1日目
翌朝、8時前に全員が集合した。
「おはよう、みんなよく眠れた?」
初音が皆に聞いた。
「あたしは、この髪型では寝にくかった。ちょっと肩が凝っちゃった」
秋穂が肩の辺りを揉むしぐさをした。
「とにかく慣れだよ。それじゃあ行こうか」
直人の先導で歩きだした。
全員エレベータでホテルの地下1階へと向かう。エレベータを降りると、手荷物検査場になっていて、金属探知器や持ち物をいったん全て係員に渡して入念なチェックがされた。
周囲には警備の警察官の姿も見える。
「じゃあ、全員終わったから、このまま時間移動場のある博物館の下まで行くよ」
直人が慣れた様子で先頭を歩いて行く。
ホテルの地下一階と江戸東京博物館の地下は、空港の発着ロビーに似た通路で結ばれている。何十メートルか毎に、江戸東京博物館の1階の受付のようなカウンターが並んでいた。
「さあ、ここだ。出発まで間があるから、ここでちょっと休憩だね。トイレなんかも済ましちゃおう」
直人がそう言って、待ち合い用のベンチに腰をかけた。
直人たちが待っている間にも、通路を奥へと向かう別の旅行者たちが何組も通り過ぎた。緊張しているような人もいれば、これから始まる冒険を楽しみにしているような人まで様々な表情だった。
やがて、
「2019年東京発、江戸寛文十一年行きは、間もなく発車となります。ご乗車のお客様は、12番ホーム受付までご集合ください」
と放送が流れた。
「さあ、行こう」
直人がそう言って立ちあがり、皆、そのあとに続いた。
受付のカウンターでは、昨日、江戸東京博物館の1階の受付でやった事の繰り返しだった。受付の際に、印籠のスイッチも入れられた。カウンターにいる受付の人の目が青く光る。全員が受付を済ませると、カウンターの横の自動扉が開き、次の部屋へと進んだ。
そこは、何かのアトラクションかジェットコースターの乗り場のような感じの部屋で、駅のホームのようになった先に、1両だけのリニア車両のようなものが止まっていた。
車両の通路は、シャッターで閉じられた壁へと続いていた。
「これで江戸に行くの?」
秋穂がそう言った。
「ああ、順番待ちなんかもいれて10分くらいだよ。さあ、乗った乗った」
祐二に促されて、一行は車両へと入って行った。
「客は僕らだけみたいだね。つめることないよ、自由に座っちゃおう」
直人は席を選ぶと、手荷物を手荷物入れに放り込み蓋をした。
車内は、窓のないリニアそのものだった。なんの変哲もないシートにそれぞれが腰掛け、正面のモニターを見た。モニターには1671年寛文十一年行きのテロップが繰り返し流れている。
発車5分前となった。モニターのテロップが消え、代わりに女の人が映し出された。映像の女性は一礼すると、時間旅行を利用してくれたお礼に始まり、シートベルの着用、禁煙、非常時の対応など、安全に関することや社内マナーについて一通りの説明をした。
「ほんとに江戸に行けるの?このまま、江戸東京散歩園につながっているだけっていうオチじゃないよね」
秋穂が小声で言った。秋穂の隣に座った初音が
「大丈夫よ。とにかく、あと少しでわかるから」
と返した。
いよいよ車両が動き出した。車内にいる直人たちからは見えないが、動き出した車両は、開いた壁のシャッターの先に続く通路へと進み、その先のトンネルへと吸い込まれていった。
車両が通り過ぎた後、シャッターが閉じられ、車両は小さく揺れると停止した。
車両は、しばらく停止していたあと、再び動き出すと、今度はどんどん加速した。直人達の体は、シートに軽く押さえつけられるように加速のGを感じた。
車両の外で雷のような音が何度も鳴り響いた。
5分ほど加速してから、やがて加速が弱まり、徐々に停車した。車両が停止した後、再び、今度は後ろ向きにしばらく動いたような感じがしてから完全に停車した。
車内に
「寛文十一年に到着いたしました。お降りなって、到着出口の案内表示に従ってお進みください。本日もご利用ありがとうございました」
とアナウンスが流れた。
「さあ、いこう」
直人が短く言って、席を立って車両をおりた。
車両を降りると、そこは乗ったときとまったく同じ光景だった。
「なんか、騙されてるみたい」
秋穂が独り言を言った。
「とにかくついてきな。外に出ればびっくりするって」
直人がそう言って先へと進む。
部屋の外、待ち合いスペースも受付カウンターも光景は変わらなかった。
「ここも変わらないじゃない」
秋穂が独り言が続く。
直人たちは無言のまま通路を進んだ。やがて通路はエレベータの入口で行き止まりとなりとなった。
直人はエレベータの扉の脇のICリーダーに腕をかざし、エレベータの扉を開いた。
エレベータの箱の中は全部木の壁で、まるで納戸のような小部屋になっていた。
直人に続き仲間たちがエレベータに乗り全員が乗り終えると、エレベータの扉は閉まり、静かに動き出した。エレベータの内側には、ボタンも階の表示もない。
一瞬体が浮き上がるような感じがしてエレベータが止まった。
ちょっと間をおいて、エレベータの外から
「ちょいと待っておくれよ。いま戸をあけるからね」
と女の声がした。
「はいよ」
直人が短く返すと、エレベータの外でがたがたと戸をあける音がして、そしてエレベータの扉も外から手で開けられた。
目の前には着物を着た女が立っていた。
「はい、いらっしゃい。さ、こっちへ来て上がっておくれ」
女に案内され、5人はエレベータの外に出た。
エレベータの外は、五間、およそ9メートル四方くらいの部屋だった。その三分の一くらいがエレベータの前の土間で、残りが板敷の小上がりのようになっていた。
エレベータの外に出ると、女は手早くエレベータの扉を閉め、小上がりに上がり、置いてある長火鉢の向う側へ座った。
「さ、こっちへ来て座っておくれな」
女に手招きされて、履物をぬいで板の間に上がった。
女は5人が座ったのを見て、
「それじゃあ、あらためていらっしゃい。あたしゃ、ここを任されているお弓って者だよ。よろしくね」
といって、軽く頭をさげた。直人たちも頭を下げる。
「それじゃあ、二三確かめるけど」
お弓はそう言いながら、脇に置いてある大福帳を引寄せた。
「お前さん達は、えーと、直太郎さん、祐次郎さん、芳太郎さん、それとお初ちゃんにお秋ちゃんだね。江戸では、この名前でとおしておくれ。在所は仙台かい。伊達様の御城下だね。大きな声じゃ言えないけど、伊達様のお家は、いま、ちいとばっかし騒がしいからね。むやみに近づいたりするんじゃないよ。直太郎さんと祐次郎さんは旅慣れているみたいだけど、初めての旅の子も連れてるんだ。せいぜい気をつけておくれよ」
と書付をみながら一気にしゃべった。
「あの」
「なんだい。えっと、お秋ちゃんだっけ」
秋穂が恐る恐るという感じでお弓に話しかけた。
「ここって江戸なんですよね」
「は、そうだよ。江戸も江戸、いいかいお秋ちゃん、初めてだろうから、これだけは言っておくけど、ここはあんたらが知ってるような、でっかい黒い鼠が走り回っているような見世物小屋とはわけが違うんだよ。言葉遣いやたち振る舞いも気をつけてもらわなきゃなんないんだ。なにしろあんたたちにとっては、異国に来たようなもんなんだからさ。わかったかい」
「黒い鼠って、ミッキ……」
「だから、それがいけないのさ。向こうの言葉を使わないようにしておくれよ。どこで誰が聞いているのかわからないからね」
秋穂がディズニーのキャラクターの名前を言いかけるのをお弓が制した。
「はい」
お弓の迫力に圧されるように秋穂は小さく返事をした。
「さて、ここの場所なんだけど、両国は藤堂和泉守様下屋敷向い、回向院前、元町の茶屋、土産物屋、扇屋ってのが、表の看板さ。回向院参りの客の相手をしながら、あんたらのような旅のもんの面倒をみてるわけだよ。今日からの七日間、あんたたちが泊まるのは浅草の蔵前八幡宮横、旅籠町の旅籠、倉前屋さんだから、まずそこに行っておくれ。そして荷をおいたらあとは自由に江戸の町を楽しんでおくれよ。そして七日後、またここに戻ってきておくれ」
全員無言でうなずいた。
「そいじゃあ、そっちの戸をあけると、その先が茶屋の店先につながってるから。そこのお栄さんってのも、あんたらの面倒を見てくれる人だから、一声、声をかけてからいきな。それじゃあ気をつけて」
お弓に促されて履物をはくと、茶屋につながる戸をあけた。
「それっじゃあ、お弓姐さん、いってくらぁ」
祐二が声をかけた。
「はいよ、くれぐれも気をつけてね」
戸の向こうはお弓の言うとおり茶屋になっていた。回向院への参拝の客だろうか、店は結構混んでいる。お弓の居た部屋と繋がる戸から出てきた一行を客に茶を運んでいた店の者が目ざとく見つけて、声をかけてきた。
「お弓さんところの新入りかい」
目が青く光って見える。といことは職員かと分かった。
「ああ、今日来たばっかだ。お栄さんってのはどこかな」
「お栄はあたしだよ」
「そうかい。おれは祐次郎、そんでこいつが直太郎で、こっちが芳太郎。女はお初にお秋だ。今日から七日間ほど世話になる。よろしくたのまぁ」
「そうかい、泊まりは倉前屋さんだね。番頭の巳之助さんにはよろしく言っておいておくれな」
祐二がお栄とのやり取りを済まし店の外に出た。
外は見事に晴れ渡っていた。道は舗装されていないし、電柱や信号もない。高い建物もなければ車も走っていない。江戸の町だ。
秋穂は驚いたように周りを見回している。
「すごい」
小さくつぶやいた。
「おい、お秋ちゃんよ。ぼーっとしてねえでいくよ」
直太郎がお秋に声をかけた。
「まずは宿ね」
お初がそう言って、左に向って歩き出した、そこへ
「おいおい、お初ちゃんよ、両国橋はこっちだぜ。どこに行くんだい」
祐次郎があわてて声をかけた。
「どこって、川向うでしょ。蔵前橋を渡ろうかと思って」
「ねえよ」
「は、なにが」
「なにって、蔵前橋がよ、ねえって言ってるんだ。両国橋の次は東橋だぜ。蔵前のところに橋はねえ。渡し船があるだけだ」
「え、そうなの」
「まずは、両国橋を渡って、向う岸へいくぜ」
祐次郎を先頭にして、一行は両国橋へと向かった。
「うわぁ、大きな橋」
両国橋の袂まできたところでお秋が目を見張った。橋を往来する職人がお秋の張り上げた声を聞いて何事かと振り向いたが、田舎者が初めてみる両国橋に驚いたのであろうと勝手に理解して、足早に立ち去って行った。
「お秋ちゃんよぉ、こんな橋でいちいち驚かないでくれよ。田舎もんに思われちまうよ」
祐次郎が後を振り返った。
「ごめん。あんまり大きいから思わず」
お秋は顔の前で手を合わせた。
「ところでこの橋は何メートルくらい……」
「おっとっと」
お秋が続けて質問しようとする言葉を、直太郎が間の手を入れるように遮った。
「お秋ちゃん、今のも気を付けておくれよ。長さを聞くなら、何間だぜ。江戸の人間はこんな雑踏の中でも結構人の話を耳聡く聞いてるから、くれぐれも気を付けておくれよ」
直太郎がお秋に寄り添うようにして小声で注意したのに、
「ごめんなさい」
とお秋も小声で謝った。
「さて、じゃあ先を急ぐとするか。両国橋の長さは九十六間、お秋ちゃんが分かりやすい長さで言えば、だいたい百七十二、三ってところだよ」
直太郎は歩きながら、メートルと言うところは上手く誤魔化しながら説明した。
橋は行き交う職人や物売りなどの町人で混み合っている。橋を渡り切ると大きな通りに出た。橋を背にして立つ一行の右手に橋番所があって、その後ろに稲荷神社がある。
「ここが両国広小路、江戸一番の繁華な場所だ。迷わねぇようについてきなよ」
祐次郎が通りの名を告げ、お秋は通りに目を向けた。
通りには大道芸、見世物、芝居、食い物などを売る葦簀掛けの小屋が建ち並んでいる。
「賑わいはすごいけど、あたしが想い描いていた風景とはだいぶ違うなぁ。草双紙なんかでは大店が並んで、店の前は綺麗に掃き清められている様子を読んだんだけど。ここはお世辞にも上品とは言えないわ」
確かにお秋の言う通りだ。葦簀掛けの小屋とは、木の棒を組んで簡単な骨組みにし、そこに湿地などで自生する葦を刈り取って作った簾を掛けただけの簡素な物である。時代劇で見られるような、しっかりした木の建物に瓦屋根の店が軒を連ねる光景とはほど遠い。
さらに、そこで売られている物も、決して高級でないことは手に取らずとも分かるし、見世物も低俗な物であることは見なくとも察することができた。
祐次郎は立ち止ることなく人の流れに従って道の右に寄り一行の先頭を歩いて行く。お初とお秋が並んで続き、その後ろに直太郎、そして、さらに半歩ほど遅れて芳太郎が続く。
「両国の広小路ってぇのは、今から十四年前の明暦三年の火事、世に言う明暦の大火のときに多くのもんが逃げ場を失って死んだんで、ここに橋を架けて、さらに橋が燃え落ちねぇように火除地として作られたんだよ。だから、大事のときはすぐに取っ払えるように、簡単なもんしか建てちゃあいけねぇんだ」
直太郎がお初とお秋の横に並びかけて説明したが、すぐに二人の後ろに戻った。混雑した道で、さすがに三人並んで歩くのはきつい。
火除地とは防火のために市中に設けられた空地のことである。
江戸時代の消火方法は、風向きなどから燃え広がる方向と時間を予想して、燃え広がる先の家屋を取り壊しておき、火事がその先へ広がらないようにしつつ、燃えている建物を壊してしまう破壊消火法であった。
直太郎達が訪れたこの時代には、「め組」で有名な町火消しは、まだ設置されていない。江戸の火事は、燃え広がってしまうと堀や川、大きな通りで区切られた一区画を呑み込んでしまう。
それで区画が大きくなる所や橋などの大事な場所を守るために作った空地が火除地という訳である。
「直太郎、浅草御門を抜けるんだろ」
祐次郎が振り返った。
「あぁ、今はそこしか無ぇよ」
「あ、そうか」
両国広小路、米沢町一丁目の角で祐次郎は一瞬足を止めたが、また先へと進んで行った。
これから二十年程も過ぎた元禄十一年になると、祐次郎が足を止めた辺りを右に進んだ所に柳橋が架けられ対岸へと渡れるようになるが、今はまだ無い。祐次郎と直太郎の会話は、そんなことを言っていたのだ。
広小路は米沢町を過ぎると横山町三丁目、馬喰町四丁目の脇を抜けて神田川沿いに上流へと向かって続いていく。その先は、今の季節、柳並木の若葉芽吹いた枝葉が嫋やかにも川風に揺れる柳原の土手だ。
柳並木の散策をしたくなる美しい光景だが、神田川を渡らなければ蔵前の旅籠には行けない。一行は柳原土手の手前、浅草御門を潜ると対岸へと橋を渡った。
浅草御門は徳川幕府が市中に設けた見附門の一つで、三十五年前の寛永十三年に完成した。
見附門とは重要な道筋に設けられた門で警護の役人もいる。役人が居るといっても、関所のように通行人を足止めして検めるようなことはなく、昼間であれば開け放たれた門を自由に通行することができた。
「新緑のいい季節だなぁ」
門を抜け神田川に架る橋の上で左手の土手の景色を眺めながら芳太郎が呟いた。
「桜の季節は終わったけど、今時分もいい季節だよな」
直太郎も土手の景色に目を向けた。
大川から漕ぎ入ってきた舟が櫓を軋ませながら神田川の水面を進んでいく。
一行は神田川を越えると浅草の地へと足を踏み入れた。見附門のこちら側は、両国広小路の景色とは打って変わり、しっかりとした町家の街並みであった。
「これこれ、あたしの知ってる江戸の景色」
お秋が一行の先頭に出た。
「お秋ちゃん、待っておくれよ。宿に行く前に両替をしていきてぇんだ」
直太郎も小走りに一行の前に進んだ。
「それなら、お店探しはあたしに任せてよ。これでも勉強したんだから」
お秋が周りの店の看板を見渡した。そして
「見つけた。両替屋さん、あそこ」
と分銅看板の下がる商家を指さした。
場所は茅町二丁目のあたりで、お秋が指さした商家は立派な普請で間口も広く、一目で大店と分かる。分銅看板には両替商銭屋と掲げてあった。
「お秋ちゃん、せっかくだけどここは駄目だ」
直太郎が店の前を通り過ぎた。
「えー何でよ、ちゃんと分銅看板も下がってるよ。間違ってないでしょ」
店の前を素通りする直太郎に並んでお秋も歩き出した。
分銅看板とは、幕府が作成した分銅を模した両替商を表す看板のことだ。形は小判の両脇を齧り取ったような形をしており、現代でも銀行の地図記号に使われている。
一説には蚕の眉の形からきていると謂われているが、この形から蚕の繭を想像するのは難しいと思う。
この分銅は、金、銀の重さを量るための共通の道具で、店ごとに重さが違ったり不正がないように金座を預かる後藤家で製造されたものしか使用できない決まりになっていた。
「うん、お秋ちゃんは間違ってないよ。確かに今のお店は両替商だよ。でも本両替なんだ。本両替は金銀為替を扱う店で、銭両替はやってないんだよ」
「本両替とか銭両替とか良く分からないけど、とにかく庶民を相手にしてないお高くとまったお店なのね」
「お高くとまったって、そんなわけじゃないんだけど、今度違いをちゃんと説明するよ。それより今は銭両替をしてくれる、札差や質屋を探すんだ」
一行は道を北へと歩いて行く。瓦町の木戸を過ぎると道幅がやや広くなり、その先が堀で橋が架っているのが見える。堀の向こう側に幕府の御米蔵が建ち並び、左手は商家、右手が武家屋敷になっている。
今回江戸に来てから初めて目にする武家屋敷だ。やはり厳つい感じがする。一方の商家は札差や両替商が多く、いずれも大店であった。
幕府の御米蔵はその名の通り、徳川幕府が年貢として徴収した米を収容しておく蔵である。
この米は徳川家の家臣に年数回に分けて給与として支払われる。受け取った家臣は、自分の家で消費する分以外を売って現金とするのだが、この米の受取りから売買までの諸事雑事を代行するのが札差である。
やがて札差は財政が逼迫した武家に、その給与として支払われる予定の扶持米を担保に金子を貸すようになり、商人の中でも大きな力を持ってくるようになる。
直太郎とお秋が先頭に立った一行は、目の前に流れる鳥越川を渡った。道幅が広いのと人や物の往来が激しいので橋は並行して二本架けられている。
橋の名は鳥越橋と言ったが、この辺りの住民はかつて鳥越の刑場に引き回されていく罪人が通った名残で地獄橋などと呼んでいるようだ。
「ここで両替をしていこう」
直太郎が鳥越橋を渡ったところの一軒で足を止めた。店の向いは幕府の御米蔵である。
「ここって質屋さん?」
店の看板に質の字をお初が見つけたが判断がつかないようだ。店先には寛永通宝の穴あき銭を模した看板と将棋の歩の駒を模した看板が揺れている。
「そうだよ、この将棋の駒は、歩でも金になるって洒落で質屋を表してるんだよ。将棋は相手の陣地に入った駒は裏返って金に成るからね。将棋の分からない人には通じない洒落だけど。それに銭両替もしてる。銭の看板がその意味さ。ちょっとここで待ってて」
直太郎は店先で待ってるように言って質屋に入ろうとした。
「あたしも一緒に入って駄目?」
お秋がせがんだ。
「あたしも質屋さんの中を見てみたい」
お初も同じく質屋に同行することをせがんだ。
「うーん」
直太郎が考え込んだ。
「女が質屋に入っちゃ行けないの」
考え込む直太郎の顔をお秋が覗きこんだ。
「そうじゃないけど、不自然なんだよな。野郎一人が女二人を引き連れて質屋に来るってのが」
直太郎がどうしたものかと悩んだ。
「いいんじゃねえか、質入れじゃあ無えし、単なる両替えだろ。しかも何両も両替えするわけじゃ無ぇんだからよ」
祐次郎が二人の同行に賛成した。
「そうだな。じゃあ、いいけど、店の中では静かにしておいてくれよ」
「はーい」
直太郎に続いてお初とお秋が店の暖簾を潜った。祐次郎と芳太郎は往来の人を眺めてるとのことで、店の中には入ってこなかった。
「いらっしゃいませ」
店の中で質草に入れられた道具の整理をしていた手代が挨拶をした。
「初めてのお客様ですね。ということは質入れでございましょうか。まさか、そこの娘さんを質草にと言うわけではございませんでしょうな」
店に入ると目の前の板の間に座った番頭が書付から顔をあげて冗談交じりの挨拶をしたが、目では素早く直太郎達の風体や様子を観察しているようである。
質屋には盗品を持ちこむ不届きな輩もいる。それを質草に金を貸してしまえば損をすることになるし、質屋も罪に問われかねない。店を預かる番頭は自然と人を見る目が養われてくるのだ。
「銭両替を願いたいんだ」
直太郎が懐から財布を取り出した。
店の手代が道具を整理してる手をとめて、番頭の許に銭を乗せるための盆などを運んできた。
「いかほどを御用立てで」
「一分金を二朱と残りを銭で」
番頭が銭箱を手元に引き寄せながら聞いてくるのに、直太郎は財布から一分金を取り出しながら答えた。
直太郎が差し出した一分金を手代が受け取ると番頭へと渡した。
番頭は一分金を手に持って、そして刻印を確認すると銭箱から二朱金一つ、それと銭緡と呼ばれる穴あき銭の穴に紐を通して一まとめにしたものを五本取り出してきた。
銭緡一本には百枚近くの銭が束ねられているようだ。
手代がそれらを盆に載せると、直太郎の所へと運んできた。
直太郎は二朱金を財布に入れると、いつのまに取り出したのか風呂敷で銭緡を包むと懐に押し込んだ。
「じゃあ、行こうか」
直太郎はお初とお秋に声を掛けて店の外へと向かった。
「ありがとうございます。またお出で下さい」
番頭が声をかけるのに合わせて、手代も辞儀をした。
「お手数でした」
直太郎はそう言い残して店の外へ出た。
「直太郎、役人だ」
店の外に出た直太郎の袖を引いて祐次郎が囁いた。
直太郎が道の先をみる一町あまり先、道の反対側を十手持ちを従えた役人がこちらへと向かって歩いてくるのが見えた。
「大丈夫か」
芳太郎も小声で直太郎を見た。お初もお秋も心配そうである。
「あれは町奉行所の役人だ。同心じゃないな、その上の与力だ」
「どうする」
「どうするも何も、俺たちゃ咎められるようなことは何にもしちゃいねえんだ。下手にこそこそすりゃあ、かえって怪しまれる。目を合わせないようにして、堂々と通り過ぎちまえばいいんだよ。さ、行くよ。俺と芳太郎が先頭だ。お初ちゃんとお秋ちゃんはその後ろ、殿は祐次郎に頼んだ」
「わかった」
一行は進みだした。
「あの与力、こっちに向って来てないか」
直太郎と並んで歩く芳太郎が囁いた。
「気のせいだって」
直太郎もそうは言ったものの与力の動きは気になった。
それまで道の反対側、米蔵側を歩いていたのが、直太郎達が歩く商家側へと道を斜めに歩いてくるのだ。
与力との距離が十間あまりに近づいて、与力の身なりもはっきりと分かる距離になった。目を合わせないようにしているので顔こそは見えないが、縞の袴に濃い色の着物、黒の裃は、時代劇で見るものよりも肩幅が広いが、不自然ではなく、むしろ堂々とした佇まいを醸し出している。
与力は腰に差した刀の柄の辺りに左腕の肘をかけた。
まずいな
直太郎がそう思ったときだった。
「船場の旦那、まさかうちの店を素通りってことはございませんでしょう」
脇の店から人が飛び出してくると、与力の右腕をがっちりと掴んだ。
「これ、離さぬか」
与力は、掴まれていない左腕で店の者を振りほどこうとしたが、続いて店から出てきた者が、その左腕をも掴んだ。
「これ、おぬしら無理をするな。離さねえか」
与力はやや伝法な口調で言ったが、店の者達は離そうとしない。
「先日もそうおっしゃって、離した途端に走っていってしまわれたではございませんか。今日はゆっくりとお茶を飲んでいっていただきますよ」
店の中から番頭と思しき初老の男も出てきて、次ごう三人で与力を取り囲んだ。
「さ、並木の親分も船場様に入るように言ってくださいな。ほれ、往来の衆が何事かと見ておりますれば、まずは中にお入りください、さ、さ」
番頭は、十手持ちを並木の親分と呼ぶと、船場様と呼んでいた与力とともに店の中に強引に引き入れてしまった。
店先での、このちょっとした騒ぎを通行人は足を止めて見物していたが、
「まぁた、船場の旦那と宮桝屋か、旦那も災難だよな」
「ああ、これで今日も市中の見回りは半分もできねぇんじゃねえか」
「ちげぇねえ」
と口々に言うと、与力が店の中に引き込まれるのを見届けてからは、何事もなかったかのように立ち去っていた。
この辺りの者には見慣れた光景のようであった。
「なんだったんだ」
後から祐次郎が声を掛けた。
「わかんねぇや。でも、この間に行ってしまおう」
直太郎は、懐の銭包みを押さえると、足早に歩きだした。皆もそれに続く。
直太郎達が宮桝屋の前を足早に通り過ぎた直後、十手持ちだけが通りに出てくるとその後を追い始めた。
道は幕府の米蔵の広大な敷地の分だけ大川から離れているが、北に向かって進むうちに敷地も徐々に細くなり、それに沿って緩やかに右に曲がっていく。
米蔵の敷地には、大川の下流から順に鳥越橋のあたりに下ノ御門、先ほどの与力の一騒動のあったあたりに中ノ御門、そして一番上流側に上ノ御門と三つの門があった。
この上ノ御門の向いあたりに直太郎達の目指す旅籠、倉前屋はあった。
「着いたぞ、ここが今日からの宿だ」
直太郎に導かれるように一行は旅籠の中へと入った。
「ごめんよ」
「はーい」
直太郎の訪ないの声に旅籠の奥から女の声が応じた。そして、すぐに女中が顔を出した。
「いらっしゃいませ」
女中は旅籠の入口へと出てくると、板の間に手をついて土間に立つ直太郎達に深々と頭を下げた。目が光って見えないので、江戸の人間ということが直太郎達にも知れた。
「今日から世話になる直太郎だ。番頭の巳之助さんはおいでかい」
「はい、今呼んでまいりますので、お待ちください」
女中はそう言って、下がろうとした時だった。
「この者たちは、この宿の客かい」
先ほどの十手持ちが宿の中へと飛び込んできた。
直太郎達は振り返って驚いた。何も悪いことはしていないが、いつの世も役人に声をかけられるのは気持ちのいいものではない。
「さようでございますよ、並木の親分さん」
店の奥とを仕切る暖簾を手で掻き分けて、中年の男が出てきた。目が青く光っている。おそらくは番頭の巳之助であろう。
「それよりも、今さっき船場様と一緒にお帰りになったのに、何か忘れ物でも」
宿の男は、直太郎達に大丈夫ですよと言わんばかりの視線を送って、板の間に座った。
「おう、番頭さん、いやなに、船場の旦那がな、こいつらの行く先を見て来いって言うもんで後を付けてきたってわけだ」
やはり自分達が目をつけられていたのかと、直太郎達は動揺した。
それでも、番頭の表情で大事には至らない様子であることは分かった。
「で、当の船場様はどちらに」
「そいつがよぉ」
並木の親分は、溜息をつきながら十手を腰から抜き上がり框に腰を下ろすと
「ここを出てから、浅草御門の方向へと見回りを続けていたんだがな」
と語り始めた。
そこへ先ほど奥へ入って行った女中が盆に茶と菓子を乗せて運んできた。親分は、すまねえなと一言言うと、茶を啜り、
「いつもなら、通りの向こう側、御蔵側を歩いて行くのによ、今日は何を思ったんだか、ふらふらぁっと森田町の方へ寄って行っていっちまったんだよ」
と続けた。
「そしたら宮桝屋の前でよ、手代と番頭に捕まっちまって、そのまま店の中に引っ張り込まれちまったってわけよ」
直太郎達が先ほど目撃した光景を親分は語っていた。
「それはまた、船場様も災難でございますな。宮桝屋の娘さんは船場様に、だいぶ熱を上げられているみたいで」
「宮桝屋だけじゃねえや、旦那が市中を見周りをすると、必ず日に何通かの付文が袖の中に入れられてるぜ」
「船場様は気さくなお方でございますからな、方々で人気がございますでしょ」
「確かにちげぇねえ。お陰でこっちも仕事がしやすくてよ」
「それは並木の親分さんの腕がよろしいからでしょう」
直太郎達は、完全に話の蚊帳の外で、まるで廊下に立たされている生徒のように土間に並んで並木の親分とのやり取りを聞いていた。
「とにかくだ、こいつらの行き先が倉前屋と分からりゃ、もう用はねえや。旦那も行き先がここなら何にも言わねえからな」
並木の旦那が直太郎達に急に視線と話を向けたので、一瞬たじろいだ。
「ところで、親分さんはこれから宮桝屋さんへ行かれるので」
すかさず番頭が話に入ってきた。
「旦那を待ってたら日が暮れっちまうよ。旦那にゃ悪いが宮桝屋の人質にして、おいらはこの辺りの自身番をまわるよ」
親分が立ち上がった。
「お待ちください旦那、菓子の残りを持って帰ってくださいな」
番頭が残った菓子を皿に敷かれた懐紙ごと持ち上げて包もうとした。
「悪いが、甘いもんは苦手でよぉ」
「そう言わずに、おかみさんへの土産にでもしてくださいな」
番頭はそう言いながら、菓子の包みの中に光る物を滑り込ませた。
「そうか、そいつはすまねえな。旦那の言いつけとはいえ、なんか土産まで気ぃ遣わせちまって悪かったな」
並木の親分は一分金の入った菓子包みを拝むようにして受け取ると袂の中に入れた。
「そんなことはございませんよ。先刻は船場様もご一緒でしたから何のお構いもできませんでしたから。船場様にも近いうちにまた顔を出してほしいとお伝えください」
「わかった、伝えとくよ。それじゃあ邪魔したな」
親分は着物の裾を捲り、尻端折りにすると手に持った十手をくるりと一回転させてから帯に差し落とし、往来へと勢いよく飛び出して行った。
直太郎達の口からため息が漏れた。
「のっけから驚かれましたな。今のは南町奉行所与力、船場光志郎様から鑑札を預かる十手持ちの作蔵親分です。浅草寺雷門前の並木町に居を構えるので並木の親分と呼ばれております」
番頭は並木の親分が使った盆を引き寄せた。
「ご挨拶が遅れました。てまえは旅籠倉前屋番頭の巳之助でございます。まずは皆さんのお部屋へ案内させていただきます」
巳之助は奥に並木の親分に出した茶盆の後片付けをするように言うと、土間に置いてあった下駄を履いた。
「皆さんの泊まりは離れになっておりますので、履物はそのままでこちらへ」
巳之助は一行の先頭に立って案内した。
巳之助は宿の土間の奥の通路を進み、引き戸を開けるとそのまま庭へと出た。手入れの行き届いた庭は、新緑も美しく玉砂利の敷かれた小道が離れへと通じていた。
一行は巳之助について行くと、足の下で玉砂利が音をたてた。
「離れに人が近づいてきますれば、この玉砂利が鳴ってわかります」
巳之助の説明に、この離れは直太郎達のような現代からの旅行者を泊めるための物であることが伺えた。
離れは床の間の付いた八畳間と襖で仕切られた六畳間、簡単な台所、それと厠が母屋とは別に備えられており、宿の出入りの時以外は母屋に出向かずに事足りるようになっていた。
簡単な台所は、食事のときに宿の者が使うためで、火事の用心のためにも泊まり客は煮炊きをしないようにと巳之助は言い添えた。
「改めまして、この度は倉前屋にようこそお越し下さいました」
巳之助は八畳間と六畳間の間の襖と庭に面した障子を開け放ち、風の通り道を作ると廊下の板敷に座って手をついた。
「これは、ご丁寧にありがとうございます」
部屋の中を観察していた直太郎達も巳之助に向かい合って座って挨拶をした。
「おいらは祐次郎、こっちが直太郎で、あっちが芳太郎、女はお初にお秋。これから七日間面倒をかけます」
航時局旅行公社から旅行者の情報は伝わっているだろうが、礼儀上、芳太郎が代表して皆を紹介した。
「それでは、旅慣れている方もいるのでご存知だとは思いますが、この宿での決まり事を話させてもらいます。まず、見てお分かりのとおり、この番頭の巳之助は皆さまと同じところから来ております」
巳之助の目が青く光って見えるので茶屋のお栄やお弓と同じく航時局旅行公社の職員であることは、最前から分かっていた。
「それとただ今所用で外出しておりますが主の伝衛門だけが同じでございます。それ以外の者は身元がはっきりしてはおりますが、江戸の者を使っておりますので、立ち振る舞いにはお気をつけください」
お秋は巳之助の一言一言に無言で頷きながら聞いている。
「この離れに厠もございますので、大抵のことは離れで済んでしまいますし、宿の者も不必要に離れに近づいたりはいたしませんが、それでも日に何度かは掃除や食事の支度で訪れます。離れの中でも向こうの言葉を使うなとは言いませんが、大声で話をしたりはしないようにお願いいたします」
庭の緑が風に揺れている。そろそろ昼近くの刻限であろうか。
「食事は朝餉と夕餉の日に二回を宿でご用意いたしますが、昼餉も当日の朝餉のときに言っていただければ用意させていただきます。母屋のお客様は明六ツには発たれるので、朝餉を暁七ツあたりから摂られますが、皆さんの離れは明六ツに雨戸を開けさせていただきます。そして朝餉は五ツ、朝餉が済みましたら市中の見物でもなさってください。夕餉は暮六ツとなっております。風呂は昼八ツから入れますが、火は暮六ツには落としますので、夕餉の前に済まされるのがよろしかろうと存じます」
食事の話をされたせいか、急に腹が減ってきた。誰かの腹がくぅっと鳴った。
「それでは、何かござりますれば帳場まで声をかけてください」
巳之助は、軽く一礼すると母屋へと帰って行った。巳之助が踏みつける玉砂利の音が母屋の方へと遠ざかって行った。
「お腹空いたぁ」
お秋が正座していた足を投げ出した。
「お秋ちゃん、はしたないって」
お初もそうは言いつつ、膝を崩して横座りになった。
「番頭さんが話している間に、腹の虫が鳴いちっまったよ」
「腹が鳴ったの芳太郎か、番頭さんが飯の話をしているときにタイミングよく鳴らしたもんだよな」
「だって、ここまでずっと歩き通しだったんだぜ。腹も空くって」
芳太郎と祐次郎は、離れの部屋にいるせいか、言葉使いも平素のそれになっていた。
「回向院からここまでは十五町、1.5㎞ちょいくらいしかないよ。それより、慣れない着物や下駄で肉刺をこしらえたり、疲れたりしてないか」
直太郎が旅慣れない仲間を気遣った。
「あたし達は大丈夫。江戸にこの前来た時も思ったんだけど、着物も下駄も意外と歩き易いんだよね」
お初が答えるのに、お秋も相槌を打った。
「下駄は江戸の町を歩くのに向いているからね。階段は神社や寺の石段くらいしかないし、その踏み面だって広く作られてるし。これが歩道橋だったら、踏み面が狭くてつま先をぶつけちゃうだろ。土の道は適度な硬さで足が疲れないけど、固いアスファルトやコンクリートの道じゃ衝撃がもろに来ちゃうし。ちょっと立派なビルの大理石の床の上じゃ、ツルツル滑って危ないしな」
直太郎は、懐から銭の包みを出しながら話をした。
「そんなことより昼飯はどうするんだよ。腹空いちまったよ」
芳太郎が畳の上に大の字になって転がった。
「じゃあ、とにかく出かけようぜ。ここに居たって飯が食えるわけじゃないし。直太郎、上野の寛永寺の辺りで飯にするか」
「寛永寺までは三十町位あるからなぁ、ちょっと遠くないか」
「江戸では歩かないことにはどこにも行けないんだぜ。せっかく江戸に来ても宿の周辺しか見ませんでしたってことじゃ勿体ないじゃないか」
「じゃあこうしよう、腹も空いてきたことだし東本願寺の門前で団子とかで小腹を満たしてから上野まで行こう」
「もう何でもいいから行こうぜ」
腹が減って仕方ない芳太郎の同意で一行は部屋に荷物を置くと離れの外に出た。直太郎は先ほど両替した銭のうち銭緡を一本だけ懐に入れると残りは荷物の奥に押し込んだ。
全員が一列になって玉砂利の道を母屋へと進んで行き、最後尾の直太郎が帳場に出かけてくると声を掛けた。
「お気を付けて」
巳之助が玄関口まで見送ってくれた。
宿を出た直太郎たちは大川と並行する通りを浅草の方へと歩いた。着替えの入った包みを宿に置いてきたので歩みも軽くなった。
宿を出てすぐのところに寺がある。正しくは池中山盈満院正覚寺というのであるが、寺の縁起と寺内の榧の木から榧寺の名の方が通っている。
この榧寺は火事の際に不思議とこの辺りだけ焼け残ることから火伏せの信仰を集めていた。
榧寺を過ぎ、しばらく行くと諏訪神社が見えてきた。敷地はだいぶ小さいのだが、その名の通り諏訪大社の分霊である。
承久の乱の後に信濃国諏訪郡の神官によって諏訪大社の分霊が今の場所に祀られたと伝えられているから創建は鎌倉時代にまで遡る。
直太郎は辻毎に江戸の町や寺社仏閣の解説をしながら歩いた。
「神社や寺の由来は覚えなくてもいいけど、道に迷った時や迷子になったときのために目印になる御堂や橋は覚えておいてね」
直太郎は江戸旅行が初めてのお秋、そして自由旅行が初めての芳太郎とお初の旅慣れない仲間に声をかけた。
「さぁ、こまんどぉの辻を左に折れると、あとは東本願寺の門前を通って寛永寺までは真っ直ぐだ」
直太郎は大川の畔に小さなお堂の立つ辻を曲がった。道幅はぐっと狭くなる。
「こまんどぉ」
お初が聞き返した。
「あぁ、そこの駒形堂のことを江戸っ子は、こまんどぉと訛って呼んだんだ。ちなみにこの辺りの町名は駒形町、濁らずに、こまかたって読むんだ。先を急ぐから、お堂のお参りは帰りにしよう」
直太郎は、通りに背を向け、川の方に向かって建つ駒形堂を後にした。
「駒形堂は、吉原三浦屋の高尾太夫が伊達家三代綱宗様に宛てた、君はいま 駒形あたり ほととぎす、の句で有名なんだ」
一行は直太郎を囲むようにして歩いた。
「それなら知ってる、お芝居の千代萩にもなった伊達騒動のお殿様でしょ。自分の言うことを聞かない高尾太夫を吊るし切りにしちゃったって話」
「えー、ひどいお殿様じゃないの」
「おいおい、声がでけぇよ」
お初とお秋の声が意外と大きかったので、直太郎は慌てた。
「ごめん、自分の知ってる話だったから、つい」
「あぁ、今はまだお芝居にもなってなければ、伊達騒動も起きてないから気を付けて。それに仙台の殿様が高尾太夫を吊るし切りにしたってのも作り話だから」
直太郎は小声で説明した。
「ねぇ、伊達騒動の真相って何なの」
「それより伊達騒動って何」
大きな声で話せるような内容ではないので、お初とお秋は、自然と直太郎を挟み込むように歩いた。
「伊達騒動ってのは、今から十一年前の万治三年から今年までの間に起こる奥州伊達家のお家騒動のことなんだよ。万治三年に伊達家三代目藩主綱宗様が放蕩と藩政を混乱させたとの理由で幕府から強いられて隠居させられる。そして後継には綱村様、当時は亀千代様っていったんだけど、二歳で殿様になっちゃうんだよ」
「二歳の子供に殿様の仕事ができるの」
「できるわけないだろぉ、伊達家の親戚筋が新しい殿様の後見になって政を行うんだけど、その内に派閥ができて、その後はお決まりの派閥争いが起きるわけよ。そんでもって、それが幕府の耳に入っちまって老中の屋敷で両派閥の代表が集められて裁きを受けるってときに、片方の派閥の原田甲斐ってのが、敵対する派閥の人間に斬りかかってよ。それで、そのとき居合わせた全員が死んじまうってのが伊達騒動の中身だよ」
田原町を過ぎると米蔵の前の通りほどではないが道幅がやや広くなった。東本願寺の門前町に入ったのだ。
「その隠居させられたお殿様ってお芝居にあるみたいに悪い殿様だったの」
「そんなことないよ。さっきの高尾太夫から送られた句だって、その前の文があってさ、ゆうべは波の上の御帰らせ、いかが候。御館の御首尾つつがなくおわしまし候や。御見のまま忘れねばこそ、思い出さず候。かしこ。君はいま 駒形あたり ほととぎす、っていう件になるんだよ」
腹の空かした芳太郎と祐次郎は、直太郎の話よりも食い物屋の方が気になるらしい。お初らと並んで歩く直太郎を追い越すと、門前町に広がる茶屋を軒先から覗きこんで見比べ始めた。
「思い出さず候って、やっぱり高尾太夫は殿様のことを何とも思ってなかったんじゃないの」
「古文の授業みたいになっちまうけど、御見のまま忘れねばこそってあるだろ、あなたのことを忘れることがないからって意味だ、つまり、いつもあなたのことを思っていて忘れることがないから、思い出すということはありえません。ってな、聞いてるこっちが恥ずかしくなるような殺し文句だよ」
直太郎が熱く語る傍らで、お初とお秋は醒めた目で話を聞いていた。
「それってさぁ、水商売のお姐さんが客を引っ張る文と変わらないんじゃないの」
お初が、文と言うところで携帯のメールを打つ仕草をした。
「それを言っちゃあ、お仕舞えよ。でも、文に句が付いてるなんて粋だろ、そう思わねえかい」
「えー思わない」
お初とお秋の声が見事に揃った。
「そんなの、今日は楽しかったです。また来てくださいね、ちゅっ。てのと変わらないんじゃないの。男はいつの時代も馬鹿なんだから」
お秋が、ちゅっ、と言いながら指でハートマークを作ってみせた。
「ったく、二人とも手厳しいな。でもな伊達の殿様が高尾太夫を恨んだってこともなく、実際、高尾太夫は万治二年に死んじまうんだけど、死んだ遊女は三ノ輪の浄閑寺に葬られるのが常だが、高尾太夫は伊達の殿様の内々の命で春慶寺に立派な墓が建てられたって話だ。恨んでりゃここまでしないだろ」
「おーい、こっちだ」
店先の縁台に腰を掛けた祐次郎が手を振っていた。芳太郎は、祐次郎の座る縁台とは別の所に腰掛けていて、皆の分の座る所を押えておいたのであろう。
「おーい、こっちの注文を頼まぁ」
「はいよ」
店を営む老夫婦の子か嫁か、娘と呼ぶには年増の女が注文を取りに来た。店の場所は東本願寺の門前であるたけに参詣客相手に繁盛している。
「団子を茶と団子を十本、それと饂飩を」
祐次郎は直太郎、お初、お秋に饂飩を喰うかと目配せしたが、三人とも無言で首を横に振った。
「饂飩を二杯、酒を茶碗に」
祐次郎は再び目配せしたが、またしても直太郎達は首を横に振った。
「ふたっつ頼む」
「はいよ。饂飩はすぐに拵えていいかい」
「あぁ、すぐに持ってきてくれ」
「はいよ、しばらくお待ちね」
祐次郎が仕切って手際よく注文すると、片足を膝の上にあげ太腿から褌までをさらけ出す格好になった。
「ちょっと祐次郎、変な物目の前に出さないでよ」
お初が祐次郎の膝をぴしゃりと叩いた。
「いてて、なんだよ」
「何だよじゃないよ、丸見えでないの」
「周りを見てみろよ。江戸の男は縁台に座ると、こうやって片膝に足を乗せるんだ。下が見えてもいいように、下の毛ははみ出さないように、ちゃんと綺麗にしてるんだぜ」
祐次郎に言われて、お初は周りを見回した。
「あ、ほんとだ。って、周りのも見ちゃったじゃないの。とにかく、あんたは仕舞ってよ。お茶が不味くなるから」
「ったくしょうがねぇな」
祐次郎は首の辺りを掻きながら、足を降ろした。
「お待ちどう、饂飩はもう少し待っておくれ」
そこへ先ほどの店の女が茶と酒を、老婆が皿に盛られた団子を持って続いた。
「おう、すまねえ」
祐次郎が茶と酒を盆ごと受け取るとそれぞれが茶碗を取り上げた。二つの皿に盛られた団子は一皿ずつそれぞれの縁台へと置かいく。
「団子、多くない、食べきれるかしら」
「残ったのは、俺らで食っちまうから、無理しなくていいぞ」
「あんたたち、昼餉を上野でって決めたのに、いったいどれだけ食べる気よ。この他に饂飩も食べるんでしょ」
「あぁ大丈夫だ、任せておけ」
一串に団子は五個刺さっていた。江戸時代初期、串団子は一串に五個で五文が定番であった。これは単純に計算がしやすいからである。この後、時代が下り四文銭が出回るようになると、お釣を出す手間から団子は一串四個で四文というのが形になった。
この五個の団子が一人頭二串で十個となれば、腹はかなり膨れる。お初やお秋の量が多いという苦言も肯ける。
「この醤油の焦げた味が、酒に合って美味いなぁ」
お初らの苦言を聞くのもそこそこに、祐次郎が団子にかじりつき、そして並々と注がれた茶碗に口の方からお迎えに行くように酒を飲んだ。
「あぁ、うめぇや。考えてもみりゃあ、朝っから何にも飲んでないんだよな。五臓六腑に滲みわたるって感じだ」
芳太郎も旨そうに酒を飲んだ。
祐次郎と芳太郎は醤油をつけて焼いただけの団子を酒の肴にすると、続けて出された饂飩ともども喰いきり、さらに、お初とお秋がそれぞれ一本づつ残した団子も平らげた。
「ふあぁ食った」
芳太郎の言葉が彼らの小腹を満たすだけと言った食事の終わりを告げた。
「百五、六十文ってところか、払いはどうする」
食い終った皿を見回して祐次郎は直太郎に相談した。直太郎は自分の財布を取り出しながら、
「俺がまとめて払っておくよ。あとで折半しよう」
「頼むぜ」
「じゃあ支払いを済ましてくる。通りで待っていてくれ」
祐次郎達は縁台から立ち上がると、店の外へと出て行った。支払いのために店の奥へと向かった直太郎の後をお初がついてきた。
「どうした」
「支払いを見ていてもいい」
「かまわねえけど、面白くも何ともねえぞ」
直太郎はお初を引き連れて、店奥へと声を掛けた。
「いくらだい」
「百五十文ちょうどで」
店の主は先んじて代価を算じてあったようで、すんなりと代を答えた。
直太郎は財布から一朱金を出すと、主の老爺に手渡した。老爺は手の中の一朱金を確かめると、銭箱から銭緡を一本と四文を差し出してきた。
「こっちだけでいいや」
直太郎は銭緡だけを受け取って懐に押し込んだ。
「ありがとうございます」
店の主の礼に見送られて、直太郎とお初も店の外へと出た。
「団子や饂飩の値段っていくらくらいなの」
直太郎が出てくると店の外で待っていたお秋が祐次郎に問いかけているところであった。
「団子は一串五個で五文、饂飩は薬味が入っていない物で十六文、茶は一杯四文が相場で、酒は店にもよるが二十文から三十文ってところだ。直太郎、いくらだった」
祐次郎はお秋の問いに答えながら、出てきた直太郎に向き合った。
「百五十文、銭緡を二本持ってくりゃよかった。一朱金を払って百文の釣りだよ。懐が銭で重くなるばっかりだ」
「すまねえな。一本持とうか」
「ああ」
直太郎は懐から銭緡を一本取り出すと祐次郎へと渡した。
「その銭の束一本が百文なの」
通りを西へと向かって歩きはじめた直太郎の横にお秋が並んでついてくる。
「九十六文だよ」
「それでお店のお爺さんは、四文を別に差し出してきたのね」
お初も話に加わってきた。
酒が入った祐次郎と芳太郎は鼻歌交じりに後からついてくる。
「でも随分と半端ね。宿に向かう途中で両替したのも九六文なの」
「そうだよ、両替では銭緡一本で百文なんだ」
「じゃあ、足りない四文はどこにいったの」
「四文は両替屋の手間賃だよ」
「なるほどぉ」
道は東本願寺の門前から、行安寺、東国寺、正覺寺、廣大寺、永昌寺と寺ばかりが建ち並ぶ中を抜けていく。
下谷稲荷を過ぎた辺りから、武家地となりしばらく歩くと寛永寺の子院の立ち並ぶ通りへとぶつかった。目の前には車坂門が見えた。
直太郎は子院を右手に見ながら不忍池を目指して歩いて行った。
「ここも絵になる景色ねぇ」
広い通りに出たところでお秋が辺りを見回して呟いた。
「ここは下谷広小路、右が寛永寺で正面が不忍池だ」
直太郎は広小路を横切るようにして、不忍池の方へと向かって行った。
「さて、まずは本格的な腹ごしらえといきてえが、祐次郎と芳太郎は大丈夫か」
「歩いたら腹もこなれた。また食えるぜ」
直太郎は不忍池の畔、仁王門前町の一軒の料理茶屋を選んだ。
東本願寺の前で入った茶屋よりも立派な普請で、何よりも窓から見える不忍池の光景に一行は喜んだ。
直太郎は、店の二階座敷に上がれないか交渉をした。直太郎達がこの店を訪れるのは初めて、いわゆる一見の客、初回の客であった。しかし昼時を大分過ぎていたこともあり、店には余裕があった。おかげで、直太郎達は二階座敷を使うことができた。
「いい景色だろう、不忍池の真ん中に浮かぶ島へは渡し船でお参りするんだぜ」
五人分の膳を注文してから、出てくるまでの間、外の景色を楽しんだ。不忍池に浮かぶ弁天島への橋ができるのは来年のことで、今は参詣に訪れた客が船で渡って行くのを祐次郎が指さしていた。
やがて膳が酒とともに運ばれてきて、皆、膳部の前へと座った。運ばれてきた膳の上には、蓮飯、田楽、炒り卵、香の物、椀は蕪骨と呼ばれる鯨の軟骨と針生姜の吸い物であった。
膳に向って手を合わせると、それぞれが思い思いの料理から手をつけた。
「どれもおいしい、というわけではないわね」
案内してくれた直太郎に遠慮してか、お秋が申し訳なさそうに呟いた。
「そりゃあ仕方がないよ。必ずしにも俺らの口にあった味付けじゃないし。手に入るものだって違うしな」
男衆は膳のものを残さず食べたが、女衆は蓮飯をわずかに残した。
なにがしらの心付けを加え、一分と二朱を払い料理茶屋を後にした。
帰りがてら寛永寺を見物して行くことになった。黒門を抜け、吉祥閣、阿弥陀堂と釈迦堂を左右に配した文殊楼と順に見て回った。
境内に参詣の人は多かったが、敷地が広いので混み合ってはいなかった。
「ここにある建物って何で残らなかったの」
伽藍の並ぶ根本中堂のあたりでお初が疑問を口にした。現代ならば上野公園の大噴水の辺りになる。
「戦で焼けちまったんだ」
直太郎が小声で答えた。混み合っていないとはいえ、用心に越したことはない。
「空襲とか」
お初も直太郎に倣い、小声で話した。
「いや御維新さ」
直太郎の声はさらに小さくなった。さすがに徳川幕府が転覆する話しは憚られる。
「彰義隊っていう徳川の旗本達が立て籠もって、官軍とやり合って燃えちまったよ」
直太郎は、そう言うと、この話はこれでお終いというように手を振った。
中堂を抜け、御本坊の前に来たが、中には入らずに門前だけを見学すると道を右の曲がり、屏風坂を下り屏風坂門を潜った。
「来るときに通った道か」
芳太郎が辺りを見渡した。
「ちょっと違うな。さっきの道は二町ばかり先だ」
祐次郎が道の向うを指さした。
「ここは屏風坂門を抜けたとこで、正面は高岩寺で御本尊は延命菩薩地蔵。俗に言うとげぬき地蔵だよ」
「とげぬき地蔵って巣鴨じゃなかったっけ」
「御維新のあとに動かされた」
お初が言うのに直太郎がまたしても小声で答えた。
高岩寺の脇から路地に入り、寺社地と武家地の間の辻を二、三度折れると、下谷稲荷のところで来た時の道に戻った。
「ここからは当分真っ直ぐだ。のんびり帰ぇろう」
各寺の門前を覘きながら、ときには土産物屋を冷やかしがてら宿への道を戻ってきた。途中、駒形堂でお参りをする頃には、日が落ちてきて、大川の水面が茜に染まり美しかった。
「帰りましたよ」
「おかえりなさいませ」
宿に帰り帳場へと声をかけると、目が青く光って見える五十をいくつか過ぎた年恰好の落ち着いた感じの男が出迎えた。
「おいでになったときには、留守をしておりまして相すみませんでした。手前は、倉前屋の主、伝衛門でございます。さ、湯も沸いておりますし、今はちょうど他のお客様もおりませんので、風呂を使ってしまってくださいまし」
伝衛門に勧められ、挨拶もそこそこに離れに戻ると、手拭いを持って母屋の風呂へと急いだ。
伝衛門の言う通り、風呂には他の客がおらず直太郎達は悠々と湯を使うことができた。
祐次郎は上がり際、女湯へと向かって壁越しに大声で先に上がって、夕餉の支度を頼んでおくと声をかけると、上がり湯を何杯か被り風呂から上がった。
風呂からあがると、ちょうど入れ替わりに入ってきた他の客と擦れ違いになった。
離れの雨戸は閉められており、中は行灯が灯されていた。台所では宿の女中が夕餉の支度をしている。夕餉の支度と言っても、ここで女中が料理をしているのではなく、母屋の台所で作った汁の鍋などを温めなおしたりしているのである。
「いい湯だったぜ」
祐次郎が女中に声をかけた。
「おかえりなさいまし。膳は運んでもようございますか」
「おう、頼まぁ。俺っちも手伝うぜ、どれを運びゃあいいんだい」
「あたしがしますよぉ、お客様にそんなことをさせたら、番頭さんに叱られます」
「いいって、俺りゃ、そんなに上等なもんじゃねえよ」
祐次郎はそう言いながら、女中が椀を整えた膳から運びだした。
離れの部屋は、いったん布団を敷いてから、それを折り畳むようにして膳を並べる場所を作っていた。
女中と祐次郎が手分けして膳を運び、食事の支度を終えた頃に、お初とお秋も風呂から帰ってきた。
「うわぁ、真っ暗ね」
行灯の光というものは時代劇で見るよりもはるかに暗い。この離れでは贅沢にも部屋の四隅に行灯を置いてはいるが、お秋が想像するよりも、あまりにも暗かったことがお秋の言葉に表れていた。
「夕餉の菜ですが、いさきの刺身、それと白魚と豆腐の煮付け、そして筍の付け焼きでございます。椀は蛤の吸い物になります。飯はお櫃に入ってますので、よそって食べてください。飯が足りなければ母屋の帳場に声をかけてもらえれば新しく持ってきます。食べ終わった膳は台所に下げておいてもらえれば、明日の朝餉の支度のときに片付けます。酒はとりあえず、銚子に三本ほど付けておきましたが、足りなければ台所に徳利が置いてありますので、注ぎ足してください」
女中はぺこんとお辞儀をすると離れを出て行った。
「ここでは、俺らみたいな旅の者が寛げるように、飯の支度が終わったら朝まで宿の者は来ないんだよ。だから、自分達で台所までは下げ膳しなけりゃならないけど」
「あたしは、このほうがいいな。江戸潜りが二度目でも今回は言葉使いや、話の内容には気を使うし、けっこう緊張するんだよね」
「そんなことより、まずは乾杯しようぜ」
祐次郎が待ちきれないといった様子で杯を手酌で満たした。
祐次郎に促されて、お初が直太郎の、お秋が芳太郎の杯を満たすと、今度は直太郎と芳太郎が銚子を取ってお初とお秋の杯に酒を注いだ。
「それでは、お秋ちゃんの初めての江戸潜りにかんぱーい」
「直太郎、祐次郎、御苦労さま」
「かんぱーい」
母屋と隔離されている離れでは、それぞれが現代の大学生の気分に戻って寛いだ。
食事はどれも美味そうである。
「この料理、ぜんぶ美味しい」
「ここの飯は、俺らの口に合うようなものを選んでいるんだよ。それと料理人の腕もいいしな」
「いつの時代でも、旅籠の料理は変わらないの」
「大違いだよ。どの時代に旅しても俺らが泊まる旅籠は飯が上手いけど、その時代にない料理は出せないしね。品書きはぜんぜん違うよ」
「どの時代の料理が一番好き?」
「そりゃあ文化、文政の頃だ、なぁ」
祐次郎は直太郎に同意を求めるように言葉尻を伸ばした。
「確かにね、文化文政の頃に今の和食にある料理はほぼ出揃うし、文化的にも爛熟期に入って、世情も安定してるし。その頃の飯が一番美味いね」
「行ってみたいなぁ」
「おいおい、お秋ちゃんよ、まだ初めての江戸潜りの一日目だってぇのに、次の潜りの話かよ」
「いいじゃん、あたしゃ江戸が気に入ったよ」
お秋のふざけた台詞を背に聞きながら、直太郎が空になった銚子に新たな酒を入れるために台所に向かって行った。
こうして江戸旅行の一日目が暮れていった。