2話:戦後ソニーの前身・東京通信、誕生
井深大が、敗戦、翌日に、疎開先の長野県須坂町から上京し2ケ月後の1945年・昭和20年10月、東京・日本橋の旧白木屋店内に個人企業・東京通信研究所を立ち上げる。後に朝日新聞のコラム「青鉛筆」に掲載された東京通信研究所の記事が盛田昭夫の目に留まり会社設立に合流。 1946年5月に株式会社化し資本金19万円で、義父の前田多門・終戦直後の東久邇内閣で文部大臣が社長、井深が専務・技術担当、盛田昭夫が常務・営業担当、増谷麟が監査役、社員20数人の東京通信工業・後のソニーを創業。
以来、新しい独自技術の開発に挑戦し、一般消費者の生活を豊かに便利にする新商品の提供を経営方針に活動を展開。戦後、成宮時達は、電磁波の専門科として評価が高かったので、若手研究者の
まとめ役として、スカウトされ、現在のソニーの前身「東京通信工業」で創業者・井深大と共に、参加した。
1946年に会社設立当時20数人で、旗揚げした東京通信工業の設立趣意書で、代表取締役専務の井深は「技術者の技能を発揮できる理想工場の建設」
「不当なるもうけ主義を廃し、規模の拡大をだけを追わなかった」
「大企業が踏み込めない技術分野をゆくと企業理念を謳っている」
これが技術のソニーの原点だった。
ソニーの人事管理の出発点は
「社員が仕事に喜びを感じるような楽しくて仕方がないような活気ある職場づくり」
「明るくオープンで働きやすい会社のカルチャーづくりをしようという姿勢」
「外部からどんどん積極的でやる気のある人を引っ張り戦力にし成長をした」
「要員募集を行い入社後も、こだわりやハンディなどがない」
「むしろ、すぐに仕事ができ活躍してもらえるので、かえって重宝された」
定期的に新卒の新入社員を採用し始めてからも、このカルチャーは、一層大切
にされた。井深は、人事開発室の新設にあたり、社員にこう呼びかけた。
「部長、課長、あるいは人事開発室が皆さん方を引っ張り上げるのではなく、
一人ひとりが自分でエンジンをかけて前進するのです。会社にできることは、
自らを啓発し、成長したいという強い意志がある人たちに道しるべを与え、
障害物があれば取り除き、能力と適性に応じて仕事を決めていくことだけです。
人事開発室は、単なる触媒に過ぎません」
そもそも、井深や盛田には、
「やりたい人やれる人がその仕事をやる自分で自分の能力を発見」
「そして適所を見いだしていける人が本当に実力を発揮し成長する」
「向上心と意欲に支えられた能力を持った人に対し会社が常にチャンスを提供」
「そういう制度として支えようという姿勢を貫いた」
「実際に仕事をやり遂げていく過程で人間の能力は高まるという考え」
「これで少々乱暴でも実際に仕事をやらせてみる」
「ソニーでは新入社員にも異動者に対してもこの考え方が一貫していた」
「成宮時達は、そんな昔の日本の会社制度と真逆に会社に当初、戸惑った」
「実力主義という考え方に賛同し部下にも最初、仕事に対する情熱があるか否か」
「次に、その仕事を完成させる能力があるか否かの順番で担当者を決めた」
日本伝統の学歴主義では、学力主義、実力主義だった。これには、最初、成宮時達が日本で最高学府のトップ東大卒業という自負があり、なじめなかったが、実際に、やる気、情熱のある者が、寝る間も惜しんで時間かかっても仕事を達成する姿を見て、能力がありながら、これは、合理的に見て、無理だと、早く、あきらめてしまうインテリ連中を見て、強く教えられた気がした。
「確かに、実力の世界で切磋琢磨していくべき」
そうしなければ、素晴らしい商品を世に出すことが出来ないと言うことを身にしみた。そして1955年、優秀なスタッフが他社から次々と集まってきて素晴らしい技術開発集団が出来上がっていった。そして、成宮時達は、1955年4月1日にソニーの取締役に就任して、開発本部長を任され、その時、ソニー株を50万株割り当てられた。その後、1955年8月、ソニーが東京証券取引所で店頭株として上場し初値21円となり、持株の評価額が105万円となった。