第五十四話 訳ありの人々
握りしめるように繋いだ手を離せないまま、馬を預けていた店についた。
「……クレイグ……」
「ああ」
クレイグもわかっているらしい。
「シリルは私を覚えていました。アラステアは忘れていたのに」
「物忘れの薬を飲んだからといって、全部を忘れる訳ではないと聞いている。強烈な印象があれば、覚えていることもあるらしい。だが……俺が知ってる限り、一度会っただけの人間の顔を覚えていたことはない」
「……どういうことなのでしょうか」
「物忘れの薬を飲んでいないのかと思ったが、あの時チーズを入れるのを忘れていた。……俺が女連れっていうので強烈に驚いたからだと思いたいが、何か変化がなかったか監視役に確認するしかないな」
シリルの監視役に確認する為には、王子に報告しなければならないとクレイグは溜息を吐く。惚れ薬の件は、内輪で穏便に済ませたかったらしい。
「それは後で確認するとして、薬の匂いはしたか?」
「全然」
シリルからも店内でも全く匂いは感じなかった。もしも惚れ薬の瓶が店内に保存してあれば、わずかでも匂いがあると思う。
「今回はゴドフリー様の単独行動……なのか? 目的は姫さんの知識なのか……それとも……。俺たちと同じで、善意で姫さんを護ろうとしているのかもしれない」
王子の側近の妻になれば、未来の宰相か大臣の妻になる可能性がある。公爵家も下手に手を出すことはできない。
「方法が悪すぎます。お嬢様の心を薬で奪うなんて最低です」
「それはそうだな」
私は一瞬でも惚れ薬を使いたいと思ったことを後悔していた。相手の心の自由を奪うなんて、許されない。
「あの方が護衛していると、ご存知ないのでしょうか」
「ああ。あの人は常に王子と一対一。王子の言葉にしか従わないし、他の側近との接触は必要最低限で避けている」
孤独な魔法使い。そんな言葉が頭をよぎる。
「おっと、ゆっくりはしてられないな。姫さんの昼食が遅くなる」
「……手綱を任せて頂けませんか?」
「ああ。全速力で古城に戻ろう」
漠然とした不安を振り切る為に、私は馬を全力で走らせた。
◆
翌日、王子のお茶会が開催された。茶色の髪の王子の後ろには、紺色の詰襟の上着を着たゴドフリーと魔法使いが控えている。対照的な二人だと思う。茶色の髪のゴドフリーは柔らかな笑みを常に浮かべていて、夜色の長い髪を後ろで束ねた魔法使いは無表情。
今日は侯爵家以上の令嬢が席についていて、令嬢たちの視線は王子だけでなくゴドフリーと魔法使いへと注がれている。三人共、方向性の違う美形で、側近たちは令嬢にとってかなり年上だとしても、気になるのは仕方ないことなのかもしれない。
令嬢たちが自分のことを懸命に話す中、お嬢様は全く動じずに花茶を楽しんでいる。
「今、何か不満はあるかな?」
優しい王子の問い掛けに、令嬢たちの顔色が変わった。お互いに促すような視線を交わしても、誰も何も言い出そうとはしないので、奇妙な沈黙が流れる。
「ございます。……少々不躾な発言もお許しいただけますでしょうか」
口を開いたのはお嬢様。その場にいる全員の注目が集まる。
「構わないよ。別に罰したりはしないから、自由に言ってごらん」
「ありがとうございます。それでは、遠慮なく申し上げます。……今回の審査で同行する侍女が一人しか認められていませんが、侍女にお願いすることが多く、休みを取らせることが非常に困難な状況です。せめてもう一人の侍女、もしくは途中で交代することを許可して頂けないでしょうか」
お嬢様の視線はまっすぐに王子へと向かっていて、微笑む王子もお嬢様をまっすぐに見ている。
「このままでは審査が終わる前に侍女が体を壊してしまいます。未来の王が、国民を使い捨てるようなことはあってはなりません」
今まで一度も見たことの無かった厳しい表情に驚きしかない。
「侍女の体調管理は、雇い主である令嬢の責任の範囲内ではないかな?」
王子は優しい笑顔を崩さないまま、お嬢様に問いかける。
「私たちは屋敷の女主人になる教育は受けていても、一人で身支度を整える教育を受けていません。毎日の服やドレスは美しさが優先され、一人で着ることは困難な構造です。貴族の女性に必須とされる化粧も複雑です。この国の貴族の娘に第一に求められるのは、常に美しくあること。侍女たちは私たちの美しさを支える大切な仕事を担っています。休みを取らせたいと考えても、替わりがいなければ不可能なのです」
改めて、身支度に他者の手を必要としないお嬢様の偉大さを知る。普通の令嬢なら下着からドレスの着せ付け、化粧や髪を整えること、すべてを侍女に任せるものと決まっている。
「……そうか。君の意見は参考にさせてもらうよ。シルヴィア」
反論と取られかねないお嬢様の言葉にも、王子は微笑んで答えた。
「ありがとうございます。どうかよろしくお願い致します」
お礼を述べるお嬢様は、いつもの優しい表情へと戻り、二人の間にあった緊張した空気も一瞬で消え去っていく。
何事もなかったかのようにお茶会は続けられ、夕方には終了した。
◆
ゴドフリーに警戒する一日が終わり、私はクレイグの部屋へと戻った。浴室の中、緊張で凝り固まった手足を、トゥーリクの香油で解していく。
この国の貴族の女性が男性に逆らうことはない。王子に対して、はっきりと意見を述べることができるのは、異世界人だからだろうか。
浴室から出た時、ちょうどクレイグが戻って来た。出迎えて上着を受け取る。
「クレイグ、惚れ薬の件は王子に報告して頂けましたか?」
「した。悪いが、しばらくは気が付かないふりをして菓子を受け取って欲しいと仰せだ」
「何故ですか?」
「王子が何をお考えなのか俺はわからん。シリルの件は、監視役に確認すると約束して下さったから、少し待ってくれ」
結局、何も解決しなかったことに溜息しか出てこない。
「あ、そうだ。物忘れの薬っていうのは、解毒薬があるか?」
「私にはわかりません。その薬を作る者なら作ることができるかも…………いえ。あります。すべての薬の効果を無効にする〝清麗の雫〟と呼ばれる薬が」
一族の秘伝中の秘伝、皇帝陛下と正妃のみが口にすることができる〝清麗の雫〟は、良い効果も悪い効果も消し去る効果がある。おそらくは魔法薬の効果も消すだろう。
ゴドフリーが使った惚れ薬は一族秘伝の薬と匂いが酷似していた。一族が国の外に出ることは固く禁じられていたけれど、私のように出た者がいても不思議はない。過去には、一族の女を騙して秘伝の調合を盗んだ男もいる。……中途半端に学んで作った薬なら、効果が薄くなる可能性もある。
「そんな薬もあるのか……そういや、お前の姫さんの前に、ラザフォード家に養女がいたって聞いたんだが、今はどこにいるんだ?」
「わかりません。思い出すのもむかつきます」
唐突に変わった話題で頭が切り替えられずに本音を口にしてしまった。
「どうした? そっちも何か訳ありなのか?」
クレイグが苦笑しながら、私の手を引く。また膝の上に乗せられると、羞恥が頬に集まっていく。最近、何かと膝の上。嬉しいような恥ずかしいような奇妙な気持ちと、硬い座り心地に奇妙なくすぐったさを感じている。
「七年前、夜逃げした男爵家の令嬢を養女にしたんですよ。それはそれは大事に本当の娘のようにお世話をなさっていたのに、令嬢は幼馴染の男と駆け落ちしました。現金を持って」
何度思い出しても悔しい。その現金は使用人全員の半年分の給金で、補填する為に奥様がご自分の思い出が詰まった婚礼用ドレスと宝石をいくつかお売りになった。私たちが知ったのは数カ月後のことで、止めることも買い戻すことも出来なかった。
「は? 駆け落ち? 俺が騎士になって十年以上になるが、令嬢の捜索願いが出た記憶はないぞ?」
「現金持って逃げたんです。捜索願いを出したら捕まってしまうでしょう? それに男は平民ですから、貴族の娘を誘拐したことになって間違いなく死刑です。旦那様たちはそれでは可哀想だって言って、流行り病で死んだことにしたんです」
「それは……」
言葉を濁して苦笑するクレイグの言いたいことはわかる。恩人からお金を盗むような人間に優しくする必要はない。
「侯爵夫妻は優しさが病気。といいますか……だから家令も使用人も皆、旦那様たちが優しすぎて見捨てることなんてできないって言ってます。……三年前、領地の森で散歩に出た侯爵夫人がお嬢様を連れて帰ってきた時、最初は警戒して。でも、すぐにそれは誤解だったとわかりました」
お嬢様が養女になった直後、侯爵家の全資産を確認したいとおっしゃった時には、乗っ取りかと疑った。その後、寝る間も惜しんで侯爵家を立て直そうとする姿に皆が感動した。日々良くなっていく待遇に感謝し、屋敷も領地も見違える程に改善していくのを驚きと共に見ていた。
そういえば、私も森の中で侯爵夫妻に拾われた。言葉もわからなくて泣くだけだった十二歳の私を、侯爵夫人は優しく抱きしめてくれた。
私がこの国へ転移してしまったのは、祖母の願いだったのか、それとも母の願いだったのか。
思い出に沈んで黙り込んでしまった私を、クレイグは優しく抱き上げた。




