第五十話 騎士の膝の上
蒸した後に残った花びらを、どこに捨てればいいのかと考える。侯爵家では、庭園の肥料に混ぜてもらっていた。中庭を管理する庭師にお願いすればいいだろうか。
乾燥して茶色くしなびた花びらは、すっかり香りが抜けている。ここまで香りが消えてしまう花も珍しい。普通ならほんのりと芳香が残る。
あれからベリンダは、お嬢様がいない時にはいつでも声を掛けてくるようになっていた。令嬢と侍女以外のいろんな人に明るく話し掛けている姿はうらやましいとさえ思う。
騎士たちにも同じように声を掛けていて、もうすっかり顔見知りになっている。クレイグが話し掛けられている姿は見たことがなく、というより、最近昼間にクレイグの姿を見ていない。
どこか見えない場所で仕事をしているのだろうと思いつつも、マイルズのように誰かの専属の護衛でもしているのではないかと思うと、仕事だからと自分に言い聞かせても気持ちが重くなる。
今日は作業をする気にはなれない。机に頬杖を付き、乾いた花びらを手ですくって、また落とす。
祖母から様々な香りの基本的な作り方は教わった。簡単な傷薬や薬茶も少しだけ教わっている。……魔力を一切持たない私は、一族秘伝の香りと薬は教わることはできなかった。
魔力があれば、媚薬や惚れ薬も作ることができたのに。
溜息しか出てこない。薬で好きになってもらっても虚しいだけだと頭では理解している。それでも毎晩抱き枕としてしか扱われない現実は寂しい。
お嬢様の可愛らしさと、ベリンダの若さと美しさ。私には無いものがうらやましいと思う。昨夜、誘惑してみようかと夜着のボタンを一つ開けていたら、クレイグに寒いだろうとボタンを留められてしまった。勇気を振り絞って頬をすり寄せてみても、抱き枕のように抱きしめられただけ。
クレイグは本気で女性を必要としていない。
深く溜息を吐いた時、扉が開いてクレイグが帰って来た。
「おかえりなさい!」
「ただいま」
上着を受け取って、ブラシを掛けて整える。繰り返しのやり取りも慣れてきた。
「今日は遅かったのか?」
片付けられたままの道具を見て、クレイグが問いかけてきた。
「今日は気乗りしなかったので。気分が乗らない時に無理に作っても、良い結果は出ません」
「そうなのか」
決まりきった制作過程でも完成した物は違ってくる。機嫌の悪い時に作った香りは、とげとげしくて使い心地が悪くなると知っている。
クレイグが持って帰ってきた壺を指さす。
「あ、これ、姫さんに。麦酒だ」
「ありがとうございます。外に行っていたのですか?」
「ああ。王子は人使いが荒いからな」
苦笑しながらも、その表情は優しい。
「そんな風には見えませんが」
常に微笑みを絶やさない童話に出てくる理想の王子様。人使いが荒いようには思えない。
「気を許した人間には甘える癖をお持ちでな。無茶を仰っても許してしまう」
甘えることが人使いが荒くなることと結びつかなくて、まったく理解できない。
浴室から出てきたクレイグに花茶を淹れて、椅子に座って話をする。
「そういや、俺は最近日中は外に出てるが、お前の姫さんは令嬢を談話室に連れ込んで何やってんだ? 騎士連中が気にしてるぞ」
確かに、最近マイルズ以外の騎士の姿をよく見かける。クレイグにお嬢様がお考えのことを話すと驚かれた。
「令嬢の悩みを一人ずつ聞いてる? ますます賢者にしか思えなくなってきたな。元々、何を生業にしてたんだ?」
「よくわからないのですが『小学校』の教師だったそうです」
「『小学校』?」
「六歳くらいから小さな子供たちを集めて教育する場所だそうです」
外国には学校というものがあるとは聞いている。ただ、それは貴族の為のものだし十代半ば以上の男性が通う場所。
「文字の読み書きもそこで習うので、国民が百人いれば九十九人は基本的な読み書きができるそうです」
「ほぼ全員読み書きできるってことか。全く理解できんな。国民全員に教育を施すなんて、国の負担を考えると税金が高そうだ」
「税金が高いとは仰っていました。でも、お嬢様の計算によると、この国の平民の方が重税だそうです。もっと軽くできないかと、何度も計算を行って税を下げて。不思議なことに、税を下げると領地収入が増えたんです。領地の人々が手元に残った収穫物や生産物で、いろいろな物を買うようになって、商業が活発になりました」
「税を下げて、収入が増える? 俄かには信じがたいが、それが事実か。凄いな。姫さんの知識はどこから来てるんだ?」
「異世界では誰でも知っている常識だと仰っていました」
「あー。お前の姫さん、異世界人か。それなら、いろいろ納得できるな。この国の人間と全く違う感性と博識だってのも」
「あ……」
しまった。口が滑った。お嬢様が必死で隠してきたのに。自分の失敗の衝撃で、ほろりと涙が零れる。泣いても仕方ないとは思っても、涙が止まらない。
口を覆っていた手をクレイグが突然強く引いた。座っていた椅子から勢いよく離れた私はクレイグの膝の上に乗せられ、驚きで声も出せない私の涙をクレイグが指で拭う。
「泣くなよ。別に異世界人だからっていうだけで罪はない。それどころか、ますます保護が必要だな」
優しく微笑むクレイグが、子供をあやすように私の背を撫でる。
「異世界人が元の世界に戻る方法はないらしいからな。この世界で生きるしかない。姫さんは帰りたいと思ってるのか?」
「それが……一度もおっしゃったことがないのです。元の世界が懐かしいとはよくおっしゃるのですが」
だから、侯爵家の人々もある意味安心していた。
「そうか。それならこの世界で幸せになってもらいたいな。……幸いにもというか結婚相手は選り取り見取りだぞ?」
「どういうことなのですか?」
「ゴドフリー様まで姫さんに興味をお持ちだ。年齢が合わないとおっしゃっていたが、実際の年齢なら釣り合うしな。俺はゴドフリー様を推すが、あの人が黙ってないな」
クレイグがあの人というのは、王子の側近の恐ろしくて優しい魔法使いのことだろう。
「側近のあの方は、貴族なのですか?」
「ああ。爵位もいくつかお持ちだが、まだ正式に授爵はしていない。個人資産も凄い金額らしいから、姫さんが一生困ることはないだろう」
それなら、お嬢様がお好きな本をずっと読んでいられるかもしれない。
「んー。ゴドフリー様は経済面では弱いな。授爵も婿入りも断って清貧を貫いてらっしゃるから、結構な額の給金も貧しい人々に寄付ばかりだ」
「それは困ります。お嬢様と二人で困窮する人々に施したら、ラザフォード侯爵家と同じことになってしまいます」
侯爵夫妻は自分よりも他人のことばかりで、爵位を売る寸前だった。お嬢様は悠々自適な生活をして頂きたい。
「お前はあの人推しか」
「はい。とても優しい方だと思います」
心が落ち着いてくると、自分の置かれた状況が恥ずかしくなってきた。男性の膝の上は硬くて座り心地は良くないし、クレイグの顔が近すぎて困る。
「あ、あの……何故、私を膝の上に?」
「抱き枕だからに決まってるだろ?」
即答。そうだった。私は抱き枕ということを再確認すると、感じ始めていた甘い雰囲気なんて消し飛ぶ。いろいろを諦めた私は、そのままクレイグの抱き枕になって就寝した。




