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江戸リーマン  作者: 小菅八三六
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出発前夜

年齢や、時代を合わせるのって大変ですね。


 午後一時までは、あと15分くらい時間がある。直人、祐二、芳男の三人は仙台駅の新幹線ホームの売店で駅弁を選んでいた。そんな様子を見た初音が

「あんたたち、結局、駅弁にするの。時間大丈夫なの?」

 とペットボトルの飲み物とお菓子を買いながら言った。

「大丈夫だろ。なんだかんだ言ったって、東京まで45分あるんだから。食っちまえるだろう」

 祐二が弁当の代金を払ったときに、ホームへリニア車両が入って来た。

 東北新幹線のリニア化は、昨年、仙台、東京間の工事が終わり、とりあえず終了した。仙台から北へ延ばす計画はあるものの、着工の予定は決まっていない。仙台から東京の間も、いままでの鉄道の新幹線も残っていて、リニアの路線と並行して走っている。

 だから仙台から北の乗客は、仙台でリニアに乗り換えるか、もしくはそのまま東京まで鉄道の新幹線で向かうか、好きな方法を選べばよかった。リニアの料金は仙台東京間で、鉄道の新幹線の1.3倍くらいの料金だから、いまのところは鉄道の利用者もけっこういる。

 男たちが弁当を買い終えて、一行はそろって車両へと乗り込んだ。

 3列シートの側に窓側から芳男、直人、祐二と座り、通路を挟んで2列シートに初音、秋穂と座った。

 席に着くと男たちは、すぐに弁当を開いて食べ始めた。

 定刻の13時が近づくころ、車内に発車のアナウンスとメロディーが流れ、そして、車両は全く揺れることなく、滑るように動き出した。

「それにしても、リニアはすごいよね。東京まで45分で着いちゃうんだもんね」

「おれたちが子供のときって、日本は、すげえ不況だったよな。それが江戸旅行の方法が発見されてから、急に景気が良くなってさ。江戸のおかげでこのリニアもできたみたいなもんだよな」

 仙台駅を発車してしばらくしてから、通路を挟んで、初音と祐二がそんな話をした。

「でも、江戸のおかげで、なんで景気が良くなったの」

 秋穂が聞いてきた。

「江戸との取引のおかげさ。ちょっと待って。これ食ってから話す」

 祐二は、弁当の残りを口に放り込むと、弁当等の空き箱を無造作に買い物袋に放り込んで、足もとに置いた。

「俺らが小学生くらいのときに、すっげえ不景気になったの覚えてる?」

 弁当を食べ終えた祐二が話を再開した。

「ええ、サブプライムローン問題とか、アメリカの大きな証券会社が倒産して、世界中で不景気になったでしょ。詳しくは分からないけど、子どもでも大変なことが起きてるなってことは感じてたよ」

 秋穂が答えた。

「そう、で、日本の経済も大変なことになったんだけど、その年から何人もたてつづけに、日本人がノーベル賞を取っただろ、その発見の中に時間旅行へつながる方法があって、それが今の江戸旅行を可能にしたんだ」

「それも覚えているわ、ニュースでもすごい大騒ぎになっていたし。でも、江戸旅行が可能になって、なんで景気がよくなるの」

「江戸と取引をすることで儲かるからさ」

「どんな取引をしてるの?」

「ちょっと話が変わるんだけどさ、今回、俺らが旅行するときに使う、江戸時代のお金ってどうやって手に入れてると思う?」

「小判とかでしょ、昔の物で残っているものを使っているか、新しく作っているんじゃないの?」

「初めの頃は、コレクション用の物を使ったり、新しく作ったりもしたけど、金の価値が合わないから大変だったのさ。それに過去と現代の物質量を同じにしなくちゃいけないから、現代の金を江戸に持ち込むわけにはいかないんだ」

「物質量を同じってどういううこと?」

「わかりやすく言うと、いまコレクション用に現存する小判を江戸に持っていったとするだろ、そしてそこで使ったとする。そうすると江戸時代には現代から持ち込んだ小判のオリジナルが存在するはずだから、江戸時代に流通していたオリジナルと現代から持ち込んだものの二つが存在することになっちゃう。そして、それら二つが現代まで残ったとすると、小判は2枚に増えちゃうよね。単純に考えて、その小判に使われた金の物質量が2倍になっちゃう。でも、これって考えてみると変な話だろ」

「なんか、難しそうね。で、それで景気の関係は?」

「せっかちだなあ、で、その物質の総量のバランスが崩れないようにするためと、両替用の小判の調達のために江戸との取引きを始めたんだ。物質の総量のバランスを取るっていっても、厳密に江戸に何かを何グラム持ち込んだから、何グラム持ち帰るってわけじゃない。例えば、江戸からタンスを買ってくるとするだろ、そのタンスに使われている木材とほぼ同じ量の木材を江戸に持ち込んで売りさばいて物質の総量のバランスを取った上に、金儲けもしようというわけだ」

「でも、そんなのって大変じゃないの。タンスばっかり買うわけにはいかないでしょ。服とか本とか。現代から同じ量の物質を持ち込むってことを考えてたら取引にならないんじゃないの。江戸で売れるものっていっても難しいだろうし」

「そうでもないんだ。世の中を循環する物質。っていう言い方だと難しいか。つまり、燃やしたり腐ったりして土に還るものは所詮、ほとんど炭素と窒素の塊だから江戸から服を輸入した代わりに木材を輸出してもOKなんだよ。だから、自然界から取り出されると、自然界にはなかなか返さない物、例えば金なんかがそうだけど、そういうふうに循環しにくいものの量にだけ注意してればいいんだ。何しろ江戸から輸入するものって、ほとんど木と紙でできているわけだから」

「そうするとね、江戸の物って材料費も人件費も安いでしょ。物質のバランスが取れても、お金は儲からないんじゃないの」

「そうでもないよ。例えば砂糖なんかは、江戸時代、すごい貴重品だからね。高値で取引できるし、そういったものを売ったお金の一部は、旅行者用の両替用に現代に持ち込んで、あとは工芸品や浮世絵なんかを買って、現代で売りさばくんだ。ただし、現代に持ち込んで本物が二つにならないように、美術品なんかは現存しているものや歴史に影響を与えたものは持ち帰れないけどね」

「やっと、わかってきたわ。江戸は日本の独占市場だから時間旅行が可能になったおかげで、日本の経済が立ち直ったってわけ」

「そういうこと。江戸との取引は、江戸リーマンたち、日本の商社が江戸と取引をする独占状態だからね。初音が内定をとった三越なんかも、江戸リーマンが仕入れてきた江戸の商品を外国へ販売するんで景気がいいだろ。しかも、両国にできた江戸東京散歩園なんかが目当ての外国人観光客で旅行業や何やらみんな景気がいいしね」

 祐二と秋穂がそんな話をしている間にも、リニアは東京を目指して順調に進み、定刻どおりに東京へと到着した。

 東京からは、山手線で秋葉原まで行くと総武線へ乗り換えて、両国へと向かった。


「ついに着きましたよー。江戸オタクの聖地、両国」

両国駅の総武線を降りたホームで祐二が声を張り上げた。

「秋穂がくるくらいだもの、もう今は、両国はオタクだけのものじゃなくなったわよね」

 初音が荷物を持ち直した。

「でも、なんかまだ慣れないかな。東京には何度も遊びに来てるけど、両国なんか興味なかったし」

 秋穂は、キャスター付きの旅行鞄の引き手を伸ばした。

「で、最初はどこに行くの」

 秋穂が続けて聞いた。

 両国駅のホームから見て、北側に両国国技館と時間移動場のある江戸東京博物館がある。建物自体は昔からあるものを使っているし、博物館としても運営されているので外観は昔のものと変わりはない。

それでも、駅の南側の江戸東京散歩園が開園するのに先駆けて、それまで地下1階だった地下部分に時間移動場を造るのに合わせて地下は5階まで増築された。噂では、地下5階より下の階もあるらしいが、一般の観光客が入れるのは5階までとなっている。なんでもそこには時間旅行の装置の重要な部分があるらしく、テロ対策とかで、その存在自体も一般人には分からないようにしているらしい。

 駅の南側に目を向けると江戸東京散歩園があって、多くの観光客で賑わっていた。

江戸東京散歩園の敷地は、南北を堅川と総武線の線路の間、東西は隅田川と清澄通りに挟まれたさほど広くはない一画だが、これから拡張していくので、いまも清澄通りの東側で工事がおこなわれている。

 直人が、駅の出口へと下がる階段に向いながら、

「俺たちは、明日の午前中出発だから、今日は大江戸ホテルにチェックインして、そのまますぐに時間管理局へ行って、上府手続きと準備だよ」

 と話しながら先頭を進んだ。

「えー」

「なんだよ、秋穂」

「じゃあ、散歩園の見物はできないの」

「必要ないだろ、そんなの、これから本物の江戸に行くってのに、なんで作りもんの江戸を見るんだよ」

 秋穂が不満を芳男は取り合わなかった。

「秋穂ちゃん、あたしたちは、これから服も替えなきゃいけないし、髪も町娘風に結いあげなきゃいけないんだよ。それにコンタクトの装着と印籠の受取りとやることがいっぱいあるんだよ」

 と初音がなだめるように説明した。

「そっかー、あたし着物着るの苦手だからな。この際だから、トレーナーにレッスンでも頼もうかな」

 秋穂は納得したようだった。

 直人達が駅の西口を出ると、筵旗や横断幕を持った外国人の集団が署名活動をしていた。中には忍者の格好や芸者の格好をした者もいる。横断幕には、『異国の者にも江戸旅行の門戸を開け』と達筆で墨書きされていた。

「ねぇ芳男、あの外国人の集団はなに」

 初音が隣を歩いていた芳男に聞いた。

「俺も知らねえよ。なあ祐二、ありゃなんだ」

 芳男は初音の質問を祐二へと振った。

「ああ、あれか。まだ江戸への時間旅行は一般の外国人へは解放されていないだろ。それが人種差別だとか、不平等だとか騒いでる連中さ」

「なんで解放しないの」

 祐二の答えに秋穂が聞き返した。

「なあ秋穂」

「なによ」

「おまえ本当に検定三級とったんだよな」

「そうよ。この前、国分町のモツ鍋屋でみんなでお祝いしてくれたじゃない」

 祐二に馬鹿にされたような気がして、秋穂は言い返すようなしゃべり方をした。

「江戸時代って鎖国中だろ」

「ああ、そっか、そうだよね、外国人が江戸の町歩いてたら大騒ぎになっちゃうよね」

 秋穂は納得したように言った。

「ちょっと待てよ、大騒ぎどころじゃないよ。そんなことになったら、江戸の町はパニックだぜ。外国人も捕まって打ち首にされちゃうよ」

 祐二が大げさな身振りで首を切るように手を動かした。

「外国の偉い人とか、すげぇ金持ち、例えばアメリカの国務長官なんかは、向うに着いてから駕籠を使って江戸見物をしたらしいけどね。祐二が言うみたいに、江戸の日本に異国人がいるのは無理があるから、外国人というか、日本人に見えない人間には江戸旅行をさせられないんだよ。下手すりゃ歴史が変わってしまうかもしれないしね」

 と直人が説明した。

「日本人に見えればいいのか」

 祐二が聞いた。

「うん。なんか来年から暫定的にだけど、日系人には許可が下りるらしいよ。ただ、試験はすごく難しいみたいでさ、特に日本語は現代語も江戸ことばも流暢にしゃべれなければいけないらしいね」

「じゃあ、まだ当分は日本人の特権ってわけか」

 両国駅を出てから、横断歩道を渡り右に向って歩いて行く。それから東京江戸博物館の入口に向って左に折れると、正面に大きな階段が見えてくる。

「秋穂ちゃん、こっちだよ。博物館の見学と散歩園のチケットセンターは、そっちの大階段を上るんだけど、旅行者は1階の入口から入るんだよ」

 初音が博物館を初めて訪れる秋穂に声をかけた。

直人を先頭に全員は大階段の脇の道を建物の1階入口へと歩いて行く。

 博物館の1階へと入ると正面に総合案内があって、そこが旅行者の受付となっていた。

「こちらは時間旅行の受付カウンターです。皆さまは旅行者の方々ですか」

 受付の女性がカウンターに向って歩いてきた直人たちへと声をかけてきた。

「はい。明日の午前の便で江戸旅行に行くんで、受付をお願いします」

 直人が代表して答えた。

「それでは、皆様順番に腕のICチップの読み取りをさせていただきます」

 受付の女性はそう言うと、カウンターの端末を操作するとハンディ・リーダーを手に取った。

 まず、直人が左腕を差し出した。

 受付の女性が直人の左手首のICチップが埋め込まれて、わずかに膨らんだあたりにリーダーをかざした。ピッと短い音がして、受付の女性はリーダーをカウンターの上のスタンドに戻すと、

「牟礼直人様、本人確認を行いますので、こちらのカメラの方をご覧ください」

 直人は受付カウンターから垂直に60センチほど伸びた支柱の先に付いているカメラのレンズを見つめた。

「はい、ありがとうございました。カメラから目を離していただいて結構です。虹彩認証、顔認証ともに本人を確認できました。最後にDNAサンプルを採取しますので、こちらのソケットに親指以外の指を一本差し込んでください」

 直人は、慣れた手つきで渡された直径5センチほどのボール型のソケットに人差し指を

入れた。受付の女性が

「それでは、そのままでお願いします」

 といいながら、端末を操作すると、ソケットの中で微かにカチッと音がして、端末のプリンターから3Dバーコードが印刷されたシールが出てきた。

「ありがとうございました。それでは、次の方、カウンターの前にどうぞ」

 受付の女性は、直人から受け取ったソケットに端末のプリンターから印刷されたシールを封印するように貼り付けながら、次の受付の案内をした。

 次に初音が、そして秋穂、芳男、祐二と続いて受付をした。

「お疲れ様でした。これで皆さまの旅行受付は終了です。続いて、江戸への出府手続きとなりますので、こちらの通路を進んでいただき、大江戸ホテルでチェックインをしてください。それでは良いご旅行を」

 受付の女性に見送られて、カウンターに向って左側の通路を進んだ。

「意外に簡単な受付だったね」

 江戸旅行が初めての秋穂が感想を述べた。

「個人情報は、全部腕のICチップから読み取れるからね。江戸文化歴史検定の級や旅行許可の情報も全部入っているから、本人認証をしてしまえば終りなのさ。でも、今の受付は、海外旅行で言えば、航空会社のカウンターで飛行機の搭乗手続きをしただけみたいなもんで、これから出国審査にあたる大江戸ホテルのチェックインがあるんだけどね。ただ、それも簡単だよ」

 芳男がツアー旅行でも同じ手続きだと解説した。

大江戸ホテルへは博物館の建物をいったん出て、すぐ裏手の建物になる。元は学校なんかがあったところだが、ホテルの新築に合わせて、学校は移転した。ホテルのさらに奥はNTTドコモのビルが建っている。

 ホテルの一階は、空港の手荷物検査場のようになっていて荷物をX線検査の係のホテルマンに手渡した順に、金属探知器のゲートを潜っていく。

 全員何事もなくセキュリティチェックを通過すると、奥のエスカレータを使って2階のホテルフロントへと向かった。

「いらっしゃいませ。ホテルのチェックインと出府手続きでございますね」

 カウンターを訪れた直人らにホテルのフロントの係が声をかけた。

「ええ、明日の便で江戸に行くので、おねがいします」

「かしこまりました。それでは、左手のICチップをお願いいたします」

 ここでも、ホテルの係がICチップのハンディ・リーダーを用意しながら言うので、直人は左手を差し出した。係は、差し出された直人の左手にリーダーを近づけると、ICを読み取り

「ご予約の牟礼直人さまでございますね。お連れの方もICの読み取りをお願いいたします」

 係にそう言われて、直人以外も順に左手を差し出してリーダーで読み取りをした。

「仁志田芳男さま、片岡祐二さま、横田初音さま、篠山秋穂さま、でございますね。いつもご利用ありがとうございます。篠山さま以外は、時間旅行のご経験がお有りのようでございますが、この後の手続き等についてご説明はいかがいたしましょうか」

 全員のICを読み込んで、端末に表示された画面を確認しながらフロントの係は言った。

「大丈夫です」

 直人が答える。

「篠山さまは、いかがいたしますか」

「わたしたちが一緒にいきますから大丈夫です」

 こんどは初音が答えた。

「さようでございますか。それでは、みなさまのお部屋ですが、15階の並びのお部屋になります。牟礼さま1510号室、仁志田さま1512、片岡さま1516、横田さま1518、篠山さま1520号室となっております。キーはみなさまのICチップが代りとなりますので、お部屋の入口脇のリーダーに翳していただければ、開錠いたします」

 ホテルのフロント係は、そう言いながら、カウンターの呼び鈴を鳴らした。

 するとベルボーイが一行を案内しようと早足でやってくるのを

「あ、大丈夫です。自分達で行けます」

 直人がそう言って案内を断った。

「それでは、エレベータは、そちらでございますので、15階までご利用ください。それではごゆっくりと」

 皆でフロント係に軽く礼をすると、エレベータへと向かった。

 エレベータは、先ほどのベルボーイがボタンを押して、扉をあけて待っていてくれた。行先のボタンもすでに押されている。

 エレベータのドアが閉まるのに合わせて、ベルボーイがお辞儀をして一行を見送った。

「それで、これからどうしようか」

 15階へと向かうエレベータには、彼らしか乗っていない。最初に口を開いたのは初音だった。

「まず、それぞれの部屋に入ったら、荷物をおいて、一息ついたら着替えに行こう。10分後に僕の部屋集合でいいね」

「OK、準備するもののないし、いいんじゃないかな」

 直人の提案に祐二が答えた。

 話をしているうちに、エレベータは15階へと到着し、芳男がエレベータの開扉ボタンを押しっぱなしにして、他の皆を先に降ろした。

 エレベータを降りたところで、秋穂が

「なにか持っていく物はないの」

 と言い出した。全員、それぞれの部屋に向って歩いていく。

「両替もしちゃうから、財布かな。あとは必要なら携帯とかも持っていけばいいけど、荷物が多いとあとで邪魔になるぞ」

 祐二が自分の部屋にたどりついて、腕を部屋の扉の脇のICリーダに当てながら答えた。

「それじゃあ、10分後」

 直人は全員に声をかけると、自分の部屋へと入った。

 直人は、部屋の扉のドアチェーンを、扉が開いたままで先に倒して、とびらがロックしないように隙間を開けて開いておく。こうしておけば、みんなが集合するとき、いちいちドアを開けに行かなくて良い。それからトイレに入った。

 直人がトイレに入っている間に祐二がやってきた。

「おーい、もういいかい」

「おう、いいよ」

 祐二が部屋に入ってきながら声をかけてくるのに、トイレの中から直人が応じた。

 直人がトイレから出てくると、

「俺もトイレ使わせて」

 祐二が入れ替わりにトイレに入った。そうしている間に芳男も直人の部屋にやってきてそれからしばらく、男だけで話をしていたが、約束の10分が近づくころ、初音と秋穂が部屋がノックした。

「さて、みんな来たし、まずは着替えからいくか」

 初音と秋穂は部屋に入らずに廊下で待っているところへ男どもが部屋から揃って出てきた。直人は最後にドアチェーンを元に戻して、部屋の扉を閉めると、ドアがちゃんとしまったことを確認した。

「髪のセットは後なの」

 と秋穂、それには初音が

「男の人はまだしも、女の人は髪型が大きいでしょ、頭からかぶる服なんかを着ていると髪をセットしちゃうと脱げなくなるから、着替えの方が先なんだ」

 と答えた。

 一行は、エレベータで4階へとおりた。

 4階は、『呉服屋』とか『髪結』とかの看板をかかげた店がならぶちょっとした商店街のようになっている。

 ただ、造りは江戸の町を模していて、そこで働く人も着物に丁髷という格好だった。ただ、いかにも作り物といった感じで、まるで映画のセットのようだった。

 秋穂を除いては江戸旅が初めてではないので、珍しそうにしてはいないが、秋穂はすれ違う店員や他の旅行者の髷が気になるようで、しきりに他人の頭の辺りばかりを見ている。

 5人は、まずその中の『呉服屋』入っていった。

「いらっしゃいませ」

 手代風の店員が近くにやってので、祐二が店員に向かって手で人数を示した。

「明日から1週間の江戸旅行なんで、着替えをお願いします」

「さようでございますか、それでは男性の方はこちら、右手の部屋にお進みください。女性の方は左手の部屋にお進みください」

 と案内された。

「それじゃ着替えたら先に髪結に行ってるから」

 祐二が初音と秋穂に声をかけると男性用の部屋に向かって行った。

 部屋は、40畳ほどの畳敷きで、靴を脱いで入った祐二達を部屋の係の店員が迎えた。

「いらっしゃいませ。それではこちらの方にお進みください」

 三人は、案内されるままに等身大の鏡と人数分の行李が準備された部屋の隅へと進むと

「それでは、みなさまICチップの読み取りをさせていただきます」

 ここでも店員がハンディ・リーダーを取り出して言うので、それに従い左腕を差し出すと順に読み込ませていく。

 店員は、読み取りを終えたあと、それぞれの行李に埋め込まれたICチップにデータをうつしていった。

「それでは、お好きな着物をお選びください」

 店員がそう言って等身大の鏡の縁のボタンを操作すると、鏡に様々な着物が映し出された。

「おれ、自分の物を着ていこうと思うんですけど」

 祐二はそう言って、自分の持ってきた着物を店員へと差し出した。

「ちょっと拝見しますね」

 店員は祐二の差し出した風呂敷包みを受け取ると中をあらためた。

 傍らでは、直人と芳男が着物をどれにしようかと選んでいる。

「これは、単衣でございますね、みなさまが今回旅行される先は、1671年の4月30日からの1週間。となりますと旧暦の3月21日からの7日間ですので、単衣には少々早い季節でございますね」

 店員は風呂敷の中の着物を取り出し、畳の上に広げながら答えた。

「前回の旅行で見つけて気に入って買った柄なんだけど、やっぱダメか」

 祐二はがっかりした様子だったが、

「そんなことございませんよ。7日間のご旅行ですから、念のために予備の着物を持っていった方がようございます。一着はレンタルの物をお選びになって、こちらの単衣は、明日の出発までに袷に直しておきますので、向うに着いてから着替えればよろしいと思いますが。ただ、御直し料が材料費込みで八千円となりますがよろしいでしょうか」

 と店員が祐二に提案した。

「え、そんなこともできるの。八千円でOK、やってください」

 店員の提案に祐二の表情はうれしそう綻んだ。

「かしこまりました。それでは今から着替える着物をお選びください」

 店員に勧められた祐二も直人と芳男が服を選ぶ輪に入ってきた。

 鏡での着物選びの手順は、まず最初に鏡が画面になって、そこにカタログのように小さく着物が何着も映される。その中の気に入った物を指で軽く触れると、それが等身大に大きく映し出される。

それに自分の顔がちょうど首の上にくるように人の方が動いて位置を合わせる。まるで観光地にある、人の体の絵から首だけを出して記念写真をとる、あれのようなものだ。

お世辞にもリアルと言えるものではないが、それなりに雰囲気はわかる。

その着物が気に入れば、鏡の画面の選択ボタンを手で触れ、その着物が倉庫から自動で運ばれてきて、鏡の脇の受取口に出てくる。

気に入らずキャンセルを触れば元のカタログ画面に戻る。この繰り返しで選んでいくのだ。

三人があれこれと着物を選んでいる間にも、店員はそれぞれの行李の前に褌を三本ずつと足袋を三足ずつ、手際よく準備していた。

やがて三人は着物を選び終え、それぞれの手元に直人と芳男は二枚の袷、祐二だけは、一枚は自分の物を持ち込むので、一枚だけを手にしていた。

そして店員から褌と足袋、そして帯を受け取ると鏡脇の着替え用の小部屋へと入った。

最初に着替えを終えて出てきたのは芳男だった。

「お似合いでございますね。えー、このあたりを少し直しますね。失礼します」

 店員は、芳男の襟のあたりを慣れた手つきで直していった。すると直す前に比べて、襟の辺りがすっきりとした。

「よし、完了」

 続いて出てきたのは祐二だった。

「お疲れ様でした。これまで着ていたものは、そちらの行李に入れておいて下さい」

 店員に言われて、芳男と祐二が現代の服を行李に入れた。

 すぐに直人もでてくると、同じように自分の現代服を行李に入れた。

「お履物は、下駄だけでよろしいでしょうか。草履もお持ちしますか」

 店員が聞いてきた。

「どうする」

 祐二が残る二人に問いかけた。

「あんまり荷物を増やしたくはないよな。草履って必要なのか」

 芳男も判断がつかないのか、直人の方に目を向けた。

「別にあらたまったところに行くわけじゃないから、いらないんじゃないかな。ただ、初音たちがどうするかだけど。とりあえず、今はいらないけど、あとで初音たちと相談してやっぱり必要そうだったら、もう一回来よう」

 直人が言ったことで決定となった。

「かしこまりました。それでは着替えの着物や現代の服は、お部屋の方に運んでおきますので、次に髪結へとお進みください」

 店員に見送られ三人は『呉服屋』を後にした。

「あいつら終わったかな」

 呉服屋を出たところで祐二が女性陣の支度を気にした。

「まだだろう、女の子は着物を選ぶのだけでも時間がかかると思うぜ」

 芳男がそう答えて、

「だよな」

 と直人もそれに応じた。

 次に三人は『髪結』と看板のかかった店へと移った。

 そこは美容室のようになっている店だった。

「いらっしゃいませ、髷ですね。ICチップを拝見します」

 ここでも店員はハンディ・リーダーを使って、三人のICチップを読み込んでいった。

 店員に案内され三人は椅子に座ると、美容室や床屋で使うような布を肩から巻かれて、てるてる坊主のような恰好になった。

「お客さの旅行先はと」

 店員はそう言いながらハンディ・リーダーの表示を見た。

「寛文十一年でございますね。そうすると、この時代の町人髷は、これとこれが標準的なものでしょうか」

 そう言いながら、やはり鏡に髷を表示させた。

 鏡には髷のカツラのようなものが表示され、店員はそれを手でドラッグして、鏡に写る直人達の頭に位置に重なるように持っていった。

「これなんか、どうだろう」

 芳男がカタログの一つを指さした。

「本多髷でございますね。これは若旦那などが好んでする髷ですから、今の木綿の着物には合わないと思いますが。お召し物にあわせれば、このあたりか、このあたりかと」

 店員は、そう言いながら、カタログの中から二つばかりをピックアップしてきた。

「そしたら、これがいいな」

芳男は、その内の一つを選んだ。

「僕もそれでお願いします」

直人も芳男と同じ髷を頼んだ。

別の店員が芳男の後ろに立つと、月代を剃りますね、と声をかけるとバリカンで大胆に頭の真中あたりを刈り込んでいった。

「俺はこれがいいな。どうだろう」

 祐二は、二人が選んだものとは別の髷をカタログから選んだ。

「これは職人が好んでする髷ですね。お客様は、口調も伝法ですし、よいと思いますよ」

「じゃあ、これで」

店員も勧めるので、祐二はこれに決めた。

店員たちは、直人と祐二の髷をいったん解くと、月代をきれいに剃った。そしてから直人には、小さな控えめな髷を結った。

正面からはちらりとしか見えない髷先などは頭から落ちかけているような状態で、髷尻もぽっちりとして短く小さく結い上げた。

祐二には髷尻短く反りあがった、全体に太短い髷で先を散らして男っぽく結い上げていった。

一方の芳男は月代を剃り上げたあと、短い髪の毛に長い毛を付け足していた。これはカツラメーカーが開発した技術で、頭皮に特殊な接着剤で張り付けていくもので、雨や汗、引っ張っても簡単にははがれないようになっている。

もともと髷を結っていた直人と祐二は、店員の手際の良さもあってすぐに終わった。

「じゃあ、俺ら、そこの茶屋で待ってるわ」

「おう、わかった」

 祐二が芳男に声をかけ、芳男が了解の返事をするのと同時に初音たちも店へと入って来た。

「うわ、芳男も髪なくなったね」

 初音が芳男の頭の月代のあたりを覗き込むように見た。

「なんだよ、髪なくなったって。月代とハゲを一緒にするなよ」

 と芳男が鏡越しに口を尖らせて初音を見た。

「おまえら早かったじゃないか」

 祐二が初音たちと擦れ違いざまに声をかけた。

「うん、家でインターネット使って、着物は選んで、予約しておいたんだ」

「なるほど。おれらさ、そこの茶屋で待ってるから、終わったら来いよ」

 祐二がそう言って店を出ていこうとするところへ

「ちょっと待って、あたしたちはまだ時間かかるよ。そのあいだに両替もしてきてよ」

 初音がそう言いながら、七十七銀行の封筒に入ったお金を差し出した。

「それじゃあ、俺のも頼むわ」

 芳男は、椅子に座ったまま、もぞもぞと動くと、てるてる坊主のような恰好の裾から現金をむき出しのまま出してきた。

「わかった。秋穂は」

 祐二の問いかけに秋穂も頷くと、封筒に入った現金を無言で差し出した。

「じゃあ先に行ってるね」

 直人と祐二は店を後にした。

 店を出てから、直人が祐二に

「なあ、秋穂のやつ元気がなかったように見えなかったか」

 と話した。

「あ、そうだったか。腹でも空いたんじゃないか」

 祐二は気にならなかったようだった。

 二人は、分銅看板のぶら下がる店の前にきた。

「芳男は十万か、俺も十万でいいしな。えーと、初音と秋穂は十五万ずつか。合計で五十万か。直人はいくらにするんだ」

「僕は二十万かな」

「けっこう替えるな」

「ああ、買いたい物もあるしね」

「そっか」

 祐二と直人は、そんなやり取りをしながら、両替の列に並び、自分達の順番が来るのを待った。

 やがて祐二が先にあいた窓口に行き、次いで順番の巡ってきた窓口に直人が行った。

「二十万、寛文十一年でお願いします。十万円を小判で、残りを一分でお願いします」

 直人は窓口で伝えながら、二十万円を差し出した。

 両替の窓口の女性は、二十万円を受け取ると、それを傍の検札機にかけながら、小判を2枚と一分金を8枚用意した。

「それでは、慶長小判2枚、十万円分と、慶長一分金8枚、十万円です」

 と差し出してきた。

 直人と祐二は両替を終えると、そろって茶屋へと入り、

「さて、あとは全員揃ったらコンタクトと印籠だな」

 祐二が注文したコーヒーにミルクを入れながら残りの準備を確かめた。

「そうだね。でも秋穂は財布とか紙入れはいいのかな」

 さっき両替えしてきた小判を自分の財布、それも現代のではなく江戸時代の財布に入れながら直人が応じた。

「じゃあ、コンタクト入れに行く前に小間物屋だな」

 そこに芳男も茶屋へと入って来た。

「お、すっきりしたじゃないか。どうだ、久しぶりの髷は」

 祐二が芳男の頭を見て言った。

「すーすーするよ。この辺りが青いのって江戸時代は格好悪いんだろ」

 芳男は自分の月代を撫でた。

「そんなことないよ。病気がちの軟弱者は、あんまり外に出ないから日に焼けない、だから月代が日に焼けてないあいつは軟弱者だ、みたいなことが言われたっていう話だけど、実際に江戸に行けば、青くない月代はハゲてきたってことだから、月代に塗るアイシャドーみたいなものまであったくらいだよ」

「直人が、そう言うんだったら大丈夫かな」

「それより芳男、両替してきたぞ。ほれ十万円分、小判一枚と一分金四枚」

 芳男は、祐二が無造作に渡す小判を受け取って財布へと仕舞った。

 しばらく男三人で今回の旅行での予定について話をしていると。そこに髪を結い上げた初音と秋穂がやってきた。

「お、できあがったか。時代劇でみる髪方なんかより、ずいぶんと小さいんだな」

 二人の髪方を見て芳男が言った。

「時代劇の髪方は江戸時代の中ごろの髪方で、横の方に広がってるでしょ。今回の旅行は江戸時代の初めのころだから、元禄島田っていう、島田髷より細めの髪型らしいの」

 初音が説明した。

「江戸の人間は流行にうるさいからな。ずれた髪型してると目立っちゃうからな。それよりどうする、これからすぐにコンタクトに行くか、それとも少し茶でも飲んでくか。あ、それと秋穂の小間物どうする。財布とか紙入れとか」

 祐二が二人に矢継ぎ早に質問をした。

「小間物はあたしのを貸してあげることにしてるからいいや。自分のが欲しくなったら、向うで買えばいいし。それより着替えと髪結でのどが渇いたから、茶を一服してから行きましょう」

「一服ときたかい」

 初音と祐二のやり取りを、秋穂は黙って聞いていた。

 初音と秋穂も飲み物を注文し、それが出されるまでの間に、祐二は小判と一分金を二人に渡した。それと今夜の食事はどこにするか相談され、秋穂のパスタが食べたいという意見で、ホテルのイタリアンレストランを予約した.

「ところで5万円で一両って、高いの安いの?。どの時代に旅行するときも両替レートって変わらないんでしょ、物価の変化は考えていないのかしら」

 初音問いに対して祐二が

「そのあたりは、江戸オタクの直人から説明してもらいましょう」

 と答えた。

「なんだよ、その振り方は、まあいいや、一言でいえば、両替のレートは、だいたいこんなものなら旅行者は文句を言わないだろうってあたりで固定してる。現代の為替レートみたいなのがあるわけでないから、航時局で一両を作り出すコストに儲けやら、何やらを乗せて、それで旅行者が文句を言わないあたり、つまり、向うで一両出して遊んだ時に5万円分満足出来りゃいいかなって具合で決めてるんだ」

「ふーん。わかったような分からないような。そもそも一両って、現代の円に直すといくらなの」

「答えは直せない。そもそも物の価値が違うからね。今回の旅行で使う、この慶長小判だけど、小判の重量は17・75グラム、金の含有量が86%くらいだから、金の重量だけで15グラムとしよう。現代の金相場が1グラム3000円とすると4万5千円だろ、だとすると、若干、損した両替レートに感じるだろ。けど、考え方を変えて現代で4万5千円分の米を買ったらならば150キロくらい買えるとするね。江戸時代の米の単位の一石は体積の単位だから、これもだいたいになるけど、米150キロは約1石になる。けど江戸時代、一両で買える米は、時代にもよるけど一石七斗、1.7石になる。米で換算すると7、8万円ってとこだね。それで、江戸時代の大工さんが1か月働いた稼ぎも一両だったから、これを現代の土建業の人の月給で考えると、まあ、年齢や経験で違ってくるけど35万円位になるだろ。こういう風に考えると、何を基準にするかで全然違ってくるから、一両を現代のお金に直すのって難しいんだ。って、初音分かった」

 直人は説明を黙って聞いていた初音に聞いた。

「ごめん直人、オタ話すぎて分からなかった」

 初音は申し訳なさそうに言った。

「オタ話って、とにかく一両を円に直すのって難しいってのは分かったよね」

「ええ、それは解ったわ」

「じゃあ、一両でできることを言うと、時代にもよるけど、江戸の中期で、にぎり寿司なら750人前、大根なら400本、蕎麦やうどんで375杯分、駕籠で日本橋の店から吉原まで店の主なんかがタクシー感覚で乗り付けて30回、観劇2回ってとこか、草双紙、本のことだけど278冊買えるのが一両だよ」

「だいたい、食料は割高なのね、それと大根高すぎ、400本っていうからすごいなって思うけど、スーパーで安売りしてれば100円でしょ、4万円だよ。っていうか寿司安くない」

「江戸の寿司は当時のファストフードだからね。マックに750回行ったって考えれば、まあまあかな」

「そうすると、一両5万円っていうレートは、まあ、納得がいくっていうか。なんか誤魔化されているような感じだけど、そんなに損をしているような訳じゃないみたいね」

「そうだね、本物の江戸に行けて遊べるなら、いいんじゃないかなってところだろ」

 それからしばらく仲間5人で旅行の話をしながら過ごし、次の準備へととりかかった。

「次がコンタクトだな。これ考えた奴って天才だと思うぜ」

 祐二はそう言いながら一行の先頭を進んだ。そして、まるでデパートの化粧品売り場のようなカウンターのが並ぶ店に入った。

「いらっしゃいませ。江戸旅行用コンタクトの装着でございますね。それぞれ、お一人ずつ席にお座りください」

 祐二から順にカウンターの前の席に横並びに座って行く。カウンターは化粧品売り場の化粧のお試しをしてくれるカウンターに似ている。

 全員席に着くと白衣を着た係が、祐二たち一人一人についた。

「それではみなさま、今回の旅行が初めての方もいらっしゃいますので、江戸旅行用コンタクトの説明をさせていただきます」

 カウンターの向こう側で係のひとりが代表して話し始めた。

「まずこちら、これが江戸旅行用コンタクトとなります。皆さんには後ほどこれを実際に装着していただきますが、これを装着することによって、江戸時代で皆さんが接触する人間の危険度がわかります。危険度といっても犯罪者などの危険ではなく、その後の歴史に影響をどれだけ与えるかの危険性のことを指しております。つまり江戸時代の重要人物が、未来人である皆様と接触を持つことで、重要な会合に遅れたりあるいは事故に遭うなどして歴史が変わってしまうことを防ぐために、接触を持つ事の危険度を表示するものになっております。しくみについて簡単にご説明いたしますが、現代の日本国民すべてのDNAデータと目の虹彩のデータから、それぞれの先祖の虹彩データを再現しております。皆さんが江戸時代に旅行して、江戸時代の人の目を見ると、その人の虹彩データは、これからみなさまに装着していただくこのコンタクトから、これとセットで持ち歩いて頂く、こちらの印籠に内蔵されたコンピュータへと送られ、そこでデータと照合、瞬時に相手の特定とこれからの日本の歴史への関与度合が判断されます。そして、その危険度に応じて、赤、オレンジ、黄色で相手の瞳が光って表示されます。また、実害のない人物は無色で表示されます。ここまでよろしいでしょうか」

 店員は江戸旅行が初めての秋穂の方へ視線を向けながらきいた。

 秋穂は、その視線に対して小さくうなずいた。店員は、それを確かめると、

「それでは実際に装着してみましょう。それぞれのお席に、皆さんの視力に合わせたコンタクトが準備されております。それを装着して下さい。難しかったり、わからないことがあれば、それぞれの係の者に言ってください」

 全員、コンタクトの装着にとりかかった。

 何回か江戸旅行を経験している直人と祐二、そして普段コンタクトを使っている秋穂はすんなりと装着し終えた。芳男と初音が少々手間取ったが、さほど時間がかからずに終わることができた。

 全員が装着したのを見て、店員が

「それでは、電源を入れます」

 それぞれの担当が六角の細い棒で、印籠の底のスイッチを捻った。

「では皆さん、担当の者の目を見てください。青く光ってますでしょうか。はい、正常に動作しているようですね。それでは、皆さんお互いの目を見てください。緑色に光っているかと思います。青は江戸旅行の関係職員、緑色は、他の旅行者の表示色です。いまはテストですので、皆さんお互いの目が光るように表示設定されていますが、今回の旅行中は、お互いの目が光ってたら気持ち悪いですよね、表示から除外するように設定しますので、ご安心ください。それでは、出発までの間、いったん電源を切っておきます」

 ふたたび印籠のスイッチが切られた。

「印籠の電池は一ヶ月充電しなくとも使用できますが、万が一、電池が切れた場合は、本体を日に当てていただければ、表面の太陽電池で充電できます。それからコンタクトは2週間使用できます。寝るときもそのまま装着していてください。印籠の中は、上の段は、普通の印籠と変わりありませんが、下の二段にはコンピュータと予備のコンタクト、そして目薬が納められています。開けるときは、皆さんの指で、ここの蒔絵の部分に触れながら引いて下さい。この蒔絵に見える部分が指紋の読み取り部分になっており、そこに本人の指をあてながらでないと開きません。もし、予備のコンタクトと交換した場合は、古いコンタクトを予備のコンタクトの入っていた場所に納めて、決して向こうの時代に捨てたりはしないでください。また、皆さんの体のICチップからこの印籠が30メートル以上離れた場合、もしくは下の二段を無理に開けようとした場合は、中の特殊溶液の入ったカプセルが破れ、コンピュータの機能を停止し、同時に未来から持ち込まれたものを消滅させますので、紛失等にはご注意ください。以上、なにかご質問はございますでしょか」

 店員は、直人たち全員を見回して、質問がないことを確かめた。

「このコンタクトと印籠の取扱説明書は、皆さまのお部屋へ備えつけてございます。当然のことながら、江戸には持ち込めませんので出発までにお読みください。また、なにか分からないことがあれば、ホテルのフロントまでお問い合わせください。それでは良いご旅行を。行ってらっしゃいませ」

 説明する店員に合わせて、それぞれの係の店員も頭を下げた。

 直人たちは、店を出ると時間を気にした。

「もう6時前か、どうする、飯は6時半に予約したから、ここで一旦解散して、あとでレストラン集合でどう。売店見たい人もいるだろうし、部屋に戻って休みたい人もいるだろう」

 直人の提案にみんなが同意し、ここで解散ということになった。

 しかし、他の店に向かう仲間はおらず、結局全員で、ぞろぞろと部屋へ向かうエレベータへと進んだ。

「なんだ、全員部屋に戻るのか」

 祐二がエレベータの中でくるりと回った。

「荷物の整理とかしたいしね」

 初音が答える。

「じゃあ、また直人の部屋に集合して、みんなでレストランに行くか、6時25分に直人の部屋でどう」

 祐二の仕切りで、直人の部屋に集合することとなり、夕食の時間まで思い思いに過ごすことになった。

 直人が部屋に帰ると、着替えのときに脱いだ服などを入れた行李が届けられていた。

 直人は風呂敷を広げると、そこに着替えの褌や足袋、袷の着物一枚に、手ぬぐい、矢立、紙入れなどを準備して入れていった。

 逆に現代の財布や携帯電話など、江戸旅行に持っていかない物を行李に詰め込んだ。

 荷造りを終えた直人は、江戸の町のガイドブックに目を通して時間を過ごすことにした。なにしりガイドブックは江戸時代に持ち込めないので、必要な部分は書き写すか、覚えるしかない。

 そうして、しばらくすると部屋のドアがノックされた。時計を見ると、6時半ちょっと前だった。

 直人が部屋の外にでると、そこに4人が揃って立っていた。

「じゃあ、行こうか」

 エレベータに乗り、ホテルの上層階にあるイタリアンレストランに向かった。

 レストランでは、予約していたのですぐに席へと案内された。

「俺はビールだな、みんなは何飲む」

「あたしはワインがいいな」

「僕も最初はビールをもらおう」

 それぞれが飲み物を注文し、それが届くまでの間に食べ物のメニューと向き合った。

 店の客で、丁髷に着物は彼らだけだ、あとは一般の外国人観光客やホテルの宿泊客だろう。外国人が彼らを見る目は、珍しいものを見るというよりは、むしろ江戸から帰って来たもしくはこれから行くと思われる直人たちに対する羨望の眼差しと言ってよかった。

「俺ら浮いてねえか。なんで、イタリアンなんだよ秋穂」

 メニューを読み終えた祐二が辺りの空気を読むように見渡した。

「だって、江戸に行ったら当分和食だけじゃない。向こうでは食べれない物がいいかなって思って」

「たった一週間だろ、そんな理由でイタリアンかよ」

 祐二がそう返したところで、飲みものが運ばれてきた。

 飲み物を運んできた店員に、食事の注文をしてから、それぞれが自分のグラスを持った。

「それでは」

 場を祐二が仕切る。

「明日からの江戸旅行の成功を祈って」

「かんぱーい」

 全員でグラスを合わせた。

「それより、秋穂、なんだか元気ないようじゃないか。どっか具合悪いか。向こうに行ってからの病気は大変なことになるから、なにかあれば早めに言ってくれよ」

 ビールを半分くらい一気に飲んでから、直人が気遣うように秋穂を見た。

「なんでもないの。ちょっと服が慣れないだけで」

 秋穂が静かに答えた。

「そっかー」

 祐二が突然、テーブルをとんと叩いた。

「なによ祐二」

 初音が祐二の動きの意味を聞いた。

「いや、秋穂さ着物の下に下着つけないことで戸惑ってるんじゃないか」

 祐二の言葉に秋穂が顔を赤くした。祐二は続けて

「大丈夫だって。そのうち慣れりゃ、普段も下着つけなくてもよくなるぜ」

「なりませんっ。もう、デリカシーが無いんだから」

 祐二の言葉に、秋穂が反論しながら、ワインのグラスを口に運んだ。

 それから食事が運ばれてきた。飲みものもお代りを注文し、全員がワイン変わっていた。

「昼間の外国人だけどさ」

「昼間のって、あー、あの両国の駅前で署名活動してた」

「そう、なんで外国では時間旅行をしないの。それとなんで、江戸時代にしか行けないの」

 初音が聞いてきた。

「それじゃあ、江戸オタクの直人君、回答よろしく」

 祐二がまたしても直人に話を振った。

「いっぺんに聞かれてもね。順番に答えるけど、まず、外国は怖くて時間旅行の許可に踏み切れないんだ」

「なにが怖いの、日本にできて、外国にはできないわけじゃないでしょ」

「技術的にはね。外国は歴史が変わってしまうことが怖くて手を出さないんだ」

「どういうこと」

「時間旅行の技術が発見されたのは、今から9年前の2010年だよな」

「ええ、あたし達が中学生だったわ」

「それで、時間旅行が一般人にも開放されたのが3年前だろ、それまでの間に、安全に旅行するための様々な道具の開発と安全な旅行先の開拓がされたってわけ」

「安全な旅行先が江戸ってわけ?じゃあ、道具ってこのコンタクトとか印籠?」

「そう。江戸時代ってのは、長い戦国時代が終わった後、戦争もない平和な時が250年以上も続くんだ。これは世界じゃどこを探しても他にはないんだよ。そして、そのほとんどが鎖国期間だったから、外との人の出入りがない。これが外国だと同じ時期はフランス革命とか植民地を争って戦争したりと危険だし、人の出入りも激しくてとてもじゃないけど安全な旅行ができないんだ。今の話の危険とか安全ってのは、戦争とかに巻き込まれるっていう意味ばかりじゃなくて、歴地のターニングポイントがそこらじゅうに転がってて、歴史に影響を及ぼす危険って意味もだけどね。そして、このコンタクトなんかの技術の開発もそうだし、それに個人データだよね。歴史に影響を及ぼす人の虹彩を再現できるようになって、旅行者が歴史の改竄をしないように注意することができるようになったからこそ、時間旅行が可能になったんだ」

「それじゃあ、鎖国をしていた江戸時代の日本は平和で、外と隔離された、いわば日本が丸ごとテーマパークみたいなもんだったんだ」

「そういうこと。だから、関ヶ原の頃とか大坂冬の陣、夏の陣の頃とか、幕末なんかは旅行が禁止されているしね。ああ、あとは江戸の大火が起きる時や大地震の時も」

「へー、江戸時代ってすごいんだね」

「そうだよ。文明国家で、文化水準も高くて、それでいて侵略もしなければ、されもしない。食物自給率100%で、リサイクル率も限りなく100%に近かったのが江戸のすごいところだよ。だから、安全に旅行ができるんだ」

「はい、じゃあ、オタ話はそのくらいで、今回の旅行で見ておきたいところとか決めておこうか」

 祐二が、まだ話を続けそうな直人を制するように口をはさんだ。

「なんだよ、オタ話って」

「だって、直人のこと放っておけば、このさき何時間でも江戸の話するだろ。とりあえず、初音の疑問は解決したみたいだからさ」

 祐二は直人の肩をぽんぽんと叩きながら話した。

 すると横から

「あたし、吉原の花魁が見たいんだけど」

 と秋穂が言ってきた。

「えー、無理」

 祐二がそれに答えた。

「なんでよ」

「吉原は、女の出入りにはえらい厳しいんだよ。中の遊女が足抜けしないように出入口は一か所しかないし。男は出入りにノーチェックだけど、女は吉原に仕事のある奴でないと入れないんだ。しかも鑑札が必要で、入った女の数と出ていった数に違いがないように常に確認されてるんだ」

「そんな、なんとかならないの」

 秋穂がふてくされるように言った。それからしばらく全員で旅の計画をあれこれと話をしながら食事を済まし、部屋へと帰った。

「それじゃあ、明日は飯をすまして、8時にロビーに集合な」

 祐二が言った。

「いらない荷物はどうすればいいの」

 秋穂が聞いた。

「いらない荷物は行李にいれるか、自分のカバンに入れてベットの上に置いておきな。俺達が出発した後、ホテルで預かってくれて、帰ってくるときにまた部屋に戻しておいてくれるんだ」

「わかった。それじゃあ、明日8時ね。おやすみ」

「おやすみ」

 それぞれ部屋へと入って行った。


明日には、時代劇ではない江戸の様子がお伝えできそうです。

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