第五十二話 惚れ薬の香り
全開にした窓辺で、ガラス容器にキザンとサジの灰を量って入れる。白い灰には独特の匂いがあって、静かに水を注ぐと刺激的な匂いに変わる。ガラス棒で混ぜた後、水に溶けなかった成分が沈殿していく。
容器の中で水が泡立ち、強烈な匂いを持つ湯気が立ち上ってきた。この匂いは身体に悪いので、かいではいけない。ぐつぐつと煮立つ鍋の中のような光景は何度見ても怖いと思う。窓辺に置いて温度が下がるのを待つ。
待ち時間の間に、花を漬けた油の香りを確認。一月以上が経って、香りが安定してきたから、もう使うことができる。蒸留で作った香油よりも軽い香りは、大量に使っても濃すぎないから気軽に使ってもらえるだろう。そろそろ花びらを出した方がいいかもしれない。
カジロの油を別の容器に注ぎ入れ、湯煎に掛ける。金属を嫌うトゥーリクの花の精油を使うから、ガラスの道具しか使えない。一度に手のひら大の石けんが五個できればいいくらい。
高温にならないように気を付けながら油を混ぜていく。初めて使う油はさらさらとして透明。少し冷えた灰水を少しずつ加えながらガラスのヘラで混ぜる。いつも使う金属のヘラではないので、割らないように慎重な手つきになるのは仕方ない。
「うわー、さらっさらっ」
分量通り灰水を入れ終えた。ここからはひたすら混ぜる作業。湯煎をしながら、とろみがつくまで混ぜ続ける。
「混ぜるだけなら、手伝うぞ?」
カウチで本を読んでいたクレイグが横に立った。私がずっと混ぜているのが気になったらしい。
「ありがとうございます。でも、そろそろ終わりです」
延々と混ぜた油は、白くもったりと重い。湯煎から降ろして、トゥーリクの精油と柑橘の精油を混ぜたものを容器のふちに添わせるようにして加えていく。
「良い匂いだな」
そう言ってくれるだけで、嬉しい。さっくりと混ぜると淡い淡い紅色に染まって、とても可愛らしく綺麗な色になった。
「あ、あの、型を押さえていて頂けますか?」
クレイグに木の枠を押さえてもらいながら、石けんの素を型に流し込んでいく。少し持ち上げて、机に落として空気を抜いて、表面をガラスのヘラで整える。いつも独りで行っている作業が、二人だと楽しくなる。
「……たかが石けん。されど石けんだな。石けんを作るのがこんなに面倒だとは思わなかった。気軽に頼んで悪かったな」
「いつも作っていますし、楽しいですから大丈夫ですよ。まだまだ作りますからね」
たとえ毎日作っても蒸留装置と材料の総額には程遠い。
「固まったら使えるのか?」
「いいえ。一月くらい寝かせて、乾燥してからでないと使えません」
「は? これから一月?」
驚いた顔のクレイグは可愛い。この審査が終わるまでに、いろんな表情をもっと見たいと思う。その先は……どうなるのか全く想像もできないし、クレイグは王城に戻り、私は侯爵家に戻って終わりなのかもしれない。
「一月なんて、あっと言う間ですよ」
離れる寂しさと、近すぎる距離にときめく想いを隠して、私はクレイグに笑いかけた。
◆
朝から令嬢の言い争いを仲裁し、両方の令嬢の話を聞いて、お嬢様の一日は終わろうとしていた。どんなに酷い暴言を吐かれても微笑み続けるお嬢様は本物の賢者だと思う。
「お嬢様……これは侯爵家から相手の家に正式に抗議をしてもいいのではないでしょうか」
「子供の暴言よ。狭い古城で起きたことだし、大事にする案件ではないと思うの」
例え子供の言葉でも、私が言われたら心が折れる。絶対に。
「ただ……今度の王子のお茶会で、待遇の改善を求めようと思うの。令嬢も侍女も、限界に近いわ。特に侍女は身体を壊してしまうかもしれないもの。せめて休みを取れるように、交代要員を入れてもらうか、いっそのこと、侍女を替えても良いとしてもらうか」
「あ、あの、私は十分な待遇ですので、交代しなくてもかまいません」
実際、侯爵家で塔の階段を何度も昇り降りできる侍女は私しかいない。侯爵夫人の侍女は高齢過ぎるし。……それに、クレイグとぎりぎりまで離れたくない。
「メイにはいてもらわないと、私が困るわ。休みを取れない他の令嬢の侍女たちのことよ」
お嬢様が私の手を握った時、騎士マイルズとゴドフリーがこちらに向かってきた。ゴドフリーは茶色の詰襟の上着に黒いトラウザーズにブーツ姿で、剣帯はしていない。そもそも剣を使う人ではないのだろう。
「シルヴィア様、少々お時間を頂けますか」
騎士の礼をとったマイルズが、ゴドフリーを王子の従者だと紹介する。側近と従者は似ているように聞こえても、この国では役割が異なる。側近は将来の宰相や大臣候補であり、従者は何年務めても従者でしかない。身分を詐称するのは理由があるのだろうか。
どうしたらいいのかわからない。魔法使いより先に、ゴドフリーがお嬢様と知り合うなんて思わなかった。
「一度お会いしたいと思っていました。噂以上に可愛らしい方ですね」
微笑むと垂れた目がさらに優しくなる。髪を伸ばせば濃い色のドレスが似合う美形だと変な感心をしてしまう。
「ありがとうございます。何か御用でしょうか」
「お菓子がお好きだと聞きましたので。こちらを受け取って頂けませんか?」
ゴドフリーが持っていた赤いリボンが掛けられた白い箱を示す。
「こちらは王子からの贈り物ということでしょうか?」
「いいえ。私の個人的な贈り物です」
「あの……外部の方からの贈り物を受け取ってもいいものか、私にはわかりかねます」
珍しくお嬢様が断ろうとしているのがわかる。
「大丈夫ですよ。ゴドフリー様は王子の信頼も厚い方です」
マイルズが余計な口出しをした。毎日お菓子を受け取っているから断れなくなってしまったようで、箱を受け取る。
「……ありがとうございます」
「少しお話をしたいと思っていましたが、貴女の夕食の時間が遅くなるといけませんね。今日はこれで失礼致します」
意外にもゴドフリーは、そう言って去っていく。お嬢様は困ったような微笑みを浮かべるだけ。
「ごめんなさい。メイ、これを持ってくれる?」
お菓子の箱を預かった私とお嬢様は、夕食へと向かった。
◆
お嬢様が夕食を終え、塔へと戻ったのは、いつも通りに夜とは言えない早い時間。もしかしたら、ゴドフリーはお嬢様の夕食の時間を知っていたのかもしれない。
「……開けてみましょうか」
リボンを解いて箱を開けると、フタの内側に貼られていたのか、カードがひらりとケーキを包む蝋引き紙の上に落ちた。
「赤リンゴと黄リンゴのケーキ、だそうよ。カードもとても良い香りね」
カードを手に取ったお嬢様が苦笑する。カードには、ゴドフリーがまとう紫リンゴと花の香りがたっぷりとしみ込ませてあった。甘いケーキと匂いが喧嘩しないのは、リンゴのケーキだからだろう。とはいえ、お菓子に付けるカードとしては趣味が悪いと思う。せめて箱の外に添えるべきだ。
紙を開くと、美しい焼き色のケーキが現れた。シリルが焼くケーキと形と大きさが似ている。一人分ずつに切られていて、すぐにでも食べられる状態。
「メイも一緒にどう? 夕食はまだでしょう?」
花茶を淹れ、ケーキを一切れ皿に乗せてお嬢様と私の前に置く。
「念のため、検査しますね」
王子の側近だから大丈夫だとは思いつつ、端を指でちぎると異質な甘い香りが一瞬鼻をついて消えた。
「お嬢様! ダメです。食べないで下さい」
「メイ? どうしたの?」
「……薬が入っています」
「何の薬?」
「体調を崩す薬です」
私は咄嗟に嘘を吐いた。このケーキには、おそらく微量の惚れ薬が入っている。一族秘伝の薬の匂いとは若干異なるだけで、とても似ている。効果も同じようなものだろう。毒の検査薬に反応しない所も似ている。
酷い話だと思う。カードにしみ込ませた紫リンゴと花の香りをきっかけにして、好意を刷り込む手法。微量でも何度もこの薬を口にすれば、この香りをまとう人間を好きになってしまう。
「……そう。……ゴドフリー様は、私を王子妃候補の審査から外したいのね。とても感じの良い方だと思ったのに」
「知り合いの騎士に相談してみます。お嬢様、これからは騎士マイルズにも注意して下さい。お菓子を受け取っても、私が確認するまで口にはしないと約束して下さい」
「ええ。約束するわ」
食事も検査する約束を取り付けて、私はお菓子の箱を持ってクレイグの部屋へと走った。




