やわらかな陽 2
七生の家の屋根は深い緑色だった。
「あらためて見ると、変な色ね」
彼の家に来る度に私はそう言った。
「悪かったな、お袋の趣味だよ」
七生はコーヒーを入れながら笑った。部屋中に香ばしい香りが漂う。
「うん。でも小さな頃からこの家に来るのに一度も迷った事なかったよ」
この小さな家に、七生はお母さんと二人で住んでいる。もうずっと長いこと。
幼馴染で幼稚園の時から彼を知っているけれど、お父さんの話を一度も聞いたことはない。
七生の、自分より他人を思いやる優しさは、そんな生活に起因しているのかも知れない。
「で、今日は何の用かな?」
コトリとマグカップを私の前に置き、七生はいつもそうするように、私の顔を覗きこんだ。
「えっ用?」
そんな事を聞かれたのは初めてだった。いつだってこの家に来るのに、用のある時なんかない。ただ七生と話がしたいだけだ。
私は俯いた。七生はため息をつく。
「ほらフミちゃん、自分の気持ち話して」
「えっ?」
「ほんの少しつつかれたくらいで、そんな風に落ち込まないの」
七生は笑って私の頭に手を置いた。
「じゃ、今のわざと?」
「まあね」
彼はほんの少し窓を開けた。暖房で部屋の中が暑くなっていたからだ。スウっと入り込んだ冷たい空気が頬を撫でて心地よい。
「…七生と話がしたいから」
「うん」
七生は頷いた。
「フミちゃんってさ、自分の事嫌いでしょ?」
七生は真面目な顔をした。
「どうしてわかるの?」
「そりゃ長い付き合いだからね」
私はまた下を向いた。七生が私の表情を読むみたいに、ずっと見つめていたからだ。
「私、傷つけたから」
「えっ?」
「別れた夫を、私すごく傷つけた」
「フミちゃん、もう終わった話だろ」
「終わってない。全然終わってないよ」
ほんの少し語気を強めた。
二年前、私は離婚した。その時のことで、私はずっと自分を責め続けている。
「フミちゃん、夫婦の事でどちらかが一方的に悪いなんてことはないんだ」
「…七生は結婚したことないくせに」
七生の顔つきが一瞬曇った。
しまった!またやってしまった。
七生が今まで独りでいるのには、何か理由があるという事を、私は漠然と感じ取っていた。彼は何も言わないけれど、それは触れてはいけない何かなのだと、私はわかっていたはずなに…
「あっごめんなさい」
「いや、いいんだ。確かに俺は結婚したことないからな」
「私、本当に無神経、そういう所が…」
「駄目じゃないよ」
七生は私の言葉を遮った。
「えっ?」
「今そう言おうとしたろ?そういう所が駄目なんだって。フミちゃんすぐ言うから。駄目とか出来ないとかさ。でもフミちゃんは駄目なんかじゃないよ。少しも駄目なんかじゃないんだ」
何だか涙が出そうになった。七生は同い年の癖に昔からいつも私の上を行く。私より大人を生きている。
七生は立ち上がって、棚からチョコの箱を取り出して私の前に置いた。
「フミちゃんのさ、一番の問題はね、さっき言った自分を嫌いだって事だよ」
「えっ?」
「自分が嫌いだから、自分を粗末にしている。自分を粗末にしていると、そのうち他人も粗末にしてしまう。
そうしたらフミちゃんは、更に自分を嫌いになって更に自分を責めるでしょ?
だからもっと…」
いつもの七生の優しい笑顔が目の前にある。
「もっと?」
「もっと自分に優しくしてあげて」
「七生は自分が好きなの?」
「うん」
迷いもなく彼は頷いた。
「自分を好きってどういう事?」
「自分をあるがままに受け入れるって事だよ。俺だって悪い所もある。でもいい所もある。両方あって俺だろ?」
私は黙って七生を見つめた。
「何だフミちゃん?その目は。納得できないって顔だな?」
七生はチョコを一つ口に放りこんだ。
「武田鉄矢みたい…金八先生」
私も銀色の紙に包まれたチョコを手に取り剥いた。子供の頃食べたなつかしい甘い味がした。
「おう、俺は教師だから」
彼の職業は高校教師だ。
「なんか、うさん臭い」
七生は少しも怒ることなく、
「いくらでも、うさん臭いこと言ってやるさ」
私は笑った。
「フミちゃんが納得するまで、いくらでも」
ほんの少し風が強くなった。
七生のそんな言葉を聞きたくて、きっと私はここに来続けているのだ。