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四月十五日、土曜日。空の四、五割が雲といった、晴れに分類される天気。深呼吸をすると、ここ最近雨が少ないせいか乾いた冷たい空気が喉を冷やす。
午前七時、清河は紅葉と連れ立って家を出るところだった。
「紅葉、準備いいかー?」
「うん!いいよ兄さん!はいレッツゴー!」
朝から威勢の良い紅葉が玄関から飛び出してくる。黒地にピンクの、紅葉のお気に入りのウィンドブレーカー。
しかし、今日は違う点が2つある。開かれた上着の隙間から見えるのは、尊彦が自腹で十一人分を取り揃えたというユニフォームだ。白を基調としたそのユニフォームには、どんなネーミングセンスをしているのか疑問になる『pink girls』とピンク縁の黒字で書いてある。
それと頭に乗っかっている帽子。普段帽子をかぶることなど全くない紅葉がその黒帽をかぶることで、紅葉の印象はガラリと変わる。ルールすら怪しいであろう紅葉なのに、こんなにも野球少女、という言葉が似合いそうに見えてしまうのだ。
「ほら紅葉、ちゃんと前しめて」
「はーぁい」
監督も同じユニフォームを着なければならない、と言われて昨日尊彦からLサイズのユニフォームを貰ったが、どうも着る気になれなかった。それでもグランドコートの下にはきちんと着てきたのだが。
新しいユニフォームが嬉しいのか、妙に浮き足立っている紅葉だが、それとは裏腹に清河の心はどんよりとしていた。清河が監督に就任してから三日間、まともな練習は一度もできていない。
最初の練習ではその練習風景に唖然とし、次の練習となった月曜日は放課後のため時間も限られていた。そこから二日連続の雨。ポジションすらまともに決められていない状態でいきなり大会に行けと言われたのだ。これで気分を高めていくというのも無理があるだろう。
そんなことは気にしてもないのか、はたまた今日の試合がどうなるのかの検討も付いていないのだろう、鼻歌を歌う紅葉と並んで歩くこと二分、公園にたどり着く。
そこにはすでに六人のメンバーが集まっていた。そこには、緊張した面持ちの日依梨と黒地に金のウィンドブレーカーをまとった月奈の姿もある。
「おはようみんな」
年上が先に挨拶するべきだろうと思い清河が先に手を挙げる。日依梨を含む五人は挨拶を返してくれたのだが、月奈は理解不能な言葉を清河に発してきたため思わず苦笑する。
紅葉がメンバーの中に入って会話をし出すのを見て、清河は紙とペンを取り出した。いくら練習をしていないとはいえ、チームのオーダーを決めるのは清河である。
たった二回の練習で判断できるものではないが、決めなければならないのだ。ピッチャー、日依梨からそれ以上ペンが動かないうちに、続々とメンバーが集まってきて、七時二十分、集合時間には全員が集まっていた。
毎日当番制で交代で持ってくるという野球道具があるのを確認すると、清河は全員を集める。
「みんな改めておはよう。練習もあんまりできなかったけど、今日は大会だ。ユニフォームはちゃんと着ているか?」
清河が言うと、メンバーは頷いたりしながら上着を脱いだりする。じゃんけんで決めたという背番号が一から十一まであるのを確認すると、試合が行われる真華球場まで向かうために最寄りのバス停まで向かう。
最寄りのバス停、といっても現在地から五百メートルくらい離れた場所で、交番の横にある。
道具の中で一番重いであろうキャッチャー道具を清河が持つと、日依梨と、数学が得意だと言っていた明野智夜がやってきて残りの荷物を持つ。
清河よりも先にボールを持って一番元気よく飛び出していった紅葉が、紗枝と月奈を引き連れて先頭を歩き、その後ろから続々とメンバーが続いていく。
幸い、幅広い歩道があったため、清河が事故を懸念する必要はなさそうだ。
一番後ろを清河が歩いていると、前にいた日依梨が清河の元までやってきた。
「清河さん……今日の試合、私心配です…。勝てるわけ、ないですよね……やっぱり」
心配そうな顔をする日依梨が、前を歩くメンバーに聞こえないように小さい声でそう言う。
「やってみないことにはわからんけど…大差で負けることもありえるな、これじゃあ……」
ここで嘘をついてもぬかよろこびさせるだけだと思い、思った通りのことを伝える。
「やっぱり、そうですよね……」
「でも、最初から諦めて戦っちゃいけないぞ?できる限りのことはしよう」「はい、そのつもりです」
「頼んだぞ、エース」
清河が肩を叩くと、少し笑ったような表情を見せた日依梨は前に再び戻っていった。
ほどなくしてバス停にたどり着き、数分でやってきたバスに乗り込む。土曜の朝ということもあるだろう、バス停の中は随分と空いていた。後ろから詰めるようにして全員が座ると、すぐにバスは出発する。
バスが動いている間も、清河は試合のことを考えていた。試合は午前十時からのため、それまで二時間ほどある。それまでにメンバーを最終決定しなければならない。
右手を頬につき熟考しているうちに、バスは真華球場に近づいていた。バス停から出てすぐに左折し、図書館の前を通り過ぎる。駅をまたぐ陸橋を越え、ちらほらと人が見える久我西高のグラウンドを横目に、住宅街を横切る。線路と並走するように六分ほど、ほどなくして球場が見えてきた。
尊彦の自費だとは思うが、部費という名目で受け取った金で、清河が代表して全員分のバス料金を払う。バスから降りると、球場までは徒歩二分ほどだ。
谷之守スポーツ公園内真華球場。運動を推進する真華市の政策として五年前に建てられた、一万五千人ほどを収容する巨大な球場。隣にはサッカー場も兼ねている陸上競技場があり、陸上競技場と野球場の合間を縫うようにテニスコートが三面ある。
入り口があるバックネット裏に来ると、去年のことが昨日のように思い返された。七月の県大会準決勝、二チームが全国大会への切符を手にするため、実質決勝戦よりも準決勝の方が盛り上がる。
ちょうど今と同じくらいの時間だろうか、この球場を見上げて意識を高めたのだ。しかし、夏場には高校野球の地区予選もこの球場を多く使うことを思うと、やり場のない悔しさがこみ上げてきた。
雑念を振り払おうと大きく深呼吸をして、メンバーを誘導しながら球場裏の小さなグラウンドへ向かう。
五十メートル四方ほどで、試合前練習場に指定されているそこには、相手チームである谷之守スポーツ少年団の姿があった。そう、清河が所属していたスポーツ少年団が今日の相手なのだ。
四月に予選が行われて、五月上旬頃から本大会が始まるこの大会は、各市町村ごとチーム数に応じて県大会の切符数が決まっており、その市町村内で県大会出場チームを決める。
珍しいことに、そのチームの選び方は市町村ごとにバラバラであり、総当たりのリーグ戦ということころもあれば、普通にトーナメント方式の場所も多い。そしてこの真華市には計八チームがあり、その中で二チームをトーナメントで選ぶ。
故に決勝戦を戦う必要はなく、二試合勝ち上がれば県大会出場となる。
最近の小学校野球には詳しくはないが、並んで声を張り上げてランニングをする少年たちの姿は、ある程度の実力があることを感じさせる。
清河は、昨日尊彦を通して正式にキャプテンに任命された日依梨にストレッチとランニングをしておくようにと伝えると、スポ少の監督に挨拶をしに向かった。
清河が近づいていくと、驚いたような表情の監督と目が合う。
相手も清河が野球をできなくなったことを知っていたようで、女子チームの監督をやることになったなどという稀有な状況を、割とすんなりと理解してくれた。
監督の話によれば、スポ少の実力はまあまあのようで、県大会出場は最低の目標ということだ。予想していたことではあるが、これで勝つのはいよいよ無謀ということになる。
苦笑しつつもスポ少がキャッチボールに入ったのを見届けて、メンバーの元に戻る。まだストレッチの途中のようで、二人一組になって互いを押しあったりしていた。戻ってきた清河を驚かせたのはその体の柔らかさだ。
うぅ、だのうめき声をあげながらも、開いた足はべったりと地面につき、前にかがむと顎が地面につく者も多い。ピッチャーであるが体が硬い清河は羨ましいくらいだ。
しばらくしてストレッチが終わると、日依梨の号令の下、ランニングが始まる。野球の実力はアレだが、メンバーはみんな日依梨に信頼を寄せているらしい。
清河の言ったことには反応の薄いメンバーも、日依梨の指示にはきちんと従う。あの月奈ですら、だ。
清河も列の最後尾について、グラウンドを一周する。グラウンドを囲む木々は朝露で濡れており、昨晩が冷え込んだことを示唆していた。
普段から走りこんでいる清河にとってみれば実にゆったりとしたペースだったが、額に若干汗を浮かべているメンバーも見受けられる。全員の呼吸が落ち着いたところで、キャッチボールをするように指示を出す。
今日は極力全員の実力を測り、ポジションを最善の状態で組まなければならないので、日依梨には違う人とやってもらうように言った。
それぞれが等間隔に散らばり、ボールを投げ始める。しかし、ほとんどの組が一球目からあらぬ方向にボールを飛ばし、隣同士の組がボールを避け合うという謎めいた光景が繰り広げられる。
清河が絶望しそうになりながらも唯一、まともなボールを投げられる日依梨の相手をしている萌だけは、避け気味ながらもボールを捕ることに成功していた。
ポジションを決めるために一人一人を注視していくと、キャッチボールと呼べるものができているのは日依梨、おぼつかない様子でなんとかボールをキャッチしている萌、そして意外なことに月奈だった。
月奈のそれは決していい投げ方とは言えないものの、先日清河が指導した素振りと同じようにか、自分で練習して会得ように見受けられる。
捕り方も危なっかしいが、構えた位置より体二個分ほど逸れたボールから目をそらすことなくグローブに収めている。
長い距離を投げられないためどの組も十数メートルほどで停止し、しばらくそのキャッチボールとも呼べない何かを続けた後、清河はやめ、の指示を出した。
数時間後に始まる試合に対する緊張感がないのか、楽しそうに笑みを浮かべているメンバーに休憩するよう促し、日依梨を呼ぶ。
じっ、とグローブを見つめていた日依梨が顔を上げてこちらへ走ってくる。
「日依梨、まぁそのメンバーを決めなきゃならんわけだけど、相談に乗ってくれるか?」
「はい、わかりました」
「まずピッチャーは日依梨で決定、これはいいな?」
「は、はい。自信はないですが……」
「大丈夫だ、お前の実力は俺が保証する」
そう言うと、日依梨は小さくコクン、と頷いた。
日依梨との話し合いの結果、キッチャーは長身の萌、ピッチャー、キッチャーの次に多くボールが飛んでくるであろうファーストに、月奈。あとの守備位置は守備がマシな順にショート、サードと決めていく。
日依梨にメンバーの名前の字を聞きながら打順を適当に決め、なるべくていねいな字でオーダー表に書き連ねる。
書き終わって清河が顔を上げると、戻ってきたメンバーが集まっていた。
すると
「本日の第一試合は、谷之守スポーツ少年団対pink girlsによって行われます。両チームの主将と監督はオーダー表を二枚持って、バックネット裏管理室まで来てください」
整った女声が耳に届く。
メンバー全員にキャッチボールを続けておくよう伝えると、日依梨を伴って指定された場所へ向かう。
球場の周りを沿うように歩き、球場内へ入る。最新鋭よろしくLEDに照らされた廊下を歩き管理室に入ると、そこにはさっき挨拶したスポ少の監督とキャプテンらしき少年の姿。
小学生にしては大きく、百六十センチ以上はありそうでガタイもいいその少年は、清河の顔を見るなりなにやら高圧的な目線を向けてきた。
なぜその少年が挑戦的な目線を向けてきたかわからずに思案していると、審判服をまとった長身の男性に、驚いたような目をされる。しかし、清河が尊彦から言われた通りのことを伝えると、まがりなりにも納得した様子の審判によって、コイントスが行われる。
なぜだか日依梨にも冷たい視線を向けた少年と日依梨が対峙し、しばらくしてトスが完了する。表だったスポ少が先攻、裏のpink girlsが後攻ということでメンバー表を交換すると、退出を促される。
清河はスポ少の監督と握手をすると、スポ少の二人とは反対側へと向かった。
途中窓から球場内を見ると、ライン引きが完了したところらしく、いでも試合が始められるという状況だった。それを見ると、焦燥にも似た感情が体の中に渦巻いてくる。清河はそれを払拭するように口を開いた。
「なぁ日依梨、相手チームのキャプテン、なにやらトゲトゲしたような感じだったけど、いつもあんななのか?」
「いえ、学校内ではみんなに尊敬されるような良い人ですよ。まぁ、たまに揉め事を起こしたりもするんですが……」
「じゃあなんでさっきはあんなんだったんだ?」
「実は……」
練習中だったグラウンドに戻る時間で、日依梨はpink girls ができた理由を簡単に清河に話してくれた。少々歯切れの悪かった日依梨の話をまとめると、
日依梨は最初、スポ少に属していた。
しかし、自分が女だからなのか、部員から嫌がらせのようなものを受けていた。
それが嫌で父親に相談した結果、一度スポ少を抜けることを決意。
しばらくして日依梨が仲の良かった女子を誘い野球を始めたのがpink girlsの始まりだということだった。
「ですから、私はあのチームに嫌われても仕方ないんですよ……」
そう悲しそうに語る日依梨にかける言葉も見つからず、メンバーの元に戻って荷物を持つと、いよいよ球場へ向かう。
指定された三塁側ベンチに入ると、さっき感じた焦りのような感情はさらに強くなってきた。一年前の夏、全国大会出場を賭け自分が立ったマウンドを見つめるのもはばかられ、急かすようにメンバーをグラウンドへ出した。
内野には吸水性に優れた良質な土、まだ寒さの残るこの季節でも鮮やかな緑色を保つ芝生は、それが人工であることを示している。
スタンドを見上げると、そこには数人の男女が見受けられ、日依梨に言われてそれがメンバーの保護者であると知る。
尊彦の言葉通りなら清河ことを認知しているはずなので、軽く礼をするだけでスタンドから離れた。
整備が不要な芝上でキャッチボールを行い、日依梨と萌の即席バッテリーの指導をしたら、すぐに試合開始の時間となった。地区大会の一回戦にもかかわらず、豪勢にもアナウンスでメンバー発表がなされる。
広い球場内に自分の名前が流れるのが恥ずかしいのか、はたまた嬉しいのか、メンバーはキヤッキャといった風に声を上げる。
両チームの発表が終わったところで、清河は全員を集めた。
「いいか、今日は元気よくやれ。今日は初めての試合だろう?野球を思いっきり楽しめ!」
結構気合を入れて言ったつもりだったが、はーい、と間延びした声が聞こえてきてずっこける。
それでもメンバーをベンチ前に一列に並べると、球審から集合の号令がかかった。スタンドにも数人メンバーが見受けられるスポ少との挨拶を確認すると、清河はおもむろにサングラスを取り出し、ベンチの奥、相手監督から死角になる場所に座った。
試合開始を告げるサイレンとともに、日依梨が投球フォームに入り、ボールを放る。無駄の一切ないフォームから繰り出されたボールは、萌の構えたミットの位置ちょうどに収まった。
二球目、全く同じ位置にいったボールをバットが捉えた。しかし、バットの上っ面に当たったボールは、セカンドベースの後方にふわりと上がる。-普通に考えればショートフライか、センターフライ-のはずなのだが、ボールは前に来たセンターと下がっていったショートの間に落ちた。
――― 一言で言えば、それは悲惨な試合だった。
続く二番打者にはバントをされ、日依梨が捕ったのはいいものの、なぜかファーストの月奈もバントのボールを捕りにきたため、結果、内野安打。三番打者が空振りをした際、そのスイングに驚いた萌が体をすくめ、ボールは後ろに逸れた。
そして、四番打者には外野まで運ばれ、当然フライなど捕れない外野陣の間を抜けた打球は、ランニングホームランとなってしまった。
やっとの思いで守備を終え、攻撃の番が回ってくるも、その状況が変わるものでもない。
まぐれのような形で一番の月奈が出塁したが、相手ピッチャーの様子見のような牽制で軽くアウト。三番に座った日依梨がヒットで出塁したが、後続が続かずにチェンジ。
アウトになるのはフライ、それもたまにだけで、実際はほとんどピッチャー、ファーストゴロのみ。攻撃陣は相手のピッチャーの速球に怖気づいてバットも振れずに、11×0、五回コールドでpink girlsの敗北が決定した。
試合後、いっそ清々しいまでの大敗を喫したメンバーの表情は、それぞれだった。
決して打たれたわけではないものの、五イニングで相当の数球を放った日依梨は帽子を深くかぶってうなだれていた。清河が肩を冷やすためのアイシングをつけてやる間も、何も言おうとはしなかった。
日依梨の頬に涙が伝うのを見たが日依梨が逃げるように去って行ったため、何も言うことはできなかった。
月奈は、相も変わらず上を向いていた。しかし、その目にはうっすらと涙が浮かんでおり、なにもできなかった自分に相当悔しさを覚えているのだと想像がつく。
紅葉にもいつもの元気はなく、拳を握りしめてじっとしていた。泣いた跡が見られないのが、明るさが取り柄の紅葉のせめてものプライドといったところだろうか。
なんの会話もなく球場を後にし、ゾンビのように乗ったバスでも、誰も口を開くことはなかった。正午を過ぎて空が雲に覆われ、賑やかだった朝のバスが嘘だったかのように思える。
やがて着いた公園で、清河はメンバーに向かって口を開いた。
「みんな、今日はお疲れ様。まぁ負けちゃったけど、初めての試合だったんだ、負けて当然。仕方がない」
できるだけ明るい調子で言ったつもりだったそのセリフは、慰めにもならない。
「よし!じゃあ一つ質問。一ヶ月後、もう一度スポ少と勝負して、勝てると思う人!」
唐突な清河の質問にメンバーは皆、何を言っているんだこの人は、という表情をして、誰も手を挙げなかった。
「……ん?おっかしいなぁ。この中で勝てると思ってるのは俺だけ?」
柄にもなくおどけた表情で言ってみる、と、
「さっきからなんなんですか!ふざけないでください!……そりゃあ清河さんは野球が上手いから、試合だってこんな風に負けないでしょうし!でも私たちはッ……!」
そう、智夜は興奮した様子で言い切ると、その場で泣き始めてしまった。すぐさま、日依梨と彩が智夜の元へ駆け寄って行く。その他数人のメンバーは、清河に非難的な目を向けてくる。
「ご、ごめん、そんなつもりじゃなくて……」
予想外の事態にどう対処していいかわからず、見ているだけになってしまう。やがて、少し智夜が落ち着いたところで、清河は再び口を開いた。
「……んーと、一ヶ月後、スポ少と練習試合をしようと思う。それまでに練習して、スポ少に勝とう。もし勝てなかったら、俺は監督業を降りる。約束するよ」
「本気…ですか?」
日依梨が真剣な表情を向けてくる。
「ああ、本気だ」
「スポ少に勝つなんて、そんなのできるわけない……」
ポツリと、今日の試合で相当な数パスボールをしてしまい落ち込んでいた、萌が呟く。
「簡単じゃないかもしれないけど、勝てないなんてことはない」
他のメンバーも全員、清河の言葉が信じられないようで、ムリだとか、できない、といった言葉を口々に呟く。
すると、メンバーの心情を体現するかのように、水滴を限界まで抱え込んだ雲からポツポツと雨が降り出してきた。
「あー、雨降ってきちゃったから詳しいことは明日話す。じゃ今日は解散!荷物は俺が片付けておくから!」
ブツブツと文句を垂れながらみんなが解散していったのを見て、思わずため息が出てしまう。メンバーが傘をさして帰路に着くのを見届けると、清河は一人で持つには少々多い道具を背負い抱え、公園の出口に向かう。
すると、ピンク色の可愛らしい傘を差した日依梨が公園の入り口立ち止まっていた。
「清河さん……、さっきの話、本気ですか?」
「ああ、本気だよ。勝てる確信があるわけじゃないけど、勝てないわけでもない。やってみなくちゃわからないから」
「…でも負けたら本当に……やめちゃうんですよね?」
「どっちにしたって、そこで負けたら俺への信頼なんてこれっぽっちもなくなっちゃうだろ。疑心暗鬼ながらも俺にメンバーがギリギリついてきてくれる、と思ったのが一ヶ月。そこで勝てなきゃ、仕方ないな。俺はやめるよ」
日依梨が道具を持ってくれると言ったので、一つを任せて並んで歩く。徐々に雨脚が強まってきたようで、清河も折りたたみの傘を広げた。
「でも、勝てるかもしれないんですよね……?」
「ああ、勝てるかも、な」
「どうやって、ですか?こんなにボロボロに負けたのに、勝ち目なんて……」
「あるさ。勝機は十分にある、何度も言うけどやってみなくちゃわからないよ」
そんなやり取りをしていると、ふたりは清河宅前までやってくる。
「ここが俺と紅葉の家。荷物置いてくるから、その後送ってくよ」
「いいですよ、一人で帰れますから」と言った日依梨の持っていた荷物を受け取り、自分の荷物と一緒に庭の倉庫に詰めると、折りたたみ傘を普通の傘に持ち替えて再び日依梨の元へと向かう。
雨の降りしきる中を日依梨の横に並び歩いて行くと、徒歩数分、街を二つに分ける線路の真ん中、谷之守駅にたどり着く。
土曜日の昼間だが、雨のせいだろうか、人口の割には少々大きいと感じていた駅の構内は閑散としていた。清河は日依梨を促して、Suicaの普及で使われなくなった券売機の横のベンチに座る。
「日依梨には最初に話しておこうと思うんだけど……これ」
そう言って清河が日依梨に見せたのは、今日の試合でつけたスコア表だった。それもただのスコア表ではなく、清河から見た一球一球の大体の配球、内外野手の動き、ポジュショニングなどが断片的に文字で書かれている。
そして、次のページには相手監督のサイン。どこを触ったときはどのサインが実行されたかを、自分だけにわかる簡略化された暗号で書き連ねていた。
基本、少年野球のサインがそこまで複雑なことはなく、せいぜい一回のサインで触る箇所は多くて十個。一試合まるまる見ることができれば、パターンや、キーとなる箇所が見破れることも多い。
「これって……」
「ああ、今日一日でできるだけのデータは集めたつもりだ。まぁピッチャーも二人しか見ていないし、控えの選手の情報は少ないけどな」
「本当にこれ、今日だけで…?」
日依梨が、信じられない、と顔に書いてありそうな口調で聞いてくる。
「そうだよ。そんなに大したことをしたわけでもないけどな。相手の情報を知るのは、まあ大事なことだし」
「でも、本当にすごいです……!」
「いや、大事なのはそこじゃないんだ」
「え?」
「俺は今日、相手の情報を集めた。でも相手は俺たちの情報を集めてはいなかった。こんなに大差がついた勝負、スコアをつける価値もないと判断したんだろうな」
清河はサインを見るため相手ベンチを凝視していたが、スコア表を書いている人はいなかった。公式戦の場合、スタンドで父兄がスコアをつけている場合も多いが、それもなかったのを確認している。
「まぁ、スコアをつけたところで、今日の俺たちから情報を得るなんて無理だったと思うけどな」
清河が苦笑すると、息があったかのように日依梨も笑った。
「まぁ、守備とかにも課題は大アリだけどな。それもなんとかなるだろ。みんな、それぞれ素質がある。それに、俺らには天月日依梨っていう最高のエースがいるんだしさ」
照れたように笑う日依梨に缶ジュースを渡して、再び並んで歩く。駅から出て数分、高校を右手に、病院を左手に見据えて歩くと、ほどなくして近頃開発されつつある住宅街が見えてくる。
「じゃあ、まあ明日」と言って日依梨と別れると、一ヶ月後の勝利へ向けて考えを練るため、清河は家へ向かった。




