第三十一話 夜の色の男
お嬢様の夕食がすんで、塔の部屋に戻ると私の仕事は終わってしまう。自分のことは何でもしてしまうお嬢様は誰の手も必要としない。夜中に呼び出しのベルが鳴ることもなく、寝室で控えることもない。朝までは独りの時間を大事にしたいと言われると無理強いはできない。
塔を出て、使用人用の食堂に向かう。朝と違って人はまばら。スープとチーズを挟んだパン、小さなリンゴが一つというメニューはここに来てから同じ。不満がでないのが不思議。
食堂を出て塔に向かって歩く中、このままクレイグの部屋に行ってもいいのか迷う。騎士の仕事はいつまでなのか全くわからない。
「よう!」
「っ!」
後ろから肩を叩かれて飛び上がる。振り向くとクレイグが笑っていた。緑青色の上着が凛々しい。手には布袋を持っている。
「仕事は終わりか?」
「……はい」
「俺も終わった」
建物の中、使用人用の狭い通路を歩いていると男性の姿が見えた。茶色の詰襟の上着は、騎士でもなく従僕でもない。使用人が見つめるのは不作法だと気づいて、慌てて頭を下げる。
「おや。貴方が女性連れですか。珍しいことですね」
初めて会ったはずなのに、何故か聞き覚えのある声。顔を上げると知的な美形と目が合った。夜の色の長い髪と瞳。今まで見たことの無い色。
クレイグが私の顔を自分の胸に押し付けた。
「見ないで下さい。減ります」
「それは失礼」
静かに笑った男性は、通路から外へと出て行った。
「どなたですか?」
「……気になるのか?」
「いえ、その……何故か聞いたことのある声だと思ったので」
「……王子の側近の一人だ」
「王子の側近がどうしてここに?」
「明日、王子が訪問する。この近くに客室があるから事前調査の為だろう」
何か仕掛けられていないか、誰かが潜んでいないか調べているらしい。
部屋に入って、クレイグが脱いだ上着を受け取りブラシを掛ける。侍女としての反射的な行動だったのに、これでは夫婦のようだと気づいて目が泳ぐ。
「夕飯、一緒に食べないか?」
クレイグが持っていた布袋の中身は、肉や野菜が挟み込まれたパンと、蓋付きの器に入ったスープ。
「申し訳ありません。先程夕食は頂きました」
「そうか。味見だけでもどうだ?」
手渡されたスープはとても美味しそうで、お腹がいっぱいと思っていたのに食欲がわく。
「美味しいです」
使用人食堂のスープとは比べ物にはならない。肉も塩漬けではないし、とろりとした野菜の旨味が体の中から温めてくれる。
「侯爵家の待遇はとても良かったのだと、ここに来て痛感しています」
スープは侯爵夫妻と同じ物だし、三日に一度は肉か魚が食べられる。料理長が余った小麦粉で使用人にお菓子を作ることも許されている。領地から送られてくる果物も食べられると説明すると、クレイグが目を丸くする。
「それは厚遇だな」
侯爵家のことを聞かれると話題は尽きない。話す機会もなかったからか言葉が溢れてくる。人が良すぎる侯爵夫妻の話、老齢を押して侯爵家を支える人々。
いつの間にかクレイグの夕食も終わっていて、温かい花茶を飲みながら、話は続く。話の区切りがついた時、クレイグが浴室を使うようにと勧めてくれた。
「さって、早いが寝るか。明日は王子が来るから遅くなる。先に寝てていいぞ」
「はい」
「どうした? 早く来いよ」
ベッドに横たわるクレイグが手招きをしている。どうも抱き枕というより、愛玩動物のような扱いにも思えてきた。
「昨日みたいに俺が連れてこないと駄目か?」
「け、け、け、結構です!」
昨日ということは、抱き上げて運ぶという意味だろう。それは遠慮したい。……変な期待を持ってしまう。
「失礼します」
掛け布を持ち上げて招き入れられると、ますます愛玩動物の気分。
「いやー、あったかいよなー」
腰に腕を回したクレイグが、首筋に顔を埋める。ときめきよりも、羞恥の感情が上回った。
「匂いをかがないで下さい。恥ずかしいですから」
「良い匂いだと思うぞ?」
「それは石けんの匂いです」
色気も何もない他愛のないやり取りは、魔法灯を消すまで続けられた。




