03.陣内さんちの諸事情
「はぁ」
思い返すだけで、疲労に似た溜め息が際限なく出る。
現実ではまた初音が、「ふぇ?」と困惑を変な声で表していた。
あの後は「おっと、もうこんな時間ですね。用事があるので、詳しいことはまた明日」と言って、何事もなかったように益子さんは去って行った。
僕はたっぷりと放心し、益子さん……黒だったな、等と取り留めもないことを考えつつ帰路につき、は? 選挙のプランニング!? と自室でようやく我に返った。
「しっかし、生徒会選挙のプランニングか……」
「なになに? ユウちゃん、生徒会選挙に立候補するの?」
現在に立ち返りつつ呟くと、初音が口を挟んできた。
物言いたげな目で、ボーカロイドと同じ名前の幼馴染を睨む。
「う……な、なんだよぉその顔は」
「僕じゃなくて、益子さんが出るの」
「え? 愛ちゃんが?」
「はい。この益子愛、一年にして生徒会長となり、高校を乗っ取ってやろうかと」
「へ?」
己が口から驚きの空気が漏れ、目が見開かれるのが自覚された。
――そんな理由で、この人は生徒会選挙に?
常に品よく笑みを浮かべている益子さんの言葉には、嘘か本当か分かり切らないものがある。僕が疑問に足を捕られている間にも、二人の会話はずんどこ進む。
「うわぁ、すっごいなぁ。愛ちゃんそんなこと考えてたんだ! 私、応援するね」
「有難う御座います。初音ちゃんのご助言のお陰で、無事陣内くんがゲット出来ました」
「ふぇ? 初音、なんか言ったけ?」
「はい、選挙推薦人の件でご助言を賜りました。夕子先生も一緒に」
と、その最中、僕の名前と選挙推薦人の話が挙がり、
「せんきょすいせんにん? あ~~。そういえば、そんなこと――」
「って、やっぱ言ってんじゃないか!?」
ぽわぽわとした口調の幼馴染が、そんなことと、日常茶飯の適当事のように話題を処理しようとしたところで、堪らず声を荒げた。
「お、落ち着いてよぉ。でもユウちゃんのお爺ちゃん、ほら、県会議員さんをやってたじゃない? だから、その……テヘッ、ユウチャン、オコラナイデヨー」
「お前、困るとボーカロイドネタに走るのやめろ」
「成程、お爺様が政治家だったのですね。それなら初音ちゃんの言葉にも納得です」
「えへへ、そうなんだよ。すごいでしょ!」
「初音よ、なぜお前が偉そうにする」
確かに初音が言う通り、僕の祖父は愛知の県議を長く勤めていた。そういうと凄そうに聞こえるけど、家族が議員なんて大変なことしかない。
朝起きて食卓に向かったら、知らない人がご飯を食べていた。なんて不可解な状況は結構ある。県議ともなれば後援会という支援者団体を持つことにもなり、その人たちが家に頻繁に出入りする。蔑ろに出来ないので愛想を良くしなきゃいけない。
そしていざ選挙となれば、人員は幾らいても足りるということがない。家族も当然のように雑用に駆り出され、手伝いに来てくれた人に朝から晩まで頭を下げる。
また季節のお中元やお歳暮の管理すらも一つの仕事となり、私生活上では家族は県議の妻や孫として見られ、地域住民の監視にも似た厳しい目に晒される。
まぁそれも祖父が現役時代の頃の話、僕が小学生の頃の話だ。今はそれ程でもないが、とにかく議員を家族に持つと役得よりも負担の方が多くなる気がしている。
そして昔あった議員年金も徐々に縮小気味の昨今、議員なんてなるもんじゃない
「それでは陣内二世、ずずいとここにお名前を」
「いや、僕は継ぐ気はないんだけど……って、なにこれ?」
僕が我が家の諸事情について思いを巡らせていると、益子さんが例の如くニコニコとした調子で一枚のわら半紙を差し出してきた。
「はい、生徒会選挙の立候補用紙です。この推薦人のところにお名前を」
言葉通りにその紙は「立候補者申込み用紙」と題されていた。用紙の内で記入が必要と思しき欄は、見覚えのある字で殆ど埋められていた。ある一か所を除いて。
「あの……本当に、僕がやるの?」
今更ながらに尋ねてしまう。すると益子さんは一人、益子劇場を展開し、
「陣内P、何を言ってるんですか? あの日、あんなに激しく私を叱咤激励してくれたじゃないですか。『この可愛い子豚ちゃんめ。俺が、あっ! 俺が、お前をプロデュースして、この国一番の生徒会長にしてやんよ』と。それから私たちは理科室で熱い抱擁を交わし、陣内Pは私を押し倒して……そして、そして――」
自身を抱きしめ、蜜のように甘く濃厚な時間を回顧するような、今を咲く乙女のような潤んだ瞳で益子さんは“ほう”と虚空を見つめ、何事かを口にする。
「って、うぉぉぉぉい! そ、そんな事実はない!」
「不潔! 不潔だよ、ユウちゃん!」
その回転する劇場に取り残された僕と初音は各々に叫んだ。そこで益子さんは我を取り戻してクスリと笑うと、僕に近づいてそっと耳打ちを行う。ドキリとした。
「まぁ冗談ですが、例の秘密をばらされたくなければ、とっとと名前を書きやがれです。この、べらぼうめぇ」
べ、べらぼうめぇ? 上品に変なことを口にするという益子さんの独特な言語体系に混乱を覚えるも、あの画像をばらまかれてある人の目に留まると、洒落にならないレベルでヤバイ。冗談じゃなく、事は家の騒動にまで発展しかねない……。
「うっ……はぁ、仕方ないのか」
僕は観念して机から筆箱を取り出すと、仕方なく推薦人欄に署名した。
「にへ」
「おぉ、愛ちゃん。その顔、ちょっとヤバいって」
初音の声に反応してわら半紙から顔を上げる。益子さんが何とも邪悪そうな笑みを浮かべ、怪しげに目を光らせていた。あ、あははと半笑いを作って用紙を渡す。
――この人、こんな人だっけ?
「はい、結構です。それでは陣内P、後は担任の印をもらい生徒会に提出すれば完了です。放課後に纏めてやっちゃいますので、予定を空けておいてくださいね」
そのまま「では」と軽やかに体を反転させ、上機嫌な足取りで益子さんは自分の席へと向かった。その姿をある種の無心の儘に、黙って初音と見送る。
「ユウちゃん、本当に選挙推薦人するんだ。ちょっと驚いちゃった」
「いや、益子さんに勧めたお前が言うなよ」
気安い幼馴染の空気感の中で初音が口を開き、僕は苦い顔を向けた。
「え? あ、あはは。そうなんだけど、まさか本当に引き受けるとは思わなくて」
「引き受けたというか、引き受けざるを得なかったというか」
その直後にチャイムが鳴り響き、初音も席に向かった。両手を頭の後ろで組み合わせ「あ~あ」と落胆する。選挙推薦人だなんて、面倒なことになってしまったな。
その考え通り、面倒事は早くも昼の時間にやってきた。