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江戸リーマン  作者: 小菅八三六
4/5

二日目 その1

すみません。間があいてしまいました。

やはり、時代的(特に建造物や人物、店)にほんの数年の差でも存在してなかったりするので考証に時間がかかりますね。

 直太郎たちの江戸旅行二日目は、離れの雨戸が開けられる音で始まった。

「おはようさん、身支度が済んだら朝飯だ」

 お初とお秋の寝る六畳間との境の襖越しに祐次郎が女衆に声を掛けた。

「おはよう、布団はどうすればいいの」

「そのままでいい、宿の者がやってくれるよ」

 眠そうな襖越しのお秋の声に答えると、祐次郎は手拭いを首にかけて顔を洗いに部屋を出ていった。入れ替わりに女中が部屋に入ってきて、布団を畳み始めた。

 芳太郎はまだ眠いらしく布団にしがみついていたが、女中にお天道様が頭の上に来ちまいますよなどとせっつかれて、渋々といった様子で起きてきた。

 隣の六畳間からも別の女中が入って夜具を畳んでいる音が聞こえてきた。

 全員が顔を洗い部屋に戻ってくると、女中たちの手で朝餉の膳が整えられていた。

 この日の朝飯は、麦飯、根深汁、鰺の干物、卵焼き、香の物であった。

「朝から随分の飯の量だな」

 芳太郎はまだ眠そうだ。

「しっかり食って力つけなきゃなんねぇからな」

 祐次郎が両手を合わせてから膳に手をつけた。

芳太郎も食の進みは悪いものの、料理に箸をつけ始めた。

「直太郎、祐次郎、相談なんだけど」

 朝食を食べ終わり、食後のお茶を飲みながらお初が切り出した。

「なんだい、急に改まって」

「宿の料理ばかりでなくて、夕食を一日くらい外で食べられないかしら」

「なんだ、そんなことか。じゃあ、今日出かける前に番頭さんにお願いしてみよう。どこか芝居茶屋なんかが予約できないか番頭さんに頼むのが一番だ」

 直太郎は請け負うと、続けて今日の予定を話し始めた。

「今日は浅草見物に行こう。昼飯は腹が空いたら、そんとき考えるとして、今は決まっちゃいない。まぁ、昨日と同じように店先で気に入ったもので小腹を満たしながら歩くってのも悪くないだろ」

 準備ができ次第、宿を出発しようということになった。

 全員の用意が整うまで四半刻とかからなかった。

時刻は朝の五ツというところか、職人などはすでに働きに出た後である。それでも通りには、魚や野菜などを売る棒手振りが得意先へと商いに向かう者達が行き交い、直太郎が番頭の巳之助と帳場で話している間、残りの者は往来を眺めながら待った。

「番頭さんがどこかいい所を探して座敷を取っておくように手配してくれるとさ」

 直太郎が宿からでてくると五人は揃って道を北へと向かった。

 宿を出た一行は、昨日上野へと向かったのと同じ道を歩いていた。途中、駒形堂のところで昨日は左に折れたが、今日はそのまま真っ直ぐ進んだ。

 やがて道は十手持ちの作蔵親分が居を構える並木町を過ぎると、目の前に雷門が見えてきた。

「浅草だぁ、雷門だ」

 何がおかしいのか、お秋が雷門を指さして笑った。

 浅草寺の前の広小路には茶屋、見世物、土産になるような小間物や菓子を売る店、道具や野菜を売る店が所狭しと並んでいた。

「今日はお祭りじゃないよね」

 浅草の賑わいにお秋は驚きの声を上げた。

「迷子になるんじゃねえぞ、もし迷子になったら、この雷門に集まるんだ。一人でほっつき歩いて仲間を探したり、宿に帰ぇったりするんじゃねぇぞ」

 人混みの中で祐次郎がお秋の方に向かって言った。お秋は頷くと、お初の着物の袖を握った。迷子にならないようにとの用心であろう。

「ねえ、お初ちゃん、あれ何、おもしろい」

 お秋が一軒の店先を指さした。

「お餅だよね、杵と臼が置いてあるもの」

 お秋が指さした先では男が臼の中の搗きあがった餅を一握りすると、指の間から均等な大きさの団子を絞り出すようにして作り、それを二、三間先のきな粉の入った笊に放り投げた。

 団子は笊の中に入るときな粉塗れになり、ある程度溜まると頃合いを見て店の女が笊を新たな物に取り換え、きな粉塗れになった団子を客に売っていた。

 指の間から団子を絞り出すのも、笊へと放り投げるのも寸分違わぬ見事な技で、熟練の技というよりも手妻を見せられているようであった。

 お秋が興味深く見ているものだから、直太郎が五文取り出すと餅を五つ買った。

 餅は粟餅であった。一人一個ずつ餅を摘まみあげると、そのまま店先で口へと運んだ。

「あんまり……美味しくはないね。甘くもないし」

 店から十分離れたところでお秋が呟いた。

「そりゃそうだ、砂糖は貴重品だからな。これでも庶民には十分な味なんだぜ」

 祐次郎が笑った。やはり現代人の味覚には合わない物も多いことをお秋は改めて実感した。

「どれ、口直しに…」

 直太郎が浅草寺の境内で辺りを見渡した。

「おぉ、あれかぁ、さてどこにいるかな」

 祐次郎には直太郎が探している物が分かったようである。一緒になって辺りを見渡し始めた。

「え、何よ、教えてよ」

「楽しみに待ってろって」

 お初がせがむのをなだめながら二人はなおも辺りを捜した。

「直太郎、いたぞ」

 祐次郎が伝法院の前で何やら売っている屋台を見つけた。屋台と言っても、前後の荷を天秤棒で担いだような歩き売りができるものである。

 直太郎と祐次郎がその屋台の方に歩いて行くので、残る三人もその後について行った。

「あの人の目…」

 お初がその物売りの目が黄色く光る、つまり接触注意の表示を見て驚きの声を上げたが、芳太郎が唇に指を当てたのをみて、言葉を飲み込んだ。

 三人は物売りに近づかずに、直太郎と祐次郎が包みを受け取り、代を払うのを遠巻きに見ていた。

 二人が戻ってくると、

「今の人は注意しなきゃいけない人でしょ、誰なの」

 お初が小声で聞いた。

「安兵衛さんだよ」

「誰それ」

「まあ、安兵衛さんでは分からないよな。まずはこれを食べてみな」

 祐次郎が包みを開いた。当の安兵衛さんは屋台を担いで別の場所に売りに行ってしまった。

 包みの中は何の変哲もないあんころ餅である。それぞれが手で掴むと、餡を落とさないように気をつけながら食べた。

「美味しい」

 お秋の顔が綻んだ。餅を水飴で甘みをつけた餡でくるんであるものだが、ほのかな甘みがさっぱりとしていて美味い。

「ところで安兵衛さんって誰よ。庶民で歴史に係わる人ってどんな人よ」

 お初があんころ餅を食べても納得いかない顔で聞いてきた。

「あの人、後の桔梗屋安兵衛さん。今でも仲見世で売っている浅草餅を作った人。今はああやって屋台を担いで商いをしているけど、あと四年もすると、この門前に店を持てるようになるんだ」

「なぁんだ、どんな事件を起こす人かと思ったら」

「そんなことないだろ、今食べた餅だって、この後三百も続く名物になるんだぜ。俺達は流行り物の先取りをしてるわけだからさ」

 歴史上の人物は、庶民レベルまで広い範囲をカバーしているようである。お初は歴史の教科書に出てくるような人を想像していたのか、拍子抜けしたようだった。

 直太郎達はそれからいくつかの見世物小屋や屋台を覘いた後に、屋台の蕎麦屋で昼食を摂った。

寛文の頃には、まだ蕎麦は屋台の食べ物で時代小説に登場するような店を構えた蕎麦屋は存在しない。慳貪蕎麦切りなどと看板を掲げた屋台があるだけであった。

女が屋台で蕎麦を啜る姿はあまり見かけないもので、お初とお秋が蕎麦を食べる姿を往来の人々は遠慮することなく物珍しそうな眼差しを向けて通り過ぎて行った。

 しかし、お初とお秋は、旅の恥はかき捨てとばかりに、そんな視線を気にする素振りも見せずに蕎麦を食べきった。

 腹を満たした一行は浅草寺の境内を抜けると畑の中の一本道をのんびりと歩いた。ときおり一行を駕籠が追い越して行く。

「畑の中の道にしては往来が多いな」

 と芳太郎が疑問を口にしたとき、その答えが畑の向こうに見えてきた。

 御免色里の新吉原である。駕籠は昼見世に向かう客を運ぶものだったのだ。女連れで里の中に入れるわけではないが、旅行前にお秋が吉原を見てみたいと言っていたことを思い出した直太郎と祐次郎が、せめて入口だけでもと、ここまで連れてきたのだった。

 道は浅草田町二丁目、網笠茶屋と呼ばれる一角を抜けて山谷掘の脇の土手道へと出た。ここは日本堤と呼ばれているところである。ここまで来ると吉原は目と鼻の先となる。

 里からは風に乗って清掻きと呼ばれる三味線の音が微かに聞こえた。

 直太郎と祐次郎は一行を案内するのをこの辺りまでにした。遊里の入口は役人と吉原会所が目を光らせている。女連れで諍いに巻き込まれたくもない。見返り柳と大門を遠くから眺めると大門を背にして堀の方へと向かった。

「さて、帰りは楽旅と行くか」

 祐次郎が堀に停まる二層の猪牙船の許へと土手を下って行った。そして船頭たちと話をしている様子が見て取れた。なにか交渉をしているようである。

 やがて、交渉が成立したのか直太郎たちの方を向いて手招きした。

「行こうか、やっぱり祐次郎は折衝が上手いや」

 この船頭たちは吉原まで客を運んで来て、そして客が帰るのを待っていたのである。祐次郎は、客が出てくるまではまだ時間がかかろうと言い、ここで近場だが一稼ぎしないかと持ち掛けたのだ。

 船頭たちにしてみても、ここで遊んでいる客を空舟で待つよりは、稼ぎになった方が良いはずである。客がいつ戻るか分からないと渋る船頭を、祐次郎は昼見世の時間はまだあるとか、行先は御蔵の渡し場ですぐ近くだなどと言って納得させた。

 年季の入った船頭の舟に祐次郎、芳太郎、お初が乗り、若い船頭の舟に直太郎とお秋が乗った。

 お秋は怖いと言って、悲鳴を上げながら乗り込み、その様子を見た船頭たちに笑われたが、当人はそれどころではなく舟縁にしがみついた。

 舟は山谷掘を船頭たちの竿捌きで揺れることも無く進んでいくと、大川に出る頃にはお秋も慣れたようで、水面に手をつけて戯れる余裕も見せた。

 大川に出ると風が出てきたが、竿から艪に持ち換えた船頭たちは、相変わらず巧みに舟を扱い東橋と呼ばれている大川橋の下を潜ると、駒形堂を舟から拝みつつ一気に御蔵の渡しまで漕ぎ寄せた。

 祐次郎が船頭に酒手を払うと、猪牙舟は舳先を川上へと向けて帰って行った。

「あぁ楽しかった」

「はあ、お前、大騒ぎしてたじゃねえか」

「だって、最初は水面が近くて、沈みそうで怖かったんだもの」

 猪牙舟は喫水が舟縁近くまで来るので、初めて乗る者は怖がる者も多いと聞く。お秋も最初そう感じたようであるが、乗っているうちに慣れると快適であったようだ。

 御蔵の渡し場は倉前屋の目の前である。直太郎達は連れ立って通りを横切ると宿へと帰りついた。

「お帰りなさいまし、あれま、すぐに風呂に入った方がようございますね」

 出迎えに出てきた番頭の巳之助が直太郎達の姿を見ると、風呂の支度ができているかと奉公人に確認をした。

 江戸はとにかく埃っぽい。今日のように少し風が吹くと舗装されていない乾燥した地面から砂埃が舞い上がり、肌や鬢にまとわりつく。だから江戸っ子は風呂によく入るし、風呂に入りすぎて脂っ気のなくなった乾燥肌を垢抜けたなどと言って粋がった。

 直太郎達は離れに戻ると風呂の支度をしてすぐに母屋へと戻ってきた。

「直太郎さん、明日、日本橋木挽町の芝居茶屋の座敷を押えましたよ」

 巳之助が風呂へと向かう直太郎を呼び止めて、今朝頼まれていた料理屋の手配が出来たことを告げた。

 祐次郎と芳太郎は、巳之助と明日の打合せをする直太郎をそこに残して先に風呂へと入った。日はまだ落ちておらず一番風呂であった。

 やがて直太郎も風呂に入ってくると、頭から湯を被り、糠袋で肌をこすった。

「枝が触りますよ」

 体を洗い終った直太郎が、先に祐次郎と芳太郎が入る湯船に身を入れてきた。

「なんだい、枝が触るって」

 芳太郎が変わったことを言うなといった顔をした。

「狭い湯船で手足が触れたらごめんなさいって意味でさ、銭湯なんかで先客に対する礼儀だよ」

 直太郎はそう答えながら湯船のお湯を両手で掬うと顔にかけた。

「明日はどうするんだ」

 祐次郎が聞いた。

「明日は朝から風呂を沸かしてくれるそうだ。風呂に入ったら髪結に来てもらって髷を整えてもらう。明日は晩飯が早いから昼飯は抜きでと考えてる」

「確かにこの髪じゃあ格好がつかないからな」

 祐次郎は解れた鬢を手で撫でつけた。

 風呂から上がると夕餉の膳が用意されていた。少し速めだが、昼は蕎麦を食べただけであったから、皆腹が空いていた。そう思った直太郎が風呂に入る前に番頭の巳之助に早めに準備してもらうようにお願いしていたのだった。

「今日の飯は何だい」

 母屋の支度もあるのであろう、離れに女中の姿はなかった。

「えーなになに」

 女中が料理の説明をしていかなかった代わりに品書きが添えられていた。

「これ、なんて読むんだ。魚偏に留めるって」

「ぼらだよ」

「ぼらの山椒味噌付け焼き、烏賊の木の芽和え、うどの塩もみ、浅利と葱と豆腐の煮付け、あれ、浅利はどれだ」

「これじゃないか」

 品書きを読み上げながら膳の上の料理を指さしていった芳太郎の視線が浅利の煮付けを見つけられないでいた。鍋敷きの上に置かれた鉄鍋の蓋を直太郎が取ると、そこに湯気をあげる浅利の煮付けがあった。

「さあ食おう。酒も昨日みたいに銚子と猪口でちまちまやってらんねえから、今日はこいつで行くぜ」

 祐次郎は台所から徳利と湯呑を持ってきていた。

「徳利は注ぐのに重いのよ」

「じゃあ、今夜は俺が注ぎ役になるから、さぁさぁ、湯呑を取ったり取ったり」

 お初の苦言も軽く流すと、祐次郎は全員に湯呑を押し付けると次々に注いでいった。そして最後に自分の湯呑に酒を注ぎこむと

「では、二日も無事に無事に終わりました。かんぱい」

 と音頭をとった。皆、祐次郎の強引さに負けるようにつられて乾杯をした。

「こうやって一日の終わりに飲む酒は美味いなぁ」

「あんた昼間も酒を飲んでるじゃないの」

 祐次郎の言うことにお初が突っ込みを入れると、お秋が堪らず噴き出して笑った。

「さあ、浅利の煮付けを盛るよ。椀を頂戴」

 お初が鉄鍋から摂り分けようとした。

「待ってくれ、俺はこれにかけてしまうよ」

 直太郎が飯を椀に放り込んでから、お初に差し出した。

「ぶっかけ飯か、旨そうだな。俺もそうしよう」

 祐次郎も真似をした。

 飯に汁がしみ込んで旨そうだ。

「おいしそう。ちょっと下品だけど、あたしもやろう」

 お秋も真似をして、結局のところ全員がぶっかけ飯にすることになった。

 こうなると、飯がすすむ。祐次郎なんぞは、四杯も飯を食った。

 江戸旅行二日目も何事もなく暮れていった。


 江戸旅行三日目、直太郎は隣の部屋で寝るお初とお秋が起き出した気配を感じて、布団から抜け出ると部屋の障子を開けて廊下に出た。

 そして雨戸に手を掛けると、できる限り音をたてないように戸袋に近い一枚を開けた。朝の光が差し込み、これで離れの中が大分明るくなった。

「おはよう」

 六畳間の障子が開いてお初が顔を出した。

「おはよう」

 直太郎も小声で挨拶を返した。

「お秋ちゃんは起きているのかい」

「おはよう、起きてるよ」

 直太郎のお初への問いかけに対して、身支度をしている最中のお秋が部屋の中から答えた。

「おはようさん」

 手拭いを肩に掛けた祐次郎が廊下に出てくると、厠へと向かって行った。

 直太郎は雨戸を半分ほど開け、離れの中を十分に明るくすると、手拭いを持って台所に向かった。

 直太郎が顔を洗っていると、厠を終えた祐次郎も顔を洗いにやってきた。

 二人が顔を洗っていると、母屋の方から鉄鍋や火のついた炭を宿の男の奉公人が運んできて竈に据え置いて帰って行った。鍋からは味噌汁の香りがする。続いて女中たちが朝餉の菜や飯の入ったお櫃を運んできて台所に置くと、そのまま離れに上がり、雨戸を開けたり布団を上げたりし始めた。

 女中に布団から追い出された芳太郎も台所に姿を現し、直太郎たちと交代で顔を洗った。

 直太郎と祐次郎が部屋に戻ると、入れ替わりでお初たちも台所に向かった。

 女中たちは手際よく布団を畳むと障子と襖を開け放ち、部屋に風を通してくれていた。

 朝餉の膳が運ばれてきて、見ると今日の朝食は、麦飯に蜆の味噌汁、焼き魚、大根の煮物、そして香の物が添えられていた。

 芳太郎、そしてお初にお秋が部屋に戻ってきて朝餉が始まった。

「今日の予定だけどさ」

 朝食を食べてる最中に直太郎が話しだした。

「飯を食い終ったら、お初ちゃんとお秋ちゃんから風呂に入って。髪も解いて洗ってしまってさ、今日は髪結にも来てもらうから」

 直太郎は沢庵を一切れ、口の中に放り込んだ。

「俺たちはどうするんだ。いつもなら風呂屋に行って、その帰り道に浮世床だけどな」

 飯の茶碗に二杯目の飯を盛りながら祐次郎が聞いた。

「番頭さんは風呂は片方しか沸かさないって言ってたから、お初ちゃんたちの後に使うよ。それから町内の浮世床で髷を整えよう」

「あたし達の髪は、髪結さんが来てくれてやってくれるんだ。なんか悪いなぁ、あたし達も町内のお店で良かったのに」

「女の髪結の店は無いよ。浮世床は男髪結だけで女髪結は店を持たない流しの仕事なんだ」

「そうなんだ、それなら祐次郎たちが先にお風呂を使ってよ。髪を洗うだけでしょ、あたし達は、それなりに時間かかるし、その方が効率的じゃない」

「じゃあ、そうさせてもらうか」

 祐次郎は新しくよそった飯を忙しそうに掻きこんだ。

「あと土産も買ってしまおう。日本橋からちょっと行った所に、商社が江戸取引のために出している店があるからさ、そこで買い物をしてしまうから。土産の数なんかを考えておいて」

 直太郎も残った膳のものを急いで食べてしまうと膳を片付け始めた。

「お膳はあたし達で片付けておくから、先にお風呂に行っちゃいなよ」

「わるいね、よろしく」

 直太郎達は手拭いを片手に母屋の風呂へと向かった。帳場に声をかけて風呂へと向かい、素早く着物を脱ぐと髷を解いてざんばら髪になり、頭から湯をかぶった。

 体を糠袋でこすってから再び頭から湯をかぶった。湯船は使わずに頭と体を洗っただけで風呂から出ると離れへと帰ってきた。

「早かったじゃないの」

 戻ってきた直太郎たちを膳の片付け途中だったお秋が声をかけた。

「湯船は使わずに髪と体を洗うだけだからな。さあ、今度は俺たちが残りを片付けておくから風呂に行きな」

 祐次郎は濡れ手拭いを干すと、部屋に残っていた急須などを下げてきた。

「お初たちも風呂に行ったし、俺らも浮世床に行くか」

 直太郎達は髷を自分達で簡単に結うと宿を出て、同じ町内にある髪結床へと向かった。

 朝食のときに祐次郎がお初たちに言っていたように、浮世床は男結専門の髪結の店である。夜明けとともに店を開け、日没後も一刻ほど店を開けている。

 現代の床屋と同じものと考えられがちであるが、髪を結うだけではなく、結終わった後もすぐには帰らず、店の主や順番を待つ他の客と話しを楽しむ、いわばサロンと化していた。

中には髪を結わずに、おしゃべりだけして帰る客もいた。そんな話好きが集まってくるので、近所の噂話などが集まり、そして喧伝されていく。

「ごめんよ」

 直太郎たちは倉前屋と同じ町内にある長屋への入口に店を構える浮世床へと入った。長屋の路地へと続く木戸には、井の字の張り紙がしてあるので、その奥に井戸があることがわかる。

「いらっしゃい。倉前屋さんに泊ってる客かい」

「おう、よく分かったな」

「なに、さっき倉前屋の番頭さんから使いがあってね、三人ほど客を送り込むからよろしくって話があったんだよ」

 店の主は種明かしをした。

「そいつは話が早えぇや、早速やってくんな」

 祐次郎は、上がり框のところに表を向いて腰かけた。直太郎と芳太郎は下駄をぬいで店に上がると、順番待ちの客のために用意されている将棋盤を挟んで座った。

 別に将棋をする気はなかったが、とりあえず駒を並べてみた。

「そいつで時間でもつぶしてといてくれい」

 浮世床の主が直太郎達の方を振り向いたが、手は休まずに祐次郎の髪を梳いている。

 将棋盤の脇の折りたたまれた紙に直太郎の目がいった。手に取って開いてみると、手書きの瓦版であった。

「おやじ、燃やし忘れの辻売りだぜ」

 直太郎が手に持った瓦版を浮世床の主に差し出した。

「お、こいつはいけねえぇや、すまねえ」

 主は瓦版を受け取ると、祐次郎の髪を梳く手を休め、長火鉢の火に瓦版を焼べてしまった。一瞬炎が上がったが、紙はすぐに燃え尽きると白い煙が細く昇った。やがてその煙も消えた。

 辻売りとは瓦版のことである。もっとも江戸時代、瓦版という呼び方は一般的ではない。辻売り、一枚売り、読売りなどと呼ばれていた。

 全国紙の新聞が、この読売りから命名されているのは有名な話で、そのせいで瓦版は、現代の新聞と同義にとらえられがちだが、どっちかというとゴシップ報道に力を入れる大衆誌に近かった。

 時代劇に見る、頭の上に手拭いをのせて細い竹の棒で刷り上がったばかりの瓦版の束を叩き、軽快な口上で売る瓦版の内容は、どこぞの海岸に人魚が打ち上げられたとか、どこぞの村の婆さんが百歳で子供を産んだとか、およそ眉唾ものの話や他愛のないものであって、間違っても、老中田沼意次が、なんてことはない。

 無許可の出版物であるからお上の取り締まりも厳しく武家のことや御政道に関わる話は、大っぴらには売れない。こういったネタは版木で印刷せず、数人が集まって筆写で作って、さっと売り払って解散してしまう。

売り方も独特で、笠を被って辻々を歩き回る。口上も売り声を上げることもない。買い手が、何の話かと傍に寄って問いかけると、こんな話が載ってますと耳打ちしてくれる。内容が気に入ったら買うわけだが、これは買った方も罪になるから読んだらすぐに焼いてしまうのが暗黙のルールだった。

浮世床の主が燃やしたのも、そんな一枚だ。

「何の話だったんだい」

 再び手を動かし始めた主に祐次郎が聞いた。

「なに、仙台の陸奥守様のとこのお家騒動に関してでさあ、買ってはみたものの、大したことも書いてないし、面白くもねぇ。損しちまいやしたよ」

 手書きの瓦版は、版木印刷のものに比べて信憑性が高いと捉えられていた。値段も三、四倍の値段がした。

「何か噂は聞くかい」

 今度は直太郎が聞いた。

「陸奥守様んとこかい、聞かねえな。まぁ、武家のいざこざには、みんな興味ないんだろう」

 店の主は瓦版に書かれてあったこと以上の話は知らないらしく、この話はこれで終いになった。

 祐次郎の髪が結いあがると、次いで芳太郎、直太郎と順に髪を結ってもらった。

「代はいくらだい」

「一人二十五文で」

「それじゃあ、こいつで。釣りはいらねえよ」

 直太郎は銭緡を一本差し出した。

「こいつは、相済みませんね」

 直太郎は、祐次郎たちと店の外に出ると、大きく伸びをした。

「なかなか良い腕の髪結だったな」

「ああ、二日前に結ったような、いい仕上がりだ」

 祐次郎が鬢の辺りを撫でつけた。

「二日前に結ったようなって、どういう意味だい」

 芳太郎が月代の辺りを気にしながら聞いた。

「江戸っ子は、結いたては野暮ったいって思ってるんだよ。だから少し緩め、二日前に結ったような仕上がりを好んだんだよな」

 芳太郎は、ぽんと手を叩くと

「あぁ、俺らが床屋から出てすぐに店先で髪を崩すのと同じか」

 と一人で納得した。

「さて、女どもの髪は、まだ終わっちゃいないだろうから、ちょいと寄り道してくか」

 祐次郎は他の二人を誘うように歩きだした。

 祐次郎は路地を器用に抜けると三間町にある損料屋の店先で足を止めた。

 損料屋とは、現代のレンタルショップだ。

 庶民の長屋は狭く、置き場所に困るので季節物の家財道具は、必要な時季だけ借りて済ましてしまう。また江戸は火事が多く焼け出されたときに家財道具を持ち出せればいいが、風が強く火の回りが早くて持ち出せなかったときなどは急いで必要な物を損料屋で揃えたりした。

 鍋、釜、布団に蚊帳、着物に下駄、雪駄と生き物以外は何でも貸してくれた。珍しいものでは付け髷なんてものもあった。

「何を借りるんだ」

 祐次郎は店先に並べられた品を物色していた。

「今夜は月明かりも無いだろう、帰りが遅くなった時のことを考えて提灯をと思ったんだけどな。いいのが無さそうだな」

「提灯は宿のを借りればいいだろう。それより蠟燭を買っていこう」

 直太郎は小間物屋を兼ねるこの損料屋で蠟燭を二本購った。

「さ、いったん宿へ帰ろう。お初ちゃんたちも終わった頃だろうし」

 三人は三間町から駒形町の方向へと歩き、宿の前の通りへと戻った。駒形堂の前に稲荷ずしを売る屋台が出ていたので、持ち帰れるように竹の皮に包んでもらうと、それを手に宿へと帰ってきた。

「おかえり、ずいぶん時間がかかったじゃないの」

 直太郎は帳場に寄ってから離れに戻るとのことで、先に離れへと帰ってきた祐次郎と芳太郎をお秋が出迎えた。

「おう、髪が結上がってから、ちょいと野暮用でな」

「ずるい、なんか美味しいものでも食べてきたんじゃないの」

「んなわけねえよ。ほれ、土産だ」

 祐次郎は稲荷ずしの入った竹皮包みをお秋に手渡した。

「なにこれ」

「稲荷ずしだよ」

「今食べるの」

「昼飯にどこかいい場所を見つけて食べるのさ」

 畳まれた提灯を手に直太郎が帰ってきた。

「支度ができたら出かけよう」

 直太郎はお秋から稲荷ずしの包みを受け取ると、また母屋の方へと戻っていった。

 支度といっても、直太郎以外は身一つで付いて行くだけであるから、結局のところ直太郎の用意が整うのを待って出発した。

 出がけに再び帳場に寄って戻ってきた直太郎の風呂敷包みは一回り大きくなっていて、風呂敷とは別に竹筒も手に持ってきた。

 祐次郎が竹筒を受け取り、匂いを嗅ぐと大事そうにそれを運んだ。


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