15.哀球児たち
「学校にいないというのでな、話を聞いて来てみればこの始末。安室、どうして試合に出ている? いや、それよりも何故魔球を投げている?」
サングラスをかけた、伝説の四番と呼ばれているらしい金髪さんが問いかける。典雅というか、何とも気品に充ち溢れた声だった。
「うるさい! 貴様には関係ないことだ」
それに対し、やけに感情的になって声を荒げる甲子園の星。二人はライバルという話だが、炎と氷といった塩梅で、その気質は正反対のように察せられた。
「魔球を投げるのは止めろ。お前の腕が持たん時が来ているのだ。どうしてそれが分からん。この分からず屋が!」
「戯言をぉ! そんなもの、根性でどうにかしてみせる」
「ならば、ならば今すぐ、全ての高校球児に根性を与えてみせろ!?」
「エゴイズムだよ、それは!」
「えぇい、冗談ではない!?」
闖入者の存在を前に、またしても試合は中断される。宿命のライバルらしい二人は噛み合ってるんだかいないんだかよく分からない感じで口論を交わしていたが、皆が二人の遣り取りに聞き入っている様子で、誰も口を挟むことが出来ない。
「安室、いい加減に目、を……!? な、そんな……ル、ルルゥ!?」
しかしその闖入者がチラと我が陣営のベンチに目を向けた瞬間、事態は動いた。サングラスに隠れた眼が大きく開いたような声を男が放つ。
「ルルゥ、まさか? どうしてここに!?」
甲子園の星の時と同じく、その対象は――
「え? あ、あの?」
僕の幼馴染にして許婚の、東雲あえかだった。気配や素振りに動揺を隠すことなく、伝説のクアットロが歩み寄って来る。というか、ルルゥって誰だ。
「いえ、私は東雲あえかと申しまして、ルルゥという方では」
尋ねられたあえかは多少の申し訳なさを表情として面に出しながら、オズオズといった調子で応じる。甲子園の星といい伝説のクアットロといい、何故こうもあえかにちょっかいを掛けたがるのか。やはりナンパか、ナンパなのか?
「……あ、そ、そうですよね。いや、失礼。知り合いに似ていたもので勘違いしてしまいました。どうかお許し下さい。そうだ、ルルゥは……もう、いなんだ」
「え……? その方は、あなたの大事な方だったのですか?」
「はい。少しばかり複雑な事情があるのですが……私の義母になってくれるかもしれない人でした。年はそう、変わらないんですがね。私を庇い、事故で……」
そう言うと伝説のクアットロはサングラスを外し、隠された美貌を露にする。「うほっ!」と隣に並んだ益子さんが思わず声を漏らす程に、濡れた薔薇を思い出させるような美しい男だった。どこか耽美的ですらある。
今、男のその目は過去の風景を手繰り寄せるような色をしていた。思わず打たれてしまう。心に深い傷を負った人間でなければ、その色は決して出せない種類のものだと思う。面立ちには輝くというよりも、光を呑みこんでしまう深みがあった。
「そうでしたか、心中お察し致します」
「いえ……本当に失礼しました。あぁ、挨拶がまだでしたね。はじめまして、私は赤井彗星と申します。少しばかり風変わりな名前ですが笑わないでやって下さい。これで結構、気に入っているんです。それで、あえかさん、とお呼びしても?」
そして男はサングラスを装着し直すなり、白い歯を溢して我が陣営のアイドルに微笑みかける。どんな瞬間からもナンパを繰り出す決定力。本当に止めて欲しい。
お前は光源氏かと突っ込みたくなる。心の傷を女の子で埋めようとしないで欲しい。どうやっても埋まらないから。全く、これだからイケメンは。
「なっ、赤井ぃぃいい! あえかさんに近づくな!」
「挨拶をして何が悪い。そうか、君は坊やだったな」
「ぼ、ぼぼぼぼ、坊やだとぉ!? お前はそうやってイケメン面をかざして、人を見下すことしかしないんだ!」
「エゴイズムというやつだよ、それは」
「それは俺のセリフだぁぁあ!」
マウンド上で憤慨を露にしている甲子園の星に、ニヒルな笑いを張り付けて伝説のクアットロが応じる。今が九回裏の最終局面だということを若干忘れていた。
「ふっ、これが若さか……ん? 君は」
その伝説のクアットロが、何かを見つけたような声を零す。視線の先は……バッターボックス。東君がメットを脱いで軽く頭を下げる。
「赤井先輩、お久しぶりです。いや、今日は懐かしい人たちとよく会う日です」
「おぉ、やはり恭介君か。見違えたな。いや……更に出来るようになった、か」
「そんなことはありません。野球を辞めておきながら、恥ずかしくもここに立っています。前の打席では、安室さんの魔球に抑えられてしまっていますしね」
「当たり前だ。俺の燃え上がった魂を乗せた魔球、易々と打たせはしない!」
中学時代、高いレベルの野球で結びつきがあったと思われる三人が言葉を交わし合う。「私たち完全に蚊帳の外ですね、陣内P」と益子さんが言う通り、僕たちは話の中心から少しずつ外れ、今ではいてもいなくても構わない存在となっていた。
「安室、何故お前ほどの男が分からん。魔球に逃げるのは止めろ!」
「うるさぁぁぁあい! 貴様らの野球とは違う。俺は親父の猛特訓に耐え、野球に全てをぶつけてきた! 魔球を投げて、何が悪い!?」
「それが逃げだと言っているのだ! ならば、この私、自ら粛清してくれる」
話の流れ的に伝説のクアットロが代打で出場しそうな勢いだったが、「お前は部外者だろ、指をくわえて見ていろ!」と甲子園の星が強引に口論を終わらせ、試合が再開された。伝説のクアットロの忠告も余所に、甲子園の星は魔球を放る。
「ストラーイク!」
「くっ、やはり……見えない」
どう頑張っても、次の打者である僕が魔球を打てる訳がなかった。ならば同点へと至る道は東君のホームラン以外残されておらず、皆の注目が必然的に集まる。
「はぁああああ!」
「ストライク、ツー!」
必死に目を凝らしている様子だが、東君は魔球を捉えることが敵わず、審判は現実的な判定だけを繰り返す。ツーストライク。もう……後がない。
「何か、何かある筈だ。集中しろ、俺。情けない男になるな。東、恭介!」
常に余裕を忘れず、ステージ上でさえクールであったあの東君が今、必死に己に呼びかけていた。応援に来ていた女の子たちがその光景を息を潜めて心配そうに眺め、バンドメンバーの一人に到っては「きょ、きょうすけぇ」と落涙している。
『情けない男になるな。東、恭介!』
本当に自分の肺腑から出た言葉でなければ、人を心から動かすことは出来ない。誰かの格言で、昔、選挙に臨む祖父が話してくれた記憶がある。今、東君から出ている言葉は、紛れもなく彼の臓腑から、肺腑から出ていた。
――情けない、男に……。
東君が野球を辞めてロックの道に進んだ理由は分からない。でも彼は僕を助けようと練習試合に参加し、自らを情けない男にしない為に全神経を集中させている。
――どうして、どうしてだろう。
どうして何かに全力になっている人の姿勢は、こうも人の心を動かすのだろう。己を叱咤激励して集中力を高めようとする東君の真剣な姿勢に心は感じ入り、何も出来ない自己の立ち位置を、砂を噛みしめるように悔しくも思う。東……くん。
「聞いてくれるか、恭介くん」
「え……赤井先輩」
と、次の打球に向けて危うい程に己を深く没入させていた東君に、伝説のクアットロが声を掛けた。「邪魔をするな」と言わんばかりに、マウンド場の甲子園の星が鋭い視線を送る。その視線を全く意に介せず、金髪さんは東君に言葉を伝える。
「私は尾を引くような鋭い打球を放つことから、球場の彗星とも呼ばれた男だ。しかし、安室には幾度と負かされた。逆襲を果たせずにいる。それでも奴が高校に入って開発した魔球は、打てたことがある。これがどういうことか、分かるかな?」
「赤井、先輩」
「魔球の正体は私も完全に把握している訳ではない。しかし、しかしだ……球は消える訳じゃない、隠れているんだ。球は安室から放たれ、真っすぐミットに向かう」
目に見えない、魔球。それでも当初思った通り、それは物理法則の檻の中にある。消えている訳ではない。隠れているんだ。そして放たれたボールはストライクになる。投手から放たれ、真っすぐにミットへと向かう。それは……つまり……。
サングラスを外し、後輩を見守るような優しい目で伝説のクアットロが声を発する。
「我武者羅になってみたらどうだ。君は、ロックンローラーになったんだろ?」
パンと風船が割れるように、思い詰めていた東君の表情が変わる。伝説のクアットロの言葉に、東君は何かを見つけたような顔をしていた。
「ご……ご指導、有難う御座います」
「なに、先輩面をして偉そうなことを言っているだけだ。笑ってくれ」
思えば東君は伝説のクアットロのことを「先輩」と呼んでいた。そして二人には深い紐帯があるような気もしている。二人は中学時代、きっと同じ学校で……。
「余計なことをべらべらと、赤井ぃいい!」
伝説のクアットロ曰く、「魔球に逃げている」男が荒々しい憤りをぶつける。
「安室、本当に君は坊やだな」
「なっ!? に、二度と、二度と俺を坊やとよぶなぁっぁぁあ! くそっ! さっさと終わりにしてやる! あえかさんに、俺の頑張りを見てもらうんだ!」
甲子園の星はそう吼え立てるように言うと、伝説のクアットロから東君へと向き直った。音が止む。九回裏のツーストライク。東君がバッドを握り込む。
「我武者羅に、我武者羅に……俺が俺であるために」
その言葉が秋風に乗って耳に届いた。我武者羅になること、我武者羅であること。努力や熱意の分だけ失意するかもしれないこと、報われないこともあること。
「いくぞ、甲子園ボールゼロ号ぉおおおおおおおおおおお!!」
それでも――
『優さん……どうして、頑張ることを止めてしまったのですか?』
それでも――
「俺は、俺を――」
残り続けるものも、
「諦めない!!」
あるということ。
消えかかった火が風を含んで焔を吐くように、僕の中で静かに燃え立つものがあった。隠れた魔球が音を立て、砂埃を尾に変えながら、空へと飛んで行く。
ツーベースヒット。こうやって、九回の裏、九対八、ワンアウトツーベースという劇的な場面の一つ手前で、僕の打席が回って来た。