわね」
この国の一月は三十六日。残りは四十日しかない。溜息を吐くお嬢様の隣で、不謹慎だと思いながらも私はクレイグとの別れが迫っていることを再確認していた。
◆
香水を作る為に、いくつかの精油を用意した。香油と違って香りの持続時間が短いから、多少遊びのある調香でもいい。
祖母の工房の棚には数百の精油が並んでいた。高価な香水の注文は少なくて、年に数回程度。祖母が扱う香水は、この国で売っている香水のような攻撃的な強さは無かった。他者を心地よくするよりも、自分が心地よく包まれる香り。私もそんな調香を目指したい。
トゥーリクの花の、新緑のような爽やかさとほのかな柑橘系の甘さを含む香りはクレイグに似合う。整髪料や香油の強すぎない自然な香りは、騎士仲間にも評判が良いと聞いている。同じ物が欲しいという騎士もいるらしい。クレイグ以外の誰かに、この特別な花の香りを贈るつもりはないし、クレイグも断っているようで安心している。
調香の構想を書きとめた帳面を開く。香水屋に行った後、いくつもの組み合わせを考えていた。
トゥーリクの花の香りは深くて複雑で単体でも香水にできる。けれども、古城の裏庭に咲いていた名も無い白い花の爽やかさと草の清々しい香りを加え、最後に香木の甘さを残して、ここでの思い出を織り込んだ香りにしようと思う。香水を使う度、私のことを思い出してくれるようにと願いを込めて。
ガラスの容器に香水用の酒精を静かに注ぎ入れる。最初の香りと中心になる香り、最後に残る香り。精油をきっちりと量りながら加えていく。
「綺麗……」
ガラス棒で混ぜると、淡い紅色を抱く橙色。朝焼けの空の色のような色に染まった。茶色の遮光瓶よりも、透明なガラス瓶に入れたい。
細長く切った紙に香水を少しだけ染込ませて、香りを確認する。初めに強く香るのは新緑と清々しい草の匂い。目を閉じて深く吸い込むと草原に立っているような幻想すら浮かぶ。
紙を温めて、最初の香りが消えるとトゥーリクの香りが広がる。白い花の爽やかさが混じると甘さが気にならない。これなら甘すぎなくていいだろう。
最後に寄り添う香りは、香木から抽出した重みのある甘さ。
「んー。ちょっと最後が重すぎるかな……」
トゥーリクの花と白い花の精油を加えて、また香りを確認すると何かが足りない。柑橘や薄荷は、この絶妙なまとまりを壊してしまう。
何度も試香しながら悩んでいる最中に、クレイグが戻ってきた。
「ただいま」
「お帰りなさい!」
精一杯の笑顔で出迎えて、いつもどおりに上着を受け取る。このやり取りも、終わりが見えてきて寂しい。
「良い匂いだな」
「はい。香水を作り始めました。どうですか?」
クレイグに紙片を渡してかいでもらう。
「香水っていうのは、時間でこんなにはっきりと香りが変わっていくのか。凄いな。これでいいんじゃないか?」
「んー、何か足りないような気がするのですが……」
クレイグがいいと感じるなら、これでいいのかもしれない。また明日考えようと、ガラス容器から瓶へと移し、フタを締めて木箱に入れる。
道具を洗って片付けている間にクレイグが浴室から出てきた。疲労に効く花茶を淹れてテーブルに置くと、また手を引かれる。
「で、ですから、何故膝の上に乗せるのですか?」
「抱き枕だから」
さらりと口にされると、もう何も言えなくなる。
「……王子から、何かお話は?」
「まだ、話をできる程情報はないんだが……ああ、そうだ。明日からしばらく、あの人の替わりに俺が姫さんの護衛に入る」
「何故ですか?」
「王子の希望だ。あの人はここ数年外国に行っていたから、久しぶりにウサギの森で一緒に過ごしたいんだろ。一番古い側近だからな」
王子と魔法使いがウサギと戯れる光景を想像してみても、王子にウサギは似合っても魔法使いには全く似合わない。
「あの方は外国に行ってらっしゃったのですか? ジェラルド坊ちゃまと同じですね。坊ちゃまも早く帰ってきて下さったらいいのに」
あれから何通も届いた侯爵家の報告書には、まだ書かれていない。坊ちゃまが戻ってきたら、真っ先に喜びの報告があるだろう。
「は? ぼ、坊ちゃま?」
何故かクレイグが驚愕の表情を浮かべる。
「ええ。うちの使用人皆がそうお呼びしています」
「くっ……」
唐突に強く抱きしめられて、心臓が早鐘を打つ。私の肩に唇を強く押し付け、クレイグが体を震わせる。一体何が起きたのかわからなくて、顔が熱くなっていく。
「ぼ……坊ちゃま……!」
肩から顔を上げたクレイグが、噴き出して笑い始めた。何のことは無い、私を抱きしめたのは単に笑いをこらえる為だった。
「何がおかしいのですか?」
「い、いや、すまん。えーっと、俺と同い年だったよな? だから……」
またクレイグが我慢できないと私を抱きしめながら笑い出す。
すっかり諦めきった私は、今日も健全な抱き枕の務めを果たした。




