なろうで異世界転移/転生モノが流行った理由について考えてみた
こんな戯言を開いていただきありがとうございます。かなり文体が固めですが、ご了承ください。それではどうぞ。
ところで、一応「転移/転生ものの考察」だからキーワードで付けたけど、本当につけてよかったのかなぁ……。
昨年行われた「小説家になろう」のアップデートによるジャンル再編。これで「登録必須キーワード」の一つに「異世界転移/転生」というものが追加された。さらに、「リゼロ」「異世界スマホ」のアニメ化もされるなど、この手の設定の物語は、すっかり「なろう」における潮流と化した感がある。投稿(2017年9月)時点ではそのブームもひと段落、と言った感じであるが。
そんな一大ブームを引き起こした「異世界転移/転生もの」は、時として「安易な展開」と批判される事もある。だが、ただ感情に従い、そう「批判」することもまた「安易」であると私は考える。遅ればせながら「リゼロ」のアニメ化の頃から考え始めたこの事象に対し、ある一定の結論を得たので、紹介させていただく。
「なろうにおいて、何故テンプレ作品が生まれたのか」という問いについては、今までの数多くのエッセイが述べているように、「読者の目に留まるためには、テンプレ的な展開にして露出を増やす必要があった」という点で問題ないだろう。それでは、この「テンプレ展開」がなぜ「テンプレ」たりうるのだろうか。おそらく、この面から分析しているエッセイはそう多くはないと自負している。
予め断っておくが、私にそのような作品群を誹謗する意図は全くないということである。あくまで1人の考察厨の戯言として軽く読み流していただきたい。
本題に入る前に、まずは「テンプレ展開」の定義であるが、「異界に魂が迷い込んだ後に(転移/転生)、無双(+ハーレム要素を含むもの」としたい。また、「転移」と「転生」の定義についてだが、此処では、両者共に「魂が前の世界の記憶や経験、精神を引き継いだまま次の(物語)世界に行くこと」とする。ちなみに、この二つの違いについてだが、本稿においては結論に全く影響は無い。よって、「なろう」ガイドライン上での定義を引用するに留めたい。
「異世界転生」=主人公が元の世界で一度死亡し、異なる人物として「異世界」への生まれ変わりを果たしている作品。
「異世界転移」=主人公が何らかの形(移動、召喚、憑依等)で「異世界」への移動を果たしている作品。
この二つは意外と境界が曖昧であるが、ジャンル再編の際にきちんと定義付けられたこともあり、最近の投稿作品では、この定義に従った作品が大多数を占めている筈である。
さて、筆者が挙げた「なろう的テンプレ展開」の二本柱の一つ、「異世界モノ」について先ずは考えたい。実は、特に「転移」に限れば、別の世界に迷い込む少女の物語「不思議の国のアリス」「千と千尋の神隠し」が存在するし、逆に既存の物語世界の人物が転移してきた上での騒動を描く「逆転移」モノとも呼べるものも存在している。
次に、もう一つの柱である「無双(+ハーレム)要素」であるが、申し訳ないが、ここだけについて述べるのであれば、数多の「ライトノベル」と呼ばれるジャンルの作品群の範疇であると考える。
つまり、「異世界転移/転生」も「無双ハーレム展開」も、それぞれ一つづつは「なろうが発祥」の発想ではない、という事になる。これらの要素が共にオリジナルでは無いのであれば、どこに「なろう」らしさを見出すべきなのか。それはあくまで、「その両者を合わせたこと」に過ぎないと考えている。その上で、所謂「なろうテンプレ」が生まれ、そして隆盛を誇るに至った原因を考えていきたい。まずは、筆者の私見であるが、主なものを4つほど挙げさせていただく。
1.現代日本人の価値観をその登場人物(主要登場人物であることが殆ど)に投射しやすいこと
私個人としては、これが一番大きいと思っている。現に、私が複数の作品を斜め読みした中でありがちなこととして、主人公(でなくとも主要人物)の近くに奴隷(解放された場合も含む)や被差別種族がいる、と言うことが挙げられる。もしくは主人公が高慢な貴族の鼻を明かしたり不正に立ち向かう……。結果として、この場合のその登場人物は「その社会的事象へのアンチテーゼ」として機能していると言っても良いだろう。
まず、奴隷や差別についてであるが、現代の日本人の感覚では「あまり馴染みのない社会的事象」に近いものがあると思われる。もちろん人種差別というものがなくなったわけではないし、出身地における差別だって根強い。更に言えば、実質的に奴隷と似たような状態にある者が居なくなったわけでもないのだが。
それでも、現代の日本人の中では「人種差別」「奴隷制度」に不快感を抱く者が多数派を占めると思われる。そして、それが存在する世界に、その嫌悪感を持ち込ませるための理由付けとして、転生/転移させた人物を登場させるのである。
ただし、悪徳貴族云々については少し事情が異なる。というのも、これは一種の勧善懲悪ものと考えれば、別になろう小説に限定されずに、昔からある王道の展開であるからである。つまりは、別にその展開は異世界出身の人物が行う必要性がないのである。
先述の論から少し考察を進めれば、社会へのアンチテーゼとして機能する主人公の敵役として都合がいいのが、支配者層としての「貴族階級」なのではないだろうか。これ以上語ると本筋からどんどん外れていくので、ここで悪徳貴族云々の話題は打ち切らせてもらう。
途中から焦点が見えなくなりかけたが、要は読者と近しい感覚の人物を入れることで、その人物を介して物語世界に引き込みやすくなるという効果があったのではないだろうか。
実は、同時にそれは、いわゆる「ファルシのルシがコクーンで」と呼ばれる事象の回避にもつながる。
この単語がピンと来ない方のために簡単に説明すると、「世界観を解説するのにその世界観のみにおいて通用する用語を多用した結果、説明文が説明文になっていない現象」を指す。先述の例であれば「ファルシ」「ルシ」「コクーン」がそれにあたる。そもそもこの例自体があまりいい例では無い(意味不明になるように、恣意的に改変された)のだが、私が述べたい事象を表す他の相応しい単語が思い浮かばないので、やむ無く使用した。
閑話休題。登場人物が転移/転生していることで、この事象が回避される原因としては、以下のように考えた。
どちらにおいても、殆どの場合はその世界における常識を持たぬまま物語が始まる。それを序盤に会った登場人物(大体メインヒロインか親だったりするがそこは別の話である)に解説させる事で、読者側も「その世界における常識」を得ることができる。
有名な某ファンタジー作品の第1章が世界観の解説のみであったりしたが、それを回避する方策の一つが、主要人物を転生/転移者にすることであろう。つまり、我々と近いフィルターを通してその世界観を言い換えてくれやすいのである。
2.「俺tueee」の理由付けとして分かりやすいこと
この手のテンプレ的作品でセットとなるキーワードに「俺tueee」が挙げられるだろう。これをさせるための理由付けとして「異界からの魂はその世界のものよりも強力な能力を持つ」としている作品が多いように見受けられる。そして、彼ら彼女らは、そのような直接的な能力で無双していくのである。数多の作品で見かける「転生チート」などと呼ばれている代物が、これにあたる。主人公が何故最強たりうるのか、という理由付けとしての転生/転移と受け取るのは穿ち過ぎであろうか。
主人公が最強たりうる理由付けとして、「主人公が特殊な血筋を引いている……」などとやると、途端に少年ジ○ンプっぽい感じになる。このように、「転移/転生」させることは「なろう作品っぽい」主人公最強ものとしてのある種の様式美となったと言えようか。
一方、転移/転生キャラの中には戦闘能力がほぼ皆無という設定の人物も居たりする。例を挙げるのであれば魔法の存在しない世界から来たために魔法が全く使えない、そして行った先は魔法至上主義の世界。そうでなくても、一般人故にそもそも武術の心得など持ち合わせていない。もちろん古武術を習っていたなどと都合のいい事はそうそう起こらない。そして頼みの綱(?)のチートも貰えず終い……。では、そのような人物はどうやって生き残るのか。
……そう、「アタマ」である。
数多の主人公達が暮らしてい「た」世界と暮らしてい「く」世界との間には、
文明的な開きがあることが多いように見受けられる。そして、転移/転生先としてよく題材にされるのは中世欧州風味のファンタジー世界であろう。中世欧州と言えば、迷信が蔓延り、さらに四則演算及び識字が出来る時点で脱底辺確定の世界である。この差を利用していくのが、知識無双系の作品達であろう。
どちらも形態は違えど、主人公が自らの強みを最大限活かして、新たな人生を歩んで行くのである。ステータス値が高ければ直接的能力、そうでなくても策謀を巡らせる…。そうして歩んでいく姿に読者が惹かれるのだろう。
3.ある種の「やり直し願望」「ヒーロー願望」の投影
上記の二つが作者の視点に近いものだとすれば、これは、読者の時点により近づいたものであると言えよう。というのも、いくら表現上書きやすくとも、読み手がいなければそれは潮流になり得ないからである。そういう意味では、本来一番大きい要因はこれである、と言える。
人は生きていく上で後悔しないで生きていく、という事はあり得ない。そしてそんな時に思うのである。「あの時からやり直したい」や「心機一転、別の環境に行ってみたい」と。もちろん現実では容易に叶わないので、物語作品中でその願望を投射しているのであろう。
更に、この国では輪廻転生という事象が普く受け入れられているため、「転移/転生」モノが欧米より生まれやすい土壌ではあったと思っている。そうして「転移/転生」を果たすことで、「やり直し願望」「ヒーロー願望」を擬似的に満たすのである。
4.VRMMOモノの隆盛
さて、上の項目で書いた二つの願望だが、これは別に「なろう的小説」に限るものではないと思っている。
例えば、過去にタイムリープした後の騒動を描く「バックトゥーザフューチャー」、平凡な人物が突如ヒーローになる「スーパーマン」など、他国の映像作品にも多数見られる。その点では、「なろう的テンプレ作品」の隆盛の原因のひとつを「上記の願望の投影」だけに求めるのも、いくらか繋がらない点があるのは事実である。
では、何故なろうでの表現技法としての異界転移/転生モノというジャンルが誕生したのか、という点を、当項目では考察していく。
確かに、形は問わず、「ヒーロー願望」と「やり直し願望」が同時に叶う(だろう)作品形式が生まれるのは、当然であっただろう。ここで思い出して欲しいのが、「VRMMO」モノである。作者当人は「ソードアートオンライン/以下SAO」しか読んだことが無いが、その「SAO」1〜2巻を例にとってみたい。
「SAO」1巻では、「(ボス攻略まで)ログアウト不可な仮想現実世界」の「死んだら終わり(デスゲーム)」で「無双展開」が主軸になっている。さらに、2巻でやや「ハーレム要素」も含んでいる。ここで、筆者が注目したいのは「ログアウト不可な仮想現実世界」と言う点である。すなわち、登場人物にとっては、この「ゲーム世界」は、ある意味で「異世界」と言えるのである。ある者の意思によってその「異世界」に呼び込まれ、閉じ込められる。そして、その中で人間関係を構築していく。そう考えれば、「SAO」も、「なろうテンプレ作品」と本質的にはあまり違わないのではないか。そう考えると、「VRMMO」モノが興った時点で、「なろう的テンプレ作品」が生まれる土壌は既に揃っていた、とも言えるのである。この手の作品の中でも少なくない割合で、レベルやスキルといったシステムが存在している世界を描いているのも、この点と無関係ではないかもしれない。流石にこれは深読みのし過ぎであろうが。
私が考える主な理由はこの4つである。総評すると、以下の結論に至った。
VRMMOモノのライトノベルが隆盛を誇った時点で、「なろう的テンプレ作品」が生まれる流れは必然であった。しかもその展開は、読者が手軽に物語世界に感情移入しやすく、同時に無双展開を果たせる世界観を作者が構築しやすかった。更に、作者読者共に「やり直し/ヒーロー願望の投影」をさせやすい展開であることが拍車をかけ、受け入れられる流れが出来た。
ここからは、上記にも増した余談なので、サラッと読み流して頂いて構わない。
私自身が、魔法ありのファンタジー世界における長編小説(ただし転移/転生キャラはいない)を書こうとした時期があり、その時に多少苦労した点を踏まえて、さらに考えられる原因を挙げておく。
余談だが、その小説は結局投稿する前にこちらの気力が尽き、お蔵入りになっている。設定を考える時間も含めて1ヶ月弱を費やしたが、結果としてこの考察の材料になったのみであった。
閑話休題。それでは、さらに二つほど挙げてみたい。
5.ネットスラングやパロディを登場人物のセリフとして入れやすいこと
恋愛や冒険ものであればともかく、ギャグ系に走るのであれば他作品のパロディやネットスラングを多用して軽妙な文章に仕立てることは効果的な手法ではないかと感じる。
一人称での小説であればその者の思考も割と細かく描写できるので、なおさらである。
例えば、登場人物が「ポルナレフ状態」などと直接的に言及する場合。これにおいても、「混乱して訳が分からなくなっている」と書くよりも「ポルナレフ状態」と書いた方が相応しい文体も確かに存在するのである。
6.(かなり地味だが)度量衡、時間の単位を理解させやすいこと
敢えて当然の事象を述べてみたい。「言語が違えば度量衡の単位もある程度異なる」
地球でも、ヤードポンド法にメートル法、尺貫法といった、複数の単位系が存在する。世界が違えば、言わずもがなである。
さて、それでは、ヤードポンド法を知らぬ者に対して、「牛乳1ガロン」は通じるであろうか。ちなみに、米国での1ガロンはおよそ3.8Lである。このように、読者とは他の単位系を用いて生活している者とは、その単位をうまく換算してやらないといけない。
では、作品中での単位系を地球の単位系との換算を、どのようにすればいいだろうか。
ここで、転移・転生者という登場人物が出てくる。すなわち、彼らに単位換算を代行させるのである。上で述べた「世界観の解説の中継」としての主人公像という位置付けの一つの例に当たるであろうか。
1つ目と同じであれば、何故わざわざ項目を分けたのか。それは、「転移/転生」をさせるまでもない、別の解決法が存在するからである。「間接表現を用いる」ことである。
例えば、「歩いて丸一日ほどの距離」と言えば、時速4km×8時間(これ以上を連日歩くのは酷である)として、およそ30km程度になろう。もちろん、地球人と身体能力、そして1日の日照時間がほぼ同じと仮定した場合であるが。確かに、全ての単位系を間接表現で置き換えることは理論上は可能であるが、それでも面倒くさい。主人公に単位換算させた方が手軽である。
いかがだっただろうか。主に「書く側」としての視点に立ったが、「読む側」からの視点についても、多少は触れたつもりである。作者諸兄からすれば思わず使っている事であるかもしれないが、実はこういうことだったのか、と1人でも感じていただけたら幸いである。
最後に、この分析を通して得た知見を記して、このエッセイの締めとしたい。
「テンプレには、テンプレたりうる理由があった」
ー了
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