封筒に漁夫の利を賭けて
図書室で本を借りると、定期券ほどの小さな封筒が入っていることがある。その封筒には紙切れが入っていて、それに自分の願い事を書き、元通り本に挟んで返却する。無事に本が本棚に戻ると、願い事が叶う。
ただし、本棚に戻す前に封筒や紙を捨ててしまうと、願いを叶える『妖精』に目玉を取られてしまう。紙に願い事を書かなかった場合は本棚に戻っても捨てても何も起こらない。
机の上に置かれた本、そしてそれに挟まれていた小さな薄ピンク色の封筒を前にして、キヨミとリコは顔を見合わせた。
放課後の一年A組の教室。すでに他の生徒は部活なり帰宅するなりして、二人以外には誰もいない空間。
友達のリコがメイク直しをしている間に、本好きなキヨミが学校の図書室から貸りてきた小説。
制鞄に入れようとした際に妙な違和感を感じて開いてみれば、そこには二人の通う高校で噂になっている『妖精の封筒』らしき物が挟まれていた。
「ねぇ、キヨミー……。これ、本物なのかなー?」
明るい茶色の髪の先をくるくると指で弄びながらリコが尋ねる。
キヨミは首を横に振った。
「わかんない。でも『妖精の封筒』って、昔流行った噂だったよね?」
「うん、アタシのお姉ちゃんがこの高校に通ってた頃って聞いたよー。たぶん、二年か、三年前くらいじゃない?」
リコが爪先だけで封筒を摘む。開ける勇気はないのか、そのままひらひらと揺らし始めた。
「なんかー、噂が流行り始めた頃は悪戯とか……えっとなんて言うんだっけ、自分自演?」
「自作自演?」
「そうそう、それそれ!悪戯とか自作自演で図書室の本に封筒挟むとかあったらしいよ?でも、もう流行ってないしー。今更偽物の『妖精の封筒』が入ってるとも思えないしー」
「リコは、その封筒が本物の『妖精の封筒』だって思うの?」
「だって、そっち方が面白そうじゃん!それにさー、キーヨーミーぃ?」
にやにやと。
悪い笑みを浮かべ親友に、キヨミは思わず身構えた。
「この中の紙にさ、『上条先輩と結ばれますように』って書い……」
「ふぁぁ!?ちょ、言わないでよぉ!」
慌ててリコの口を手で塞ぐ。周りを見たが自分たち以外には誰もおらず、キヨミはほっと息をついた。
上条先輩はキヨミとリコの一つ上、二年の男子生徒だ。サッカー部所属、人当たりも良く顔も良い。部活でも三年生が引退後、主将にこそならなかったがレギュラー陣の中核を担う活発な先輩だ。
彼の同級生だけでなく、他の学年にも彼に想いを寄せる女子は多い。キヨミも、その一人だった。
……ただ、上条先輩にはすでに同級生の彼女がいるのだが。
口を塞ぐ手をぺちぺちと叩かれて、キヨミはリコの発言権を返してやる。
「あーもう!グロスとれちゃったじゃん!」
「り、リコが悪いの!私、他の人が居そうな所で言わないでって言ったのにぃ……」
「いいじゃん本当のことじゃん!『妖精の封筒』が本物かはわかんないけど、どうせなら試しちゃおうよぉ」
「うう……。でも、ちょっと怖いよ。だって、失敗したら目を取られるんだよ?」
「中の紙を捨てなきゃいいんでしょ?大丈夫だよー。度胸ないなー」
グロスを塗り直しつつ膨れるリコ。彼女の視線が窓の外に向いて、みるみる内に嬉しそうな表情へ変わった。
「あ、上条先輩!サッカー部グラウンドに出てきてるよ!い・つ・も・ど・お・り、ちょっと見に行こうよー!」
『妖精の封筒』らしき物をぐいっとキヨミに押し付け、化粧ポーチを適当に鞄へ放り込んだリコが言う。
「あ、待って。私も行くからぁ!」
早くしないと置いてくよ!と嵐の様に駆け出す友達につられ、キヨミは急いで『妖精の封筒』を本の間に戻して鞄へ押し込みリコを追いかけた。
「キヨミー!こっちこっち!」
「こ、声が大きいよぉー!?目立ちたくないからやめてよぉ……」
サッカー部が練習するグラウンド。その横を通る道の垣根でリコが手を振る。
キヨミは運動が苦手だ。ここまで駆けるだけで息が上がっている。そんな彼女をリコは仁王立ちでびしり!と指差した。
「キヨミさー、上条先輩のこと好きなんでしょ?だったら逆に目立たないと!目立たなきゃ、先輩に見つけてもらえないし近付けない、彼女にもなれないよー?」
「うう……無理だよぉ〜。だって、上条先輩にはアミ先輩がいるんだよ?私じゃアミ先輩から上条先輩強奪とか無理ぃ……」
そう、上条と結ばれるにはアミ先輩という強敵を倒さねばならない。
けれど、と思う。
今、隣のグラウンドで一生懸命に練習している上条先輩。アミ先輩という難関が無くとも、あんなにも皆に好かれるような人が自分を選んでくれるものだろうか?
「えー?やってみなきゃわかんないじゃん?キヨミにはチャレンジ精神が足りないよー!」
「そんなの自分でもわかってるよぉ……。でも、私なんじゃ告白しても……」
「そうね、あんたみたいなウジウジした陰気な子じゃ無理ね?」
勝気な声。
振り向くとそこには一人の女子生徒が堂々と立っていた。
「うぇっ、アミ先輩……」
ショートカットの黒髪。背はスラリと高くて姿勢も良い。メイクが薄めなのは校則の関係ではなく元の造りに自信があるからで、実際彼女はなかなかの美人だ。サッカー部のマネージャーである彼女は、学校指定の可愛げないデザインのジャージに身を包んでいたが、それすらアミの整った相貌とスタイルの良さを損なうことはできない。
アミは整った相貌を強気な笑顔で飾り、萎縮するキヨミに言った。
「ねぇ、あんた。ナオキのこと……上条のことが好きなの?」
「え、あのっ、すみません!私、アミ先輩から盗るなんて大それた事は……!」
「あら、いいのよ?上条先輩のことが好きですって正直に言っても」
アミの目が、すぅっと細められた。
瞳の奥にある色に、キヨミはびくりと震える。
「だって、あんたみたいな陰気で暗いブスに負ける気なんかしないもの。他の子だったらともかく、あんたなんかには負けるわけないわ」
それは、強者の言葉であった。
キヨミは俯く。そうだ、アミ先輩の言う通り。何も誇れるものがない自分なんて。上条先輩が好きになってくれるわけがない。
萎んでしまいそうな恋心、けれど食ってかかったのはリコだった。
「ちょっとアミ先輩。言い過ぎじゃないですかぁ?キヨミは確かに大人しいけど、陰気なブスとか酷いですー!」
「リコ……」
アミが小馬鹿にした笑みを浮かべ、小首を傾げた。
「何よ、あんたこの子がこんなだから引き立て役として側に置いてるんでしょ?外見も性格も正反対過ぎて、どう考えても友達には見えないけど?」
「違いますー!アタシとキヨミはちゃんと友達です!」
「どうだか。口では何とでも言えるものね?」
「やめてください。私はともかく、リコをそんな風に言わないでください」
キヨミがリコと知り合ったのは、高校に入学してからだ。
中学で仲の良かった数少ない友達が皆ほかの高校に進学してしまい、新しい環境で一から友達を作れるか不安だったキヨミに、たまたま教室での席が隣だったリコが声をかけてくれたのだ。
大人しい性格ゆえに見知らぬクラスメイトに喋りかけられず、ひとりで弁当を食べようとしていたキヨミの前に、リコは笑顔で陣取った。
ここいいでしょ?実はアタシもぼっちなんだよねー!ね、いいでしょ?
後から知ったが、リコには中学からの付き合いの友達がクラスにいた。それなのに嘘をついてまでキヨミを気遣ってくれのだ。
アミの言う通り、キヨミも最初は地味な自分を引き立て役に使っているだけではと疑っていた。しかし彼女が自分を利用している様子もなく、立ち止まりがちになるキヨミの手をただ明るく引き続けてくれた。
キヨミは自分に自信がない。だから何を言われても言い返せない。言い返すための材料がない。
けれど、リコを侮辱されることは我慢ならなかった。
「リコは、そんなことしません。リコは、間違いなく私の友達です!」
アミは視線をリコからキヨミに移し、鼻で笑った。
「あら?勝負も出来ない、這いつくばってるしかない子が何言ってるのかしら?」
「勝負、出来ますっ……!私だって、出来ます!」
「ふぅん?勢いづいてるだけじゃないの?」
まぁ、せいぜい頑張って?私は部員たちのドリンク作りに行かないといけないから。
最後までキヨミを侮った態度のまま、アミはその場を立ち去った。
彼女の姿が見えなくなると、キヨミはすぐさま自分の鞄を開き、荒々しい手つきで本を取り出す。今日貸りてきた、図書室の本。そこから『妖精の封筒』を抜き出す。
「え、キヨミ、それ使うのー?」
「うん。ちょっとね、考えがあるの。可能性のひとつでしかないけど」
封筒を開けば、中には噂どおり紙が入っていた。
名刺ほどの大きさのそれに、『上条ナオキ先輩と結ばれますように』と書いて封筒に戻し、再び本の間に挟む。
その一連の行動を、彼女の眼はじっと見つめていた。
「……こんにちは」
「あら、三日ぶりね?」
放課後。授業から解放された生徒たちの楽しげな声を遠くに、キヨミは図書室に来ていた。
腕の中には図書室で貸りた本。目の前には返却カウンターの当番にあたっていた図書委員のアミ。
少し伸びすぎた爪で、カウンターの机に貼られた図書委員の当番表を引っ掻きながら、アミは微笑む。
「私が当番の時に来たのはわざと?」
「いえ、偶然です。読み終わったから、早めに返しておこうと思って」
「あら優等生」
椅子に座る彼女は後輩の腕に抱えられた本のタイトルを見上げる。
「この本、私も読んだわ。結構良い作品よね」
「はい、私も好きです。……アミ先輩」
「なに?」
「私、負ける気で勝負しませんから」
「……期待してるわ」
真剣な面立ちのキヨミから本を受け取る。
特に何を話すわけでもなく、どこかピリピリした空気を纏ったキヨミが図書室をあとにするのを見送り、アミは当番の仕事である返却処理にかかろうとした。
ふと、キヨミが返却した本に違和感を感じる。何かがページの間に挟まっているような。
厚みのある栞でも挟んだままにしたのかと本を開けば、そこには小さな薄ピンク色の封筒。一瞬ためらったものの、アミは封筒から紙を取り出して、見た。
『上条ナオキ先輩と結ばれますように』
「……がっかりね」
あれだけ息巻いておきながら、例のくだらない噂頼り。
結局、勝負というのはこの封筒が本棚に戻るか否かだったのだ。
アミは努力家だ。確かにもとから恵まれた外見ではあったが、それを磨こう、綺麗であろうと身だしなみには人一倍気をつけていた。成績だって、外見だけで中身が伴わないのは格好がつかないからと、勉強にも手を抜いていない。
何も努力せず、リスクを冒すわけでもなく、あの後輩は欲しいものが手に入ると思っているのだろうか。
アミは溜息をついて、封筒と紙を足元のゴミ箱に捨てた。『妖精の封筒』を信じていない彼女にとって、それは心底どうでもいいゴミでしかない。
「ん?やだ、爪欠けちゃってる……」
先程、当番表を弄っていたせいだろうか?
やっぱり伸びすぎよね、あとで切らなきゃ。そう思って、自分の爪をチェックするアミの後ろから。
黒い手が、伸びた。
「キヨミぃぃぃぃぃー!」
「ふわぁ!?リコ、鼓膜破れちゃうからやめてよぉ!」
二日後。体調不良で一日学校を休んだキヨミが教室に入ると、リコが勢いよく飛びついてきた。
キヨミーキヨミーと繰り返すリコを剥がし、うっかりクラスメイト達の視線を集めてしまったことに恥ずかしさを感じつつキヨミは尋ねる。
「ねぇ、リコ。昨日、メールで言ってたことって本当?その、アミ先輩が両目無くなったって……」
「マジ、本当にマジなんだよ!一昨日の放課後……アタシたちが帰ったあとになんかあったらしいよ!両目が潰れたんじゃなくって、目玉自体が取られちゃったみたいに無くなってたんだって!先生たちが話してるの聞いた子がいるの!」
「そう……なんだ……」
「でも、目玉取られるとかアミ先輩も『妖精の封筒』やってたのかな?あれ?でもあれって、願い事書いたのに捨てたら取られるんだよね?アミ先輩は失敗しちゃったってこと?」
「……そうなんだろうね」
「でも、キヨミが無事でよかったよーぉ!昨日キヨミが休みって聞いて心配したんだよ。まさかキヨミも目玉取られちゃったんじゃ!?って」
「もう、メール返せるんだから大丈夫なのに。ごめん、私ちょっとトイレ行って来るね?……今日の一限目の英語って小テストあったよね?」
「うわっ、やばい忘れてた!アタシ暗記しなきゃ!超やばい!」
やはり彼女は台風のようだ。慌てて机から英単語帳を取り出すリコに笑みをこぼしつつ、キヨミは自分の机に鞄を置いてトイレへ急ぐ。微笑みながら。
教室に一番近いトイレにはちょうど誰も居らず、キヨミは個室に入る。
微笑んだままの自分の顔。いけない。口元を抑える。
「……ふふっ……あはっ……」
手で抑えてもそれは零れ落ちた。
「あははっ……!勝った、私の勝ち……!あはっ、はははっ!」
歓喜の笑いは低く、獰猛であった。普段リコと笑いあう時には絶対に見せないであろう、魔女のような顔であった。
正々堂々?正当法で勝つ?何の取りえもない自分が?負ける勝負をしてどうする?そんなこと、するわけがない!
本棚に戻す前に封筒や紙を捨ててしまうと、願いを叶える『妖精』に目玉を取られてしまう。
もし。もし、『願いを書いた人間』と『捨てた人間』が別人だったら?どちらが目を取られるのか。
返却カウンターの当番表で、いつ図書委員の返却当番がアミにあたるのか確認して。わざと、わざとアミに見つけさせて捨ててもらった。
キヨミは賭けた。目を取られるのは自分か、アミか。
もちろん、キヨミが勝てるとは限らなかった。昨日休んだのは体調不良だったからではない。怖かったからだ。部屋を出たら、外に出たら、学校に来たら。目を奪われるのではないかと。
それを解決してくれたのはリコのメールだった。
『大変、アミ先輩が目を取られちゃったんだって!キヨミは大丈夫!?』
文面を読んで、キヨミは自分の勝利を確信した。あのペナルティは『捨てた本人』にかかった。書いた願い事も無効化されたやもしれないが、些細なことだ。アミの最大の武器である外見に生涯残る傷を付けてやったのだ。これからゆっくり、恋人が醜くなった可哀想な上条先輩に近付けばいい。
これは、リコに酷いことを言った罰でもあるのだ。そう思うと、清々しい気分だった。いつも自分によくしてくれるリコに恩返しが出来たような。
予鈴が鳴る。戻らなければ。
キヨミは個室から出て、用をたしたわけではないが一応手を洗う。
どうしようかな、上条先輩になんて言って声掛けよう?他の子もきっとアタックしてくるよね、リコに手伝ってもらおうかな?
考えつつ、顔を上げた。
洗面所の鏡。
キヨミの後ろに。
「……え?」
黒い、焼け焦げたような、人型の『なにか』が立っていた。
悲鳴。
廊下が騒がしい。教師の怒鳴り声が響く。
お前たちは見るな!教室にいなさい!
廊下も、教室内も騒がしい中、リコは英単語帳を閉じた。そもそも、見直さなくても英語は得意だ。他の教科だって。
リコの席は窓際だ。部室の片付けでもしていたのだろか。外を見れば、すっかり意気消沈している上条先輩が、友人たちに付き添われながら部室棟から出てきた。
上条先輩。
アミ先輩の彼氏。
キヨミの好きな人。
リコの、好きな人。
落ち込んじゃって、可哀想な上条先輩。アタシがついててあげるね?
ああ、そうだ。
「潰しあってくれて、ありがとー」
キヨミには、とても感謝してるよ!
END