1話:陸軍・登戸研究所
成宮家は、旧華族の末裔で、東京・武蔵野に大きな家を持ち成宮時達は成宮家の家訓通り、小さい時から英才教育で育てられた。小さい頃から、数学が好きになり、帝大工学部で電子工学、電波の研究をした。しかし、成宮家の家風なのか、女好きで、16歳の時に、近くに住む、13歳の少女・安田けいと仲良くなり、成宮時達が19歳、安田けい、17歳の時に、成宮家の時達の部屋で同棲を
始め、結婚した。
結婚後、1年半で妊娠し、約3年で長男の成宮豪気を出産した。成宮時達は、東大理工学部を卒業し、1930年から無線電波の研究をしていたが、戦時色がひどくなり、一般大企業の募集がなく、困っていた。1937年、教授から帝国陸軍・登戸研究所で高出力の電波を研究して欲しいと要請があり、就職しないかと教授から持ちかけられた。もともと、成宮時達は戦争に反対であり、戦場に行きたくないと考えており、戦争に出兵しなくても済むと考えた。また、当時、教授の命令は絶対だったので、研究の指導者として指名され、就職した。
陸軍に入り、直ぐ、下士官となった。しかし優秀な若者は、少なく、訳ありの研究者や、研究助手ばかりで、たいした成果は期待出来ないし、恐ろしい兵器を作る気も無くて、ちょうど良かった。朝9時に、研究所に到着し、電波の勉強を若い人達に教えて、簡単な電波発信機の出力を上げる実験を繰り返し、電波で人を殺す何て、できっこないと考え、上司の命令に忠実に従った。
3年しても、陸軍のめざす、
「ビビビッ!と電波を照射して敵を殺傷する・怪力光線」ができずに、しびれを切らした、陸軍上層スパイ部は、概して頭が悪く、海外のスパイ小説や映画から着想を得た秘密兵器のような物を考えた。例えば、ペン先から毒針を飛ばすスパイ小説や映画から着想を得た物が多く、ペンの先から毒針を飛ばす「万年筆型破傷器」、缶の中に時限爆弾を忍ばせた「缶詰型爆薬」、雨傘が火を噴く
「放火謀略兵器」。
敵国の穀物や家畜を病気にする生物兵器や、暗殺を目的とした毒物兵器開発のアイディアを持ち込んだ。これには、正直、笑いをこらえる苦労したほど、馬鹿らしいアイディアばかりだった。幸いなことに、この研究所には、心根の悪い科学者がいなかったことが幸いしたのかも知れない。しかし、軍というものは、せっかちが多く人を増やせば何とかなると多くの職員を採用して最終的には、千人にもなり工業高校卒、電気工事屋、電線屋など、とても研究者とは呼べない連中ばかり集まり、成宮時達は、彼らを知識を向上させる授業をしていた。
結局、研究所とは、名ばかりで秘密兵器として世に出たのが、風船爆弾・こんにゃくのりで和紙を張り合わせて作った直径約10メートルの気球に爆弾や焼夷弾を吊るした風船爆弾だけだった。これを終戦までの2年間に約9300発を米国に向けて放ち、1千発以上が到達したらしい。ある日のこと、千葉県の海岸近くに造られた「放球台」で、風船爆弾に15k爆弾を装着する任務に携わった。
上昇し始めた気球が、海風にあおられ横に飛び、近くの民家や樹木にぶつかることもあった。そうしたと時は、あわてて車で追いかけ、導火線を切断したという。結局、全くの茶番で、お笑いの7年間だった。1944年敗色が濃くなり、研究所が休みの日が増えていった。つまり、それどころでは、なくなり、日本軍の尻に火がついてきたのだった。