12.吉村先輩を、忘れない
「「「うぉねがい、しまぁぁぁぁすっ!」」」
天高く、空の底が突き抜けたような快晴の日曜日。我が校の球場では丸刈りが相対した状態で並び、挨拶を交わして合っていた。僕はその集団に紛れ込み、もうどうにでもなれと大声を発する。着なれていないユニフォームの番号は「17」。
一体、僕は何をやっているんだろう。
重い溜息を吐き、赤く腫れた両手を眺める。金曜日にあえかと別れてから急いでグラウンドに戻り、野球部の部長に許婚などの件は伏せ、事態だけを説明した。そこから緊急の会議が開かれ、僕をどうやって使うかを話し合ったのだが……。
『ならば俺のポジションを譲ろう』
そう提案したのは、目が線になっている柔道部員のような体の副部長――糸目先輩だった。僕は彼の代わりにセンターがカバーし易いレフトを守ることになった。
『あの、糸目先輩。すいません! 折角の練習試合なのに、あえかを応援に来させる為とはいえ、ポジションを譲ってもらって、本当に、あの』
皆の前で糸目先輩に頭を下げると、そっと肩に手を置かれる。困惑した思いで目を向けると、先輩はとてもとても優しい目をしていた。線だから分かり難いけど。
『陣内、とかいったな』
『え? あ。はい』
『ミニスカ……チアリーダー』
『へ?』
まるで僕の間の抜けた声が合図になったかのように、啜り泣きの声と共に鼻を啜る音が聞こえ始める。驚いて周囲を見回すと、野球部員が顔を隠して泣いていた。
『ミニスカ、チアリーダーが応援に……』
『ミニスカ、チアリーダーァァア!』
『しかも、あの、あえかさんが』
その輪の中で、ただ部長だけが腕を組んで瞑目していた。二度三度と頷くと目を開き、めそめそと泣く左右の部員の肩を叩いた。僕に向けて歩を進める。
『ミニスカ、チアリーダー』
それから白い歯を溢し、世界は彼の為にある、そんな顔で部長は笑った。とても良い顔で、全てを悟りきった顔で、彼は笑ったんだ。嬉しそうに。
……僕一人だけが、完全にその場のテンションから取り残されていた。
『ミニスカー、ファイ!』
『オー!』
『ファイ!』
『オー!』
『ファイ!』
『オー!』
『ファイ!』
『オー!』
『チアリーダー、ファイ!』
『オー!』
『ファイ!』
『オー!』
『ファイ!』
『オー!』
『ファイ!』
『オー!』
そして翌日土曜の朝から、間違った思春期のテンションで試合に向けた特訓が開始された。部員たちに話しかけても「ミニスカ!」とか「チアリーダー!」とか、「あえかたん!」としか返ってこない。それもやけに満足そうな顔なのだ。
『ちょ、ユウちゃん。どうしたの野球部? というか何でユウちゃんがいるの?』
休憩中、少し離れた場所で練習中のソフトボール部から、初音が偵察に来る。不審気に尋ねられた。納得の不審感だった。野球部は異様な集団になっていた。数学の先生である老監督は一切干渉せず、部長に全てを任せ、数式と格闘していた。
『初音……頼むから今日の僕を見ないでくれ』
『じんなぁぁぁい! 休憩終わりだぞぉ! ミニスカァァァ!』
試合では多分、僕は全くの役立たずに終わる。役立たずならまだいい方だ。穴となって足を引っ張る可能性だってある。その為に土曜日は一日中、僕という穴を徹底的にフォローすべく、専用のフォーメーションを組んで守備の練習をした。
『当たればデカいが今まで当たったことがない』
という糸目先輩の指導のもと、バッティングの練習も行った。グローブで球を受け、バッドを振るう。痛いような痒いような痺れる感触を引きずり、僕はそうやって野球部員に迷惑をかけながらも一日中練習に明け暮れた。そして迎えた当日。
「いけぇ! 陣内、お前の力をみせつけてやれ!」
「がんばってー、陣内くん」
挨拶を終えてベンチに戻ろうとすると、ベンチ傍で東君とバンドメンバーの皆さんが声を掛けてくれた。わざわざ応援に来てくれたんだ。本当、皆いい人たちだ。
そんな彼らの後方には、東君目当てと思われる女の子が数人集まり、東君が振り向いたり何かする度にキャーキャー言ってた。あぁ、あるんだな、こんな光景。
「か……感動だ! 女子が俺たちに声援を。皆、野球やってて良かったな!」
「ぶ、部長。俺、俺ぇぇ!!」
いや、声援というか、東君に向けての声なんだけど。
訂正すると面倒臭そうなので勘違いさせた儘にさせておく。しかし、東君のファンの女の子は集まっているものの、肝心のあえかと益子さんの姿が見当たらない。
「おい、陣内。その……あ、あえかさんの姿が、見当たらないんだが」
考えることは同じなのか、今日出会った時からソワソワしっぱなしの、センターを任されている吉村先輩が尋ねてくる。守備の関係上、彼とは仲が良くなった。
「あ、はい。連絡はあったので、多分今頃、衣装に着替えてるんじゃないかと」
「え……?」
次の瞬間。その吉村先輩が何かに打たれたようになり、そして……。
「あ、あえかさんが……着替え? ブッファァァ!」
鼻から血を噴射し、スローモーションとなった世界でゆっくりと倒れた。凄腕のスナイパーによって突如として命を散らされた。そんな光景だった。
僕は突然のことに、口をあんぐりと開けることしか出来なかった。寡黙でぶっきら棒だが、本当は優しくて動物好きな先輩の、『俺……何だ、この試合が終わったら、あえかさんに告白しようと思うんだ』と言った先輩の、崩れ行く姿を見送る。
静寂が刹那を刻み、現実が足元から膨れ上がる。
「よ、吉村ぁぁ! 吉村が倒れたぞ!?」
「何だと! なにごとだぁ!」
「落ち付け皆! おい、陣内どうした! 何があった?」
「え? あ、ぶ、部長? いや、吉村先輩が、あえかがいないからどうしたんだって聞いてきたので、多分、着替え中じゃないかって答えたら」
「な、何? あえかさんが……脱いで……ゴルサァアアア!」
「部長! 部長が倒れたぞぉぉ!」
「えぇい落ち着け! おい、どうした陣内! 」
「糸目先輩! いや、部長が吉村先輩のことを聞いてきたので、吉村先輩があえかがいないことを疑問に思ってて、それで、着替え中じゃないかって答えたら」
「な、ん、だと? あえかたんの……生着替え……くいなぁぁぁし!?」
「副部長ぉおおおおお!?」
結局、部長と糸目先輩は直ぐに気を取り戻したが、吉村先輩は試合に出ることが出来なくなった。体育館でバトミントン部の顧問をしていた養護教諭に連絡が取られ、保健室に運ばれる。睡眠不足が祟ったらしい。前日、興奮して眠れなかったとか。
「安心しろ、ならば代わりに俺が出よう」
外野の要がいなくなったことで、試合が始まってもいない内から騒然とする我が陣営。すると事態を察したのか、東君が真剣な表情で近づいてきた。
「え……でも東くん、野球を」
「東? まさかお前、東恭介か!?」
困惑する僕を尻目に、鼻にティッシュを突っ込んだ部長が驚きの声を上げる。
「部長、東くんを知ってるんです?」
「知ってるも何も、こいつは野球をやってる奴の間じゃちょっとした有名人だぞ。中学校時代、野球の名門校で頭角を現し、二年にして強化指定選手にも選ばれていた。しかし、突然野球を辞めたと聞いていたが、まさかうちにいたとはな」
目を見張り、そういえば少し前に「バッドでロンドンコーリングしたことがある」と言っていた、丸刈りが似合わなそうな超絶美形に視線を転じる。
「東くん、そんなことが……」
「ふっ、昔の話だ」
そうこうしていると、僕を呼ぶ聞き慣れた声が聞こえてきた。
「陣内P、お待たせしました」
「え? あぁ益子さん……って!?」
ベンチ付近に駆け寄って来る二人に振り向き、僕は言葉を無くす。
「あ……あえか?」
「もぉ優さん、そんなにジロジロ見ないで下さい」
その聡明で静謐な気配を、僕は何と言おう。その恥じらいの甘美な痺れを、僕は何と呼ぼう。赤面した可憐なる顔で、あえかが伺うように僕を見ていた。
オレンジを基調としたチアリーダー姿で。上等な水菓子のような白く張りのある艶やかな太腿を晒し、手に黄色いボンボンを持った、ミニスカチアリーダー姿で。
「え……あ、う……」
何か言おうと必死になるが、声に意味を伴わせることが出来ない。人がある種の完成された音楽の中で音を見失うように、僕は完成された美の中で言葉を無くす。
「陣内P、さては私のチアリーダー姿にメロメロですね?」
そんな艶やかな美を体現した存在の隣には、地上の掟に縛りつけられた益子さんの姿が。何故か彼女もチアリーダーの格好をしていた。あえかの醸し出す神聖なオーラに比べ、こちらは健康的な、高校生らしい可愛らしさに溢れていた。
「おぉ、二人とも似合っているな」
僕の反応に比べ、東君のそれは実に平然としたものだった。ただ部長を含めた野球部員は僕と同じように言葉を無くし、ぶるぶると震えていた。しかし彼らにとって、それはこれからやってくる爆発の予兆に過ぎず、やがて半狂乱となり……。
「う、うおおおぉぉぉおお! 天使はおったんやぁぁ!」
「部長! 俺、もういつ死んでもいいっす!」
「あ、え、か、さぁああああああああああん!!」
そのまま興奮に駆られ「ミーニスカ! チアリーダー!」と、終わるどころか試合が始まってもいないのに部長が胴上げされ始める。
あえかと練習試合の相手は、そんな野球部員をポカーンと眺めていた。
僕は興奮して歓声を上げる野球部員の輪から離れ、そっと空を仰ぐ。恐らく真剣にあえかを想っていたであろう仲間を、あのぶっきら棒な先輩のことを思い。
《いけよ、陣内。お前なら出来るさ》
朝十時の空に涙のような流星が一つ、幻のように現れては消える。青く澄んだ蒼穹の海原で吉村先輩が親指を立て、僕に向かってサインを送った気がした。
――吉村先輩を、忘れない。
僕も大分、オカしくなっていた。