第三十三話 侯爵家の第一子
爽やかな風が吹く東屋で、今日も私たちは本を広げていた。
「メイ、どうしたの? 大丈夫?」
「あ、あの、大丈夫です、何でもありません」
昨日クレイグから聞いた話は、朝になっても私の頭を悩ませていた。
お嬢様がさらわれる可能性がある。そんなことは考えたこともなかった。平民が貴族を誘拐すれば、それだけで犯人だけでなく親類縁者も処刑されてしまうから、この国ではそういった事件は起きない。
でも、高位貴族なら。令嬢をさらい責任を取って結婚してしまえば、誰も抗議することはできないし誰も処罰されない。
近々、外国から戻ってこられるジェラルド坊ちゃまは、お嬢様を護って下さるだろうか。
ジェラルド坊ちゃまはラザフォード侯爵家の第一子。十一歳で当時三歳の王子に気に入られ、今は外国へと国費留学している優秀な方。外国に行かれてから十年近く侯爵家には一度も戻られていない。白い髪に赤い瞳の、優しくて聡明な少年の面影だけが心に残っている。
留学中は一切の連絡を禁じられていて、侯爵夫妻ですら手紙を出すこともできなかった。時折届く異国の絵本や小物で無事を知るだけ。そのジェラルド坊ちゃまが戻ってくるという連絡があったのは、この王子妃候補選びが開催されるという話の直前だった。
「私が力になれるかどうかわからないけれど、何か心配事があるなら教えて」
「ジェラルド坊ちゃまは………………そ、そろそろお屋敷にお戻りになっているのかと……」
お嬢様の問い掛けに、考えていたことの一部を答えてしまって慌てて修正する。
「坊ちゃま? ……ああ、ジェラルドお義兄様ね。そうね。お戻りになったら、きっと報告書に書いてあると思うわ。ずっと外国留学されていたのでしょう? 皆、心待ちね」
お嬢様の笑顔が、少し寂し気な色を帯びる。初めてみる表情に驚いてしまった。
「……本当はね、お義兄様にお会いするのが怖いの。私が相談なく勝手に昔からの決まり事を変えてしまったから。次期当主を差し置いて、ってお怒りになるかもしれないわ」
「大丈夫です! ジェラルド坊ちゃまは優しくて、これまでお怒りになったことは一度もありません! 絶対に褒めて下さいます!」
そんな心配は必要ないと思う。ジェラルド坊ちゃまはとても優しい。私自身は両手の指で数える程しか会ったことはなくても、皆の思い出話には必ず優しい坊ちゃまが出てくる。
「お義兄様って、今年二十八歳よね? その呼び方は少し可哀想だと思うの……」
「あ! ……そ、その……もう十年以上お会いしていないので、昔の印象が強くて……」
そうか。そう言われればそうかもしれない。家令や使用人長、周囲の人々がそう呼んでいるので、疑問にも思わなかった。
「……近いうちに私の仕事が見つかると良いのだけれど」
「え? お嬢様がお仕事ですか?」
「小さな子供の家庭教師が理想ね」
「でも、お仕事なんて必要ありませんよ」
「どのみち、お義兄様がお戻りになったら、私は外に出るしかないもの。お嫁に行くか、働きに出るかのどちらかでしょう?」
「ジェラルド……様は、絶対にお嬢様を追い出したりしません」
「お義兄様は許して下さっても、将来の奥様にとって義妹が同じ屋敷にいるというのは、耐えがたいものよ? もしかしたら奥様を連れてお帰りになるのかもしれないし。いざという時の選択肢は多い方がいいと思うの」
そう言われてしまうと何も言えなくなってしまった。お嬢様がお仕事に出るようになれば、誘拐の危険はさらに高まる。久しぶりに戻ってくるジェラルド坊ちゃまを頼るより、お嬢様を護る方法を考えると言ってくれたクレイグに頼るしかないのかもしれない。
「そろそろ頂いたお菓子を食べましょうか」
「は、はい!」
昨日、クレイグから貰った紙包みを下げていた布袋から取り出す。二人で広げるとクッキーとケーキから美味しそうな匂いがふわりと漂う。
「美味しい! このケーキ、食べてみたいと思っていたの」
「本当に美味しいですね。私ならお茶会で我慢できなかったと思います」
いや、でも、あのとげとげしい空気の中では食べられなかったかもしれない。
「これを下さった方にお礼を言いたいのだけれど、それは秘密なのよね?」
「……はい。秘密です」
何故かクレイグから口止めされているから、お嬢様には話せない。
「では、お礼だけ伝えて。ありがとうって」
「はい。必ず伝えます」
今夜、クレイグに伝えよう。とても美味しかったという私の感謝も一緒に。




