第四十八話 甘い封印
数日経つとトゥーリクの花の精油は落ち着いた芳香へと変化した。生花とは違う深みが心地いい。油に漬けた花はまだまだ抽出されていないので香りは弱い。こちらは一月はかかるだろう。
「へー。同じ花なのに、匂いが変わるんだな」
クレイグもそれぞれの香りを確認していく。私は酒精を入れた瓶のフタを開けた。
「これは何だろうなー。甘いというか重いっていうか、変わった匂いだな」
酒精に漬けた花は、赤く変化し始めて香りも甘ったるくなり始めている。
「そうですね。他の香りにほんの少し加えると、この強さが良い方向に効きそうです」
今まで酒精は何度も扱ってきたのに、これに限っては開けた途端に一瞬くらりと目が回る。でもこの香りに浸っていたくて、フタを締めたくない。
「どうした?」
「え、あ、いえ。何でもありません」
私の顔を覗き込んだクレイグの唇が近くて鼓動が早くなる。口づけなんてしたことはない。視線を外さなければはしたないと思っているのに、逃せなくて喉が鳴る。
「……大丈夫か?」
クレイグの額が私の額に押し付けられる。熱を測ってくれているのだと思いながらも、その青い瞳を覗き込んでしまう。
口づけしたい。……してほしい。
半歩前に踏み出せば口づけできる。口づけして……それから? その先が全く想像できない。胸のどきどきは激しさを増して、耐えられなくなって目を閉じる。
「……熱はないようだな」
私の手から瓶のフタを取り上げて、クレイグの熱が額から離れていく。寂しいと吐いた息が熱いのは何故だろう。
「これはしばらく封印な。甘すぎて俺がツライ」
そう言ってクレイグは、フタをきっちりと締めて紐でしばり、封蝋で念入りに固めてしまった。
◆
日中、騎士マイルズの姿は頻繁に見かけても、王子の側近の姿は見えない。本当に護衛してくれているのかと疑ってしまう。
「いますかー?」
マイルズのいる方向とは反対に小声で呼びかけると、風もないのに近くの木の枝が揺れた。木の上かと見上げても姿はなくて首を捻る。
「メイ? どうしたの?」
「え、いえ、何でもありません!」
気配は無くても返事はしてくれる。恐ろしい魔法使いでも、きっと優しい人だと思う。
お嬢様は今日もとある令嬢の話を聞いていた。毎日毎日、話を聞いてばかりで図書室にも通えない。
「最近、本をお読みになっていませんね」
「本はいつでも読めるものよ。でも、人の話は時を逃すと二度と聞けなくなってしまうから」
お嬢様とミキャエラ嬢を除く三十四名の令嬢は、公爵家の令嬢を頂点にしてはっきりと三つの派閥を作り始めた。もう王子妃候補は決まっているのだと、醜い争いが絶えない。未成年の少女ばかりといっても、もう大人の女性と言ってもいい。陰湿な嫌がらせや陰口がはびこっている。
お嬢様は派閥関係なく、ただひたすら侯爵家以下の令嬢たちの話を一人ずつ聞くだけ。
「いじめというものは、どこの世界にもあるものなのね」
目を伏せたお嬢様が悲し気な溜息を吐く。
「貴族という階級社会では残念だけど無くならない。被害にあった令嬢たちの心の傷を和らげることしかできないのが悔しいわね」
お嬢様がそんな目的で令嬢たちの話を聞いているとは全く思いもつかなかった。クレイグが言っていた本物の賢者なのかもしれない。
「……お嬢様が王子妃になられたら、きっと変わると思います」
いつかお嬢様が王妃になれば、この国は優しい世界に変わる気がする。
「それは…………王子の御心次第ね。これから部屋でお茶にしましょう。あの美味しいチーズケーキが待っているわ」
明るく笑ったお嬢様は私の手を握り、塔に向かって駆け出した。




