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江戸リーマン  作者: 小菅八三六
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二日目 その2

一行は両国広小路の方向へと歩を進め、鳥越橋を渡ると浅草御門を潜って柳原の土手道を進んだ。

「これ全部古着屋さん?」

「そうだよ、これでも少ない方で、これから衣更えの時季が近づくともっと増えてくるよ」

 柳原土手は筋違御門から浅草御門、現代であれば秋葉原の万世橋から浅草橋までの神田川南岸の一帯をそう呼んだ。両国広小路から続く土手脇の道も正しくは筋違通りであったが、柳原通りの名の方が馴染まれていた。

 お秋は建ち並ぶ古着の露天商の数に驚いたが、よく見てみれば古着の他にも古道具や野菜などを売る店、また商いの人間や買い物にきた者を相手とした茶屋なども並んでいた。いずれの店も安物を商品としていることが共通していた。

「買いたい物があれば買ってもいいけど、高い代価を吹っ掛けられたり、粗悪品を掴まされないように気ぃつけて」

 直太郎は、皆が店をゆっくると見れるように歩調を緩めながら筋違門の方向へと進んだ。

 芳太郎とお初、お秋の三人は露天の商品を物色しているが、物が古着や古道具など手垢が付いたものばかりであるだけに、買いたいというほどのものは見つからないようであった。

 一方の直太郎と祐次郎といえば、最初から気に入ったものなぞ見つからないと思っているらしく、露天の商品には興味なさげな様子で歩いては、ときどき後ろを振り返って三人が付いてくるのを確かめては、また歩き出した。

「おい、直太郎、あれ」

 祐次郎が直太郎の腕の辺りを肘で小突いた。

「なんだよ」

「あの古道具屋に並んでる根付を見てみろい。いくらだろうな」

 直太郎も祐次郎が指し示す二軒ほど先の露天の古道具屋の商品に目を凝らした。

「安ければ掘り出し物だな。しかし、祐次郎よく見つけたな」

「こんなとこに、いいもんがあるわけねえと高を括ってたけどさ、偶然な、目を向けた方向にあったってだけだ」

 祐次郎が種明かしをすると、古道具屋の方に歩いて行った。

「どうです、お安くしておきますぜ」

 古道具を商っていたのは、祐次郎とさほど年恰好の変わらない男であった。それでも商っている道具は粒ぞろいであるところをみると親から引き継いだ商いなのかもしれない。

「手に取ってみてもいいかい」

「ええ、どうぞ」

 祐次郎は、店先に並ぶ品を見渡した。

「赤いのはないな」

「何のことですかい」

「い、いや、独り言だ」

 祐次郎は、あわてて手近にあった品に手を伸ばした。

 祐次郎達が使っているコンタクトには、人物の判定をする機能に加えて物の判定をする機能も含まれている。

手に取ってという言葉がキーワードとなり、目の前の物品の判定をする。歴史上の重要な人物へと渡る物や後世に残る美術品などは現代への持ち込みが禁止されており、そんな物がこのコンタクトを通して見ると赤く光って見えるわけだ。

つまり、赤く光らなかったものは購入しても良いものとなるわけだ。

「あんまりなぁ」

 祐次郎は気に入った物がない様子で商品を見回している。これも彼の手なのであろう。いきなり興味があるような態度では、値を高く吹っ掛けられたりするからだ。

「祐次郎、何を見てるの」

 品物を物色する祐次郎の背中にお秋が声をかけた。

 これを見て気色ばんだのは道具屋であった。女連れの客ならばと、櫛や簪をこれでもかと並べてきた。

 お秋とお初は、色とりどりの簪を見て喜んだが、根付を買い叩くための演技を邪魔された祐次郎はたまったもんではない。お秋を見る恨めしそうな表情に直太郎が苦笑いをした。

「さて、いい目の保養になったし、そろそろ行こうか、お秋ちゃん」

「そうね」

 お初とお秋が店先から立ち去ろうとした。これで慌てたのが道具屋である。

「簪は気に入らなかったんで、それなら笄はどうです。綺麗でしょう。これなら大まけにまけて一分でいいや」

 道具屋の男は、さらに品物を取り上げた。

「簪も櫛も気に入ったわ。でもねこの通りには、十文、二十文の商いで生活をする人たちが買いに来るわけでしょ、それが一分じゃあ贅沢すぎて買えないわ」

「いくらなら買えるんだい」

 道具屋の問いかけに、お秋とお初はしばらく考え込むような仕草をした。

「簪一本が一朱といったところかしら」

「へ」

「はぁ」

 道具屋と祐次郎が同時に声をあげた。

「一朱は安すぎだぜ。それじゃあ、こっちは大損だ」

「でも売れなければ、もっと大損でしょ。じゃあ、こうしましょう。あたしたち二人が一本ずつ簪を買うわ。それとこっちで買う気なさそうなお兄さんたちにも何か買わせるから、

五人で一分でどうよ」

「そんな…」

 道具屋が考え込んだ。

「お兄さん方が何を選ぶか分からないんじゃ、応じようもないだろうが」

 これは半分応じたようなものだった。

「じゃあ、直太郎、祐次郎、芳太郎選んでよ」

 お初の指図で男三人がそれぞれ自分の気に入った根付を選んだ。

「それじゃあ、あたしはこれ」

「あたしは、これにしよう」

 お初とお秋もそれぞれ簪を選ぶと、道具屋の目の前に並べた。

「じゃあ、祐次郎、一分を出してよ」

「あ、あぁ」

 祐次郎は、お秋に圧倒されるように、言われるままに財布から一分金を取り出した。

「ちょ、ちょっと待ってくれ。こっちはまだ応じるとも言ってないぞ」

 道具屋が慌ててお秋たちのやり取りに割って入った。

「じゃあ、売らないの、それなら、こっちも諦めるわ」

 お秋が祐次郎の出した一分金を祐次郎の手へと戻した。

「あぁもう、負けたよ姐さん。わかった、その五品を一分で持っていきやがれ」

「ありがとう、お兄さん」

 一行は道具屋の前から立ち去った。

 しばらく歩き、道具屋から十分に離れたところで祐次郎が笑いだした。そしてつられるように全員が笑ったので、往来の人々は何事かと、この一行を垣間見た。

「いやぁ、お初姐さん、お見それいたしやした」

 祐次郎が大袈裟な動作で、お初に頭を下げた。

「やめてよ、往来で恥ずかしいよ」

 お初が手を振った。

「しかし、お初ちゃんもお秋ちゃんも、あんなやりとりどこで覚えたんだい」

 直太郎は、まだ笑い足りないのか半分笑いながら喋っている。

「よく深川っ子の女の人が、伝法な口調でやり取りしてるのがあるじゃない、一度真似してみたくてさ、お秋ちゃんと練習してたのよ。まぁ、伝法な口調こそいざとなると恥ずかしくてできなかったけど、江戸っ子相手に楽しめたわ」

「十分立派だったぜ。俺もまさか五分の一まで値切るとは思ってもいなかったぞ」

「あ、建替えてもらった代は後で返すね」

「それなら、いらねえよ。その簪は俺が買ってやる」

「そんなの悪いわ」

「なことねえよ。こっちはこの根付を二朱に値切れればって目論見だったんだがよ、それがこんな値段で買えたんだ。二朱で買ったと思えば大差ないぜ」

「それなら甘えさせてもらうわ」

「これからも買い物のときは頼むわ、お初姐さん、お秋姐さん」

「だから、それはやめてよ」

 五人はさらに土手道を進み、和泉橋を通り過ぎたところの稲荷社で足を止めた。

「ここで弁当にしよう」

 直太郎は神田川の流れを見渡す土手の上に建つ稲荷社の横手の軒下に腰を落ち着けると、持ってきた風呂敷包みを開いた。中からは段になった重箱が出てきた。

 重箱の蓋をあけると竹皮包みの稲荷寿司と卵焼き、里芋を煮た物、それに漬物が入っていた。

「稲荷寿司だけじゃなかったのか」

 重箱を覗き込んだ芳太郎が重箱の中身が稲荷ずしだけではないことに驚いた。

「番頭さんが稲荷ずしだけじゃ物足りないだろうって」

「うれしいね、それじゃあ、こいつも開けようか」

 祐次郎が宿の前で受け取った竹筒を持ち上げた。

「なにそれ」

 お秋が祐次郎の持つ竹筒を指さした。

「酒だよ」

「昼間っから飲むの」

「神田川の流れを見ながらってのがいいじゃねえか、それともお秋ちゃんは遠慮しとくかい」

「いただくわ」

 お秋も慣れたもので、同じく風呂敷包みから出てきた茶碗を手際よく並べると、そこへ祐次郎が酒を注ぐのを待って、全員に茶碗を配った。

「先にやってて、俺は、軒先を借りるお願いをしてくるよ」

 直太郎は稲荷ずしを包んでいた竹皮に、稲荷ずしを二個のせると、社の表へと回り、稲荷ずしを供えて手を合わせた。

 戻ってきた直太郎に祐次郎が

「ここって出世の神社だっけ」

「狸が引っ越してくるのはもっと後だよ」

「お稲荷さんなのに狸なの?」

 直太郎の答えにお秋が不思議そうな顔をした。

 直太郎たちが昼食に軒下を借りた柳森稲荷は、室町時代にあたる長禄二年、江戸城の鬼門除けとして、太田道灌が多くの柳をこの地に植え、京都の伏見稲荷を勧請したことに由来する。

 直太郎たちが軒下を借りたこの時代から遡ること十二年前の万治二年、神田川堀割の際に元々対岸に建っていたものをこの場所に移築し、さらに鎮守の森の柳も土手に並木として移植され江戸の名所となった。

 現代に残る柳森神社の境内には、五代将軍綱吉の生母桂昌院が江戸城内に創建したといわれる狸を祀った福寿社があり、「狸」を「他抜き」の語呂にかけて、他に抜きんでるという意味から勝負事や立身出世、金運向上にご利益があるとして人気があった。

 狐にしてみれば、狸に境内の一部と人気を持っていかれたわけだが、世は四代家綱の治世で、後の五代将軍松平綱吉は上野国舘林城主として江戸にいないこの頃は、お狐様ものんびりと過ごしていたのであろう。

 弁当を食べ終え、空になった重箱は大きさが違うので、小さい方の重箱を大きい方に収めてしまうと荷物が小さくなった。残った酒も、祐次郎が喜んで処分してくれたおかげで、空になった竹筒も一つの荷にまとめた。

 五人そろって稲荷社に軒下を借りたお参りを済ますと、土手道から南へと町屋の路地に入り、お玉ヶ池の脇を通り、藍染橋を越えた。

「あの先の厳つい門番がいるのは何?」

 橋を越えたところでお秋が囁いた。

「あれが小伝馬町の牢屋敷ってやつ」

 そう囁き返した直太郎はしばらく進むと、囚獄を避けるように牢屋敷の北西の角で本銀町の方へと辻を曲がった。

 本銀町三丁目の角で再び通りを曲がると、急に増えた人通りにお秋が一瞬立ち止まった。棒手振りになどにぶつからないように気をつけて進むと、見慣れた橋、いや正確には浮世絵で見慣れた日本橋の袂に着いた。

「あぁ」

 お秋は驚きとも感動とも見える表情で橋を見つめていた。

 日本橋はツアー旅行の観光コースに入っているから、芳太郎とお初は来たことがあるはずだが、お秋と肩を並べて橋を行き交う人の流れを眺めていた。

 直太郎と祐次郎にとっては何の変哲もない見慣れた橋だが、自分達も最初に来たときは同じような反応であったわけで、それだけに他の三人の様子も理解できたから、しばらくそのままにしておいた。

「さぁ、そろそろ橋の向こう側に渡ろう」

 頃合いを見て直太郎が三人に声をかけた。

「浮世絵と同じ光景ね」

 お秋はそう言ったが、葛飾北斎や歌川広重などが日本橋を浮世絵で描くのはこれから百年ほど後のことである。

 日本橋を渡ると右手に高札場がある。歌川広重が東海道五十三次之内日本橋で描いたのはこちら側からの風景になる。

 高札場には新しい触書でも出されたのか、庶民が足を止めて呟きながら高札を読んでいた。

「みんな何をぶつぶつと言っているの?」

 高札場前の人垣の後を通り抜けながらお秋は人々が呟くことに聞き耳をたてたが、みんなが呟いているので、よく聞き取れなかった。

「触書を読んでるんだよ。江戸の庶民は黙読が苦手でな、ああやって声に出さないと頭に入ってこねぇんだよ」

「じゃあ落語の手紙を読む場面なんかで、声に出して読んでるのは説明台詞ってわけじゃなくて」

「そう、落語だから話さなければ始まらないから台詞なんだけど、庶民の読み方って意味では声を出して読む姿は不自然じゃないんだ。ただ、声に出さないと読めないからって、頭が悪かったわけじゃない。むしろ同じ時代の異国の都市住民に比べれば識字率は高かったんだぜ。平仮名に限って言えばほぼ全員が読めたんだ」

 江戸の庶民の識字率は確かに高かった。祐次郎の言う通り平仮名に至っては百パーセントかというと疑問が残るが、江戸時代に日本を訪れた外国人の残した記録からも伺い知ることができる。

もっとも、字の読める人間が高札の前には多く足を止めるであろうし、外国人に接するのも高学歴の人間であろうから、字の読める人間が多かったよう見えたであろう分を差し引いても同時代のパリやロンドンに比べれば非常に高かったようである。

高札場を過ぎた一行は、そのまま日本橋通南一丁目の通りを進んだ。ここは言わずと知れた、江戸の商業の中心地であり、名だたる大店が軒を連ねている。

通一丁目には荒物問屋の近江屋甚五郎、その隣には呉服商の白木屋彦太郎。

通二丁目には白粉の柳屋五郎三郎、柳屋ポマードで一世を風靡した化粧品の柳屋は、すでにこの時代に創業していたのである。

「越後屋が無いわ」

 お初が内定を取り付けた三越の前身となる呉服商の越後屋が見つからないと言い出した。

「越後屋は通町じゃなくて、日本橋の向こう側、本町だよ」

「でも通ってきたけど見なかったわ。あんな大店見落とすはずないじゃない」

「だって創業は寛文十三年、あと二年後だもの、しかも最初はこの通りから外れた場所で、間口九尺の小さな借り店だよ。お初ちゃんが見てきた駿河町の大店になるのは、それから、さらに十年後だよ」

 越後屋は、武士を捨てた三井高安の孫にあたる三井高利が創業した。三井家は六角家の旧臣と言われている。

高利は伊勢国松坂でその三井家の四男として生まれた。江戸で創業していた長兄の許に丁稚奉公し番頭となるも、その商才を恐れた兄達に放逐されてしまう。今は故郷松坂で江戸での創業を目指して金融業を営んでいた。

 一行は直太郎の案内で日本橋通町を進むと、荒物問屋の看板を掲げる一軒の店先に辿りついた。どうやら日本橋で商社が営むという店はここのようであった。

「三越を見たかったな」

 店に入る前に、お秋が残念そうに今来た道を振り返った。

「そこの白木屋さんじゃ駄目でございますか」

 そう声がかけられた方を見ると、目が緑色に光る手代風の男が立っていた。

「おいでなされませ、さ、まずは中にどうぞ」

 お秋は急に声をかけられたときは、一瞬驚いたが相手は同じ時代から来た商社の人間なのであろう、商社の社員は航時局の職員ではないから、目は青ではなく緑に分類されるというのを思い出した。

 直太郎たちは、一足先に店内へと入っており、上がり框に腰を落ち着けようとしているところであった。

 お秋もその手代に案内されるように店の奥へと進んだ。

「白木屋さんって、居酒屋さん?」

 お秋のこの答えを聞いた手代は上がり框から板の間に上がろうとしたところで転けた。

「白木屋は、後の東急百貨店だよ」

祐次郎がそう言いながら手代を支え起こした。

「手代さん、すまねえな、変な答えで驚かしちまっただろう」

「いえいえ、確かに白木屋って言えば、居酒屋を思い浮かべてしまいますよね」

 手代は着物の裾を直しながら板の間に座りなおした。

「手前は荒物問屋丸時屋の手代、信吉でございます」

 手代は板の間に手をついて、丁寧に挨拶をした。

 荒物とは、生活雑貨のことである。店内を改めて見てみると鍋釜、笊、箒などに加えて瀬戸物、蠟燭、木綿、真綿など、この時代の別の問屋で扱われるようなものまで商っているようであった。

「でも日本橋には三越と高島屋だけで東急は無いよね」

 お秋は、白木屋の話がまだ腑に落ちない様子である。

「それは、盛者必衰と言いますか、みなさまのお歳であれば、記憶に無いのでございましょう」

 手代の答えは、なんとも歯切れが悪い。

「てっとり早い話、東急百貨店日本橋店は、売れ行き不振のために閉店したんだよ。俺らが子供のときに」

白木屋は、寛文二年に近江長浜の材木商大村彦太郎が日本橋通三丁目に間口一間半の小間物店として創業した。その後、寛文五年に今の場所へと移ってきたのだが、次第に呉服へと商いを広げ、越後屋、大丸と並ぶ江戸三大呉服店へと発展していった。

しかし、平成十一年日本橋店は閉店し、白木屋以来三百三十六年の永い歴史に幕を閉じることになる。

手代の信吉は、同じ商人であるし、向いの店をあれこれ言うのは憚れるのか、はっきりとは言わなかったが、代わりに祐次郎が小声で説明してくれたので、お秋もようやく納得がいったようである。

直太郎たちは改めて丸時屋の店内を見回した。並べられた品々は、荒物問屋というだけに生活に欠かせないものばかりであるが、部屋の飾りとして置いておいても十分な見栄えのものばかりであった。

「江戸の土産として重宝いたしますのは、手拭や浮世絵、櫛といった嵩張らないものでございますね。他にも意外と人気があるのは、香、扇子、筆といったところでございます。珍しいものは甲冑などの武具もございますが、刀剣類はお帰りになってからの所有の許しがある方のみへ売らせていただいております」

 信吉とは別の手代が、小間物を色々と取り揃えて運んできてくれた。

「そして、何といっても一番人気は根付でございますね。お買い上げになった皆さまは、帰ってから、これに付けておりますね」

 信吉は手で携帯電話を耳に当てる仕草をしてみせた。

 根付は携帯のストラップとして人気が高かった。いや、むしろ携帯のストラップの方が現代の根付文化と言えるのであろう。もともと日本人には自分の持ち物に気に入った根付を着ける素養があったからこそ、携帯ストラップが普及したとも考えられる。

 信吉ともう一人別の手代、洋助と名乗っていたが、二人で直太郎たちの相手をしてくれた。それぞれの好みや求めたい品を聞くと、それに見合った物を次々と用意してくれた。

 家族や友達への土産として手拭や扇子、根付をそれぞれが買い込んだ。

「では、お買い上げいただいた品は回向院前の扇屋さんに届けておきますので、帰りに受け取ってください」

 信吉が商品を一まとめにしながら、そう告げた。これなら、このあと荷物を持って江戸見物をしなくて済むから便利だ。

 代金を支払い終えると、店の奥から女中がお茶を運んできてくれた。信吉が話し相手になってくれて、それからしばらく店の商いを眺めながら茶を喫した。

 店の人間は信吉をはじめ、先ほどお茶を運んできてくれた女中も目が緑色に光っていたので、商社の社員だけで店を切り盛りしているようである。

 その一方で客はというと、江戸の人間が全てで直太郎たちのような旅行者は見当たらなかった。江戸への旅行者は多かったが、やはり人気があるのは元禄期以降であったし、同時代への旅行であっても、行先が一年違えば、旅の途中で出会うはずがないのが時間旅行だ。

 茶を飲み終えてから、店先まで信吉に見送られた。

 向いの白木屋のハンガーのような形の店の印が染め抜かれた暖簾が微かな風に揺れていた。日の傾きからみると時刻は夕七ツといったところであろうか。

「それじゃあ、往来を見物しながら木挽町の芝居茶屋に向かおうか」

 直太郎たち日本橋から南へと一直線に続く道を進んだ。往来は夕餉の支度のために買い物に出たお内儀さんたちや、得意先への商いからの帰りの商人たち、そして屋敷へと帰る武士たちでかなりの混雑であった。

 道は通町、中橋広小路町、南伝馬町と過ぎ、京橋を渡った。橋を渡ってすぐに左に曲がり三十間掘町に出ると、この場所まで堀の向こうの木挽町の賑わいが伝わってきた。

「相変わらず、すげえ人だな」

 木挽町は、江戸城造営の際の木を挽く鋸匠が多く住んでいたところに由来する町名だか、もはやそんな職人は住んでおらず、今は木挽町に行くと言えば、芝居見物に行くという意味で通じるほどの芝居の町になっていた。

 正保元年にこの木挽町に初めて出来た芝居小屋の山村座は、正徳四年の江島生島事件で取り潰されてしまうが、この寛文十一年はまだまだ隆盛を極めている。慶安元年に建つが、後に廃座になる河原崎座も健在であるし、後の江戸三座の一つ、森田座も万治三年にはすでに建っているので芝居見物の客で賑わっていた。

 直太郎たちは紀伊國橋を渡ると木挽町一丁目へと出た。ちょうど伊達若狭守の上屋敷の裏手になる。そこから三十間掘に沿ってしばらく進むと五丁目に森田座、六丁目に山村座がある。

 番頭の巳之助に紹介されたのは、この山村座附茶屋であった。

「ちょいと敷居が高くねえか」

 店の造りを見て芳太郎が尻込みした。

「確かに、でも巳之助さんが押えてくれたんだから大丈夫だろう」

 直太郎が先頭を切って店に入った。

「いらっしゃいませ、倉前屋さんのお客さんで」

 直太郎たちを番頭が出迎えた。

「そうだけど、なんで判ったんだい」

「芝居がはねる前にお越しになるお客さんは、倉前屋さんの紹介のお客さんだけですからね」

 番頭に案内されて、店へと上がった。

 芝居は日の出から日の入りまで演じられている。途中、昼食を茶屋で摂ると、再び午後の観劇となる。

 そして日没となり芝居が終わると茶屋の座敷へと上がるのである。

 もちろん、庶民がそんな贅沢ができるわけではない。茶屋には、大茶屋、小茶屋、水茶屋の格式があり、それぞれの懐に見合った店へと流れた。

 この茶屋の中でも、最も格式が高かったのが附茶屋で文字通り芝居小屋と繋がっていた。附茶屋は、飲食を供するだけでなく芝居小屋の興行にも関わる力を持っていた。

 裕福な客は芝居が終わった後にこの附茶屋の座敷へと上がる。芝居を終えた役者は、身形を整えると贔屓にしてくれているお客の座敷へと挨拶にでたり酒の相手をする。

 だから、芝居が終わる前に茶屋にあがる客は珍しかった。

「払いは大丈夫か」

 案内される廊下を進みながら祐次郎が直太郎に小声で囁いた。直太郎も祐次郎も附茶屋にはあがったことがない。宿の番頭の巳之助の手配であるから間違いはないと思うが心配であった。

 案内された先は、

「倉前屋の番頭さんからは、掛かりを控え目でとのことでしたので、少々殺風景ではございますが、こちらの座敷でどうぞ」

 と部屋は大店の主に同行してきた使用人たちが、主の用が済むまでの間控えている部屋だと説明された。

 控えの間といっても、天下の山村座の附茶屋である。さほど広くない座敷で部屋の装飾も一見控えめであったが、小さな床の間に飾られた掛け軸など、素人目にも良い品であることが分かった。

「十分なお座敷ですよ。我らには勿体ないくらいです」

 直太郎が応じると、茶屋の番頭は、ごゆっくりと言って座敷を出て行った。

 それからしばらく間をおいて、茶屋の女中が膳を運んできた。酒を三合ほど頼み、料理を口に運んだ。

 料理は二の膳まであり、どれも美味しかった。特に鮑の蒸し味噌和えは絶品で、祐次郎は酒が進むと言って、酒をさらに追加した。

「ちょっと席を外すわ」

 日も沈み芝居が終わったのか、店が客で賑わい始めた頃にお秋が厠に行くので立ち上がった。

「ついでに店の人に会ったらよ、この魚は何なのか聞いてきてくれ」

 祐次郎が串焼きになった魚を箸で指した。

「わかった、聞いてくるね」

 魚は三枚におろされ、醤油たれで焼かれていた。山椒がまぶしてあり、一見、鰻の蒲焼きにも似ていたが、食べてみると別のものであった。

 美味しいのだが、直太郎たちには何の魚か見当がつかなかった。

 お秋が席を立ち、しばらく経った。

「お秋ちゃん遅せえな」

 ほろ酔い加減の芳太郎がそう言ったとき、廊下をばたばたと小走りに走る音がして、部屋の障子戸が開くと

「あぁ、驚いた」

 とお秋が帰ってきた。

「なんでぇ、どたどたと廊下を走って」

 祐次郎は、かなり酔っぱらったようだ。

「部屋間違っちゃってさぁ」

 お秋は自分の席に着くと、茶を一口啜って落ち着くように深呼吸した。

「馬鹿だなぁ、で、何か騒ぎにでもなったのかい」

 お秋が落ち着いたのを見て、直太郎が聞いた。

「それがね、用を済ませた帰りに、顔立ちの整った少年がいてね、多分、役者の卵かな、師匠みたいな人とお座敷を回っててさ、それで、もう少し近くに寄ってみたら目が赤くてね、接触禁止の相手だからしばらく眺めてるうちに帰り道が分からなくてさ、似たような部屋を開けたら三人の武士がこっちを睨んでさぁ、その目も赤かったから、すぐに謝って帰ってきたの、で、途中で女中さんに会ってこの部屋を教えてもらって」

「要は、美少年に見惚れてて帰り道が分からなくなったってことだろ、それよか、この魚なんだった、途中で店の人間に会ったんだろ」

お秋の話を遮るように祐次郎が聞いたが、お秋の答えは

「聞くの忘れた」

 であった。よほど赤い眼の武士に睨まれたので気が動転したのであろう。

「でもこんな所って言っちゃあ失礼だけど、こんな所に役者なら分かるけど歴史に関わるような武士がいるというのは不思議だね」

 直太郎が疑問を口にしたが、

「そんなことより飲もうぜ」

 と祐次郎に一蹴された。

 食事を終えると、番頭が再び出向いてきてくれた。

払いは一両二分であった。巳之助の紹介のおかげで、だいぶ値引いてくれたようだ。

 ちなみに膳についていた魚は鯰とのことだった。

払いを終え玄関に向かう途中の廊下で、向こうからくる少年とすれ違った。

お秋が目配せしたところをみると、この少年がさっきの話の少年なのであろう。確かに美しい顔をしている。これなら役者として人気が出そうだ。

「さっきすれ違ったのは誰です」

 玄関で提灯に火を貰いながら直太郎が番頭に聞いた。

「あぁ、あれは中村座の役者で市川海老蔵さんですよ」

「中村座の役者が山村座の附茶屋に来るのかい」

「えぇ、海老蔵さんの父の堀越重蔵さまは山村座座元山村浄閑さまのお知り合いでして、その浄閑さまの紹介で中村座に入りましたので、こちらへも時々顔を出されます」

「へえ、そうなのかい」

 市川海老蔵、後の初代団十郎は、この翌年、寛文十二年、中村座で四天王稚立で十四歳の前髪立ちで坂田金時を演じて大当りを取った。そして、これが荒事の始まりになったと言われている。

「それでは、今度はお芝居も見に来て下さいまし」

 番頭に見送られて直太郎達は茶屋を後にした。

 帰り道は、来た道をまったく逆に帰った。祐次郎は、少々酔いが過ぎていたので、提灯は直太郎と芳太郎が持った。

「見たかよ、さっきの美少年は初代団十郎だぜ」

 祐次郎の陽気な声が通りに響いた。日は暮れたが、往来には仕事の遅くなった職人など、まだまだ人通りがある。

 無事宿に帰り着いた直太郎たちを見届けるように路地の暗闇に姿を消した者がいた。どうやら直太郎たちをずっと付けてきたようである。

 宿に帰ってきた直太郎たちは、番頭の巳之助に今日の出来事を報告し、茶屋の手配の礼を述べると、風呂の終い湯に急いだ。

 今日はだいぶ歩き回ったので、風呂から上がって布団に入ると皆すぐに寝息をたてた。

 江戸旅行三日目も何事もなく暮れていった。と思っているのは直太郎たちだけであった。

 


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