02.暁の理科室
「はぁ……」
朝、教室に着くなり重い息を吐いた。世界に対して消極的な抗議を行うかのように物憂げな表情を浮かべ、クラスメイトからの挨拶に適当に応じて席に着く。
物憂さでどこまでも沈んでいけそうだ。いや本当に。
机に体を投げ出して寝そべっていると、元気よく級友と挨拶を交わしながら近づいてくる存在に気付く。顔を上げると同時に能天気な声が降って来た。
「おっはよぉ、ユウちゃん! ってあれ? どうしたの、元気ないぞぉ?」
幼馴染の一人、今坂初音の姿を視界の内に認め、ギロリと睨みつける。人付き合いもよく普通に可愛いが、意識しないと背景に溶け込んでしまいそうな地味な幼馴染の彼女。今日もその肩に、ソフトボール部用の大きな鞄を下げていた。
「うっ、な、なんだよぉ、朝からそんな顔して。何かあったのぉ?」
「何かあったのぉ? じゃない! あのな、初音のせいで大変なことになったんだからな」
「ふぇ? 私のせいで? う~~~ん、何だろ? ちょっと思い当たら――」
素なのか恍けているのか分からない初音に渋面を向けていると、ガラッと教室の扉が開く音がした。視線を向けてアッとなる。初音もつられるように振り向く。
「あっ、愛ちゃんおはよう!」
「はい、おはようございます」
益子さんが上品な笑みで初音の挨拶に応える。僕の姿に気付くと微笑みを湛えたまま、窓側の席まで歩を進めてきた。とびっきりの笑顔が桃の花のように咲く。
「陣内Pもおはようございます」
「う、お、おはよう。益子さん」
奇妙な愛称に気押されつつも、体を起こし、曖昧な笑みを浮かべて応じる。「ふぇ? 陣内P?」などと言っている初音を無視し、益子さんの笑顔と向き合った。
「今日から、よろしくお願いしますね」
「あ、あは、あはははは」
そうして僕は静かに思い出す。昨日の放課後の、理科室での出来事を。
『陣内くん……私の選挙を、プロデュースしてくださいませんか?』
真摯な情熱を瞳に宿した益子さんを前に、僕は事態を呑みこめずにいた。夕刻の粒子が益子さんの輪郭を淡く縁取り、オレンジ色に彼女を浮かび上がらせていた。
「え? せ、選挙のプロデュース?」
淡色の影絵のように、僕は単純な驚きと困惑の中にいる。それほど親しくないクラスメイトに呼び出され、いきなりそんなことを言われたのだ。
――というか選挙って……何? なんだ? 何の選挙のことを言ってるんだ?
思わぬ角度からやって来た現実に対し、狼狽しながら疑問を呈す。
すると益子さんは綺麗な形の顎を軽く引いた。
「はい。選挙です。私、どうしても選挙に勝ちたいんです。その為にも陣内くんのお力を借りたいと思い、こうして呼び出させて頂いた次第です」
いや、呼び出すってか脅迫……。
そう抗弁したいのをこらえ、思わず頬を掻く。分からないことが多過ぎた。
「ごめん、ちょっと状況が理解できないんだけど……そもそも選挙って……」
「選挙は選挙です。今度行われる、我が校の生徒会選挙に他なりません。ひょっとして、ご存知ないのですか?」
少しばかり怪訝な様子で問われ、「へ?」と間の抜けた声が零れた。生徒会選挙?
「我が校の生徒会選挙って……あっ! あ~~、はいはい。そういえば、そんなのがあるってホームルームで前に言ってたっけ」
記憶を探れば担任の夕子先生(アラサー、未婚)が先週あたりに、酒でも飲んでそうないつもの適当な調子でそんなことを言っていた気がした。これっぽっちも興味がなかった為、その時は右から左に通り抜けて行ったが。これは何も僕の無気力に由来しない、生徒会選挙に対するクラスメイトの平均的な認識だと思う。
――成程、選挙って生徒会選挙のことか。
取り敢えず選挙のことは分かった。しかし、
「えっと……その、それで、どうして僕なの?」
益子さんと別段親しい訳でもない僕が、どうして選挙の協力要請を受けたのかが分からない。選挙と僕という組み合わせに変な予感はあったものの、益子さんは友達だって普通にいた筈だ。よりにもよってどうして僕が指名されているんだ?
「はい、立候補するには担任の許可と共に選挙運動を補佐してくれる推薦人が必要となるのですが……」
推薦人。そこで益子さんは少しだけ躊躇いを挟んだ。
「その、少々面倒な役回りなので誰に頼もうか困っていると、初音ちゃんが『だったら選挙に詳しいユウちゃんに頼むといいよぉ。帰宅部でいっつも暇そうにしてるし、押しと脅迫に弱いから頼めばきっと大丈夫だよぉ』と仰られたもので。するとその場にいた夕子先生も『おぉ、陣内なら安心だな。奴は選挙と共に生き選挙と共に死す男だ。せ、選挙で負けて、一緒に死んでこい、ふ、ふは』と賛同して下さり」
………………………………おい。
色々と突っ込み所が多すぎる。まず初音よ、脅迫に弱いって普通だから。新聞で叩けば死ぬというゴキブリと共通項を持つ政治家だって弱いし。余裕で屈するし。
それで、夕子先生は何? 選挙と共に生き選挙と共に死すだ? 選挙で負けて一緒に死んでこいだ? ふ、ふはだ? 完っっ全に面白がってるじゃないか!!
「はぁ……初音と夕子先生のせいか」
あのソフトボールな二人には、いつか絶対に仕返ししてやろうと決意する。メロスばりに決意する。メロスは怒った、王様も怒った。みんな、政治がわからぬ!
だがまぁ一応のところ、僕が呼び出された理由は分かった。選挙に詳しいってのは、限りなく間違っているけど。これは後々正していけばいい。あとは……。
「えっと。あの……一応、僕が選ばれた理由は分かったけど、それであの脅迫っていうか、僕の秘密のことなんだけど……その、どれのことなのかな?」
自分でもそれと分かる薄ら笑いを浮かべ、益子さんに尋ねる。僕が今日、土管の国のキノコオヤジに踏まれそうな感じでノコノコ現れた理由がそこにあった。
どれなんていうと、僕が秘密だらけのご機嫌な変態にも聞こえるが、こちとらベッドの下はおろか、パソコンの中身すらクリーンな身分だ。……とある事情で。だが相手から情報を引き出す為にも、揺さぶりをかけてみる必要はある。
「え? その、例の秘密と言えば、あのことに他なりません」
すると益子さんがあからさまに視線を逸らし、気弱な態度を籠らせた。
ん? なんだ、この態度?
「いや……だから、それが具体的にどんなことかって聞いてるんだけど」
「それは言えません。例のあの秘密、とだけ申しておきます」
「……」
急に胡散臭くなってきた。僕の不信感丸出しな態度が雰囲気となって益子さんにも伝わったんだろう。明らかに動揺し、益子さんの目が泳ぎ始めている。
「本当に僕の秘密、知ってるの?」
「も、勿論です! ベッドの下の秘密から、アマズーンで買ったあんな品まで熟知しています。よっ、裸の大将! 異常性欲者! ずらりと並ぶ卑猥なお勧め群!」
酷い言われようだった。しかし、益子さんの言葉には決定的なものが含まれていた。そう、何度も言うが……僕の家に、エログッズはない!!!!!!!
フハハハハハハハ! 買っても即日処分だ。恐れ言ったかぁ! と声を大にして叫びたいのを堪え、この不毛な遣り取りを終わらせるべく声を上げた。
「う、うわああ! なんてこった! まさかベッドの下の、あのマニアックなDVDのことを知られているなんてええ~~!? 僕はもうお終いだあ~~!」
悲しい位に棒読みだった。表現力が足りないのは自覚している。一高校生にそんなもん求めるな。その圧倒的な演技力の前に、本人が途中で噴き出しそうになる。
が――そこで益子さんの目に力が戻り、
「そ、そうです! 私は、陣内君の変態趣味を熟知しているんです。よっ、この犯罪予備軍! 夜の裸の王様! だから、その秘密をばらされたくなければ――」
「そんなもの持ってないよ」
「え?」
しかしその一言を前に、益子さんの表情が間の抜けたものに変わる。
「ごめん、ちょっとカマをかけてみただけなんだ。僕、そういうの本当に所持してなくて……えっと、所持したくても出来ないというか……あ、あははは。それで、あの……僕の秘密を知ってるって、出まかせだよね?」
「そ、そそそ、そんなことは! 私は、陣内君の例の秘密を」
益子さんの狼狽ぶりを見て確信に似た思いを抱く。間違いなく彼女は僕の秘密なんか知ってやしない。呆れたように、同情するかのように、ふぅ、と息を吐く。
「益子さん。どうしてこんなことしたの? そりゃまぁ確かに選挙の推薦人だっけ? はちょっと面倒そうだし、簡単には見つからないかもしれないけどさ」
「……あの、えっと、私は……」
今や彼女は僕と目を合わせていられず、気弱に視線をあちこちに散らしていた。
「怒らないから……言ってごらん?」
努めて優しい口調で問いかける。それが決定打となったのか、益子さんはバッと顔を上げて僕を見つめると、口を戦慄かせながら頭を下げた。
「すみません! どうしても、生徒会長になりたくて、その……嘘をつきました」
「はぁ……まったく、驚いたよ」
苦り切った顔で微笑んでみせるも、胸中には安堵が生まれていた。一時はどうなることかと思った。でも僕の秘密もバレたりしてなさそうで、これで一応の解決を、
「それで……あのっ、ごめんなさい、陣内君!」
「えっ、ちょ!? なっ――」
鼻孔を甘い香りがくすぐる。突然の事態に状況を上手く飲み込めない。益子さんの手が僕の腰に回され、暁の教室で男女が二人、輪郭を共有している。
益子さんが突如として、僕の懐に飛び込んできたのだ。
熱く、潤んだ瞳で益子さんが僕を見上げていた。苺の雫のような乳白色の瑞々しい肌。長い睫毛が瞬く度に、その綺麗な瞳に吸い込まれそうになる。
「あ、あの、ままままま、益子さん?」
現実を現実の儘に上手く認識出来ず、戸惑い、慌てる。
喉が鳴り、遅れて心臓の鼓動が自覚された。脳髄を痺れさせるような感触。密着している女の子の体の柔らかさが、僕が感じられる、ささやかなリアルだった。
なんだ? この現実はなんだ?
「陣内君……目を、目を閉じてください」
そんな僕に投げかけられる、熱い吐息。濡れた唇の言葉。
「はぁ? めめめめめ、目を、ですか?」
あの、その……目を閉じると、どんな良いことがあるんでしょうか?
大人の階段が物凄い速度で迫って来るのを感じた。同時に冷静な思考は遠く彼方へすっ飛んで行き、僕は本能のままに瞳を閉じた。え、本当? マジで?
すると――
「もらったぁぁ!」
突如足元がぐらつき……というか、細い何かに絡めとられ、態勢を崩された。
「へ? う、うわぁぁあぁああああ!」
背中に衝撃が訪れ、ぐへっ、と変な声が口から漏れる。
――あ~~~、え? 何だ、何が起こった?
痛みの中で冷静さが腰を振りながら戻って来る。地味に痛い、天井が広い。分かったことは、何か巧みな足捌きで床に倒されたということ。続いて衣服がはだけるような音がして、益子さんが「シャラ!」と声を発して覆い被さって来たこと。
思考が事態に追いつかない内に、為す術もなくグルンと体を回転させられた。二人の間で天地が入れ替わる。
「はっ? ちょ、え」
体が不安定な状態になるのを避けるように、咄嗟に僕の両腕が床に伸びた。ほっとするのも束の間、眼前では益子さんが怯えるような瞳で僕を見つめていた。
いや、何だその目は……って……やばっ、ちょ、この状況って……。
土管の国のキノコオヤジとメロスと王様が、激怒しながら僕の中でルンバを踊る。恐怖するような益子さんの瞳。その目に相応しいように、彼女の制服はいつの間にか乱れていた。ホ、ホ、ホホ、ホックが見えている。ブラックだ! 大人だ!
ってそうじゃなくて、そんな状態の彼女に覆い被さっている僕の姿は、ともすれば襲っているように見えなくもない。サッと血の気が引いた。
「ちょ、あの、いや、ちがっ、えぇ? あの」
そのことに気付き、慌てて上体を起こそうとする。が――パシャ! と、泉に小石を投げ込んだような耳慣れた音が世界に響いた。反射的に音の方に目をやる。
「え?」
益子さんの細い腕が伸びた先で、スマートフォンのカメラが無機質に無感動に僕を見つめていた。本体がくるっと表を向くと、撮られた写真が画面に浮かぶ。
「―――――っっっっっ!?」
その画像を見て、思わず絶句した。
僕が益子さんを押し倒しているような状況が映っていたのだ。益子さんは怯えた目で僕を見つめ、制服には乱れが確認出来た。内実を知らずに画像だけを見ると、僕が襲っているところを写真に撮られたと思われても、何ら不思議ではない。
何ら不思議ではないって……ちょっと待て!? ポカンと認識に穴が穿たれた後、急速な理解で後ろ寒くなる。バッと上体を起こし、サッと後ろに下がった。
と、クスリという笑みが。
「既成事実ゲットです」
「……え? き、既成事実?」
肩まで自ら下げた制服を引っ張り上げながら、漫画で暴漢に襲われそうになった女性がよくする動作をしながら、益子さんが体を起こす。ニッコリと微笑んだ。
「秘密がないなら作ればいい」
そのまま、全て計画の内だとでも云わんばかりに、とんでもないことを……。
「さぁ陣内君、脅迫のお時間です♪ この写真をばらまかれたくなければ、私の選挙、プロデュースしてください。手伝って下されば写真は削除してあげますよ」
「は? え、ちょ……はぁぁぁぁぁぁぁああああああああ?」